祖父の葬儀の晩、私は一冊の古い大学ノートを見つけました。
表紙に、几帳面な字で「覚書」とだけ書いてありました。
仕事場の道具箱の、いちばん下の段。
砥石と油差しの下に、油紙に包まれて仕舞われていました。
親族が寝静まった後、私は仕事場の裸電球の下で、それを開きました。
祖父の字は、若い頁ほど硬く、老いた頁ほど柔らかくなっていきました。
一冊のノートの中で、ひとりの人間が六十年かけて老いていくのを、私は初めて見ました。
祖父は九十七歳で亡くなりました。
房総半島の南、いまは畑と太陽光パネルになった土地に、かつて海軍の航空基地があった町です。
海と丘に挟まれた、細長い町です。
夏は海水浴の客で賑わい、冬は花畑が観光の売りになります。
基地があった時代のことは、町の資料館の一室に、写真が数枚残るだけです。
祖父は戦争の終わりごろ、その基地で整備員をしていました。
飛行機の話は、生前ほとんどしない人でした。
手先の器用な人で、町の時計も自転車も、祖父のところへ持ち込めば直ると言われていました。
ただ、テレビで戦争の特集が流れると、黙って席を立つ人でした。
誰もその理由を聞きませんでしたし、祖父も言いませんでした。
ただ、ひとつだけ、家族の誰もが知っている習慣がありました。
毎年三月の決まった夜、祖父は一人で家を出て、旧滑走路の跡へ歩いて行くのです。
手には、古いカンテラを提げて。
雨の年も、風の年も、一度も欠かしませんでした。
家族は「お参りのようなもの」と受け止めていました。
祖母だけは、毎年その夜、玄関の灯りを朝まで消しませんでした。
「ああして待っとる人を、真っ暗な家に帰すわけにはいかんもの」
祖母は、何かを知っていたのかもしれません。
けれど祖母も、多くを語らないまま、祖父より先に逝きました。
「何をしに行くの」と子どもの頃に聞いたことがあります。
祖父は少し笑って、こう答えました。
「灯りを点けにな。……留守番の続きだよ」
それ以上は、何を聞いても教えてくれませんでした。
ただ、その夜の祖父の背中は、いつもより少しだけ、まっすぐに見えました。
その意味を、私は祖父の死後、ノートを読んで初めて知ることになります。
※
覚書は、昭和二十年三月の夜から始まっていました。
その夜、基地からは三機が南の海へ向けて出撃しました。
月のない夜で、海からの風が強かったと書いてあります。
整列した機体の胴が、誘導灯の明かりで鈍く光っていたこと。
エナメルの匂いと、揮発油の匂いが夜気に混ざっていたこと。
覚書の描写は、六十年前のことと思えないほど細かいものでした。
書き残さなければ消えてしまうものを、祖父はよく知っていたのだと思います。
祖父が整備を受け持っていたのは、そのうちの一機。
機長は、祖父よりみっつ年上の、まだ二十代の大尉でした。
覚書によれば、豪快に笑う人だったそうです。
整備員を怒鳴りつける搭乗員も多い中で、その機長は違いました。
「発動機の癖を、お前ほど知っとる者はおらん」
そう言って、飛ぶ前には必ず、祖父と主翼の下で一服したそうです。
右の発動機が、高回転でわずかに音を落とす癖がありました。
何度調整しても直り切らない、その機だけの癖でした。
「こいつの癖は、俺とお前だけの秘密だな」
機長はそう言って笑ったと、覚書には楽しそうな字で書いてあります。
出撃の前、機長は主翼の下で祖父にこう言ったそうです。
「帰りは夜明け前になる。滑走路の端に、灯りを頼む」
「自分が、点けておきます」
「ん。……お前の灯りは、よう見えるからな」
それが、最後の会話になりました。
三機のうち二機は、夜明けに帰ってきました。
祖父の一機だけが、帰りませんでした。
帰還した二機の搭乗員は、途中で祖父の機とはぐれたとだけ報告したそうです。
夜の海の上では、僚機の灯りなど、すぐに見失う。
誰の落ち度でもない、と誰もが言いました。
誰の落ち度でもないことが、いちばん苦しいのだと、覚書は記しています。
到着予定の時刻を過ぎ、朝日が昇り、燃料が尽きているはずの時間になっても、祖父は滑走路の端に立ち続けたそうです。
「整備に落ち度はなかったか。それだけを、朝まで考えていた」
撃たれたのか。海に落ちたのか。それとも。
何ひとつ、分からないままでした。
残骸も、遺品も、ついに何ひとつ戻って来ませんでした。
戦死の公報だけが、紙一枚で届いたそうです。
覚書には、そう書いてありました。
そして戦争が終わり、基地は畑になりました。
祖父は町に残り、農機具の修理屋を開きました。
基地の敷地が畑に変わっていくのを、祖父は店先から毎日見ていたことになります。
