凪待ちの日

凪待ちの日

北の海の突き当たりに、鵜ノ首浦という小さな漁港がある。

切り立った岬に抱かれた、湾のいちばん奥まった入り江の町だ。

冬になると、鉛色の空から絶え間なく雪が落ちてくる。

私は海辺に残る古い言い伝えを集めて、こうした町を長く歩いてきた。

鵜ノ首浦を訪ねたのは、初雪の降りはじめた十二月のことだった。

バスを降りると、潮と、焚かれる薪の匂いが鼻をついた。

漁協の建物の脇に、一艘の古い漁船が舫われていた。

塗りのすっかり剥げ落ちた、二十トンばかりの木造船だった。

船首には、かすれてほとんど読めない字で「第七 凪丸」とあった。

近づくと、かすかに潮の腐ったような匂いがした。

この寒さで魚が傷むはずもないのに、と私は首をかしげた。

雪がその甲板に、うっすらと積もりはじめていた。

誰も乗らず、誰も直さず、船はただそこに繋がれているだけに見えた。

「あの船には、近づかんほうがいい」

漁協の奥で茶を出してくれた老人が、ふいにそう言った。

浜口さんという、かつては浦の顔役だったという人だった。

深いしわの奥の目が、窓の外の船をじっと見ていた。

私はその一言に、思わず箸を止めた。

「何か、いわれでもあるのですか」

老人はしばらく黙って、湯呑みの茶の面を見つめていた。

それから、まるで独りごとのように、低い声で語りはじめた。

※

あれは、もう四十年も前の冬のことだという。

凪丸の船主は、権爺と皆に呼ばれた老いた船長だった。

腕はいいが、めったに口をきかない男だったそうだ。

乗り子は、若い衆が三人。

いずれも、この浦で生まれ育った気のいい者たちだった。

三人のうちの一人は、春に祝言を控えていたという。

許嫁の娘が、浜まで見送りに来ることもあった。

その朝は、真冬にはめずらしく、海がぴたりと凪いでいた。

鏡のようになった海面に、昇る朝日が長い金の帯を引いていた。

風はなく、波の音さえ聞こえないほどの、奇妙な静けさだった。

「今日は、うんと遠くまで出てくる」

権爺はそう言って、いつになく機嫌よく舳先を沖へ向けた。

見送った女房たちは、それをただのいつもの朝だと思っていた。

けれど、昼を過ぎても、凪丸は港に戻らなかった。

夕暮れが迫っても、帰りを告げる汽笛は聞こえてこなかった。

日が水平線に沈むころ、沖の一点に、灯りがぽつりと見えた。

それは、凪丸の船尾に灯る漁り火だった。

だが、その船は、いっこうに港へ向かってこない。

ただ、潮に押されるまま、ゆっくりと横向きに漂っているだけだった。

※

胸騒ぎを覚えた若い漁師たちが、急いで伝馬船を出した。

凍える海を漕いで、彼らは漂う凪丸に近づいていった。

舷側に手をかけ、何度も大きな声で呼びかけた。

「権爺さん、無事か」

「おおい、返事をしてくれ」

けれど、返ってくるのは、船腹を叩く波の音だけだった。

一人が意を決して舷側をよじ登り、甲板に降り立った。

そして、その足が、そこで凍りついたように止まった。

広い甲板に、人の姿がまるでなかったのだ。

操舵室の引き戸は、開け放たれたままになっていた。

主のいない舵輪だけが、波に合わせてかたかたと鳴っていた。

覗き込むと、機関はまだ低い音でうなりを上げていた。

燃料計の針も、まだ十分なところを指していた。

けれど、漁の支度は、何ひとつ手がつけられていなかった。

網は畳まれたまま、船倉の隅にきちんと積まれていた。

つまり、この船はまだ、漁を始めてすらいなかったのだ。

それなのに、乗っていた四人が、忽然と消えていた。

浜には、報せを聞いた女房や親たちが、いつのまにか集まっていた。

手にした提灯の灯が、闇の中で頼りなく揺れていた。

誰かが、沖に向かって大きく名を呼んだ。

だが、その声は、凪いだ海に吸い込まれて返ってこなかった。

波ひとつない海面が、提灯の灯をぬめりと映していた。

祝言を控えた若者の許嫁も、そこに立っていたという。

娘は胸の前で手を組み、ただ黙って沖を見つめていた。

※

あとから乗り込んだ漁師が、船室へ続く梯子を降りた。

その狭い船室で、彼は思わず短い声をあげた。

卓の上に、四人ぶんの膳がきちんと並べられていたのだ。

それぞれの茶碗には、白い飯がよそわれていた。

その飯から、まだ細い湯気が立っていた。

味噌汁の椀も、手をかざせば温もりが伝わるほどだった。

隅の焜炉にかけた薬缶は、しゅうしゅうと湯気を噴いていた。

箸は、飯を口に運ぶ途中で置かれたように残されていた。

漬物の小皿にも、食べさしの沢庵が一切れ残っていた。

まるで、たった今まで四人がそこで箸を動かしていたかのようだった。

だが、その四人は、船のどこにもいなかった。

