夜のセミナーで回り続けたドアノブ

ドアノブ

これは、私が幼稚園の年長から小学校の低学年にかけて通っていた、夜のセミナーの話です。

いつ、どこで、誰が開いていたのか、今でも分かりません。

あの建物の名前は、今も、思い出せません。

母に尋ねても、はぐらかされるだけでした。

ただ、あの夜に見たものだけは、三十年たった今も、はっきり覚えています。

母は、あの夜について、一度も語らないまま、年を取りました。

私も、長いあいだ、夢だったのだと思うことにしていました。

夜のセミナーの記憶を、ここに書き残します。

夜のセミナーへの道

最初の夜のことは、よく覚えています。

秋の終わり、夜の十一時を過ぎた頃でした。

母が、枕元でそっと私の肩を揺すりました。

「起きて。着替えるよ」

眠くて、目が開きませんでした。

母は、何も説明せずに、私の腕を袖に通しました。

靴下は、いつもより厚いものでした。

玄関を出ると、冷たい空気が、鼻の奥に刺さりました。

停めてあった車の後部座席に、毛布ごと乗せられました。

車は、見たこともない暗い裏道を走りました。

街灯がほとんどなく、窓の外は、田んぼと、黒い山の影ばかりでした。

「どこへ行くの」

小声で訊くと、母は、ミラー越しに私を見ました。

「セミナーに行くのよ」

そう、ささやきました。

窓の外で、カエルの声が、止んだり、また鳴いたりしていました。

セミナーという言葉の意味は、そのときの私には、分かりませんでした。

ただ、母の声が、いつもより少し低くて、少し嬉しそうだったのを覚えています。

三十分ほど走って、車は止まりました。

車のなかでは、母は、一度も、音楽をかけませんでした。

ラジオのつまみに手を伸ばして、引っ込めました。

後部座席の窓から、遠くの山道に、ほかの車のライトが、点々と連なっているのが見えました。

古い、四角い建物でした。

昔は、織物の会館か何かだったのでしょう。

玄関の脇に、薄ぼんやりとしたランプが置かれていました。

黄色い光が、ガラス戸に映っていました。

駐車場には、すでに、十台ほどの車が停まっていました。

どの運転席も、暗いままでした。

建物の中には、明かりが一つもありませんでした。

幼い私は、何となく、怖いと思いました。

けれど、母が手を引いてくれていたので、泣きませんでした。

夜の道は、いつもより長く感じられ、街灯の下を通るたびに、私と母の影が、ゆっくりと入れ替わりました。

幼い私は、その影の形を、ひとつずつ、数えながら歩いていました。

家に着くころには、いつも眠くて、母の背中で、半分夢の中にいたように思います。

翌朝、目を覚ますと、昨夜のことは、いつも少しだけ、ぼやけていました。

母に聞いても、「ちゃんと勉強してきたでしょう」と、笑うだけでした。

私は、それ以上、尋ねませんでした。

尋ねてはいけないような気が、子供ながらに、していたのです。

玄関を入ると、受付のような机がありました。

白い服を着た女の人が、座っていました。

顔は、よく覚えていません。

覚えているのは、声が、とても小さかったことと、いつも、同じ向きに首を傾けていたことです。

「お預かりします」

そう言って、女の人は、私の手を、母の手から受け取りました。

母は、少しだけ、頭を下げました。

そして、振り返らずに、玄関を出ていきました。

母の靴音が、砂利の上を遠ざかっていくのを、私は、聞こえなくなるまで、数えていました。

いち、に、さん。

十を過ぎたところで、数え間違えて、やめました。

暗室の映像と銀はがし

私は、その建物で、いろいろと奇妙な体験をすることになります。

親と別れたあと、まず最初に、暗い部屋へ連れていかれました。

窓にはすべて黒い布がかかっていて、部屋の奥に、白い壁がありました。

私のほかに、数人の子供がいました。

みんな、床に敷かれた座布団に、行儀よく座っていました。

私の隣には、赤いリボンの女の子が座っていました。

ほかの子が「みくちゃん」と、小さく呼んでいました。

