知らない女の子

私の生まれ育ったのは、山あいの、小さな町だ。

三方を山に囲まれ、町の真ん中を、一本の川が流れていた。

車で三十分も走らなければ、隣町には出られない。

いわゆる、どん詰まりの田舎だった。

住む人の顔は、みな互いに知っていた。

誰かが病めば、隣近所が、すぐに駆けつける町だった。

祭りには、子どもからお年寄りまで、全員が顔をそろえた。

だからこそ、見慣れない顔は、嫌でも目につく。

それは、この町で生まれ育った者なら、誰もが知っていることだった。

子どもの数も限られていて、よその子が混じれば、すぐに分かる。

町でいちばん高い場所には、古い神社があった。

石段を百段ほど上った、杉木立の中だ。

何かあれば、皆そこへ逃げる、と昔から決まっていた。

その年の秋、記録的な大雨が、町を襲った。

何日も降り続いた雨で、川は、見たこともないほど膨れ上がっていた。

濁った水が、堤防のすぐ下まで、迫っていた。

夕方、ついに、避難の半鐘が鳴り響いた。

私は、年老いた母の手を引き、神社を目指して走り出した。

この川が氾濫したのは、私が知るかぎり、初めてのことだった。

祖父の代に一度、大水が出たと、昔から聞かされてはいた。

そのときも、町じゅうの者が、あの神社へ逃げて助かったという。

だから、半鐘が鳴れば、皆、迷わず石段を目指すのだ。

母は、足が悪く、なかなか前へ進めなかった。

「先に行きなさい」と、母は何度も言った。

「そんなわけにいくか」と、私は母の手を、強く握り直した。

雨は、たたきつけるように、容赦なく降り続けていた。

懐中電灯の光が、無数の雨筋を、白く照らし出していた。

前を行く人の背中さえ、かすんで見えにくかった。

川の方からは、ごう、ごう、と、地鳴りのような音が響いていた。

水かさが、刻一刻と、増しているのが分かった。

後ろを振り返ると、我が家の灯りが、もう水に沈みかけていた。

胸が、ぎゅっと締めつけられた。

それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。

母を、何としても、高台へ上げなければならない。

誰かが転べば、そのまま流されてしまう。

そんな恐怖が、皆の足を、なお急がせていた。

雨は、横殴りだった。

足元は、泥の川のようになっていた。

土と、生臭い水の匂いが、あたりに満ちていた。

背後では、家々の軋む音と、人々の叫び声が、入り混じっていた。

石段にたどり着く頃には、私も母も、息が上がっていた。

そのときだった。

ふいに、ぴしゃ、ぴしゃ、と、泥を蹴る軽い足音が、近づいてきた。

大人の足音ではない。

もっと小さく、もっと速い、子どもの足音だった。

こんな嵐の中を、子どもが一人で走っている。

そのことに、まず、違和感を覚えた。

親は、どうしたのか。

なぜ、こんな夜に、一人なのか。

私の横を、ひとりの女の子が、すっと追い抜いていった。

小学校の低学年くらいの、おかっぱ頭の子だった。

古めかしい、藍色の着物を着ていた。

そして、その細い腕に、何匹もの猫を、抱きかかえていた。

おかっぱの髪は、雨にぬれて、頬にぴたりと貼りついていた。

足は、裸足だった。

こんな冷たい泥の中を、靴も履かずに駆けているのだ。

横顔は、ひどく落ち着いていて、怖がる様子もなかった。

抱かれた猫たちは、ふだんなら暴れるはずなのに、おとなしかった。

まるで、安全な場所へ運ばれると、知っているかのように。

私は、思わず、その子の名を呼ぼうとした。

けれど、知らない子だと気づき、言葉に詰まった。

その背中は、すでに、雨の向こうへ遠ざかっていた。

石段は、濡れて、ぬらぬらと光っていた。

大人でさえ、手すりにすがって上る、危うい段だ。

それを、その子は、一段も踏み外さなかった。

まるで、目をつぶっていても上れる、というように。

三匹、いや、四匹はいただろうか。

猫たちは、暴れもせず、女の子に、じっと身をゆだねていた。

「危ないよ、お嬢ちゃん」

声をかけようとしたが、その子は、振り返りもしなかった。

そして、泥にも足を取られず、石段を、軽々と駆け上がっていく。

必死で走る大人たちを、その子は、次々と追い抜いていった。

あんなに細い脚で、誰よりも速かったのだ。

腕いっぱいに、猫を抱えたまま。

私は、雨の中で、その後ろ姿を、呆然と見送った。

ふと、その子が、石段の途中で、一度だけ立ち止まった。

そして、肩ごしに、ちらりと、こちらを振り返った気がした。

雨で、顔はよく見えなかった。

ただ、その目だけが、暗がりの中で、やけに澄んで見えた。

次の瞬間には、また前を向き、闇の中へ駆け上がっていった。

私は、その視線に背を押されるように、足を速めた。

不思議と、それまでの疲れが、すっと消えていた。

母の足も、なぜか、軽くなっていた。

私たちは、無我夢中で、最後の石段を上りきった。

