カブト虫

あれは、二年前の夏のことだ。

今でも、蝉の声を聞くと、あの夜の山道を思い出す。

私たちは、小学校からの付き合いだった。

進学や就職で、それぞれ道は分かれた。

それでも、盆や正月には、必ず集まる仲だった。

その夏も、久しぶりに四人がそろった。

その日、私は幼なじみ三人と、車で山を越えていた。

隣町の川原で開かれた、小さな灯籠流しを見た帰りだった。

川原では、地元の人が、手作りの灯籠を、川に流していた。

ゆらゆらと、無数の小さな灯りが、闇の水面を下っていった。

きれいだね、と昌彦が言った。

その横顔を、今でも覚えている。

運転していたのは、私だ。

助手席に昌彦。

後ろに、健と、直人が座っていた。

四人とも、地元で生まれ育った仲間だった。

時刻は、夜の十一時を回っていた。

山の空気は、昼間の暑さが嘘のように、ひんやりとしていた。

窓を少し開けると、濃い草いきれの匂いがした。

夜露に濡れた木の葉の、青くさい匂いだった。

峠を越える県道は、街灯もまばらだった。

両側から、黒い木立が、道に覆いかぶさっていた。

ヘッドライトの先だけが、頼りだった。

車内では、古いJ-POPが、カーラジオから流れていた。

昌彦が、下手な鼻歌を合わせていた。

車内は、他愛のない昔話で、にぎやかだった。

誰が初恋だっただの、誰が先生に怒られただの。

笑い声が、絶えなかった。

その時までは、ごく普通の、楽しい夜だった。

「なあ、この道さ」

健が、後ろから言った。

「じいちゃんが、夜は通るなって言ってたんだよな」

「なんで」

直人が聞いた。

「知らね。昔からの言い伝えらしい」

私は、その話を軽く聞き流していた。

どこの田舎にも、その手の言い伝えはあるものだ。

「言い伝えって、どんなだよ」

直人が、面白がって聞いた。

「夜、山で光を見ても、追いかけるなって」

健は、そう答えた。

「なんだよそれ、鬼火かよ」

直人が、けらけら笑った。

私も、つられて笑った。

だが、いま思えば、あれが始まりだった。

峠の頂上に近づいた頃だった。

ラジオに、ざらついた雑音が混じり始めた。

曲が、途切れ途切れになる。

私は、チューニングをいじった。

だが、雑音は消えなかった。

やがて、音楽はまったく聞こえなくなった。

砂嵐のような音だけが、車内を満たした。

直人が、スマホを見て言った。

「圏外だ。ここ、電波ないぞ」

「マジかよ、こんな時に」

健の声に、少しだけ、不安が混じっていた。

「電波、悪いな」

私はそう言って、ラジオを切った。

急に、車内が静かになった。

タイヤが小石を踏む音だけが、やけに大きく響いた。

時計の針は、進んでいるはずだった。

だが、峠の頂上は、いつまで走っても、近づかない気がした。

同じ景色が、繰り返し流れていくようだった。

そのときだった。

「……あれ、なんだ」

昌彦が、窓の外を見て、つぶやいた。

私は、ちらりと目をやった。

木立の奥に、小さな光が、ひとつ見えた。

淡い、緑色の光だった。

蛍かと思った。

だが、蛍にしては、光が強すぎた。

そして、その光は、動かなかった。

じっと、こちらを見ているように、点っていた。

「蛍じゃね?」

直人が言った。

「こんな時期に、蛍なんて出るか」

健が返した。

私は、なんとなく嫌な気がして、アクセルを踏んだ。

光は、後ろへ流れて、消えた。

それから、昌彦の様子が、少しおかしくなった。

さっきまでの鼻歌を、ぱたりとやめていた。

窓に額をつけて、外を、じっと見ている。

「どうした、マサ」

私は声をかけた。

「……虫がいる」

昌彦は、小さな声で言った。

「虫?」

「光ってる。きれいな虫だ」

助手席の窓ガラスに、昌彦の吐く息が、白く曇った。

真夏なのに、だ。

私は、思わずメーターの温度計を見た。

車内の温度が、どんどん下がっていた。

私は、背筋が寒くなった。

外は、ただ黒い森が続いているだけだった。

光る虫など、どこにもいない。

「何言ってんだよ。寝ぼけてんのか」

私は、笑い飛ばそうとした。

だが、昌彦は、笑わなかった。

「ほら、あそこにも」

「あっちにも、いる」

昌彦は、窓の外を指さし続けた。

その指先の方向に、私は何度も目をやった。

何も、見えなかった。

ただ、車内の空気が、少しずつ、冷たくなっていた。

真夏の夜だというのに。

直人が、後ろで、小さく震えていた。

「なあ、引き返そうぜ」

かすれた声で、そう言った。

だが、峠道は、狭くて、車を回す場所がなかった。

進むしか、なかった。

エアコンは、切っていたはずだった。

「なあ、ちょっと窓、閉めろよ」

健が、震える声で言った。

「寒いんだけど」

だが、窓は、最初から閉まっていた。

