引取り待ちの椅子が増えていく

月夜の港町コインランドリー

布を畳む音だけが、まだ店に残っていた。

2年前の秋、私は郊外のコインランドリーチェーンで巡回スタッフをしていた。

夜9時から日付が変わるまで、3店舗を回る。機械の点検と清掃、そして「引取り待ち」の忘れ物の管理が仕事だった。

忘れ物の回収も、仕事のうちだった。

ほかの2店舗は駅前と大学の近くにあり、夜でも人が絶えなかった。

緑町店は違った。

国道沿いにあり、洗濯乾燥機が12台、乾燥機が6台。

壁際には、プラスチックの丸椅子が4脚だけ並んでいる。

座面はどれも、冷えきったプラスチックの感触だった。

天井の蛍光灯は1本だけ薄く点滅していて、夜になると床に影が揺れた。

車の音が遠くで途切れるたびに、洗濯機の水の音だけが店を満たす。

私はその静けさが、わりと好きだった。

駅前店は、いつも誰かが話している店だった。

大学前店は、学生の笑い声が夜中まで続いた。

それらに比べると、緑町店は、まるで誰かが息を潜めている店のようだった。

入社初日、前任の巡回員は店の鍵と一緒に、クリアファイルを渡してくれた。

中身は、忘れ物の台帳だった。

預かり日、品名、色、特徴。

そして右端に、「引取り待ち」と印字された細い欄がある。

最後の行の赤い日付印だけが、半分欠けていた。

前任の巡回員は、30代半ばくらいの、よく笑う男だった。

袖口の擦り切れた上着を着ていて、声が妙に小さかった。

店の鍵を渡すとき、彼は一瞬だけ、壁際の丸椅子を見た。

「30日預かって、持ち主が来なければ処分します。それだけです」

前任の巡回員は、そう言って笑った。

「処分したら、この欄に赤い印を押してください。必ず、その日のうちに」

理由を聞くと、彼は少し考えてから首を振った。

「会社の決まりなんで」

それ以上は、何も教えてくれなかった。

引取り待ちの欄

最初の1か月は、何も起きなかった。

忘れ物は、タオルが多かった。

片方だけの子ども用の靴下。

名前の入ったジャージ。

一度だけ、折りたたみ傘が置き去りにされていた。

私はそれらを回収して、事務所の棚に入れ、台帳に書き込んだ。

30日たつと、赤い印を押して、ゴミ袋に入れる。

淡々とした作業だった。

私は昼間、別の倉庫でも働いていた。

睡眠は細切れで、巡回の最中に立ったまま意識が飛ぶこともあった。

だから最初は、自分の疲れを疑った。

朝の7時に倉庫の仕事が終わり、昼過ぎに少し眠る。

夕方、コンビニの弁当を食べながら、その日の巡回ルートを頭の中でなぞる。

駅前店、大学前店、緑町店。

その順番は、ずっと変わらなかった。

緑町店に着くのは、いつも夜の11時前。

自動ドアが開くと、決まって同じ匂いが迎えた。

最初の処分は、10月の終わりだった。

水色のバスタオルを袋に入れ、台帳の「引取り待ち」欄に赤い印を押した。

インクが乾くまで、私は店の隅で指を温めていた。

洗剤と、湿った布の匂いがした。

翌晩、緑町店に入ると、丸椅子が5脚になっていた。

気のせいだと思った。

4脚だったという確信も、特になかったからだ。

ただ、5脚目だけは他の椅子と少し違っていた。

座面の色が、くすんだ水色だった。

私は座面に手を置いた。

冷たかった。

私は他の4脚も、順番に触ってみた。

どれも、同じように冷たかった。

5脚目だけが、少しだけ座面が低い気がした。

誰かが座り続けた形に、凹んでいるのかもしれない。

そんな考えが浮かんで、私は自分で首を振った。

次の週、店長に電話をかけた。

「緑町店の丸椅子って、何脚が正規ですか」

「椅子? 見ればわかるでしょ、5脚だよ」

「最初は4脚だった気がするんですが」

「そんなの、いつの話よ」

店長は電話の向こうで笑った。

「椅子の数なんて、誰も数えないって。壊れたら足す、それだけ」

私は礼を言って、通話を切った。

その夜、私は台帳を開いて、水色のバスタオルの行を眺めた。

預かり日は、9月の末。

特徴の欄には、自分の字で「端が少しほつれている」と書いてある。

どこにでもある、ただのタオルだった。

持ち主が、なぜ取りに来なかったのかはわからない。

わからないまま、私は印を押したのだ。

畳まれた洗濯物

11月の初め、私は傘を処分した。

赤い印を、前の行の下に並べて押した。

その晩から、音がするようになった。

最初は、聴覚だった。

点検の終わりに、乾燥機がすべて止まる。

すると、ぱたん、ぱたん、と布を畳む音が、店の奥から聞こえる。

一定の間隔で、丁寧に、同じ幅で。

たたみ台には、誰もいなかった。

私は音のするほうへ歩いた。

近づくと、音は遠ざかる。

立ち止まると、すぐ後ろでまた、ぱたん。

その音は、毎晩同じ時刻に始まった。

午前0時を回って、最後の乾燥機が止まった直後だ。

耳を澄ますと、布が空気を含んで、ふわりと広がる気配まである。

袖を合わせ、裾を折り、重ねる。

その手順を、見ているように思い浮かべることができた。

私は音の主に、少しだけ慣れ始めていた。

それがいちばん、よくなかったのだと思う。

「換気扇の音でしょう」

翌日、そう言ったのは、常連の女性だった。

70代くらいの小柄な人で、いつも毛布を2枚持ってくる。