神社の境内には、町じゅうの人が、避難していた。

拝殿の軒下で、皆、濡れた体を寄せ合っていた。

幸い、その夜、町に死者は出なかった。

川沿いの家は、何軒も半壊したが、人は皆、無事だった。

私は、母を座らせてから、ふと、あの女の子を探した。

だが、どこにも、その姿はなかった。

隣にいた、顔なじみの男に、私は尋ねた。

「さっき、猫を抱えた女の子が、走っていったろう」

「ああ、見た。おかっぱの、着物の子な」

男も、確かに見たという。

「うちの嫁も、孫も、あの子に追い抜かれたと言うとった」

聞けば、多くの人が、同じ子を目撃していた。

「わしも見た。猫を抱えて、すごい速さで上っていった」と、年寄りが言った。

「私も。声をかけたのに、振り向きもしなかった」と、近所の女が続けた。

「あんな子、見たことがない。どこの子だ」

誰かのその一言に、その場が、しんと静まり返った。

「言われてみれば……知らん顔だな」

皆が、顔を見合わせた。

「うちの子の、同級生じゃないのか」と、誰かが言った。

「いや、あんな着物の子は、おらん」と、別の声が否定した。

今どき、藍染めの着物を着た子どもなど、町にはいない。

それに、皆が見たという、その子の背格好は、寸分たがわなかった。

大勢が、同じ晩に、同じ一人の子を見たのだ。

ある母親は、はぐれかけた我が子の手を、その子に引かれたと言った。

「猫を抱えてるのに、どうやって」と、私は聞き返した。

「分からない。気づいたら、上の方へ、押し出されていた」

別の老人は、座り込んで動けずにいたところを、励まされたと話した。

「もう少しだよ、と、声が聞こえた気がした」

けれど、その子は、誰とも、口をきいてはいなかった。

皆が、見たものも、聞いたことも、少しずつ食い違っていた。

ただ一点、おかっぱの、藍色の着物の子だったことだけは、共通していた。

けれど、その子だけが、この境内に、いなかった。

百段の石段を、誰よりも速く上ったはずの子が。

拝殿の灯りの届く範囲に、その姿は、どこにもなかった。

私は、境内の隅々まで、その子を探して回った。

杉の木の陰も、社務所の裏も、覗いてみた。

けれど、おかっぱの子は、どこにもいなかった。

猫を抱えた、あの小さな姿は、煙のように消えていた。

迷子になっていれば、大騒ぎになるはずだ。

それなのに、誰一人、その子を案じる声をあげなかった。

皆、心のどこかで、気づいていたのかもしれない。

あの子は、探しても、見つからないのだと。

皆、口をそろえて、こう言うのだ。

「あの子に追い抜かれて、つられて、足が速くなった」と。

まるで、あとに続け、と導かれたように。

私は、ぞっとした。

この町に、知らない子どもなど、いるはずがない。

町の子の顔も、名前も、私はすべて知っていた。

祭りのたびに、皆で世話をしてきたのだ。

よそから来た子なら、なおさら、目立つはずだった。

車で三十分の、行き止まりの町に、ふらりと現れる子などいない。

それなのに、あの子は、確かにいた。

大勢の人が、その姿を、はっきりと見ているのだ。

考えれば考えるほど、説明がつかなかった。

誰に尋ねても、その子の名前を知る者は、いなかった。

どこの家の子か、心当たりのある者も、誰一人いなかった。

夜が明けて、私たちは、町へ下りた。

川沿いの景色は、変わり果てていた。

家の土台だけが残り、家財が、泥にまみれて散らばっていた。

見慣れた我が家の畳が、泥水を吸って、ぶよぶよに膨らんでいた。

庭木は倒れ、塀は、半分が崩れていた。

それでも、命があっただけで、十分だった。

近所の人々も、泥をかき出しながら、口々に言った。

「家は、また建てればいい」

「人が無事なら、それでええ」

誰の顔にも、不思議と、暗さはなかった。

ところが、不思議なことがあった。

浜辺ならぬ、川辺に住みついていた野良猫たちが、一匹残らず無事だったのだ。

いつもなら、増水で、真っ先に流されるはずの猫たちが。

まるで、誰かが、高台へ避難させたかのように。

近所の老婆は、餌をやっていた野良猫を、心配していた。

「あの子らは、どうせ流されてしもうたろう」と、嘆いていた。

ところが、水が引いた泥の上に、その猫たちは、平然と座っていた。

毛も、ほとんど濡れていなかった。

どこか高い場所で、夜を明かしてきたとしか思えなかった。

「誰が、こいつらを、上へ運んだんだ」

その問いに、答えられる者は、誰もいなかった。

猫たちは、私たちを見ても、逃げなかった。

ただ、まるい目で、神社の方を、じっと見上げていた。

一匹が、みゃあ、と、ひと声、細く鳴いた。

その声が、なぜか、ひどく寂しげに響いた。

あの子に、礼を言っているように、私には聞こえた。

その日から、町の者は、あの晩のことを、繰り返し話し合った。

「あの子のおかげで、足が速くなった」と言う者。

