吹雪の夜に触れた手

雪と風の幽霊の夜

その年の十月、私は一人で日高の尾根道に入った。

仕事で付き合いのある山岳ガイドの男性に誘われた山行だったが、当日になって彼は腰を痛め、私は結局ソロでの入山になった。十五年ほど山に入っているし、日帰りの予定だったから、それほど深刻には考えなかった。天気予報では午後から曇りとなっていたが、崩れるのは夕方以降だという話だった。装備も万全だったし、ルートも体に入っていた。

登山口から尾根に出るまでは、風もなく穏やかな朝だった。

樹林帯を抜けて視界が開いた頃には、稜線の向こうに灰色の雲が重なっていた。それでも急ぐほどではないと思っていた。山の天気が急変することは知っていたが、あの時の私には、どこか慢心があったのだと思う。あの山には何度か入ったことがあり、ルートも大体頭に入っていた。そういう油断が、登山では一番いけない、と後から何度も思い返した。

最初に少し気になったのは、稜線の中間にある標識の前に立った時だった。

標識の柱の根元に、小さな石が三つ、丁寧に積まれていた。

誰かが置いたものだろうとは思った。しかし、その日の登山道には私以外の入山者は一人もいなかった。前日までの足跡が残っている場所もあったが、その石の周りには誰かが立ち止まったような痕跡がなかった。石は、乾いた土の上に、まるで今しがた置かれたばかりのような様子で座っていた。風で飛んできた岩の破片が偶然積み重なったわけでもないだろう。三つの石は、それぞれ大きさが違い、下から大きい順に、丁寧に重ねられていた。

子供の遊びのようでもあった。

しかし周囲に人影はなく、声も聞こえなかった。気にしすぎかもしれないと思い、先を急いだ。

吹雪が来たのは、想定より二時間早かった。

最初は小雪だった。稜線に出たあたりで風が出てきたが、それでもまだ視界はあった。山頂を踏まずに引き返そうと判断したのは、雪が横から叩きつけてくるようになってからだった。しかし来た道を戻ろうとした時には、視界が白くふさがっていた。

風が岩の間を抜けて唸り声のような音を立てた。ルートを示す目印の杭が、三十メートル先からもう見えなくなった。GPSで現在地は確認できていたが、足場が見えなければ動けない。じっとしていれば体温が下がる。動こうとすれば、どこかの岩場から足を踏み外すかもしれない。

手先の痺れが、じわじわと広がってきていた。

低体温症の始まりを示す感覚だということは知っていた。指先が感覚を失い始めると、判断力も落ちる。それだけは焦らないようにしようと、頭のどこかで考えていた。非常用の地図に記されていた緊急避難小屋を思い出したのはその時だった。

稜線から少し下った北斜面に、古い山小屋があるはずだった。個人が建てたものらしく、正式な山岳救助の拠点ではないが、地図には「避難可」とだけ記されていた。最後に入山した時は使わなかったが、場所は把握していた。風の向きを頼りに下り始めると、五分ほどで木立の陰に小さな屋根が見えた。

小屋の煙突から、細い白いものが立っていた。

吹雪の中だから蒸気のようなものが出ていたのかもしれない、と今は思う。しかしその時の私には、誰かいる、という感覚があった。扉を開けると中は無人で、古い木の板の床と、錆びた薪ストーブがあるだけだった。薪はなかったが、床の隅に防寒シートが折り畳まれていた。誰かが置いていったもので、それが私の命を繋いだと言っても過言ではなかった。

防寒シートを体に巻き付け、壁に背をつけた。

外から吹雪の音が続いていた。小屋の板壁は薄く、風が隙間から入ってきていた。それでも外よりはましだった。携帯の電波はなかった。ライターがあったから手を温めようとしたが、火種になるものが何もなかった。とにかく体を動かさず、体温を逃がさないことだけを考えた。緊急連絡先への発信を試みたが、圏外の表示が変わらなかった。

どのくらいそうしていたか、時計を見る気力がなかった。外の吹雪の音が、強くなったり弱くなったりを繰り返していた。壁の節穴から細く風が入ってきて、床板の上を這うように流れていた。体の芯が冷えていくのが分かった。足先が完全に感覚を失っていた。両膝を抱えてできるだけ体を丸め、息を吐くたびに白い霧が漂った。薪ストーブの前から動けなかった。火のないストーブの、ただの鉄の塊の前に、それでも寄り添っていた。頭の中では、もう少しすれば夜が明けるはずだ、という言葉を繰り返していた。

どのくらい経ったか、わからない。

外の音がだんだん遠ざかるような感覚があった。手先の痺れが肘まで上がってきた頃、意識がひどく曖昧になった。目を開けているのか閉じているのかも、はっきりしなかった。呼吸が浅くなっていることは分かった。それでも起き上がることができなかった。

その時だった。

誰かが、私の手をさすっていた。

両手をまとめて包むような、小さな手のひらの感触だった。温かいとは言えなかったが、冷たくもなかった。ただ、静かに、確かめるように、何度も何度も、往復する動きがあった。左の二の腕にも、誰かの手が当たっているようだった。足首のあたりにも、重みのようなものがあった。

