幸福の妖精

幸福の妖精

毎年、桜の散るころになると、決まって思い出す話がある。

三十を過ぎたばかりの、春のことだった。

当時の俺は、勤めていた会社で、すっかり疲れ果てていた。

残業続きで、給料は上がらず、毎日が灰色だった。

終電で帰る日々が、もう何年も続いていた。

上司の機嫌をうかがい、客に頭を下げ、それでも数字に追われる。

日曜の夜になると、決まって胃が痛くなった。

このまま、自分の人生は終わっていくのだろうか。

そんな思いが、いつも頭の片隅にあった。

鏡に映る自分の顔は、年々、生気を失っていった。

何か、変えなければ。そう思いながら、何もできずにいた。

そんなとき、一通のメールが届いた。

ある会社からの、転職の誘いだった。

※

その会社は、業界では名の知れた、新しい企業だった。

条件は、信じられないほど良かった。

給料は今の倍。ノルマはなし。残業もほとんどないという。

担当者は、やけに親切だった。

「あなたのような人を、ずっと探していたんです」

そう言われて、悪い気はしなかった。

面接を重ねるたびに、相手の熱意は増していった。

「うちに来てくれれば、必ず厚遇します」

最終面接の前日には、こんな連絡まで来た。

「もう、あなたの採用は内定したも同然です」

担当者と会うたびに、俺は少しずつ、その気にさせられていった。

「あなたの経験は、うちでこそ活きます」

「今の会社にいるのは、もったいない」

そんな言葉を、繰り返し浴びせられた。

認められたい、という気持ちは、誰にでもある。

疲れ果てていた俺は、その甘い言葉に、すがりたくなっていた。

今思えば、あの誘い方は、どこか執拗だった。

だが、当時の俺には、それを冷静に見る余裕がなかった。

「一応、形だけ面接を受けて、あとは承諾書に判をください」

最初は半信半疑だった俺も、次第に心が傾いていった。

こんなに望まれるなら、行ってみてもいい。

そう思いはじめていた。

※

思えば、あの誘いには、おかしな点がいくつもあった。

会ったばかりの俺を、相手は最初から、名前で呼んだ。

履歴書にも書いていない、昔の仕事の話まで、知っていた。

「どうしてそれを」と聞くと、はぐらかされた。

今ふり返れば、すべてが、できすぎていた。

うまい話には、必ず裏がある。

そんな当たり前のことを、俺は疲れのせいで、忘れかけていた。

あの男は、それを、思い出させてくれたのかもしれない。

※

最終面接の日。

あの日、控え室の窓から、満開の桜が見えていた。

今でも、その景色を、ふと思い出す。

運命の分かれ道は、いつも、何気ない場所にあるのだろう。

俺は、ぴかぴかのガラス張りのビルの、控え室で待っていた。

革張りのソファに、観葉植物。何もかもが、洗練されていた。

その控え室には、ほかにも数人の受験者が座っていた。

みな、緊張した面持ちで、じっと前を見ていた。

空調が効きすぎていて、やけに寒かった。

壁にかかった時計の、秒針の音だけが、やけに大きく聞こえた。

俺は、承諾書に押す印鑑を、上着の内ポケットで、何度も確かめていた。

あと少しで、この灰色の日々から、抜け出せる。

そう信じて、疑っていなかった。

そこへ、ひとりの中年の男が入ってきた。

四十は過ぎているだろうか。

くたびれたスーツに、薄くなった頭。お世辞にも、立派とは言えない風体だった。

最初は、会社の人かと思った。

だが男は、受験者のような顔で、俺の隣にどかりと腰を下ろした。

よく見ると、男の身なりは、どこかちぐはぐだった。

ネクタイは曲がり、靴は泥で汚れていた。

それなのに、目だけが、妙に澄んでいた。

その目で見つめられると、なぜか、嘘がつけない気がした。

男からは、雨上がりの土のような、不思議な匂いがした。

高層ビルの控え室には、まるで似つかわしくない匂いだった。

そして、いきなり、大声で話しかけてきたのだ。

「あんた、ここを受けるのかい」

俺は、戸惑いながらうなずいた。

※

男は、周りもはばからず、大きな声で続けた。

「やめときな。この会社、きれいなのは見えるところだけだ」

「さっきトイレに行ったが、裏はひどいもんだったよ」

「ここはもう、長くない。先がないね」

面接の控え室では、社員に見られているのが常識だ。

俺は、慌てて男をたしなめた。

「ちょっと、やめてくださいよ」

だが男は、まったく意に介さなかった。

「本当のことを言ってるだけさ」

男は、会社の商品についても、はっきりと言い切った。

「あそこの売り物も、見かけ倒しだ」

「中身がないんだよ。すぐにばれる」

その口ぶりは、まるで、未来を見てきたかのようだった。

ただの腹いせや、酔っぱらいの戯言とは、どこか違った。