「導かれるように、石段が見えた」と言う者。

皆、不思議と、恐ろしいとは言わなかった。

むしろ、何か温かいものに、守られたと感じていた。

あの晩、町に一人の死者も出なかったのは、本当に幸運だった。

いや、幸運などではない、と私は思う。

あの子が、私たちを、一人残らず高台へ導いてくれたのだ。

そして、町の小さな命まで、すべて救ってくれた。

私は、そう信じている。

町の古老は、こんな言い伝えを、覚えていた。

「昔、川の水神様に、猫を可愛がる娘が、仕えておった」

「その娘は、水が荒れる前に、必ず人々を知らせて回ったそうな」

いつしか娘の話は忘れられ、石段のお地蔵さんだけが残った、と。

その伝承を聞いて、私は、背筋がぞくりとした。

あの子の着物は、確かに、ずっと昔の仕立てだった。

色あせた藍は、今の店では、もう手に入らないものだった。

髪型も、昔の写真でしか見ないような、古風なおかっぱだった。

それなのに、その姿だけが、雨の闇の中で、鮮やかだった。

まるで、何十年も前から、ずっとそこにいたかのように。

それから、あの女の子は、町の語り草になった。

「あの子は、神社の神様だったんじゃないか」

「いや、石段の手前の、お地蔵さんかもしれん」

人々は、そんなふうに、噂し合った。

神社の石段の途中には、確かに、古いお地蔵さんが祀られていた。

いつからあるのか、誰も知らない、苔むした石仏だ。

その前には、いつも、誰かが供えた、猫の好物が置かれていた。

私は、後日、そのお地蔵さんに、手を合わせに行った。

丸い石の顔は、雨に濡れて、かすかに微笑んでいるように見えた。

その足元に、私は、一匹分の煮干しを、そっと供えた。

「あの晩は、ありがとうございました」

供えた煮干しの匂いを嗅ぎつけて、一匹の猫が、すり寄ってきた。

あの晩、助かった野良猫のうちの、一匹だった。

その猫は、お地蔵さんの足元に、ちょこんと座った。

まるで、飼い主の帰りを待つかのように、じっと動かなかった。

私は、その背を、そっと撫でた。

ぬくもりが、てのひらに、じんわりと伝わってきた。

生きている、確かなぬくもりだった。

この温もりを、あの子は、守ろうとしたのだ。

猫も、人も、分け隔てなく。

私は、もう一度、お地蔵さんに、深く頭を下げた。

あれから、何年もの月日が流れた。

町は、少しずつ、元の暮らしを取り戻していった。

けれど、雨の季節になると、今でも、あの子の話が出る。

新しく町に来た者は、決まって、作り話だと笑う。

それでも、あの晩を知る者は、皆、静かに首を振るのだ。

「作り話なら、どんなにいいか」と、ある者は言う。

「でも、わしらは、確かにこの目で見たんだ」と。

私も、同じ気持ちだ。

今でも、強い雨の音を聞くと、あの足音を思い出す。

ぴしゃ、ぴしゃ、と泥を蹴る、軽やかな足音を。

そして、つい、窓の外の暗がりに、目を凝らしてしまう。

あの子が、また、誰かを導いていないかと。

町では今でも、子どもが生まれると、まずあのお地蔵さんに参る。

「この子を、よろしくお願いします」と。

石仏の前には、季節ごとに、新しい花と、猫の好物が絶えない。

誰が供えているのか、決まっているわけではない。

ただ、自然と、その習わしが、町に根づいたのだ。

あの晩、私たちは、確かに何かに守られた。

それが、神様なのか、昔の娘の魂なのかは、分からない。

分からないままで、いいのだと思う。

ただ、あの子が見せてくれた澄んだ目だけは、今も忘れられない。

怖くはなかった。

ただ、ありがたくて、少しだけ、寂しかった。

次に大水が来る夜も、きっとあの子は、駆けてくるのだろう。

猫を抱え、裸足のまま、誰よりも速く。

そして、追い抜かれた者は、決して流されない。

それが、この町に残った、たったひとつの約束なのだ。

雨音の向こうに、今も、軽い足音が聞こえる気がしてならない。

声に出すと、なぜだか、涙がこぼれた。

あの子が、誰だったのか。

どこから来て、どこへ消えたのか。

今も、答えは分からない。

ただ、この町では、雨の季節になると、今でも語られる。

大水の夜には、猫を抱えた女の子が、皆を高台へ導いてくれる、と。

そして、その子に追い抜かれた者は、決して、流されないのだと。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

ミステリーを応援する

読んでいただけるだけで、十分に励みになります。
当サイトは個人で運営しており、いただいたご支援はサーバー代やドメインの維持費に大切に使わせていただきます。

¥240 の一度きりのお支払いで応援いただけます。
お礼として、以後ずっと広告を非表示にいたします(継続課金はありません)。

くわしく見る →

メンバーなのに広告が表示される方

ブラウザを変えた・Cookieを削除した場合は、登録のメールアドレスを入力してください。