幸福の妖精

毎年、桜の散るころになると、決まって思い出す話がある。

三十を過ぎたばかりの、春のことだった。

当時の俺は、勤めていた会社で、すっかり疲れ果てていた。

残業続きで、給料は上がらず、毎日が灰色だった。

終電で帰る日々が、もう何年も続いていた。

上司の機嫌をうかがい、客に頭を下げ、それでも数字に追われる。

日曜の夜になると、決まって胃が痛くなった。

このまま、自分の人生は終わっていくのだろうか。

そんな思いが、いつも頭の片隅にあった。

鏡に映る自分の顔は、年々、生気を失っていった。

何か、変えなければ。そう思いながら、何もできずにいた。

そんなとき、一通のメールが届いた。

ある会社からの、転職の誘いだった。

その会社は、業界では名の知れた、新しい企業だった。

条件は、信じられないほど良かった。

給料は今の倍。ノルマはなし。残業もほとんどないという。

担当者は、やけに親切だった。

「あなたのような人を、ずっと探していたんです」

そう言われて、悪い気はしなかった。

面接を重ねるたびに、相手の熱意は増していった。

「うちに来てくれれば、必ず厚遇します」

最終面接の前日には、こんな連絡まで来た。

「もう、あなたの採用は内定したも同然です」

担当者と会うたびに、俺は少しずつ、その気にさせられていった。

「あなたの経験は、うちでこそ活きます」

「今の会社にいるのは、もったいない」

そんな言葉を、繰り返し浴びせられた。

認められたい、という気持ちは、誰にでもある。

疲れ果てていた俺は、その甘い言葉に、すがりたくなっていた。

今思えば、あの誘い方は、どこか執拗だった。

だが、当時の俺には、それを冷静に見る余裕がなかった。

「一応、形だけ面接を受けて、あとは承諾書に判をください」

最初は半信半疑だった俺も、次第に心が傾いていった。

こんなに望まれるなら、行ってみてもいい。

そう思いはじめていた。

思えば、あの誘いには、おかしな点がいくつもあった。

会ったばかりの俺を、相手は最初から、名前で呼んだ。

履歴書にも書いていない、昔の仕事の話まで、知っていた。

「どうしてそれを」と聞くと、はぐらかされた。

今ふり返れば、すべてが、できすぎていた。

うまい話には、必ず裏がある。

そんな当たり前のことを、俺は疲れのせいで、忘れかけていた。

あの男は、それを、思い出させてくれたのかもしれない。

最終面接の日。

あの日、控え室の窓から、満開の桜が見えていた。

今でも、その景色を、ふと思い出す。

運命の分かれ道は、いつも、何気ない場所にあるのだろう。

俺は、ぴかぴかのガラス張りのビルの、控え室で待っていた。

革張りのソファに、観葉植物。何もかもが、洗練されていた。

その控え室には、ほかにも数人の受験者が座っていた。

みな、緊張した面持ちで、じっと前を見ていた。

空調が効きすぎていて、やけに寒かった。

壁にかかった時計の、秒針の音だけが、やけに大きく聞こえた。

俺は、承諾書に押す印鑑を、上着の内ポケットで、何度も確かめていた。

あと少しで、この灰色の日々から、抜け出せる。

そう信じて、疑っていなかった。

そこへ、ひとりの中年の男が入ってきた。

四十は過ぎているだろうか。

くたびれたスーツに、薄くなった頭。お世辞にも、立派とは言えない風体だった。

最初は、会社の人かと思った。

だが男は、受験者のような顔で、俺の隣にどかりと腰を下ろした。

よく見ると、男の身なりは、どこかちぐはぐだった。

ネクタイは曲がり、靴は泥で汚れていた。

それなのに、目だけが、妙に澄んでいた。

その目で見つめられると、なぜか、嘘がつけない気がした。

男からは、雨上がりの土のような、不思議な匂いがした。

高層ビルの控え室には、まるで似つかわしくない匂いだった。

そして、いきなり、大声で話しかけてきたのだ。

「あんた、ここを受けるのかい」

俺は、戸惑いながらうなずいた。

男は、周りもはばからず、大きな声で続けた。

「やめときな。この会社、きれいなのは見えるところだけだ」

「さっきトイレに行ったが、裏はひどいもんだったよ」

「ここはもう、長くない。先がないね」

面接の控え室では、社員に見られているのが常識だ。

俺は、慌てて男をたしなめた。

「ちょっと、やめてくださいよ」

だが男は、まったく意に介さなかった。

「本当のことを言ってるだけさ」

男は、会社の商品についても、はっきりと言い切った。

「あそこの売り物も、見かけ倒しだ」

「中身がないんだよ。すぐにばれる」

その口ぶりは、まるで、未来を見てきたかのようだった。

ただの腹いせや、酔っぱらいの戯言とは、どこか違った。

奇妙な確信が、その声には、こもっていた。

俺は、たしなめながらも、背筋に、かすかな寒気を感じていた。

