イタズラ好きな何か

子どもの頃、私のそばには、いつも「いたずら好きな何か」がいました。

姿は、見えませんでした。

声も、聞こえませんでした。

それでも、たしかにそこにいる、とわかるのです。

気配というより、悪ふざけの結果で、その存在を知るような感じでした。

今思えば、不思議な話です。

けれど、私にとっては、それが当たり前の日常でした。

これは、その何かと過ごした、少し奇妙で、少し切ない子ども時代の記憶です。

幼い頃の私は、それを、特別なことだとは思っていませんでした。

誰のそばにも、こういう何かがいるのだろう、と。

だから、誰にも話しませんでした。

話す必要さえ、感じなかったのです。

それが、自分だけのことだと知ったのは、ずっとあとになってからでした。

いちばん多かったのは、肩を叩くいたずらでした。

私が誰かと並んで座っていると、その人の肩が、ふいにトントンと叩かれるのです。

叩かれた人は、当然、振り返ります。

けれど、そこには誰もいません。

いるのは、隣でぽかんとしている、私だけ。

「ねえ、今、叩いたでしょ」

そう言われても、私には身に覚えがありません。

「叩いてないよ」

そう答えても、たいていは信じてもらえませんでした。

その何かは、巧妙でした。

相手が、こちらを見ていない、ほんの一瞬の隙を狙うのです。

だから、いつも私が、犯人にされました。

小学校の三年生くらいになると、私もすっかり慣れて、何も言わなくなりました。

学校では、ずいぶんと、損な役回りでした。

授業中、前の席の子の背中が、つつかれる。

その子が振り返って、私をにらむ。

先生にまで、私が叱られる。

「こら、よそ見をするな」

そう言われても、私は何もしていないのです。

給食の時間には、誰かのスプーンが、こてんと倒れました。

掃除の時間には、立てかけたほうきが、ひとりでに、ぱたんと倒れました。

そのたびに、まわりの目が、私に集まりました。

私は、もう、言い訳もしませんでした。

言ったところで、信じてもらえないと、わかっていたからです。

「またお前か」

そう言われて、苦笑いを返すのが、私の癖になっていました。

困ったのは、時計でした。

私の身のまわりの時計は、いつも、少しずつ狂っていました。

電池の時計も、コンセントの時計も、関係ありませんでした。

アナログも、デジタルも、おかまいなしでした。

ひと月で、十五分から三十分は、平気でずれるのです。

朝、目覚まし時計を見て、あわてて飛び起きたことが、何度もありました。

音楽も、そうでした。

好きな曲を聴いていると、ときどき、速さが変わるのです。

急に早送りのようになったり、ゆっくりになったり。

ある日、あまりにうるさいので、私は思わずつぶやきました。

「もう、うるさいなあ」

すると、その瞬間、音楽はぴたりと、もとの速さに戻りました。

私は、思わず笑ってしまいました。

なんだか、すねた子どもをなだめたような気分でした。

夜、布団に入ると、私はときどき、暗い天井に向かって話しかけました。

「ねえ、君は、だれ?」

返事は、ありませんでした。

「どうして、ぼくのそばにいるの?」

やはり、返事はありませんでした。

ただ、枕もとの目覚まし時計が、かちりと、小さな音を立てるだけでした。

まるで、ここにいるよ、と答えるように。

こわい、とは、不思議と思いませんでした。

その何かは、私を、おどかしたことが一度もなかったからです。

いたずらは、いつも、どこか温かいものでした。

だから私は、その存在を、こわがるどころか、心のどこかで頼りにしていました。

テレビの砂嵐が、急に映ることもありました。

消したはずの電気が、ぱっと、ついていることもありました。

鉛筆が、机の上を、ころころと、ひとりでに転がることもありました。

そのどれもが、ほんの小さな、ささやかないたずらでした。

大きな物が壊れたことは、一度もありません。

誰かが、けがをしたことも、ありません。

今思えば、その何かは、加減を知っていたのです。

私を、ほんの少し困らせて、けれど、決して傷つけない。

そういう、やさしいいたずらばかりでした。

その何かは、いたずら好きでしたが、どこか、間の抜けたところもありました。

高校生のときのことです。

私は、隣に座っていた女の子の肩を、いつものくせで叩こうとしました。

いえ、正確には、その何かが、叩いたのです。

女の子が振り返ると、私は両手がふさがっていました。

ちょうど、紙コップにジュースを注いでいる最中だったのです。

叩けるはずが、ありません。

「え、今、誰が……」

女の子は、青ざめて、あたりを見回しました。