みくちゃんは、いつも、膝の上で手を重ね、まばたきを少なくして、映像を見ていました。

やがて、壁に映像が映りはじめました。

目が一つしかない女の人の顔が、画面の端から端へ、ゆっくり飛び交っていました。

次は、ひたすらうねり続ける、青い画面でした。

その次は、動物の顔をした人間が、背広姿で、歩いていく映像でした。

今から思えば、手作りの、不気味な映像だったと思います。

けれど、私も、ほかの子供も、怖がることも、騒ぐこともなく、じっと見ていました。

不思議と、眠くはなりませんでした。

目だけが、冴えていました。

映像が終わると、別の部屋に移されました。

そこには、小さな机がいくつも並んでいました。

銀色のシールを爪ではがして、下から現れる絵を探す遊びがありました。

点々だけが描かれた画用紙を、湿らせた筆でなぞると、色が現れる塗り絵もありました。

私が剥がした銀色の下には、毎回、同じ模様がありました。

丸のなかに、点が三つ。

先生は、それを見て、「上手ね」と言いました。

筆でなぞって浮かび上がる絵は、いつも、窓の絵でした。

窓の向こうに、細い影が立っている絵でした。

先生たちは、静かに、私たちの後ろを歩き回っていました。

ときどき、小さな声で、数を数えていました。

「ひとり、ふたり、さんにん……」

数え終わると、必ず、小さくうなずきました。

それが終わると、親が、部屋まで迎えに来て、家に帰りました。

結局、私は、ある出来事のあった日まで、一年ほど、そこへ通いました。

深夜に車で出かけるのは、楽しくもありました。

帰りには、コンビニに寄ってもらい、小さなチョコレートの箱を買ってもらえたからです。

母は、会計を済ませるとき、いつも、レジの店員の顔を見ませんでした。

私は、チョコレートの箱を握りしめて、車の後部座席で眠りました。

毎週、同じ夜でした。

土曜日の、夜の十一時。

私は、それを、特別な習いごとのように感じて、結構喜んで通っていたのだと思います。

いつの頃からか、赤いリボンの女の子は、隣に座らなくなりました。

先生に尋ねると、「お休みですよ」と、顔も見ずに答えました。

それから、座布団は、ずっと一枚、余ったままでした。

一つだけ、気になったことがあります。

先生たちが数を数える声が、いつも、一つだけ、足りなかったのです。

子供は、毎回、同じ人数に見えたのに。

「ひとり、ふたり、さんにん、よにん、ごにん」

そこで、声は止まり、小さな咳払いが、続きました。

私は、その咳払いの意味を、考えないようにしていました。

その日は、いつものように、セミナーに行きました。

暗室で映像を見ていた途中で、無性に、トイレに行きたくなりました。

先生に言うと、「廊下の突き当たりですよ」と、顔も見ずに教えてくれました。

ところが、いつも使っているトイレには、「使用中止」の札がかかっていました。

私は、困りました。

仕方なく、上の階のトイレへ行くことにしました。

立入禁止の札をくぐる

階段を上がり、初めて来る階で、無事に用を足しました。

歩くと、床板が、一歩ごとに、小さく鳴りました。

私の足音の少し後ろで、もう一つ、軽い足音が、ついてくるようでした。

けれど、廊下に出たとき、どちらから来たのか、分からなくなっていました。

どこも同じような、暗い廊下でした。

『まあ、誰か大人の人に聞けばいいや』

そう思って、適当に歩いていくと、踊り場に出ました。

四階へ続く階段には、進入禁止の札が掛かっていました。

二階へ下りる階段を行けば、きっと元の部屋に帰れたのでしょう。

それなのに、その夜の私は、なぜか、上の階が気になって仕方がありませんでした。

少しワクワクしながら、札をくぐりました。

四階には、廊下の突き当たりに、古びたシャッターがあるだけで、何もありませんでした。

『なあんだ、つまらない』

そう思って帰ろうとしたとき、シャッターの脇に、もう一つ階段があるのを見つけました。

その階段にも、立入禁止の札が掛かっていて、明かりも点いていませんでした。