奇妙な確信が、その声には、こもっていた。

俺は、たしなめながらも、背筋に、かすかな寒気を感じていた。

周りの受験者も、ちらちらと見るだけで、誰も助けてはくれない。

※

控え室で、男が話しはじめたとき、ひとつ奇妙なことがあった。

あれほどの大声なのに、部屋の空気が、ふっと静まったのだ。

観葉植物の葉が、風もないのに、かすかに揺れた。

空調の音さえ、聞こえなくなった気がした。

周りの受験者は、男が見えていないかのように、前を向いたままだった。

今思えば、あの瞬間だけ、時間の流れが、ねじれていたのかもしれない。

俺だけが、あの男と、同じ時間にいた。

そんな気が、どうしてもしてならない。

※

男の大声は、廊下の外にまで響いていたらしい。

ほどなく、血相を変えた社員が、控え室に飛び込んできた。

「社長室まで聞こえてたぞ!」

「ふざけるな、出て行け!」

そして、なぜか俺まで、男と一緒に、ビルの外へ追い出されてしまった。

「あなたも、お引き取りください」

社員の冷たい声が、背中に刺さった。

俺は、しばらく呆然と立ち尽くしていた。

※

ビルを出ると、春の風が、頬をなでた。

見上げると、ガラスの壁に、青い空が映っていた。

あんなに完璧に見えたビルが、急に、よそよそしく感じられた。

男は、ポケットに手を入れたまま、空を見上げていた。

「いい天気だなあ」

さっきまでの剣幕が、嘘のように、穏やかな声だった。

俺は、この男が、ますます分からなくなった。

※

我に返ると、当然、猛烈な怒りがこみ上げてきた。

せっかくの内定を、この男のせいで、台無しにされたのだ。

「どうしてくれるんだ!」

俺は、男の胸ぐらをつかんだ。

だが、男は、平然としていた。

馬鹿にしているのでも、ふざけているのでもない。

ただ、穏やかな顔で、こう言ったのだ。

「大丈夫だよ。君は、大丈夫」

そう言って、男は、ゆっくりとうなずいた。

※

不思議なことに、俺の怒りは、すうっと引いていった。

そして、妙に冷静な考えが、頭をよぎった。

よく考えれば、別に、そこまで行きたい会社でもなかった。

条件の良さに、目がくらんでいただけだ。

俺は、つかんだ手を放し、しわになった男の胸元を、そっと直した。

「……すみませんでした」

男は、また穏やかに笑った。

「大丈夫だよ」

そう繰り返すと、男は、人混みの中へ、ゆっくりと消えていった。

※

家に帰ってからも、男の言葉が、頭から離れなかった。

「大丈夫だよ。君は、大丈夫」

なぜか、その一言だけが、胸の奥に、温かく残っていた。

あれほど腹を立てたのに、不思議と、恨む気持ちは消えていた。

むしろ、何かから救われたような、妙な安堵があった。

その夜、俺は久しぶりに、深く眠ることができた。

※

あとになって、ひとつ、奇妙なことに気づいた。

あの男を、控え室で見た受験者は、俺のほかにもいたはずだ。

だが、外に追い出されたのは、なぜか、俺ひとりだった。

男は、最初から、俺だけに話しかけていた。

まるで、俺を助けるためだけに、現れたかのように。

なぜ、ほかの誰でもなく、俺だったのか。

考えれば考えるほど、分からなくなった。

※

追い出された直後、俺は、近くの公園のベンチに座り込んだ。

頭の中は、まだ、ぐちゃぐちゃだった。

あれほど望んでいた未来が、たった数分で、消えてしまった。

だが、不思議と、涙は出なかった。

代わりに、肩の力が、すっと抜けていくのを感じた。

重い荷物を、誰かが、そっと下ろしてくれたようだった。

桜の花びらが、一枚、俺の膝の上に舞い落ちた。

その日の空が、やけに高く見えたのを、覚えている。

※

その後、会社からは、二度と連絡が来なかった。

だが、あの強引な誘い方が、今さらながら、薄気味悪くなっていた。

だから、俺のほうからも、連絡しなかった。

結局、その転職の話は、なかったことになった。

転職を断ったあと、しばらくは、自分の判断を疑った。

もしかしたら、惜しいことをしたのではないか、と。

夜中に目が覚めて、後悔しかけたことも、何度かあった。

だが、そのたびに、あの声がよみがえった。

「大丈夫だよ。君は、大丈夫」

その一言が、不思議と、俺を踏みとどまらせた。

根拠などなかった。それでも、信じてみようと思えた。

※

それから半年後、俺は、もとから希望していた職種に、転職することができた。

条件は地味だったが、まっとうな会社だった。

新しい職場は、決して華やかではなかった。

古い雑居ビルの、小さなオフィスだった。

だが、上司も同僚も、まっとうな人たちだった。

残業はあったが、努力はきちんと評価された。

灰色だった日々に、少しずつ、色が戻ってきた。