私は、どう説明していいか、わかりませんでした。

「ごめん、たぶん風じゃないかな」

苦しい言い訳でした。

その何かは、自分のいたずらの後始末を、いつも私に押しつけるのです。

一度だけ、その何かを、はっきりと感じた友人がいました。

中学のときの、親友でした。

二人で私の部屋にいたとき、机の上の鉛筆が、すうっと、転がったのです。

風もないのに、ひとりでに。

親友は、目を丸くして、固まりました。

「今の、見た……?」

「うん。いつものことだよ」

私が、こともなげにそう言うと、親友は、ぽかんとしました。

「お前、こんなのと、ずっと暮らしてるのか」

「まあ、生まれたときから、かな」

親友は、しばらく考えてから、ぽつりと言いました。

「なんか、お前のこと、見ててくれてる感じだな」

その一言が、なぜか、長く心に残りました。

けれど、その何かは、ただのいたずら者ではありませんでした。

ときどき、私を、守ってくれたのです。

ある日、私が道を歩いていると、突然、後ろから服を引っぱられました。

思わず、立ち止まりました。

その、ほんの一瞬あとです。

目の前に、上の階から落ちてきた植木鉢が、音を立てて砕けました。

もし、あのまま歩いていたら。

私は、その場に、しゃがみこんでしまいました。

「……ありがとう」

誰もいない背後に向かって、私は、小さくそうつぶやきました。

返事は、ありませんでした。

ただ、肩のあたりが、ふっと、温かくなった気がしました。

忘れられないことが、もうひとつあります。

小学生のとき、私は、池のほとりで遊んでいました。

ぬかるんだ岸を、ふざけて、走り回っていたのです。

そのとき、足首を、ぐいと、つかまれた気がしました。

私は、つんのめって、その場に転びました。

泥だらけになって、半べそをかきました。

けれど、顔を上げて、ぞっとしました。

私が走っていこうとした先は、足のつかない、深みだったのです。

あのまま走っていたら、どうなっていたか。

その何かは、私を転ばせてまで、止めてくれたのでした。

その何かのおかげで、できた友達もいました。

高校を出て、私は、知らない町で一人暮らしを始めました。

心細い、毎日でした。

ある日、隣に座っていた同級生の肩が、トントンと叩かれました。

彼は振り返り、私を見て、首をかしげました。

「今、叩いた?」

「いや、僕じゃないよ。……たぶん」

そんな、おかしなやりとりから、私たちは笑い合い、仲良くなりました。

いつものいたずらが、人と人を、つないでくれたのです。

思えば、その何かは、私が一人ぼっちにならないように、見守っていたのかもしれません。

いたずらという、不器用なやり方で。

その何かは、私に、大切な人も、運んでくれました。

大学の図書館で、勉強をしていたときのことです。

私の隣に座っていた女性の肩が、トントンと叩かれました。

彼女は顔を上げ、きょとんとして、あたりを見ました。

「あの、今、呼びました?」

「いえ、僕は何も……」

言いかけて、私は、いつものことだと気づきました。

「ごめんなさい、たぶん、僕の連れのいたずらです」

思わず、そう口にしていました。

「お連れ、いらっしゃいます?」

彼女は、誰もいない隣を見て、笑いました。

その笑顔が、きっかけでした。

私たちは、やがて、寄り添って歩くようになりました。

あのトントンがなければ、私は、声をかけることすら、できなかったでしょう。

その何かのいたずらが、ぱたりとやんだのは、私が二十歳を、いくつか過ぎた頃でした。

肩を叩かれることも、なくなりました。

時計が狂うことも、なくなりました。

音楽が、勝手に速さを変えることも、なくなりました。

はじめは、ほっとしました。

けれど、しばらくすると、なぜか、ひどく寂しくなりました。

あんなにわずらわしかったいたずらが、もうない。

そのことが、こんなにも、心に穴をあけるとは思いませんでした。

私は、長いあいだ、その何かと一緒に生きてきたのだと、はじめて気づきました。

いたずらがやんでから、私の毎日は、おそろしく静かになりました。

肩を叩かれて、人に疑われることも、なくなりました。

言い訳をすることも、苦笑いをすることも、なくなりました。

それは、楽なことのはずでした。

けれど、楽になればなるほど、私はうつろになっていきました。

夜、布団に入って、暗い天井に話しかけても。

もう、時計は、かちりとも、鳴りませんでした。

「ねえ、まだ、いるの?」

そう問いかけても、部屋は、ただ、しんとしているだけでした。

私は、自分でも驚くほど、その静けさが、こたえました。

ある日、私は、ふとしたことから、母にこんな話を聞きました。

