小学三年生の、夏のことだ。
母が早くに亡くなり、俺は父ひとりに育てられていた。
内気な性格が災いして、学校ではずっといじめられていた。
とうとう教室に行けなくなった俺は、その夏、母方の祖母の家に預けられた。
そこは、海沿いの小さな漁村だった。
バスも一日に三本しか来ない、ひどく静かな土地だった。
過疎が進み、子どもの姿はほとんど見かけなかった。
それでも俺には、ひとりの時間が、むしろ心地よかった。
祖母の家は、築八十年は超える、古い平屋だった。
黒くすすけた梁が、低い天井を支えていた。
廊下を歩くたびに、床板が、きしきしと鳴った。
潮風のせいか、家じゅうが、いつも少し湿っていた。
奥には、開かずの仏間があった。
古い位牌が、薄暗がりの中で、じっと並んでいた。
夜になると、家の裏で、波の音が絶え間なく響いた。
その音は、まるで誰かが、ずっと囁いているようにも聞こえた。
磯の生臭い匂いが、布団にまで染みついていた。
はじめのうちは、その匂いが、なかなか寝つけない理由だった。
貝殻を拾うのが好きで、毎日のように磯に出かけた。
潮だまりを覗けば、小さなカニやヤドカリがいくらでもいた。
誰にも責められない場所が、ようやく見つかった気がしていた。
※
そんなある日、磯で、ひとりのお姉さんと知り合った。
二十代の半ばくらいだったと思う。
長い黒髪の、ひどく色の白い人だった。
声をかけてきたのは、向こうからだった。
「坊や、この村の子じゃないでしょう」
人見知りの俺は、うまく返事ができなかった。
お姉さんは、俺のバケツに目をやって、やさしく笑った。
「すごい。たくさん拾ったのね。見せてくれる?」
貝の話なら、いくらでも話せた。
俺は夢中で、ひとつひとつの名前を説明した。
お姉さんは、ずっと相槌を打ってくれた。
「へえ」「きれいね」と、何度も言ってくれた。
人にほめられたことなんて、ほとんどなかった。
だから、たまらなく嬉しかった。
※
その日から、俺はお姉さんと遊ぶようになった。
待ち合わせは、いつも浜のはずれの、古い祠の前だった。
その祠は、誰が祀っているのか、村の者も知らないという。
苔むした石の祠で、賽銭箱もなかった。
前には、首のない、小さな石仏が並んでいた。
はじめてそこを見たとき、なぜか背筋が、ひやりとした。
だが、お姉さんといると、その冷たさも忘れた。
祠の裏手には、海へと続く、細い石段があった。
お姉さんは、いつもその石段のほうから、現れた。
一緒に磯を歩き、潮だまりを覗き、流木を拾った。
お姉さんは、不思議と、自分のことはほとんど話さなかった。
家族のことを聞いても、いつもうまくはぐらかされた。
でも、俺の話だけは、何でも親身に聞いてくれた。
学校でいじめられていたこと。
母がいないこと。
祖母にも言えなかった弱音を、俺はお姉さんにだけ吐いた。
お姉さんは、そのたびに、静かに慰めてくれた。
「つらかったね。よく、がんばったね」
その言葉に、何度、救われたか分からない。
磯で過ごした日々を、俺は今でも、よく覚えている。
潮だまりに沈む夕日。
足の裏に伝わる、濡れた岩のひんやりとした感触。
波が引くときの、しゃらしゃらという小石の音。
お姉さんは、そのどれもを、俺と一緒に楽しんでくれた。
「坊やは、貝のことなら、何でも知ってるのね」
そう言って笑う声が、潮風に混じった。
その時間だけは、いじめのことも、母のことも、忘れられた。
だから俺は、あの夏を、憎みきれずにいる。
お姉さんが母さんだったらいいのに、と俺は言った。
するとお姉さんは、なぜか、ひどく悲しそうな顔をした。
お姉さんは、ときどき、奇妙なことを言った。
「坊やは、ひとりぼっちなのね」
「お姉さんも、ずっと、ひとりだったの」
その声は、波の音に溶けるように、静かだった。
「ねえ、坊や。お姉さんと、ずっと一緒にいたい?」
俺は、迷わずうなずいた。
するとお姉さんは、ほんの一瞬、泣きそうな顔をした。
「……でも、それは、いけないことなのよ」
その言葉の意味が、当時の俺には、まるで分からなかった。
※
お姉さんと出会って、しばらく経った頃だ。
俺は、少しずつ、体の調子が悪くなっていった。
はじめは、夏風邪だろうと思っていた。
だが、熱はないのに、体がだるくて仕方がない。
食欲も落ち、顔色も悪くなっていった。
夜になると、ひどい悪寒に襲われるようになった。
夢の中で、誰かに手を引かれ、暗い海へ連れていかれた。
波打ち際で、お姉さんが、こちらに手を振っていた。
その顔は、笑っているのに、目だけが、ひどく寂しそうだった。