目を開けようとしたが、まぶたが動かなかった。

誰だろう、と思った。助けに来てくれたのだろうか、と思った。しかし声をかける気力がなく、ただその感触に意識を集中させていた。叫ぼうとしても声が出なかった。意識の端で、このままではまずい、とだけ思っていた。

子供だ、とぼんやり思った。

理由はなかった。ただ、その手のひらの大きさと、動きのぎこちなさが、大人ではない誰かを連想させた。懸命に何かをしようとしている、しかし少し不器用な、そういう感触だった。胸の真ん中あたりを、ぐるぐると円を描くようにさすっている感覚があった。額にも、誰かの手が軽く乗っているようだった。

声はなかった。

笑い声も、話し声も、泣き声も、何もなかった。ただ、静かに、手だけが動いていた。必死に、でも慌てずに、ただ繰り返し、繰り返し。

そのうちに、体が少し温かいような気がしてきた。本当に温かくなったのか、それとも感覚がなくなっただけなのか、今でも区別がつかない。ただ、意識の縁が少しずつ遠ざかりながらも、怖くはなかった。不安でも、なかった。誰かがいてくれるから、という感覚だったのかもしれない。それだけは、はっきり覚えている。

そのまま、何も感じなくなった。

翌朝、私は救助隊に発見された。

地元の山岳救助隊の四名が小屋に踏み込んできた時、私は防寒シートにくるまったまま壁に寄りかかって座っていた。意識はあったが、自力で立つことができなかった。体温は三十四度まで下がっていたという。あと数時間遅れていたら、という言葉を、隊員の一人が何度か繰り返した。

私が小屋に入ったと知れたのは、登山口に停めた車からだった。前夜のうちに家族が警察に連絡し、夜明けと同時に捜索が始まったらしい。気づいていなかったが、私はあの小屋で丸一晩を過ごしていた。小屋の外は雪が二十センチほど積もっていた、と隊員が言っていた。

病院のベッドで横になりながら、私は昨夜のことを考えた。

誰かが手をさすっていた。確かにそう感じた。しかし小屋の中に他の人間はいなかった。救助隊も、入山時に他の登山者がいた形跡はないと言っていた。私が入った跡以外に、扉の前に足跡はなかったという。

低体温症による幻覚だろう、と医師は言った。末梢血管が収縮して血流が低下すると、触覚に関係する異常感覚が生じることがある、という説明だった。それが一番筋の通った説明だと、私も思っていた。

しかし、退院して数日後、同行を断念したガイドの男性に電話でその話をすると、彼はしばらく沈黙した後でこう言った。

「その小屋、知ってます。昔、地元の話があって」

彼が教えてくれたのは、三十年以上前の話だった。

その山で、小学生のグループが遭難したことがあったという。秋の課外活動で入山し、急な天候悪化で道に迷った。引率の教師が一人、子供たちを残してふもとへ助けを呼びに下り、戻った時にはすでに遅かった。子供が四人、あの山で亡くなった。発見場所は、私が避難した小屋の近くだったらしい。

「地元では今でも毎年秋に、山に入る前に手を合わせる人がいるんですよ。標識の根元に石を積んで」

そう聞いた時、あの三つの石を思い出した。

標識の柱の根元に、小さい順に積み重ねられていた、あの石のことを。誰が置いたのかを、あの時は気にしながらも、すぐに忘れていた。地元の人が今も供養を続けているのだとしたら、あの石は前日誰かが置いていったものだったのかもしれない。しかし、私が通った時に人の姿はなかった。

「救助隊の人に後で聞いたんですが」とガイドが続けた。「小屋の外の雪板に、子供の手型がいくつも残っていたそうです」

内側から押しつけたような手型が、壁に沿っていくつも。

そこで彼の言葉が途切れ、私も何も返せなかった。電話口の向こうで彼がゆっくり息を吐く音がして、それから「不思議ですね」とだけ言った。私もそれだけ答えた。「そうですね」と。

あれから三年が経った。

毎年秋になると、私はあの山の登山口まで車で行く。花と菓子を持って、標識の前に手を合わせる。あの小屋の方向を向いて、それだけだ。それ以外に自分にできることが思い浮かばない。

昨年の秋に行った時、登山口の近くに住む老婆が話しかけてきた。私が花を供えているのを見て、声をかけてきたらしかった。彼女の話では、亡くなった子供たちの中に、彼女の遠縁の子がいたという。「あの子たちはね、この山が好きだったから、今もここにいるんだよ」と、老婆は言った。悲しそうでもなく、誇らしそうでもなく、ただ当たり前のことを言うような口調だった。

私はうなずいた。それしかできなかった。

あの夜のことは、今もよく説明できないままでいる。ただ、あの感触だけは、今も消えずに残っている。小さな手のひらが、確かに、私の手を包んでいた。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

ミステリーを応援する

いつもお読みいただき、ありがとうございます。
当サイトは個人で運営しており、いただいたご支援はサーバー代やドメインの維持費に大切に使わせていただきます。

月額 150円(初月無料)または 480円 の買い切りで、
広告のない、静かな読書体験をお届けします。

プランを見る
メンバーなのに広告が表示される方

ブラウザを変えた・Cookieを削除した場合は、登録のメールアドレスを入力してください。

読んでいただけるだけで、十分に励みになります。
それでも応援したいと思ってくださる方へ、心より感謝いたします。