私には、もう一人、きょうだいがいるはずだった、というのです。

私が生まれる、少しあと。

母は、もう一人、子を授かっていました。

けれど、その子は、生まれてくることが、できませんでした。

「生きていれば、あなたの、一つ下の弟だったのよ」

母は、静かに、そう言いました。

私は、言葉を失いました。

頭の中を、これまでのいたずらが、ひとつひとつ、よぎっていきました。

肩を叩くいたずら。

狂う時計。

私を守ってくれた、あの手。

母は、しばらく黙ってから、続けました。

「あなたが二つになる前のことだから、あなたは、覚えていないでしょうけど」

「お母さんは、その子のことを、ずっと、心のどこかで思っていたのよ」

私は、母の手が、かすかに震えているのに、気づきました。

「もし、生きていたら。きっと、あなたと、仲良くしていたでしょうね」

その言葉を聞いて、私の胸の奥が、熱くなりました。

仲良く、どころではありません。

その弟は、ずっと、私のそばにいてくれたのです。

私が気づかないあいだ、ずっと。

私は、そのことを、母に話そうとして、やめました。

うまく、言葉にできる気が、しなかったからです。

あれは、弟だったのかもしれません。

生まれてこられなかった弟が、ずっと、私のそばにいてくれた。

いたずらをして、私を笑わせて。

危ないときには、私を守って。

一人にならないように、そっと、人と人をつないで。

言葉も、姿も持たない弟が、それでも精いっぱい、兄と一緒にいようとしてくれたのです。

思えば、いたずらは、いつも、私が寂しいときに、多くなりました。

友達とけんかをした日。

テストで、ひどい点を取った日。

そんな夜にかぎって、時計は大きく狂い、音楽は速さを変えました。

まるで、ふさぎこむ私の気を、そらそうとするように。

おどけて、私を、笑わせようとするように。

弟は、兄が落ちこむのを、見ていられなかったのかもしれません。

自分にできる、たったひとつのやり方で。

姿も、声も、持たないまま。

それでも、精いっぱい、そばにいようとしてくれたのです。

二十歳を過ぎて、いたずらがやんだのは。

きっと、もう大丈夫だと、安心してくれたからなのでしょう。

私が、ひとりでも生きていけると、見届けてくれたから。

私は今でも、ときどき、仏壇に手を合わせます。

母が、小さな位牌を、ひとつ、増やしていたのです。

名前のない、戒名だけの位牌でした。

その前に座ると、私は、心の中で語りかけます。

「いろいろ、ありがとうな」

「おかげで、兄ちゃんは、ちゃんと大人になれたよ」

返事は、もちろん、ありません。

けれど、線香のけむりが、ふっと、不自然に揺れることがあります。

気のせいかもしれません。

気のせいで、いいのです。

そう思うだけで、私の胸は、あたたかくなるのですから。

姿を見たことは、一度もありません。

声を聞いたことも、一度もありません。

それでも、私には、確信があります。

あの何かは、まぎれもなく、私の弟だったのだと。

会えなかったぶん、ずっとそばで、私を見守ってくれていたのだと。

あれから、私の時計は、もう狂いません。

きっかり正確に、時を刻んでいます。

音楽も、いつもどおりの速さで、流れていきます。

それは、平穏な日々のはずでした。

けれど私は、ときどき、正確な時計を見つめながら、思うのです。

もう一度でいいから、あのいたずらに、振り回されてみたいと。

肩を叩かれて、誰かに疑われたい。

狂った時計に、あわてて飛び起きたい。

そのいたずらの向こうに、たしかに、弟がいたのですから。

会ったことのない、けれど、誰よりそばにいてくれた弟が。

今、私にも、小さな子どもがいます。

その子が、ときどき、誰もいない方を見て、きゃっきゃと笑うことがあります。

何もない空間に、手を伸ばすこともあります。

そんなとき、私は、そっと心の中で思うのです。

もしかしたら、この子のそばにも。

あのいたずら好きが、遊びに来ているのかもしれない、と。

そう思うと、私は、こわいどころか、うれしくなります。

子どもの笑い声を聞きながら、私は、そっと天井を見上げます。

「今度は、この子をよろしくな」

声に出さず、心の中で、そう頼んでみるのです。

きっと、聞こえているはずだと、私は信じています。

姿の見えないやさしさは、きっと、世代を越えて受け継がれていくのだと思います。

今でも私は、静かな部屋で、そっと耳をすませることがあります。

あのトントンという音が、また聞こえてこないかと。

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