不思議なお姉さん

小学三年生の、夏のことだ。

母が早くに亡くなり、俺は父ひとりに育てられていた。

内気な性格が災いして、学校ではずっといじめられていた。

とうとう教室に行けなくなった俺は、その夏、母方の祖母の家に預けられた。

そこは、海沿いの小さな漁村だった。

バスも一日に三本しか来ない、ひどく静かな土地だった。

過疎が進み、子どもの姿はほとんど見かけなかった。

それでも俺には、ひとりの時間が、むしろ心地よかった。

祖母の家は、築八十年は超える、古い平屋だった。

黒くすすけた梁が、低い天井を支えていた。

廊下を歩くたびに、床板が、きしきしと鳴った。

潮風のせいか、家じゅうが、いつも少し湿っていた。

奥には、開かずの仏間があった。

古い位牌が、薄暗がりの中で、じっと並んでいた。

夜になると、家の裏で、波の音が絶え間なく響いた。

その音は、まるで誰かが、ずっと囁いているようにも聞こえた。

磯の生臭い匂いが、布団にまで染みついていた。

はじめのうちは、その匂いが、なかなか寝つけない理由だった。

貝殻を拾うのが好きで、毎日のように磯に出かけた。

潮だまりを覗けば、小さなカニやヤドカリがいくらでもいた。

誰にも責められない場所が、ようやく見つかった気がしていた。

そんなある日、磯で、ひとりのお姉さんと知り合った。

二十代の半ばくらいだったと思う。

長い黒髪の、ひどく色の白い人だった。

声をかけてきたのは、向こうからだった。

「坊や、この村の子じゃないでしょう」

人見知りの俺は、うまく返事ができなかった。

お姉さんは、俺のバケツに目をやって、やさしく笑った。

「すごい。たくさん拾ったのね。見せてくれる?」

貝の話なら、いくらでも話せた。

俺は夢中で、ひとつひとつの名前を説明した。

お姉さんは、ずっと相槌を打ってくれた。

「へえ」「きれいね」と、何度も言ってくれた。

人にほめられたことなんて、ほとんどなかった。

だから、たまらなく嬉しかった。

その日から、俺はお姉さんと遊ぶようになった。

待ち合わせは、いつも浜のはずれの、古い祠の前だった。

その祠は、誰が祀っているのか、村の者も知らないという。

苔むした石の祠で、賽銭箱もなかった。

前には、首のない、小さな石仏が並んでいた。

はじめてそこを見たとき、なぜか背筋が、ひやりとした。

だが、お姉さんといると、その冷たさも忘れた。

祠の裏手には、海へと続く、細い石段があった。

お姉さんは、いつもその石段のほうから、現れた。

一緒に磯を歩き、潮だまりを覗き、流木を拾った。

お姉さんは、不思議と、自分のことはほとんど話さなかった。

家族のことを聞いても、いつもうまくはぐらかされた。

でも、俺の話だけは、何でも親身に聞いてくれた。

学校でいじめられていたこと。

母がいないこと。

祖母にも言えなかった弱音を、俺はお姉さんにだけ吐いた。

お姉さんは、そのたびに、静かに慰めてくれた。

「つらかったね。よく、がんばったね」

その言葉に、何度、救われたか分からない。

磯で過ごした日々を、俺は今でも、よく覚えている。

潮だまりに沈む夕日。

足の裏に伝わる、濡れた岩のひんやりとした感触。

波が引くときの、しゃらしゃらという小石の音。

お姉さんは、そのどれもを、俺と一緒に楽しんでくれた。

「坊やは、貝のことなら、何でも知ってるのね」

そう言って笑う声が、潮風に混じった。

その時間だけは、いじめのことも、母のことも、忘れられた。

だから俺は、あの夏を、憎みきれずにいる。

お姉さんが母さんだったらいいのに、と俺は言った。

するとお姉さんは、なぜか、ひどく悲しそうな顔をした。

お姉さんは、ときどき、奇妙なことを言った。

「坊やは、ひとりぼっちなのね」

「お姉さんも、ずっと、ひとりだったの」

その声は、波の音に溶けるように、静かだった。

「ねえ、坊や。お姉さんと、ずっと一緒にいたい?」

俺は、迷わずうなずいた。

するとお姉さんは、ほんの一瞬、泣きそうな顔をした。

「……でも、それは、いけないことなのよ」

その言葉の意味が、当時の俺には、まるで分からなかった。

お姉さんと出会って、しばらく経った頃だ。

俺は、少しずつ、体の調子が悪くなっていった。

はじめは、夏風邪だろうと思っていた。

だが、熱はないのに、体がだるくて仕方がない。

食欲も落ち、顔色も悪くなっていった。

夜になると、ひどい悪寒に襲われるようになった。

夢の中で、誰かに手を引かれ、暗い海へ連れていかれた。

波打ち際で、お姉さんが、こちらに手を振っていた。

その顔は、笑っているのに、目だけが、ひどく寂しそうだった。

目が覚めると、布団が、汗でびっしょりと濡れていた。

