あれは、二年前の夏のことだ。
今でも、蝉の声を聞くと、あの夜の山道を思い出す。
※
私たちは、小学校からの付き合いだった。
進学や就職で、それぞれ道は分かれた。
それでも、盆や正月には、必ず集まる仲だった。
その夏も、久しぶりに四人がそろった。
その日、私は幼なじみ三人と、車で山を越えていた。
隣町の川原で開かれた、小さな灯籠流しを見た帰りだった。
川原では、地元の人が、手作りの灯籠を、川に流していた。
ゆらゆらと、無数の小さな灯りが、闇の水面を下っていった。
きれいだね、と昌彦が言った。
その横顔を、今でも覚えている。
運転していたのは、私だ。
助手席に昌彦。
後ろに、健と、直人が座っていた。
四人とも、地元で生まれ育った仲間だった。
時刻は、夜の十一時を回っていた。
山の空気は、昼間の暑さが嘘のように、ひんやりとしていた。
窓を少し開けると、濃い草いきれの匂いがした。
夜露に濡れた木の葉の、青くさい匂いだった。
峠を越える県道は、街灯もまばらだった。
両側から、黒い木立が、道に覆いかぶさっていた。
ヘッドライトの先だけが、頼りだった。
車内では、古いJ-POPが、カーラジオから流れていた。
昌彦が、下手な鼻歌を合わせていた。
車内は、他愛のない昔話で、にぎやかだった。
誰が初恋だっただの、誰が先生に怒られただの。
笑い声が、絶えなかった。
その時までは、ごく普通の、楽しい夜だった。
「なあ、この道さ」
健が、後ろから言った。
「じいちゃんが、夜は通るなって言ってたんだよな」
「なんで」
直人が聞いた。
「知らね。昔からの言い伝えらしい」
私は、その話を軽く聞き流していた。
どこの田舎にも、その手の言い伝えはあるものだ。
「言い伝えって、どんなだよ」
直人が、面白がって聞いた。
「夜、山で光を見ても、追いかけるなって」
健は、そう答えた。
「なんだよそれ、鬼火かよ」
直人が、けらけら笑った。
私も、つられて笑った。
だが、いま思えば、あれが始まりだった。
※
峠の頂上に近づいた頃だった。
ラジオに、ざらついた雑音が混じり始めた。
曲が、途切れ途切れになる。
私は、チューニングをいじった。
だが、雑音は消えなかった。
やがて、音楽はまったく聞こえなくなった。
砂嵐のような音だけが、車内を満たした。
直人が、スマホを見て言った。
「圏外だ。ここ、電波ないぞ」
「マジかよ、こんな時に」
健の声に、少しだけ、不安が混じっていた。
「電波、悪いな」
私はそう言って、ラジオを切った。
急に、車内が静かになった。
タイヤが小石を踏む音だけが、やけに大きく響いた。
時計の針は、進んでいるはずだった。
だが、峠の頂上は、いつまで走っても、近づかない気がした。
同じ景色が、繰り返し流れていくようだった。
そのときだった。
「……あれ、なんだ」
昌彦が、窓の外を見て、つぶやいた。
私は、ちらりと目をやった。
木立の奥に、小さな光が、ひとつ見えた。
淡い、緑色の光だった。
蛍かと思った。
だが、蛍にしては、光が強すぎた。
そして、その光は、動かなかった。
じっと、こちらを見ているように、点っていた。
「蛍じゃね?」
直人が言った。
「こんな時期に、蛍なんて出るか」
健が返した。
私は、なんとなく嫌な気がして、アクセルを踏んだ。
光は、後ろへ流れて、消えた。
※
それから、昌彦の様子が、少しおかしくなった。
さっきまでの鼻歌を、ぱたりとやめていた。
窓に額をつけて、外を、じっと見ている。
「どうした、マサ」
私は声をかけた。
「……虫がいる」
昌彦は、小さな声で言った。
「虫?」
「光ってる。きれいな虫だ」
助手席の窓ガラスに、昌彦の吐く息が、白く曇った。
真夏なのに、だ。
私は、思わずメーターの温度計を見た。
車内の温度が、どんどん下がっていた。
私は、背筋が寒くなった。
外は、ただ黒い森が続いているだけだった。
光る虫など、どこにもいない。
「何言ってんだよ。寝ぼけてんのか」
私は、笑い飛ばそうとした。
だが、昌彦は、笑わなかった。
「ほら、あそこにも」
「あっちにも、いる」
昌彦は、窓の外を指さし続けた。
その指先の方向に、私は何度も目をやった。
何も、見えなかった。
ただ、車内の空気が、少しずつ、冷たくなっていた。
真夏の夜だというのに。
直人が、後ろで、小さく震えていた。
「なあ、引き返そうぜ」
かすれた声で、そう言った。
だが、峠道は、狭くて、車を回す場所がなかった。
進むしか、なかった。
エアコンは、切っていたはずだった。
※
「なあ、ちょっと窓、閉めろよ」
健が、震える声で言った。
「寒いんだけど」
だが、窓は、最初から閉まっていた。