日曜の夜の胃の痛みも、いつのまにか、消えていた。

あのとき、あの会社に行かなくて、本当によかった。

心の底から、そう思えるようになっていた。

あの男には、感謝していた。

いつか会えたら、礼を言いたいと思った。

だが、あれ以来、男とは、一度も会っていない。

※

あの日、俺が胸ぐらをつかんだとき。

男のスーツは、しわになるどころか、妙にひんやりとしていた。

まるで、雨に濡れた布のような、冷たさだった。

そして、人混みに消えていくとき。

あれほど目立つ風体だったのに、誰ひとり、男を振り返らなかった。

まるで、最初から、そこに誰もいなかったかのように。

その光景を、俺は今でも、はっきりと覚えている。

※

本当に驚いたのは、それから三年後のことだった。

昼休み、食堂のテレビで、あるニュースが流れていた。

見覚えのある、ガラス張りのビルが映っていた。

あの会社が、謝罪会見を開いていたのだ。

詳しくは書けないが、会社ぐるみで、大きな不正をやっていたらしい。

社長以下、幹部はほとんど逮捕された。

平社員までもが、不正に加担させられていたという。

多くの社員が、客から訴えられたそうだ。

※

画面の中で、頭を下げる幹部たちの顔に、見覚えがあった。

俺を、あれほど熱心に誘ってきた、あの担当者の顔もあった。

カメラのフラッシュが、何度も焚かれていた。

アナウンサーが、淡々と、被害の総額を読み上げていた。

その数字の大きさに、俺は言葉を失った。

もし、あの日、判を押していたら。

想像するだけで、手のひらに、冷たい汗がにじんだ。

※

俺は、箸を止めて、画面に見入っていた。

あの会社の担当者は、最後まで、感じのいい人だった。

だからこそ、余計に、恐ろしかった。

笑顔の裏で、何を考えていたのか、今となっては分からない。

きっと、本人すら、引き返せなくなっていたのだろう。

組織というものは、ときに、人を静かに飲み込んでいく。

俺は、その入口で、すんでのところで、引き戻されたのだ。

あの男の言葉は、ひとつも外れていなかった。

見えるところだけがきれい。中身がない。先がない。

すべて、そのとおりになった。

ただの偶然だと、片づけることもできる。

だが、俺には、どうしてもそう思えなかった。

あの澄んだ目が、今も忘れられないからだ。

もし、あのとき、あの男が現れなかったら。

間違いなく、俺はあの会社に入っていた。

そして今ごろ、あの逮捕された社員の中に、俺がいたかもしれない。

背筋が、ぞっとした。

隣で飯を食っていた同僚に、俺はそのことを話した。

「邪魔されなけりゃ、確実に入ってたよ」と。

すると同僚は、にやりと笑って、こう言った。

「もしかしてそのおっさん、幸福の妖精じゃねえの?」

同僚は、冗談のつもりで言ったのだろう。

だが、俺は、笑い飛ばせなかった。

「妖精にしては、ずいぶん所帯じみてたけどな」

そう返しながらも、心のどこかで、本気で思っていた。

あれは、ただの人間ではなかったのかもしれない、と。

未来を見通し、迷っている者の背を、そっと押す。

そういう存在が、もし本当にいるのなら。

あの男こそが、それだったのではないか。

※

会見のニュースを見たあと、俺はトイレで、ひとり鏡を見た。

そこに映っていたのは、もう、灰色の顔ではなかった。

地味でも、まっとうに働く、ひとりの人間の顔だった。

あの男のおかげで、俺は、この顔を取り戻せたのだ。

礼を言いたくても、もう、会う術はない。

せめて、と俺は思った。

いつか誰かが道に迷っていたら、今度は俺が、背を押してやろう。

それが、あの男への、せめてもの恩返しになる気がした。

※

くたびれたスーツの、はげたおっさんが妖精か、と俺は笑った。

だが、本当に、心から感謝している。

いつか会えたら、頭を下げて礼を言いたい。

あの男は、いったい、何者だったのだろう。

どうして、まだ起きてもいない不正を、知っていたのだろう。

どうして、俺まで一緒に、助けてくれたのだろう。

答えは、今も分からない。

ただ、桜が散るたびに、俺はあの穏やかな声を、思い出すのだ。

今でも、満員電車で、くたびれたスーツの中年男を見かけると、つい目で追ってしまう。

もしかしたら、あの男かもしれない、と。

そして、誰かの隣で、また静かに、背中を押しているのかもしれない。

そう思うと、少しだけ、世の中も悪くない気がするのだ。

あのひと言がなければ、今の俺は、ここにいない。

だから俺は、今日も静かに、あの男に手を合わせる。

「大丈夫だよ。君は、大丈夫」と。

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