周りの受験者も、ちらちらと見るだけで、誰も助けてはくれない。

控え室で、男が話しはじめたとき、ひとつ奇妙なことがあった。

あれほどの大声なのに、部屋の空気が、ふっと静まったのだ。

観葉植物の葉が、風もないのに、かすかに揺れた。

空調の音さえ、聞こえなくなった気がした。

周りの受験者は、男が見えていないかのように、前を向いたままだった。

今思えば、あの瞬間だけ、時間の流れが、ねじれていたのかもしれない。

俺だけが、あの男と、同じ時間にいた。

そんな気が、どうしてもしてならない。

男の大声は、廊下の外にまで響いていたらしい。

ほどなく、血相を変えた社員が、控え室に飛び込んできた。

「社長室まで聞こえてたぞ!」

「ふざけるな、出て行け!」

そして、なぜか俺まで、男と一緒に、ビルの外へ追い出されてしまった。

「あなたも、お引き取りください」

社員の冷たい声が、背中に刺さった。

俺は、しばらく呆然と立ち尽くしていた。

ビルを出ると、春の風が、頬をなでた。

見上げると、ガラスの壁に、青い空が映っていた。

あんなに完璧に見えたビルが、急に、よそよそしく感じられた。

男は、ポケットに手を入れたまま、空を見上げていた。

「いい天気だなあ」

さっきまでの剣幕が、嘘のように、穏やかな声だった。

俺は、この男が、ますます分からなくなった。

我に返ると、当然、猛烈な怒りがこみ上げてきた。

せっかくの内定を、この男のせいで、台無しにされたのだ。

「どうしてくれるんだ!」

俺は、男の胸ぐらをつかんだ。

だが、男は、平然としていた。

馬鹿にしているのでも、ふざけているのでもない。

ただ、穏やかな顔で、こう言ったのだ。

「大丈夫だよ。君は、大丈夫」

そう言って、男は、ゆっくりとうなずいた。

不思議なことに、俺の怒りは、すうっと引いていった。

そして、妙に冷静な考えが、頭をよぎった。

よく考えれば、別に、そこまで行きたい会社でもなかった。

条件の良さに、目がくらんでいただけだ。

俺は、つかんだ手を放し、しわになった男の胸元を、そっと直した。

「……すみませんでした」

男は、また穏やかに笑った。

「大丈夫だよ」

そう繰り返すと、男は、人混みの中へ、ゆっくりと消えていった。

家に帰ってからも、男の言葉が、頭から離れなかった。

「大丈夫だよ。君は、大丈夫」

なぜか、その一言だけが、胸の奥に、温かく残っていた。

あれほど腹を立てたのに、不思議と、恨む気持ちは消えていた。

むしろ、何かから救われたような、妙な安堵があった。

その夜、俺は久しぶりに、深く眠ることができた。

あとになって、ひとつ、奇妙なことに気づいた。

あの男を、控え室で見た受験者は、俺のほかにもいたはずだ。

だが、外に追い出されたのは、なぜか、俺ひとりだった。

男は、最初から、俺だけに話しかけていた。

まるで、俺を助けるためだけに、現れたかのように。

なぜ、ほかの誰でもなく、俺だったのか。

考えれば考えるほど、分からなくなった。

追い出された直後、俺は、近くの公園のベンチに座り込んだ。

頭の中は、まだ、ぐちゃぐちゃだった。

あれほど望んでいた未来が、たった数分で、消えてしまった。

だが、不思議と、涙は出なかった。

代わりに、肩の力が、すっと抜けていくのを感じた。

重い荷物を、誰かが、そっと下ろしてくれたようだった。

桜の花びらが、一枚、俺の膝の上に舞い落ちた。

その日の空が、やけに高く見えたのを、覚えている。

その後、会社からは、二度と連絡が来なかった。

だが、あの強引な誘い方が、今さらながら、薄気味悪くなっていた。

だから、俺のほうからも、連絡しなかった。

結局、その転職の話は、なかったことになった。

転職を断ったあと、しばらくは、自分の判断を疑った。

もしかしたら、惜しいことをしたのではないか、と。

夜中に目が覚めて、後悔しかけたことも、何度かあった。

だが、そのたびに、あの声がよみがえった。

「大丈夫だよ。君は、大丈夫」

その一言が、不思議と、俺を踏みとどまらせた。

根拠などなかった。それでも、信じてみようと思えた。

それから半年後、俺は、もとから希望していた職種に、転職することができた。

条件は地味だったが、まっとうな会社だった。

新しい職場は、決して華やかではなかった。

古い雑居ビルの、小さなオフィスだった。

だが、上司も同僚も、まっとうな人たちだった。

残業はあったが、努力はきちんと評価された。

灰色だった日々に、少しずつ、色が戻ってきた。

日曜の夜の胃の痛みも、いつのまにか、消えていた。

あのとき、あの会社に行かなくて、本当によかった。

心の底から、そう思えるようになっていた。

あの男には、感謝していた。

いつか会えたら、礼を言いたいと思った。

だが、あれ以来、男とは、一度も会っていない。

あの日、俺が胸ぐらをつかんだとき。