目が覚めると、布団が、汗でびっしょりと濡れていた。
鏡を見ると、自分の顔が、別人のように青白かった。
それでも、昼になると、俺はまた、祠へ足が向いた。
まるで、何かに呼ばれているようだった。
それでも、お姉さんに会えないのは嫌だった。
だから、気分が悪くても、毎日あの祠へ通った。
祖母は、そんな俺をひどく心配した。
「あんた、最近どこで遊んどるの」
俺は、浜のお姉さんと遊んでいる、と答えた。
祖母の箸を持つ手が、ふと止まった。
※
「お姉さん、て、どこの子やろね」
祖母は、近所の人にそれとなく聞いてくれた。
「ああ、夏やから、桐谷さんとこの娘さんが帰っとるんやろ」
最初は、そう言われていた。
村にはよそ者など来ない。だから、誰も深くは気にしなかった。
ところが、俺の体調は、日に日に悪くなる一方だった。
見かねた祖母が、その桐谷さんの家に、電話をかけてくれた。
受話器を置いた祖母の顔が、みるみる強ばっていった。
「あんた、ほんとは誰と遊んどるの」
「桐谷さんの娘さんは、今年は帰ってきとらんて」
※
俺は、混乱した。
よく考えれば、俺はお姉さんの名前すら、知らなかった。
あれだけ毎日遊んでいたのに、だ。
姿かたちを伝えると、祖母はまた、慌てて電話をかけはじめた。
だが、村のどこに聞いても、そんな女はいないという。
この村に、知らない人間がいるはずがなかった。
みんなが顔見知りで、よそ者が来れば、すぐに分かる土地だ。
まして、住んでいる人間を知らないなど、ありえなかった。
祖母は、ひどく不気味そうな顔をしていた。
電話のあと、祖母は、近所の年寄りを家に呼んだ。
年寄りたちは、俺の話を聞くと、みな黙り込んだ。
ひとりが、ぽつりと言った。
「それは、浜の女子(おなご)やな」
「昔から、寂しい子を、連れていこうとするんや」
祖母が、俺をぎゅっと抱き寄せた。
その腕が、小刻みに震えていた。
年寄りたちは、その夜のうちに、家の戸口に塩を盛った。
そして、俺の枕元に、古いお守りを置いていった。
その日から、俺は、ひとりで浜へ行くことを禁じられた。
※
祖母が電話をかけた、あの日の夜のことだ。
俺は、高い熱を出して、布団から起き上がれなくなった。
うなされる俺の耳元で、誰かが囁いた気がした。
「いっしょに、おいで」と。
はっと目を開けると、枕元に、お姉さんが座っていた。
濡れた黒髪から、ぽたぽたと、水が滴っていた。
叫ぼうとしたが、声が出なかった。
次の瞬間、祖母が部屋に飛び込んできて、お姉さんの姿は消えた。
祖母は、その夜、一睡もせずに、俺の手を握っていてくれた。
※
その夜から、家の中でも、奇妙なことが続いた。
閉めたはずの障子が、朝になると、少し開いていた。
廊下の奥で、濡れた足音がした夜もあった。
祖母は、夜通し、お経のようなものを唱えていた。
俺は、布団の中で、ただ震えているしかなかった。
枕元のお守りを、両手で、強く握りしめていた。
海の音が、いつもより、近く聞こえる気がした。
まるで、波が、すぐそこまで来ているようだった。
※
それでも、体調は良くならなかった。
本当はお姉さんに会いたかった。
だが、これ以上、祖母に心配はかけられなかった。
ある昼さがり、俺は家の裏の畑で、ひとり貝殻を並べて遊んでいた。
すると、いつものように、お姉さんがふらりと現れた。
「坊や、こんにちは」
俺は嬉しくて、また一緒に遊んだ。
少し離れた縁側には、祖父も祖母もいた。
それなのに、二人とも、お姉さんにはまったく気づいていなかった。
そのことを、俺はなぜか、その場では不思議に思わなかった。
畑で遊んでいたとき、ふと、妙なことに気づいた。
お姉さんの足元に、影がなかった。
真夏の、強い日差しの下なのに、だ。
俺の影だけが、地面に黒く伸びていた。
そのことを、俺は、その場では声に出せなかった。
お姉さんは、いつもと同じ、やさしい笑顔だった。
だが、その笑顔の奥に、何か、底の知れないものを感じた。
※
その夜、俺はふと思い出して、祖母に聞いた。
「昼間、お姉ちゃんと一緒にいたのに、なんで知らんぷりしたの」
祖母の顔が、すうっと青ざめた。
「昼間、あんた一人で遊んどったろう?」
祖父も、声を震わせた。
「わしらは、ずっとお前を見とったぞ」
「お前は、ずうっと一人やった」
二人の顔が、見たことのないほど、強ばっていた。
祖父は、絞り出すように言った。
「悪いが、お前は父ちゃんのところへ帰れ」
「もう、この村におったらいかん」
その言葉を聞いたとき、俺は本気で、絶望した。
※
ここからは、大人になってから聞いた話だ。
