
私は関東のはずれにある古道具店で、買取りの番頭をしている。
仕事の半分は、地方からの呼び出しで蔵や倉庫の整理に出向くことだ。
表立った華やかさはないが、こちらが声をかけて回るのではなく、向こうから「家のものを見てほしい」と連絡をもらう、淡い縁の積み重ねでなりたっている仕事だ。
その日も、県北の小さな町から「亡くなった母の遺品を見てほしい」と頼まれて、朝の早い電車でその駅に降り立った。
駅前の空気は乾いていて、人影もまばらだった。
タクシーが一台だけ停まっていたが、運転手は座席を倒したまま眠っていて、声をかけるのをためらった。
依頼主の家まではバスもなく、徒歩で十五分ほどある。
朝のうちなら、歩いていける距離だった。
地図を頼りに歩いていくと、途中に古い商店街のアーケードが見えた。
私は思わず足を止めた。
東京で生まれ育った私には、地方の商店街というものに、昔からの郷愁めいた興味がある。
でも、足を踏み入れてすぐに、それが「閉じた商店街」だと分かった。
ほとんどの店がシャッターを下ろしていて、貼り紙すら剥がれかけていた。
歩く靴音が、アーケードの天井に低く反響した。
頭上の天井には、薄汚れた蛍光灯がいくつか吊られているだけで、その半分は灯っていなかった。
路面のタイルは所々が割れていて、雨水の染みが幾何学のような形で残っていた。
時計屋の小さな看板が見えたのは、突き当たり近くだった。
そこだけ、シャッターが開いていた。
ガラス窓の向こうに、ぼんやりとした灯りが点いていた。
買取りの仕事柄、古い時計には心惹かれる。
私は依頼の時間にまだ余裕があったので、引き寄せられるように店の中に入った。
「いらっしゃい」
奥の番台に、白髪の老人が座っていた。
ゆったりとした口調で、私の方を見て、軽く頷いた。
店内には、振り子時計が壁三面いっぱいに掛けられていた。
大きな柱時計から、棚の奥で控えめに並ぶ目覚まし時計まで、形も時代もばらばらに混じり合っていた。
埃は薄く積もっていたが、どの時計も丁寧に磨かれているのが分かった。
振り子はどれも、ぴたりと中央で止まっていた。
私はその場で、ふと気付いた。
すべての時計が、同じ時刻で止まっていた。
長針も、短針も、まるで申し合わせたように同じ角度を指していた。
三時十七分。
「これは……」
老人は、私の視線の先に気付いて、ふっと笑った。
「みんな、止まってますでしょう」
「動いてる時計は、奥の小さな目覚ましだけですよ」
その言葉のとおり、番台の下に置かれた小さな目覚まし時計だけが、規則的にカチカチと針を進めていた。
私は、なんとなく何か買って帰りたい気持ちになって、店内を見渡した。
棚の隅に、手のひらサイズの古びた目覚ましが置かれていた。
「このくらいのものなら、お安くしますよ」
老人は値札を見ずに、無造作な値段を口にした。
何気ない買物だった。
紙袋に入れてもらい、私は丁寧に頭を下げて店を出た。
※
依頼主の家での仕事は、夕方近くまでかかった。
一通り査定を終えたあと、お茶を出してもらいながら世間話になった。
「商店街、寂れてしまっていますね」
私が何気なくそう言うと、老婦人の息子さんが、少し困ったように笑った。
「ええ。もう十年以上、ほとんど閉じたままです」
「途中の時計屋さんだけ、開いていましたね」
「時計屋?」
息子さんは、湯のみを置く手を止めた。
少し怪訝そうな顔で、私の方を見た。
「時計屋なんて、あの商店街にはありませんよ」
私の指先は、紙袋の縁にかかったままだった。
息子さんは、思い出すような表情で、言葉を継いだ。
「以前は、確かに時計屋がありました」
「ただ、もう十年ほど前の話ですね」
「老夫婦でやっていた小さな店で、火事で焼けて、それきりです」
「ご主人もご夫人も、火事の時にお店の中で亡くなりました」
「商店街の他の店に火が回らなかったのが、せめてもの幸いでした」
私は、紙袋を膝の上にそっと置いた。
中身を確かめる気には、なれなかった。
火事の話を聞いている間、私は無意識に左手の指先で、紙袋の口を握りしめていた。
※
帰りの電車に乗る前に、もう一度商店街に寄った。
夕方のアーケードは、入った時よりさらに静かだった。
時計屋のあった場所には、当然のようにシャッターが下りていた。
ただ、そのシャッターには十年分の埃と、剥がれかけた古いシールが何重にも貼られていた。
私が入った時の、磨かれたガラス窓も、整った看板も、そこにはなかった。
しばらくの間、私はそのシャッターの前に立っていた。
触れてみたが、シャッターはひんやりと冷たく、何十年も動かされていないように固かった。
※
帰りの電車の中で、紙袋を開いた。
中の小さな目覚まし時計は、出発の時と同じ位置で、規則的に針を進めていた。
ただし。
それを買った時に渡されたはずのレシートが、紙袋の底に丸まって残っていた。
紙はすでに古い色に変わり、印字も薄れかけていた。
レシートに刻まれた日付は、ちょうど十年前の三月十七日だった。
※
その目覚まし時計は、今も私の事務所の机の上に置いてある。
調子のいい日には、淡々と動いている。
ただ、ふと気付くと、止まっていることがある。
止まっている時はいつも、針が三時十七分のところで、ぴたりと揃っている。
私は、もう一度あの商店街に行ってみる気にはなれない。
ただ、あの時の老人が、最後に頭を下げてくれた所作だけが、はっきりと記憶に残っている。
礼儀正しい、しずかなお辞儀だった。