海へ落ちた跡も、争ったような乱れも、どこにもない。

甲板に脱いだ上着も、履き替えた長靴も、そのまま残されていた。

権爺の煙管には、消えたばかりの煙草の灰が残っていた。

吊りランプの油は、まだ小さな炎を保っていた。

漁師たちは、声もなくただ顔を見合わせるほかなかった。

寒くもないのに、うなじのあたりがすっと冷えていった。

よく見ると、飯の上には、まだ湯気の水滴が椀の蓋に残っていた。

炊きたての飯でなければ、こうはならない。

漁師の一人が、思わず薬缶に触れて、熱さに手を引いた。

すべてが、ほんの少し前まで動いていた証だった。

※

そのとき、一人が甲板の板の上を指さした。

雪解けで湿った板の上に、点々と足跡が残っていたのだ。

それは、まだ幼い子どもの、素足の足跡だった。

小さな踵と、五本の指の跡が、はっきりと写っていた。

足跡は、船室の入口から舳先へ向かって、まっすぐに続いていた。

そして、舳先の舷側のところで、ふつりと途切れていた。

その先には、暗い海が広がっているだけだった。

だが、凪丸に子どもなど乗っているはずがない。

乗せる理由も、乗る子どもも、この浦にはいなかった。

「あれは、迎えの足跡だ」

のちに、浦のいちばんの古老が、そう言い切ったという。

海の向こうから這い上がってきた、何かの足跡だと。

漁師たちは、それ以上その船を調べることができなかった。

凪丸を綱で結び、逃げるように港へ曳いて帰った。

※

鵜ノ首浦には、ずっと昔から伝わる言い伝えがある。

何十年に一度、海が異様なほど凪ぐ日があるのだという。

浦の者は、その日を「凪待ちの日」と呼んで、深く恐れてきた。

風も波も死んだように止まり、海鳴りさえ聞こえなくなる日だ。

そういう日には、決して沖へ出てはならぬとされていた。

「凪の底にはな、じっと待っているものがいるんだ」

浜口さんは、そう言って湯呑みを卓に置いた。

はるか昔、ひどい飢饉が浦を襲った年があったという。

食う物の尽きた浦人は、海に多くの供物を流して祈った。

やがて供物では足りず、生きた者を舟に乗せて沖へ送ったとも伝わる。

それきり戻らなかった舟の話が、この浦にはいくつも残っている。

古い過去帳には、消えた「白鷺丸」という舟の名も記されているそうだ。

「海というのはな、貸し借りをちゃんと覚えているんだ」

「一度受け取ったものは、忘れたころに取りに来る」

権爺の凪丸が漂っていたのも、まさにその凪待ちの日だった。

操舵室に残された航海日誌の、最後の一行が読めたという。

震える字で、そこにはこう書きつけられていた。

「凪ノ向コウカラ、迎エガ来ル」

それが、寡黙だった権爺の、最後に遺した言葉だった。

誰が、いつ、迎えに来たのか。

四人がその迎えに、どこへ連れて行かれたのか。

それを知る者は、この浦にはもういない。

浜口さんは、その白鷺丸のことも話してくれた。

あれは、権爺の一件よりさらに昔のことだったという。

やはり凪待ちの日に、五人の漁師が沖へ漕ぎ出した舟だった。

三日たっても戻らず、浦は葬式の支度を始めたそうだ。

ところが七日目の朝、白鷺丸だけが港の桟橋に着いていた。

艫綱は、誰かの手できちんと杭に結わえられていたという。

だが、乗っていた五人の姿は、やはりどこにもなかった。

舟底には、乾いた海藻が、人のかたちに敷かれていたそうだ。

「海が、返しそこねた抜け殻を置いていった」

浦の者は、そう言って舟を焼き、灰を沖へ流したという。

※

浜口さんは、そこでいちど、長い息をついた。

「あの乗り子の三人のうち、一人は、わしの兄だった」

私は、かける言葉を失った。

祝言を控えていたという、あの若者のことだった。

「兄はな、出がけに、妙なことを言い残していったんだ」

「ゆうべ浜辺で、小さな子どもに手招きされた、とな」

「その年、この浦には、子どもなんぞ一人もおらんかったのに」

許嫁の娘は、その後も嫁がず、一人で兄を待ち続けたという。

浜に立って沖を見る娘の姿を、浦の者は長く覚えていた。

「凪の日にゃあ、決まって海鳴りがぴたりと止むんだ」

「耳が痛くなるほど静かになって、それが何より恐ろしい」

「わしは今でも、そういう夜は雨戸を固く閉めて寝るのさ」

老人の節くれだった手が、湯呑みの縁で小さく震えていた。

話の途中で、それまで低く鳴っていた風が、ふいに止んだ。

障子の外の海鳴りが、ふつりと途切れて聞こえなくなった。

部屋の中が、耳の奥が痛むほどの静けさに沈んだ。

浜口さんは黙って立ち上がり、そっと雨戸を閉めにいった。

※

翌日、私は浜口さんに、あの許嫁の娘のその後を尋ねた。

娘は、兄が消えてからも、毎日欠かさず浜に立ったという。