それでも、冷気は、足元から這い上がってきた。
私は、ハンドルを握る手に、汗をかいていた。
バックミラーを見た。
後ろの二人は、青ざめた顔で、押し黙っていた。
昌彦だけが、窓の外を見て、うっとりと微笑んでいた。
バックミラーに、白いものが、ちらついた気がした。
目をこらすと、後続車は、いない。
だが、木立の間を、何かが、車と並んで走っているようだった。
人の背丈ほどの、白い影だった。
私は、見なかったことにして、前を向いた。
アクセルを踏む足が、震えていた。
「マサ、いいかげんにしろって」
私は、少し強い声で言った。
すると、昌彦が、ゆっくりとこちらを向いた。
その顔を見て、私は、ぞっとした。
目の焦点が、合っていなかった。
まるで、別の何かが、その体をのぞきこんでいるようだった。
「呼んでる」
昌彦は、そう言った。
「え?」
「呼んでるんだ。おいでって」
その声は、いつもの昌彦の声では、なかった。
低く、掠れた、聞いたことのない声だった。
かちり、と音がした。
シートベルトの、外れる音だった。
※
時が、ひどく、ゆっくりに感じられた。
開いたドアから、生ぬるい夜気が、車内に流れ込んだ。
森の匂いが、むっと、鼻をついた。
昌彦の横顔は、恍惚として、輝いていた。
「マサ、何して……!」
私が叫ぶより、早かった。
昌彦は、走っている車のドアを、開けた。
時速は、三十キロほど出ていた。
「虫がいた。停めて。カブト虫、探す」
昌彦は、そう言った。
その瞬間、私には、はっきりと見えた。
昌彦の目には、確かに、何かが映っていた。
それを、追いかけようとする顔だった。
止める間も、なかった。
そして、げらげらと笑いながら、外へ飛び出した。
私は、急ブレーキを踏んだ。
タイヤが、悲鳴を上げた。
車が止まる。
私は、すぐに外へ飛び出した。
「マサ! マサ!」
だが、昌彦の姿は、もうなかった。
暗い森の中へ、笑い声だけが、遠ざかっていった。
げらげら、げらげら、と。
やがて、その声も、闇に溶けて、消えた。
あとには、蝉の声と、私たちの荒い息だけが、残った。
※
健は、腰を抜かして、動けなかった。
直人は、ただ、震えていた。
「マサ、戻ってこい」
私は、闇に向かって、何度も叫んだ。
だが、返ってくるのは、蝉の声だけだった。
いや、蝉の声に混じって、遠くで、笑い声が聞こえた気がした。
それが、昌彦のものなのか、別の何かなのか。
確かめる勇気は、なかった。
私は、懐中電灯を握りしめて、森の入り口に立った。
だが、一歩、足を踏み入れる勇気が、出なかった。
森の奥から、生ぬるい風が、吹いてきた。
それは、獣の匂いにも、土の匂いにも似た、嫌な匂いだった。
私たちは、必死で昌彦を探した。
だが、真っ暗な山では、どうにもならなかった。
すぐに、警察を呼んだ。
昌彦の家族にも、連絡した。
その夜のうちに、捜索隊が組まれた。
だが、昌彦は、見つからなかった。
警察犬も、投入された。
だが、犬は、峠の途中で、動かなくなったという。
何かを、恐れるように、後ずさりしたそうだ。
翌日も、その次の日も。
昌彦の母親は、毎日、峠のふもとに立っていた。
息子の名を、呼び続けていた。
「マサ、帰っておいで」
その声は、山にこだまして、返ってこなかった。
手には、昌彦が子どもの頃に集めた、虫かごを提げていた。
「この子は、昔から、虫が好きでねえ」
母親は、私に、そう話しかけた。
「カブト虫を見つけると、それはもう、大喜びで」
私は、その言葉に、返す言葉を持たなかった。
あの夜、昌彦が最後に口にした言葉が、頭をよぎった。
カブト虫を、探す、と。
私は、その姿を見るのが、つらくてならなかった。
あの夜、なぜ止められなかったのか。
自分を、責め続けた。
一週間が過ぎ、二週間が過ぎた。
手がかりは、何ひとつなかった。
昌彦は、まるで、山に飲み込まれたように、消えていた。
※
捜索が続く間、私は、あの夜のことを、何度も思い返した。
あの緑の光。
昌彦の、変わってしまった声。
そして、健の祖父が言っていた、言い伝え。
どうしても、それが、頭から離れなかった。
その頃、私は、健の祖父の家を訪ねた。
あの夜、「夜は通るな」と言っていた、あの老人だ。
事情を話すと、老人は、深いため息をついた。
「やっぱりか」
そう、つぶやいた。
「あの山には、昔から、いるんだ」
「何が、いるんですか」
私は、身を乗り出した。
老人は、しばらく黙ってから、口を開いた。
「光で、人を呼ぶモノだ」
「夏の夜、峠に、緑の光が点ることがある」
「あれを見て、返事をした者は、連れて行かれる」
私は、あの緑の光を思い出して、鳥肌が立った。