男のスーツは、しわになるどころか、妙にひんやりとしていた。

まるで、雨に濡れた布のような、冷たさだった。

そして、人混みに消えていくとき。

あれほど目立つ風体だったのに、誰ひとり、男を振り返らなかった。

まるで、最初から、そこに誰もいなかったかのように。

その光景を、俺は今でも、はっきりと覚えている。

本当に驚いたのは、それから三年後のことだった。

昼休み、食堂のテレビで、あるニュースが流れていた。

見覚えのある、ガラス張りのビルが映っていた。

あの会社が、謝罪会見を開いていたのだ。

詳しくは書けないが、会社ぐるみで、大きな不正をやっていたらしい。

社長以下、幹部はほとんど逮捕された。

平社員までもが、不正に加担させられていたという。

多くの社員が、客から訴えられたそうだ。

画面の中で、頭を下げる幹部たちの顔に、見覚えがあった。

俺を、あれほど熱心に誘ってきた、あの担当者の顔もあった。

カメラのフラッシュが、何度も焚かれていた。

アナウンサーが、淡々と、被害の総額を読み上げていた。

その数字の大きさに、俺は言葉を失った。

もし、あの日、判を押していたら。

想像するだけで、手のひらに、冷たい汗がにじんだ。

俺は、箸を止めて、画面に見入っていた。

あの会社の担当者は、最後まで、感じのいい人だった。

だからこそ、余計に、恐ろしかった。

笑顔の裏で、何を考えていたのか、今となっては分からない。

きっと、本人すら、引き返せなくなっていたのだろう。

組織というものは、ときに、人を静かに飲み込んでいく。

俺は、その入口で、すんでのところで、引き戻されたのだ。

あの男の言葉は、ひとつも外れていなかった。

見えるところだけがきれい。中身がない。先がない。

すべて、そのとおりになった。

ただの偶然だと、片づけることもできる。

だが、俺には、どうしてもそう思えなかった。

あの澄んだ目が、今も忘れられないからだ。

もし、あのとき、あの男が現れなかったら。

間違いなく、俺はあの会社に入っていた。

そして今ごろ、あの逮捕された社員の中に、俺がいたかもしれない。

背筋が、ぞっとした。

隣で飯を食っていた同僚に、俺はそのことを話した。

「邪魔されなけりゃ、確実に入ってたよ」と。

すると同僚は、にやりと笑って、こう言った。

「もしかしてそのおっさん、幸福の妖精じゃねえの?」

同僚は、冗談のつもりで言ったのだろう。

だが、俺は、笑い飛ばせなかった。

「妖精にしては、ずいぶん所帯じみてたけどな」

そう返しながらも、心のどこかで、本気で思っていた。

あれは、ただの人間ではなかったのかもしれない、と。

未来を見通し、迷っている者の背を、そっと押す。

そういう存在が、もし本当にいるのなら。

あの男こそが、それだったのではないか。

会見のニュースを見たあと、俺はトイレで、ひとり鏡を見た。

そこに映っていたのは、もう、灰色の顔ではなかった。

地味でも、まっとうに働く、ひとりの人間の顔だった。

あの男のおかげで、俺は、この顔を取り戻せたのだ。

礼を言いたくても、もう、会う術はない。

せめて、と俺は思った。

いつか誰かが道に迷っていたら、今度は俺が、背を押してやろう。

それが、あの男への、せめてもの恩返しになる気がした。

くたびれたスーツの、はげたおっさんが妖精か、と俺は笑った。

だが、本当に、心から感謝している。

いつか会えたら、頭を下げて礼を言いたい。

あの男は、いったい、何者だったのだろう。

どうして、まだ起きてもいない不正を、知っていたのだろう。

どうして、俺まで一緒に、助けてくれたのだろう。

答えは、今も分からない。

ただ、桜が散るたびに、俺はあの穏やかな声を、思い出すのだ。

今でも、満員電車で、くたびれたスーツの中年男を見かけると、つい目で追ってしまう。

もしかしたら、あの男かもしれない、と。

そして、誰かの隣で、また静かに、背中を押しているのかもしれない。

そう思うと、少しだけ、世の中も悪くない気がするのだ。

あのひと言がなければ、今の俺は、ここにいない。

だから俺は、今日も静かに、あの男に手を合わせる。

「大丈夫だよ。君は、大丈夫」と。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

ミステリーを応援する

読んでいただけるだけで、十分に励みになります。
当サイトは個人で運営しており、いただいたご支援はサーバー代やドメインの維持費に大切に使わせていただきます。

¥240 の一度きりのお支払いで応援いただけます。
お礼として、以後ずっと広告を非表示にいたします(継続課金はありません)。

くわしく見る →

メンバーなのに広告が表示される方

ブラウザを変えた・Cookieを削除した場合は、登録のメールアドレスを入力してください。