滑走路のコンクリートは、剥がすのに費用がかかるからと、一部だけ残されました。
「あれが残ったのは、幸いであった」
覚書には、そう書いてあります。
灯りを点ける場所が、なくならずに済んだからです。
三月のあの夜に灯りを提げて滑走路跡へ立つ習慣は、その年から始まったようです。
「約束の灯りを、まだ消すわけにはいかん」
覚書の若い字は、そう記していました。
※
ノートを読み進めると、奇妙な記述が、ぽつり、ぽつりと現れ始めます。
最初は、昭和三十年代の頁でした。
「今年も行く。海の方角に、爆音を聞いた気がした。気のせいであろう」
次は、昭和五十年代。
「商店街の無線屋のラジオが、あの晩だけ空電で埋まったと主人が言う。三月のあの夜である。偶然であろう」
さらに、昭和の終わりごろの頁には、こうあります。
「灯りを消して帰ろうとした刻、背後の海の方角で、発動機の試運転に似た音を聞いた。振り向いたが、闇のみである」
「右の発動機が、わずかに音を落とした。……あの癖のままであった」
この行の後、覚書は半頁ほど、空白になっています。
あの几帳面な祖父が、書けなかったのだと思います。
気のせいであろう。偶然であろう。
祖父は幾度も、自分にそう言い聞かせるように書いています。
けれど頁を追うごとに、その「であろう」は、少しずつ短くなっていきました。
そして、平成十年の三月。
出撃の夜から数えて、ちょうど五十三年目の頁だけ、字の色が違いました。
その夜のことだけは、後から一気に書いたのだと分かる、乱れた字でした。
※
平成十年三月のその夜は、春には珍しい、深い霧だったそうです。
七十代になっていた祖父は、いつものようにカンテラを提げ、滑走路跡に立ちました。
畑の畝の間に、コンクリートの帯が一筋だけ残っている場所です。
霧で、十歩先も見えなかったと書いてあります。
「今夜は誰も来るまい。そう思うた。思いながら、灯りの芯を、いつもより長く出した」
祖父の字は、その一行から乱れ始めます。
最初の異変は、匂いでした。
「油の匂いがした。航空揮発油の、あの甘い匂いである。五十年、嗅いだことのない匂いである」
次に、音が来ました。
海の方角から、低い唸りが近づいて来る。
「発動機二基。片方が、わずかに調子を落としている。あの機の癖のままである」
整備員の耳は、五十三年経っても、自分の機の音を忘れていませんでした。
「膝が震えた。恐ろしさではない。恐ろしさではないのだ。ただ、震えた」
覚書のこの行は、何度も筆圧で紙がへこんでいました。
祖父はカンテラを高く掲げました。
霧の奥に、ぼんやりと、着陸灯の白い光がふたつ滲んだそうです。
光は高度を下げ、コンクリートの帯の向こうに消えました。
接地の、重い音がした。
砂利を踏む車輪の音が、ゆっくりと近づいて、止まった。
そして、霧の中から、飛行帽の人影が歩いて来たのです。
「――おう。灯り、見えたぞ」
若い声でした。
五十三年前と、寸分違わぬ声でした。
祖父は、気をつけの姿勢を取ろうとして、足が動かなかったと書いています。
「大尉殿。……お帰りなさいませ」
「うん。遅くなった」
人影は、霧の向こうで笑ったようでした。
「途中でな、時計が狂った。二時間ほど、遅れたようだ」
「整備の落ち度では、ありません」
「分かっとる。お前の仕事に、落ち度なぞあるものか」
五十三年間、胸の底に沈めていた問いへの答えが、そこで返って来たのです。
二時間。
五十三年と、二時間。
祖父は声が出ず、ただカンテラを掲げ続けました。
霧の奥には、他の搭乗員たちの気配もあったそうです。
誰も、老いていない気配でした。
「老いたのは、わしひとりである。それが、たまらなく面目なかった」
覚書のこの一行を、私は何度も読み返しました。
面目ない、と書くところに、あの世代の人の律儀さが滲んでいる気がします。
「みな、無事でありますか」
「無事だ。全員、揃っておる」
それから機長は、少しだけ声を落として、こう言ったそうです。
「灯り、ようも五十三年、点けといてくれたな」
祖父はそこで、初めて泣いたと書いています。
出撃の朝も、終戦の日も泣かなかった人が、です。
「乗って行くか、とも聞かれた。冗談の口調であった。……わしは、首を横に振った」
「家の者の顔が、浮かんだからである」
機長は、そうか、とだけ言ったそうです。
そして人影は霧の中へ戻り、発動機の音が高まり、車輪の音が遠ざかり、光が空へ滑り出しました。
音は海の方角へ小さくなり、やがて、霧の静けさだけが残りました。
「どれほどの間、そこに立っておったか、分からぬ」