この村には、ずっと昔、子どもの神隠しが続いた時期があったらしい。
友だちの少ない子ほど、攫われやすい、という言い伝えがあった。
そして、攫われる子は、いなくなる前に、決まって原因不明の体調不良に襲われた。
祖父は、友だちを作るための、ただの言い伝えだと思っていたという。
だが、俺の話を聞いて、何か、おかしなものを感じたらしい。
祖父は、近くの寺の住職を、家に呼んだ。
住職は、家じゅうを見て回り、難しい顔をした。
「この子は、だいぶ気に入られとるな」
「早う、ここから離したほうがええ」
その言葉を聞いて、祖母は、声を上げて泣いた。
住職は、俺の額に、何か文字を書いた。
指先が触れた瞬間、ひやりと冷たかった。
「もう、あの祠には、近づくでない」
俺は、こくりとうなずくしかなかった。
※
帰る日が決まってからの一週間、俺は家を一歩も出してもらえなかった。
閉じ込められた一週間は、長かった。
窓の外を見ると、ときどき、祠のほうに白い影が立っていた。
目をこらすと、それは、すっと消えた。
祖母は、決して窓に近づくな、と俺に言った。
昼でも、家の中は薄暗く、線香の匂いが満ちていた。
俺は、お姉さんに会いたい気持ちと、怖い気持ちのあいだで揺れていた。
あんなにやさしかった人が、なぜ怖がられるのか。
幼い俺には、どうしても、理解できなかった。
※
帰る当日の朝、俺は縁側で、うずくまって泣いていた。
すると、ひょっこりと、お姉さんが現れた。
おかしいとは思った。だが、不思議と、怖くはなかった。
「坊や、どうしたの」
もう帰らなくちゃいけない、と伝えると、お姉さんは寂しそうに笑った。
「そっか。でも、それでいいと思う」
「大丈夫。お姉さんは、遠くから応援してるから」
また会えるか、と聞くと、お姉さんは、静かに首を横に振った。
※
村を出るバスに乗り込むとき、俺はもう一度、海のほうを振り返った。
浜のはずれに、お姉さんが立っていた。
こちらに向かって、ゆっくりと、手を振っていた。
その姿は、夏の光の中で、半分透けているように見えた。
バスが走り出すと、その姿は、見えなくなった。
祖母は、最後まで、俺をきつく抱きしめていた。
「もう、二度と、ここには来たらいかんよ」
祖母の声は、涙で、かすれていた。
※
父のもとへ帰ってから、俺は不思議と、いじめにも遭わなくなった。
父は、俺がこの話をすると、いつも黙り込む。
母の故郷のことを、父も多くは知らないらしい。
ただ一度だけ、ぽつりとこう言った。
「お前の母さんも、子どもの頃、似たような話をしとった」
その言葉の意味を、俺はあえて、深く聞かなかった。
体調も、嘘のように良くなった。
そして、あれ以来、お姉さんとは、一度も会っていない。
大人になってから、一度だけ、あの村を地図で探したことがある。
だが、その漁村は、すでに廃村になっていた。
住んでいた人々は、みな、別の土地へ移ったらしい。
祖母も、もうこの世にはいない。
あの祠が、今もそこにあるのかどうか、確かめる術はない。
ただ、ときどき、夢に見る。
夏の浜辺で、お姉さんが、こちらに手を振っている夢を。
目が覚めると、決まって、枕が濡れている。
※
これが、俺の話の、すべてだ。
神隠しの言い伝えには、続きがあった。
攫われた子は、二度と村に戻らない。
だが、ごくまれに、戻ってくる子もいるという。
そういう子は、決まって、誰かに守られていた、と語ったそうだ。
祖父は、俺もそのひとりかもしれない、と言った。
お姉さんは、俺を攫おうとしていたのか。
それとも、攫われそうな俺を、守ろうとしていたのか。
その答えは、今も、海の底に沈んだままだ。
※
結局、あのお姉さんが何者だったのか、今も分からない。
幽霊だったのかもしれない。
神隠しの使者だったのかもしれない。
あるいは、その神隠しから、俺を守ってくれたのかもしれない。
それとも、ただの、優しい人だったのか。
思えば、お姉さんはいつも、俺がひとりでいるときにしか現れなかった。
祖父や祖母が近くにいると、決まって、姿を見せなかった。
あの畑の日だけが、例外だった。
だから二人は、あれほど怯えたのだろう。
守りが、効かなくなりかけていたのかもしれない。
あと少し遅ければ、俺は本当に、連れていかれていた。
今でも、そう思うと、背筋が冷たくなる。
今思うと、少し怖い。
あの夏のことを思い出すたび、胸の奥が、しんと静かになる。
怖さよりも、寂しさのほうが、今は強い。
お姉さんも、きっと、ひとりぼっちだったのだろう。
だが、あの頃の俺は、お姉さんを、怖いとは思わなかった。
十数年前に、俺が本当に体験した話だ。