鏡を見ると、自分の顔が、別人のように青白かった。

それでも、昼になると、俺はまた、祠へ足が向いた。

まるで、何かに呼ばれているようだった。

それでも、お姉さんに会えないのは嫌だった。

だから、気分が悪くても、毎日あの祠へ通った。

祖母は、そんな俺をひどく心配した。

「あんた、最近どこで遊んどるの」

俺は、浜のお姉さんと遊んでいる、と答えた。

祖母の箸を持つ手が、ふと止まった。

「お姉さん、て、どこの子やろね」

祖母は、近所の人にそれとなく聞いてくれた。

「ああ、夏やから、桐谷さんとこの娘さんが帰っとるんやろ」

最初は、そう言われていた。

村にはよそ者など来ない。だから、誰も深くは気にしなかった。

ところが、俺の体調は、日に日に悪くなる一方だった。

見かねた祖母が、その桐谷さんの家に、電話をかけてくれた。

受話器を置いた祖母の顔が、みるみる強ばっていった。

「あんた、ほんとは誰と遊んどるの」

「桐谷さんの娘さんは、今年は帰ってきとらんて」

俺は、混乱した。

よく考えれば、俺はお姉さんの名前すら、知らなかった。

あれだけ毎日遊んでいたのに、だ。

姿かたちを伝えると、祖母はまた、慌てて電話をかけはじめた。

だが、村のどこに聞いても、そんな女はいないという。

この村に、知らない人間がいるはずがなかった。

みんなが顔見知りで、よそ者が来れば、すぐに分かる土地だ。

まして、住んでいる人間を知らないなど、ありえなかった。

祖母は、ひどく不気味そうな顔をしていた。

電話のあと、祖母は、近所の年寄りを家に呼んだ。

年寄りたちは、俺の話を聞くと、みな黙り込んだ。

ひとりが、ぽつりと言った。

「それは、浜の女子(おなご)やな」

「昔から、寂しい子を、連れていこうとするんや」

祖母が、俺をぎゅっと抱き寄せた。

その腕が、小刻みに震えていた。

年寄りたちは、その夜のうちに、家の戸口に塩を盛った。

そして、俺の枕元に、古いお守りを置いていった。

その日から、俺は、ひとりで浜へ行くことを禁じられた。

祖母が電話をかけた、あの日の夜のことだ。

俺は、高い熱を出して、布団から起き上がれなくなった。

うなされる俺の耳元で、誰かが囁いた気がした。

「いっしょに、おいで」と。

はっと目を開けると、枕元に、お姉さんが座っていた。

濡れた黒髪から、ぽたぽたと、水が滴っていた。

叫ぼうとしたが、声が出なかった。

次の瞬間、祖母が部屋に飛び込んできて、お姉さんの姿は消えた。

祖母は、その夜、一睡もせずに、俺の手を握っていてくれた。

その夜から、家の中でも、奇妙なことが続いた。

閉めたはずの障子が、朝になると、少し開いていた。

廊下の奥で、濡れた足音がした夜もあった。

祖母は、夜通し、お経のようなものを唱えていた。

俺は、布団の中で、ただ震えているしかなかった。

枕元のお守りを、両手で、強く握りしめていた。

海の音が、いつもより、近く聞こえる気がした。

まるで、波が、すぐそこまで来ているようだった。

それでも、体調は良くならなかった。

本当はお姉さんに会いたかった。

だが、これ以上、祖母に心配はかけられなかった。

ある昼さがり、俺は家の裏の畑で、ひとり貝殻を並べて遊んでいた。

すると、いつものように、お姉さんがふらりと現れた。

「坊や、こんにちは」

俺は嬉しくて、また一緒に遊んだ。

少し離れた縁側には、祖父も祖母もいた。

それなのに、二人とも、お姉さんにはまったく気づいていなかった。

そのことを、俺はなぜか、その場では不思議に思わなかった。

畑で遊んでいたとき、ふと、妙なことに気づいた。

お姉さんの足元に、影がなかった。

真夏の、強い日差しの下なのに、だ。

俺の影だけが、地面に黒く伸びていた。

そのことを、俺は、その場では声に出せなかった。

お姉さんは、いつもと同じ、やさしい笑顔だった。

だが、その笑顔の奥に、何か、底の知れないものを感じた。

その夜、俺はふと思い出して、祖母に聞いた。

「昼間、お姉ちゃんと一緒にいたのに、なんで知らんぷりしたの」

祖母の顔が、すうっと青ざめた。

「昼間、あんた一人で遊んどったろう?」

祖父も、声を震わせた。

「わしらは、ずっとお前を見とったぞ」

「お前は、ずうっと一人やった」

二人の顔が、見たことのないほど、強ばっていた。

祖父は、絞り出すように言った。

「悪いが、お前は父ちゃんのところへ帰れ」

「もう、この村におったらいかん」

その言葉を聞いたとき、俺は本気で、絶望した。

ここからは、大人になってから聞いた話だ。

この村には、ずっと昔、子どもの神隠しが続いた時期があったらしい。