凪の日には、とりわけ長く、沖を見つめていたそうだ。

「戻ってくるなら、きっと凪の日だから」

そう言って、娘は歳をとっても浜通いをやめなかった。

あるひどく凪いだ朝、その娘の姿が浜から消えた。

下駄が二つ、波打ち際にそろえて残されていたという。

それきり、娘もまた、二度と浦へは戻らなかった。

「海が、ようやく引き合わせたんだと、みんな言うとる」

浜口さんは、そう言って、目を細めて沖を見た。

その目が、うっすらと濡れていた。

※

当時、この一件を調べた駐在の記録も、わずかに残っていた。

浜口さんが、色あせた綴じ込みを引っぱり出してきてくれた。

「船体ニ異常ナシ、積荷ニ乱レナシ」と、几帳面な字で書いてあった。

「乗員四名、生死不明、遺留品ソノママ」とも記されていた。

そして、最後の欄に、駐在が私見として一言だけ添えていた。

「膳ノ数、乗員ト合ワズ。記述ヲ控エル」

几帳面なその男もまた、五つ目の膳には触れたくなかったのだ。

調書はそこで、ぷつりと終わっていた。

※

翌朝、私は浦の高台にある古い寺を訪ねた。

住職は、私が言い伝えを集めていると知ると、快く庫裏に上げてくれた。

墨のにおいのする部屋で、古い過去帳を見せてもらった。

和紙の頁には、消えた舟の名と、戻らなかった者の戒名が並んでいた。

凪丸の四人の名も、たしかにそこに記されていた。

その隣に、朱で書き添えられた小さな一行があった。

「迎エ児(むかえご)、名ヲ知ラズ」

「これは、何でしょう」と私は尋ねた。

住職は、しばらく頁を見つめてから、静かに答えた。

「凪待ちの日に消えた舟には、決まって余分な戒名が一つ増えるのです」

「誰のものとも知れぬ、幼い者の戒名がね」

私は、あの舳先で途切れた素足の足跡を思い出していた。

※

その夜、私は浦の古い宿に泊まった。

波の音を聞きながら、なかなか寝つけずにいた。

真夜中を過ぎたころ、海鳴りが、ふつりと止んだ。

あの、耳の痛くなるような静けさが、宿を包んだ。

そして、浜のほうから、かすかな音が聞こえてきた。

ぴた、ぴた、と、濡れた素足が砂を踏むような音だった。

それは、宿の戸口のあたりで、ふいに止んだ。

私は布団の中で、身をこわばらせて息を殺した。

戸を叩く音はなく、やがて何ごともなく朝が来た。

雨戸を開けると、外は一面の雪景色だった。

けれど、宿の戸口の前だけ、雪が乱れていた。

小さな、素足のかたちに、雪が溶けて凹んでいた。

私はそれを、誰にも言わずに宿を発った。

その音は、一人ぶんではなかった気がする。

大人の重い足音と、それに寄り添う小さな足音が、二つ。

二つの足音は、宿の前でしばらく行ったり来たりしていた。

まるで、中にいる誰かを、外へ呼び出そうとするように。

私は頭から布団をかぶり、朝が来るのをただ待った。

やがて、あの静けさが解け、遠くで海鳴りがまた鳴りはじめた。

※

凪丸は、その後、港へ曳かれてきたきりだ。

買い手はつかず、廃船にすることさえできなかった。

解体を請け負った船大工が、二人続けて原因もなく倒れたという。

それきり、誰もあの船に手を出さなくなった。

船はただ四十年、雪をかぶって舫われ続けている。

権爺たち四人は、ついに一人も見つからなかった。

骨の一片すら、海から上がってはこなかった。

役所の帳面には、遭難事故として一行、記されただけだ。

けれど、浦の年寄りは今も知っている。

あの膳から立っていた、湯気の意味を。

舳先で途切れた、幼い足跡の意味を。

私は帰りぎわ、もういちどあの凪丸を振り返った。

操舵室の窓の奥で、何か白いものが、すっと動いた気がした。

見間違いだと、私は自分に強く言い聞かせた。

宿を出て、汽車に揺られながら、私はふと気づいてしまった。

浜口さんは、確かにこう言っていたのだ。

卓の上には「五つの茶碗が並んでいた」と。

けれど、凪丸に乗っていたのは、四人だったはずだ。

では、残りの一つは、いったい誰の膳だったのか。

その膳の飯もまた、湯気を立てていたのだろうか。

汽車の窓に、雪をかぶった凪丸の影が、遠ざかっていった。

その甲板に、小さな足跡が一つ、ついている気がした。

むろん、そんなものが見えるはずはない。

それでも、私は最後まで窓から目を離せなかった。

あの浦の海鳴りが、耳の奥でまだ鳴っている。

そして時おり、ふつりと止む。

そのたびに、私は思わず戸締まりを確かめてしまう。

北の海は、今日もおそろしく静かに凪いでいる。

凪待ちの日が、またいつか、音もなく巡ってくる。

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