それでも、冷気は、足元から這い上がってきた。

私は、ハンドルを握る手に、汗をかいていた。

バックミラーを見た。

後ろの二人は、青ざめた顔で、押し黙っていた。

昌彦だけが、窓の外を見て、うっとりと微笑んでいた。

バックミラーに、白いものが、ちらついた気がした。

目をこらすと、後続車は、いない。

だが、木立の間を、何かが、車と並んで走っているようだった。

人の背丈ほどの、白い影だった。

私は、見なかったことにして、前を向いた。

アクセルを踏む足が、震えていた。

「マサ、いいかげんにしろって」

私は、少し強い声で言った。

すると、昌彦が、ゆっくりとこちらを向いた。

その顔を見て、私は、ぞっとした。

目の焦点が、合っていなかった。

まるで、別の何かが、その体をのぞきこんでいるようだった。

「呼んでる」

昌彦は、そう言った。

「え?」

「呼んでるんだ。おいでって」

その声は、いつもの昌彦の声では、なかった。

低く、掠れた、聞いたことのない声だった。

かちり、と音がした。

シートベルトの、外れる音だった。

時が、ひどく、ゆっくりに感じられた。

開いたドアから、生ぬるい夜気が、車内に流れ込んだ。

森の匂いが、むっと、鼻をついた。

昌彦の横顔は、恍惚として、輝いていた。

「マサ、何して……!」

私が叫ぶより、早かった。

昌彦は、走っている車のドアを、開けた。

時速は、三十キロほど出ていた。

「虫がいた。停めて。カブト虫、探す」

昌彦は、そう言った。

その瞬間、私には、はっきりと見えた。

昌彦の目には、確かに、何かが映っていた。

それを、追いかけようとする顔だった。

止める間も、なかった。

そして、げらげらと笑いながら、外へ飛び出した。

私は、急ブレーキを踏んだ。

タイヤが、悲鳴を上げた。

車が止まる。

私は、すぐに外へ飛び出した。

「マサ! マサ!」

だが、昌彦の姿は、もうなかった。

暗い森の中へ、笑い声だけが、遠ざかっていった。

げらげら、げらげら、と。

やがて、その声も、闇に溶けて、消えた。

あとには、蝉の声と、私たちの荒い息だけが、残った。

健は、腰を抜かして、動けなかった。

直人は、ただ、震えていた。

「マサ、戻ってこい」

私は、闇に向かって、何度も叫んだ。

だが、返ってくるのは、蝉の声だけだった。

いや、蝉の声に混じって、遠くで、笑い声が聞こえた気がした。

それが、昌彦のものなのか、別の何かなのか。

確かめる勇気は、なかった。

私は、懐中電灯を握りしめて、森の入り口に立った。

だが、一歩、足を踏み入れる勇気が、出なかった。

森の奥から、生ぬるい風が、吹いてきた。

それは、獣の匂いにも、土の匂いにも似た、嫌な匂いだった。

私たちは、必死で昌彦を探した。

だが、真っ暗な山では、どうにもならなかった。

すぐに、警察を呼んだ。

昌彦の家族にも、連絡した。

その夜のうちに、捜索隊が組まれた。

だが、昌彦は、見つからなかった。

警察犬も、投入された。

だが、犬は、峠の途中で、動かなくなったという。

何かを、恐れるように、後ずさりしたそうだ。

翌日も、その次の日も。

昌彦の母親は、毎日、峠のふもとに立っていた。

息子の名を、呼び続けていた。

「マサ、帰っておいで」

その声は、山にこだまして、返ってこなかった。

手には、昌彦が子どもの頃に集めた、虫かごを提げていた。

「この子は、昔から、虫が好きでねえ」

母親は、私に、そう話しかけた。

「カブト虫を見つけると、それはもう、大喜びで」

私は、その言葉に、返す言葉を持たなかった。

あの夜、昌彦が最後に口にした言葉が、頭をよぎった。

カブト虫を、探す、と。

私は、その姿を見るのが、つらくてならなかった。

あの夜、なぜ止められなかったのか。

自分を、責め続けた。

一週間が過ぎ、二週間が過ぎた。

手がかりは、何ひとつなかった。

昌彦は、まるで、山に飲み込まれたように、消えていた。

捜索が続く間、私は、あの夜のことを、何度も思い返した。

あの緑の光。

昌彦の、変わってしまった声。

そして、健の祖父が言っていた、言い伝え。

どうしても、それが、頭から離れなかった。

その頃、私は、健の祖父の家を訪ねた。

あの夜、「夜は通るな」と言っていた、あの老人だ。

事情を話すと、老人は、深いため息をついた。

「やっぱりか」

そう、つぶやいた。

「あの山には、昔から、いるんだ」

「何が、いるんですか」

私は、身を乗り出した。

老人は、しばらく黙ってから、口を開いた。

「光で、人を呼ぶモノだ」

「夏の夜、峠に、緑の光が点ることがある」

「あれを見て、返事をした者は、連れて行かれる」

私は、あの緑の光を思い出して、鳥肌が立った。

「昔は、みな知っておった」