彼女は洗濯機に毛布を押し込みながら、壁際を見て言った。

「それより、今日も満席ね」

「満席、ですか」

「ええ。みんな静かで助かるわ。端の席だけ、いつも空いてるけど」

彼女は誰もいない丸椅子に向かって、小さく会釈をした。

丸椅子は、6脚に増えていた。

そのどれにも、人は座っていなかった。

「この椅子、誰かの席なんですか」

彼女は不思議そうに首をかしげた。

「あなた、知らないで毎晩来てるの?」

「ええ」

「ここはね、順番を待つ場所よ。洗濯のじゃなくて」

「何の順番ですか」

「さあ。呼ばれたら、わかるんじゃない」

彼女は笑って、洗い上がった毛布を抱えて帰っていった。

扉が閉まると、店の中が急に広くなった。

私は6脚の丸椅子の前に立って、しばらく動けなかった。

会釈を返すべきなのかどうか、わからなかったからだ。

結局、私も小さく頭を下げた。

誰に向けたものなのか、自分でもわからないまま。

その晩は、蛍光灯が、いつもより長く暗くなった。

明るくなるたびに、丸椅子の影の数が、少し多い気がした。

次の巡回で、物理的な痕跡が見つかった。

たたみ台の上に、洗濯物が畳んで置かれていた。

袖口を内側に折り込んだ、几帳面な畳み方だった。

それは、私が処分した水色のバスタオルだった。

袋に入れて、収集に出したはずだった。

持ち上げると、洗い立ての温かい匂いがした。

私は震える指で、それを事務所の棚に戻した。

台帳の引取り待ち欄には、赤い印が確かに押されている。

録画の中の客

気になって、本社のマニュアルを引っぱり出した。

開店時の写真が載っていた。

丸椅子は4脚。

写真の隅には、防犯カメラの録画時刻が小さく入っている。

事務所は、店の奥の物置を改造した3畳ほどの部屋だった。

換気扇の低い唸りと、古い紙の匂いが満ちている。

モニターの青白い光が、台帳の背表紙を照らしていた。

その晩、私は昨夜の録画を再生した。

午前0時10分。

私が最後にモップをかけていた時刻だ。

画面の中の私は、床に目を落として、同じ場所を何度も拭いていた。

その背後の丸椅子に、人影が並んでいた。

5脚目と6脚目に、1人ずつ。

2人とも、同じ方向を向いている。

回転する乾燥機の、丸い窓を。

店内には、誰もいなかった。

私は確かに、1人で作業をしていた。

録画の時刻表示は、数秒おきに止まった。

止まっている間だけ、人影が少しずつ姿勢を変えていた。

壁掛け時計は、録画の表示より28分進んでいた。

電池を替えても、その差は変わらなかった。

最後に、画面の端でもう1人が増えた。

その位置には、まだ椅子がない。

それでも彼は、椅子に腰かけるように、背中を丸めていた。

私は録画を止めた。

私は録画を巻き戻して、もう一度見た。

人影の輪郭だけが、モニターの青白い光の中で、不思議なほど濃かった。

顔は、どれも画面のこちら側を向いていない。

それが、救いのようにも、礼儀のようにも思えた。

前任の巡回員に、電話をかけた。

「あの赤い印のこと、もう少し教えてもらえませんか」

呼び出し音が長く続いたあと、女性の声のアナウンスが流れた。

おかけになった電話番号は、現在使われておりません。

会社に問い合わせると、彼は9月の末に退職したと言われた。

引き継ぎの日が、最後の出勤日だった。

私は、彼の顔を思い出そうとした。

丸い字と、よく笑う口元は思い出せる。

けれど、目の色が、どうしても浮かばなかった。

最後の丸椅子

その夜、私は台帳を最初の頁から読み返した。

紙は湿気を吸って、指先に少し重かった。

最初の行は、前任の丸い字だった。

途中から、字が角ばってくる。

私の字だった。

私は台帳を閉じ、しばらく動けなかった。

換気扇の唸りが、遠くなった。

初日に交わした会話を、一つずつ思い出す。

前任は「必ず、その日のうちに」と言った。

私は、いつも、その日のうちに押してきた。

押さなかった行は、ただ一つ。

そして、最後の行。

半分欠けた赤い日付印は、私の入社日の数字だった。

預かり日も、同じ日付だった。

最後の行の品名の欄には、私の名前が、私の字で書かれていた。

私はこの行を、書いた覚えがなかった。

特徴の欄は、空白のままだった。

台帳の引取り待ち欄だけが、まだ印を待っていた。

店へ戻ると、画面の端に見た位置に、7脚目の丸椅子が置かれていた。

座面はくすんだ紺色で、入社初日に私が着ていた上着と同じ色だった。

他の6脚は、どれも冷たかった。

最後の1脚の座面だけが、ほんのりと温かかった。

私は椅子の前に膝をついて、座面をもう一度確かめた。

体温と同じくらいの温もりが、手のひらに広がっていく。

誰かが、さっきまで座っていたようだった。

いや、これから座る誰かのために、温めておいたようだった。

乾燥機がすべて止まった。

布を畳む音が、店の奥から近づいてくる。

ぱたん、ぱたん。

私はその数を、いつの間にか数えていた。

布を畳む音が、私の背中の真後ろで止まった。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

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