「昔は、みな知っておった」
「だから、山で名を呼ばれても、決して返事をしてはいけん」
老人は、続けて、こんな話もした。
「昔、あの峠には、小さな祠があってな」
「山に入った者が、迷わんように、拝んでいったそうだ」
「だが、戦後、道を広げるときに、その祠を壊してしまった」
「それからだ。峠で、人が消えるようになったのは」
私は、言葉を失った。
「山は、忘れんのだ」
老人は、そう言って、目を閉じた。
老人の言葉が、耳の奥に、こびりついた。
昌彦は、あの光に、返事をしてしまったのだ。
※
昌彦の遺体が見つかったのは、それから一か月後だった。
場所は、峠から、ずっと山を分け入った、谷の奥だった。
人が、とても歩いて行けるような場所では、なかった。
沢を三つも越えた、切り立った崖の下だという。
どうやって、そこまで行ったのか。
誰にも、分からなかった。
発見の知らせを聞いて、私は現場へ向かった。
だが、警察に止められ、遠くから見ることしか、できなかった。
担架で運ばれる、白い布。
その小ささに、私は膝から崩れ落ちた。
見つけた猟師は、こう言った。
「まるで、何かに引っぱられたみたいに、奥へ奥へと進んどった」
昌彦は、体を丸めて、倒れていたそうだ。
そして、その右手は、固く、握りしめられていた。
警察が、その指を、そっと開いた。
指は、そう簡単には、開かなかったという。
まるで、何かを、渡すまいとするように。
手のひらの中には、一匹の、黒い甲虫がいた。
角の生えた、大きなカブト虫だった。
とっくに、死んでいた。
※
それだけでは、なかった。
昌彦の顔は、笑っていたという。
苦しんだ様子は、まるで、なかったそうだ。
まるで、探し物を、ようやく見つけた子どものように。
※
昌彦の葬式は、しめやかに行われた。
遺影の中の昌彦は、いつもの、人懐っこい笑顔だった。
あの夜の、うっとりとした微笑みとは、違う笑顔だった。
私は、線香をあげながら、心の中で謝った。
守ってやれなくて、ごめん、と。
参列者の中には、あの峠の話を、知る者もいた。
みな、口には出さず、ただ、青い顔で手を合わせていた。
焼香の煙が、ゆらりと立ちのぼった。
その煙が、一瞬、緑がかって見えたのは、気のせいだと思いたい。
満足げな、微笑みを浮かべていたと、聞いた。
角の生えたその虫は、この辺りでは、見かけない種類だった。
猟師も、「こんなカブト虫は、見たことがない」と、首をかしげた。
私は、その話を聞いて、眠れなくなった。
あの夜、昌彦が見ていた「光る虫」。
あれは、本当に、いたのかもしれない。
ただ、私たちには、見えなかっただけで。
※
※
あれ以来、私は、同じ夢を見るようになった。
暗い森の中を、歩いている夢だ。
前を、昌彦が歩いている。
「おい、待てよ」
私が呼ぶと、昌彦が振り向く。
その手には、緑に光る、大きな虫がいる。
「ほら、見つけたぞ」
昌彦は、うれしそうに、そう言う。
そこで、いつも目が覚める。
全身に、冷や汗をかいている。
それから、二年が経った。
あの夜のことを、話しても、誰も本気にはしない。
酔っていたんだろう、とか。
事故だったんだ、とか。
みんな、そう言って、片づけたがる。
でも、私は、この目で見たのだ。
あの、緑の光を。
そして、変わってしまった、昌彦の目を。
私は、あの峠を、二度と通っていない。
夏が来て、蝉が鳴くたびに、思い出す。
げらげらと笑いながら、闇に消えていった、昌彦の背中を。
そして、老人の、あの言葉を。
あれから、蝉の声が、怖くなった。
あの夜も、蝉が、狂ったように鳴いていた。
まるで、何かを、かき消そうとするように。
山で名を呼ばれても、決して、返事をしてはいけない。
昌彦は、あの光の中に、何を見たのだろう。
私には、いまも、それが分からない。
分からないまま、二度目の夏が、過ぎていく。
もし、あの夜、私に、あの緑の光が見えていたら。
もし、その声が、私を呼んでいたら。
いま、こうして、この話を書いているのは、私だったのだろうか。
※
健とも、直人とも、あれ以来、めっきり会わなくなった。
三人でいると、どうしても、あの夜の話になってしまう。
だから、誰からともなく、距離を置くようになった。
それでも、毎年、昌彦の命日には、三人で墓参りに行く。
墓の前では、誰も、あの夜のことを口にしない。
ただ、手を合わせて、静かに帰るだけだ。
※
先日、健から、短いメッセージが届いた。
「この前、峠のふもとで、緑の光を見た気がする」
それきり、返信が、来なくなった。
私は、まだ、その意味を、確かめられずにいる。
それを考えると、今でも、背中が冷たくなる。