「だから、山で名を呼ばれても、決して返事をしてはいけん」

老人は、続けて、こんな話もした。

「昔、あの峠には、小さな祠があってな」

「山に入った者が、迷わんように、拝んでいったそうだ」

「だが、戦後、道を広げるときに、その祠を壊してしまった」

「それからだ。峠で、人が消えるようになったのは」

私は、言葉を失った。

「山は、忘れんのだ」

老人は、そう言って、目を閉じた。

老人の言葉が、耳の奥に、こびりついた。

昌彦は、あの光に、返事をしてしまったのだ。

昌彦の遺体が見つかったのは、それから一か月後だった。

場所は、峠から、ずっと山を分け入った、谷の奥だった。

人が、とても歩いて行けるような場所では、なかった。

沢を三つも越えた、切り立った崖の下だという。

どうやって、そこまで行ったのか。

誰にも、分からなかった。

発見の知らせを聞いて、私は現場へ向かった。

だが、警察に止められ、遠くから見ることしか、できなかった。

担架で運ばれる、白い布。

その小ささに、私は膝から崩れ落ちた。

見つけた猟師は、こう言った。

「まるで、何かに引っぱられたみたいに、奥へ奥へと進んどった」

昌彦は、体を丸めて、倒れていたそうだ。

そして、その右手は、固く、握りしめられていた。

警察が、その指を、そっと開いた。

指は、そう簡単には、開かなかったという。

まるで、何かを、渡すまいとするように。

手のひらの中には、一匹の、黒い甲虫がいた。

角の生えた、大きなカブト虫だった。

とっくに、死んでいた。

それだけでは、なかった。

昌彦の顔は、笑っていたという。

苦しんだ様子は、まるで、なかったそうだ。

まるで、探し物を、ようやく見つけた子どものように。

昌彦の葬式は、しめやかに行われた。

遺影の中の昌彦は、いつもの、人懐っこい笑顔だった。

あの夜の、うっとりとした微笑みとは、違う笑顔だった。

私は、線香をあげながら、心の中で謝った。

守ってやれなくて、ごめん、と。

参列者の中には、あの峠の話を、知る者もいた。

みな、口には出さず、ただ、青い顔で手を合わせていた。

焼香の煙が、ゆらりと立ちのぼった。

その煙が、一瞬、緑がかって見えたのは、気のせいだと思いたい。

満足げな、微笑みを浮かべていたと、聞いた。

角の生えたその虫は、この辺りでは、見かけない種類だった。

猟師も、「こんなカブト虫は、見たことがない」と、首をかしげた。

私は、その話を聞いて、眠れなくなった。

あの夜、昌彦が見ていた「光る虫」。

あれは、本当に、いたのかもしれない。

ただ、私たちには、見えなかっただけで。

あれ以来、私は、同じ夢を見るようになった。

暗い森の中を、歩いている夢だ。

前を、昌彦が歩いている。

「おい、待てよ」

私が呼ぶと、昌彦が振り向く。

その手には、緑に光る、大きな虫がいる。

「ほら、見つけたぞ」

昌彦は、うれしそうに、そう言う。

そこで、いつも目が覚める。

全身に、冷や汗をかいている。

それから、二年が経った。

あの夜のことを、話しても、誰も本気にはしない。

酔っていたんだろう、とか。

事故だったんだ、とか。

みんな、そう言って、片づけたがる。

でも、私は、この目で見たのだ。

あの、緑の光を。

そして、変わってしまった、昌彦の目を。

私は、あの峠を、二度と通っていない。

夏が来て、蝉が鳴くたびに、思い出す。

げらげらと笑いながら、闇に消えていった、昌彦の背中を。

そして、老人の、あの言葉を。

あれから、蝉の声が、怖くなった。

あの夜も、蝉が、狂ったように鳴いていた。

まるで、何かを、かき消そうとするように。

山で名を呼ばれても、決して、返事をしてはいけない。

昌彦は、あの光の中に、何を見たのだろう。

私には、いまも、それが分からない。

分からないまま、二度目の夏が、過ぎていく。

もし、あの夜、私に、あの緑の光が見えていたら。

もし、その声が、私を呼んでいたら。

いま、こうして、この話を書いているのは、私だったのだろうか。

健とも、直人とも、あれ以来、めっきり会わなくなった。

三人でいると、どうしても、あの夜の話になってしまう。

だから、誰からともなく、距離を置くようになった。

それでも、毎年、昌彦の命日には、三人で墓参りに行く。

墓の前では、誰も、あの夜のことを口にしない。

ただ、手を合わせて、静かに帰るだけだ。

先日、健から、短いメッセージが届いた。

「この前、峠のふもとで、緑の光を見た気がする」

それきり、返信が、来なくなった。

私は、まだ、その意味を、確かめられずにいる。

それを考えると、今でも、背中が冷たくなる。

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