「カンテラの油が尽きて、火が消えた。それでようやく、夜が明けかけとることに気づいた」
「頬が濡れておった。霧のせいばかりでは、あるまい」
帰り道、祖父は一度だけ振り返ったそうです。
コンクリートの帯の上には、もう何の気配もありませんでした。
※
夜が明けてから、祖父はもう一度、滑走路跡へ行ったそうです。
コンクリートの帯の上に、油の染みが点々と落ちていました。
砂の上には、太い車輪の轍が、着地の位置から二百メートルほど続いて、ふつりと途切れていました。
そして、灯りを置いていた場所の傍らの石の上に、それは残されていました。
腕時計です。
革帯の千切れた、海軍の航空時計でした。
裏蓋に、機長の姓が刻まれていました。
針は、あの夜の到着予定時刻を、きっかり二時間だけ過ぎて、止まっていました。
「預かる。返しに来られるまで、預かるのである」
返しに来られるまで。
祖父はあの夜のことを、別れではなく、次の約束だと受け取っていたのです。
覚書のその頁は、そこで終わっていました。
それ以降の頁に、あの夜のような記述は二度と現れません。
ただ、毎年三月の頁の隅に、小さな丸印だけが、亡くなる前の年まで欠かさず付けられていました。
灯りを点けに行った印だったのだと思います。
五十三年目のあの夜以降も、祖父は二十年以上、灯りを点け続けたことになります。
帰って来た者を迎えるためではなく、また通る者に、道標を残すために。
「留守番の続きだよ」
子どもの私に答えた祖父の言葉を、私はようやく、そのとおりの意味で理解しました。
※
四十九日を終えた後、私はその時計を探しました。
仏壇の引き出しの、いちばん奥にありました。
油紙に包まれ、五十年前の新聞紙にくるまれて。
針は、覚書のとおりの時刻で止まっていました。
町の時計店に持ち込んで、中を検めてもらったことがあります。
老いた店主は、裏蓋を開けて、しばらく黙っていました。
「……妙だね。部品は綺麗なもんだ。今にも動きそうだよ」
「動かないんですか」
「動かない。どこも壊れてないのに、動かない。こういうのは、私らの手には負えん」
店主は蓋を閉じ、時計を布で拭いてから、両手で返して寄越しました。
「これは、直すもんじゃないよ。預かりもんだろう」
祖父と同じ言葉を使ったことに、店主は気づいていない様子でした。
私は時計を持って、旧滑走路の跡へ行ってみました。
畑の中に、コンクリートの帯は、今もひび割れたまま残っています。
近くの直売所で店番をしていた古老に、それとなく聞いてみました。
「昔、ここの滑走路で、変わったことがあったって話、ありますか」
「変わったこと、ねえ」
古老はお茶をすすってから、こともなげに言いました。
「霧の晩に、飛行機の音がする言う人は、昔からたまにおるよ」
「音、ですか」
「うちの親父も聞いた言うとった。平成の十年ごろかな、消防団で騒ぎになりかけた年があってな」
「けど、あくる朝、畑を見ても何もねえ。……いや、何もねえは嘘か」
古老は湯呑みを置いて、畑の一角を顎で指しました。
「轍だけは、あったそうだ。どこにも繋がらん轍がな」
背筋のあたりが、すっと冷えました。
覚書の存在を、この古老は知らないはずなのです。
「その話、他に覚えてる人はいますか」
「さあて。……ただ、あんたの爺さまなら、何か知っとったかもしれんよ」
「どうしてですか」
「あの晩に限らず、三月の霧の晩はな、あの畑の端に、灯りがひとつ揺れとったから」
「みんな知っとって、みんな聞かんかった。そういうもんだよ、この町は」
帰り際、古老はひとつだけ、付け加えました。
「あんた、あの畑で夜に灯りを振っちゃいかんよ」
「どうしてですか」
「降りて来ちまうから。……冗談だよ」
古老は笑いましたが、目は笑っていませんでした。
※
時計は今、私の家の仏壇に、祖父の位牌と並んでいます。
妻は最初、気味悪がっていましたが、今では毎朝、位牌と一緒に手を合わせています。
「留守番なんでしょう。それなら、家族と同じよ」
妻のほうが、祖父の心情を先に飲み込んだようでした。
動かないはずのその時計が、年に一度だけ、妙な振る舞いをすることを、私はもう知っています。
三月のあの夜です。
去年、初めて自分の目で見ました。
止まっていた秒針が、ことり、と一度だけ揺れて、また止まるのです。
時報を確かめると、ちょうど、あの到着予定時刻でした。
彼らは今も、どこかの空を飛んでいて、年に一度、この町の上を通るのかもしれません。
祖父が五十三年間灯し続けた灯りを、私はまだ、引き継ぐと決められずにいます。
ただ、今年の三月には、カンテラの油だけ、買い足しておきました。