友だちの少ない子ほど、攫われやすい、という言い伝えがあった。

そして、攫われる子は、いなくなる前に、決まって原因不明の体調不良に襲われた。

祖父は、友だちを作るための、ただの言い伝えだと思っていたという。

だが、俺の話を聞いて、何か、おかしなものを感じたらしい。

祖父は、近くの寺の住職を、家に呼んだ。

住職は、家じゅうを見て回り、難しい顔をした。

「この子は、だいぶ気に入られとるな」

「早う、ここから離したほうがええ」

その言葉を聞いて、祖母は、声を上げて泣いた。

住職は、俺の額に、何か文字を書いた。

指先が触れた瞬間、ひやりと冷たかった。

「もう、あの祠には、近づくでない」

俺は、こくりとうなずくしかなかった。

帰る日が決まってからの一週間、俺は家を一歩も出してもらえなかった。

閉じ込められた一週間は、長かった。

窓の外を見ると、ときどき、祠のほうに白い影が立っていた。

目をこらすと、それは、すっと消えた。

祖母は、決して窓に近づくな、と俺に言った。

昼でも、家の中は薄暗く、線香の匂いが満ちていた。

俺は、お姉さんに会いたい気持ちと、怖い気持ちのあいだで揺れていた。

あんなにやさしかった人が、なぜ怖がられるのか。

幼い俺には、どうしても、理解できなかった。

帰る当日の朝、俺は縁側で、うずくまって泣いていた。

すると、ひょっこりと、お姉さんが現れた。

おかしいとは思った。だが、不思議と、怖くはなかった。

「坊や、どうしたの」

もう帰らなくちゃいけない、と伝えると、お姉さんは寂しそうに笑った。

「そっか。でも、それでいいと思う」

「大丈夫。お姉さんは、遠くから応援してるから」

また会えるか、と聞くと、お姉さんは、静かに首を横に振った。

村を出るバスに乗り込むとき、俺はもう一度、海のほうを振り返った。

浜のはずれに、お姉さんが立っていた。

こちらに向かって、ゆっくりと、手を振っていた。

その姿は、夏の光の中で、半分透けているように見えた。

バスが走り出すと、その姿は、見えなくなった。

祖母は、最後まで、俺をきつく抱きしめていた。

「もう、二度と、ここには来たらいかんよ」

祖母の声は、涙で、かすれていた。

父のもとへ帰ってから、俺は不思議と、いじめにも遭わなくなった。

父は、俺がこの話をすると、いつも黙り込む。

母の故郷のことを、父も多くは知らないらしい。

ただ一度だけ、ぽつりとこう言った。

「お前の母さんも、子どもの頃、似たような話をしとった」

その言葉の意味を、俺はあえて、深く聞かなかった。

体調も、嘘のように良くなった。

そして、あれ以来、お姉さんとは、一度も会っていない。

大人になってから、一度だけ、あの村を地図で探したことがある。

だが、その漁村は、すでに廃村になっていた。

住んでいた人々は、みな、別の土地へ移ったらしい。

祖母も、もうこの世にはいない。

あの祠が、今もそこにあるのかどうか、確かめる術はない。

ただ、ときどき、夢に見る。

夏の浜辺で、お姉さんが、こちらに手を振っている夢を。

目が覚めると、決まって、枕が濡れている。

これが、俺の話の、すべてだ。

神隠しの言い伝えには、続きがあった。

攫われた子は、二度と村に戻らない。

だが、ごくまれに、戻ってくる子もいるという。

そういう子は、決まって、誰かに守られていた、と語ったそうだ。

祖父は、俺もそのひとりかもしれない、と言った。

お姉さんは、俺を攫おうとしていたのか。

それとも、攫われそうな俺を、守ろうとしていたのか。

その答えは、今も、海の底に沈んだままだ。

結局、あのお姉さんが何者だったのか、今も分からない。

幽霊だったのかもしれない。

神隠しの使者だったのかもしれない。

あるいは、その神隠しから、俺を守ってくれたのかもしれない。

それとも、ただの、優しい人だったのか。

思えば、お姉さんはいつも、俺がひとりでいるときにしか現れなかった。

祖父や祖母が近くにいると、決まって、姿を見せなかった。

あの畑の日だけが、例外だった。

だから二人は、あれほど怯えたのだろう。

守りが、効かなくなりかけていたのかもしれない。

あと少し遅ければ、俺は本当に、連れていかれていた。

今でも、そう思うと、背筋が冷たくなる。

今思うと、少し怖い。

あの夏のことを思い出すたび、胸の奥が、しんと静かになる。

怖さよりも、寂しさのほうが、今は強い。

お姉さんも、きっと、ひとりぼっちだったのだろう。

だが、あの頃の俺は、お姉さんを、怖いとは思わなかった。

十数年前に、俺が本当に体験した話だ。

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