私は、また札をくぐって、昇りました。

五階も、やはり明かりが一つもなく、薄暗い廊下でした。

けれど、四階の廊下と違って、まっすぐではありませんでした。

左右に、ドアが、びっしりと並んでいました。

どのドアにも、鍵が掛かっていました。

ドアの横には、小さな真鍮の札が、ひとつずつ付いていました。

そこには、番号ではなく、ひらがなが、彫ってありました。

「みく」「たかし」「ゆきな」「けんと」。

子供の名前のようでした。

何となく、心細くなりました。

けれど、『とにかく突き当たりまで行ってみよう』と思い、先へ進みました。

廊下は、歩いても歩いても、なかなか突き当たりに着きませんでした。

『もう帰ろうかな』と思い始めた頃に、やっと行き当たりに着きました。

突き当たりには、ドアが一つあり、鍵が掛かっておらず、半開きになっていました。

隙間から、明かりが漏れていました。

『きっと、誰か大人の人がいるな。元いた所まで、送ってもらおう!』

そう思って、私は、半開きのドアから、中を覗きました。

中では、男の人が数人、テーブルを囲んで、何か真剣に話し合っていました。

照明は、テーブルの上のライトが一つだけで、顔はよく分かりませんでした。

声をかけるのが、何だか、ためらわれました。

しばらく、そのまま覗いていました。

やっと意を決して、話しかけようとしたとき、

「何してるんだ!」

話し合っていた男の一人が、不意にこちらを見て、叫びました。

私は、驚いて、何も言えずに立ちすくんでいました。

男は、立ち上がり、ガバッとドアを開けました。

そして、子供の私を見ると、ほっとしたように、表情を緩めました。

「どうした、迷子か」

「……トイレに行ったら、帰れなくなって、大人の人を探してて」

私が、そう答えると、男は、ほかの人に言いました。

「ちょっと、この子を下に送ってくる」

そして、ドアを閉めました。

男は、結構若かったと思います。

多分、おじさんではなかったはずです。

男と二人で、薄暗い廊下を歩いていくと、自動販売機が、何台もずらりと並んでいる場所に出ました。

「ジュース、飲むか」

男が、聞きました。

「飲む」

私が答えると、男は、小銭を渡してくれました。

「好きなのを買え」

自動販売機で売られているジュースは、どこでも見かけたことのないものばかりでした。

不思議に思いながら、適当に選んで、買いました。

そのとき、私は、思いました。

『見たことのないジュースばっかりだ。せっかくだから、ほかのも見よう』

回り続けたドアノブ

自動販売機の列を、ずっと奥まで進んでいくと、突き当たりに、ドアがありました。

そのドアの横にも、小さな真鍮の札が付いていました。

私は、何気なく、その札を読みました。

そこには、ひらがなで、私の名前が、彫ってありました。

私は、まばたきをしました。

もう一度、読みました。

私の名前でした。

どうして、私の名前が、ここにあるのだろう。

考える前に、手が、ドアノブに伸びていました。

その途端、

「ガチャガチャガチャッ」

ドアノブが、激しく回り始めました。

びっくりして、手を引っ込めました。

音に気づいた男が、すごい勢いで駆け寄ってきました。

「開けるな!」

そのまま男は、私の手をぐいぐい引っ張って、薄暗い廊下を歩いていきました。

背後では、まだドアノブが、ガチャガチャと回り続けていました。

自動販売機から、だいぶ離れたところで、男は、ようやく手を離しました。

そこは、さっき通った、ドアがたくさん並んでいる場所でした。

『もう少しで階段だ……』

ほっとしました。

けれど、次の瞬間、

「ガチャガチャガチャッ」

後ろのドアノブが、すごい勢いで回り始めました。

それに共鳴するように、右のドアノブも、左のドアノブも、

「ガチャガチャガチャッ」

と、回り始めました。

男は、また、ぐいぐいと私の手を引き始めました。

小声で、

「どうしたの?」

と聞くと、男は、

「うるさい! なんでもない!」

と怒鳴りました。

けれど、ドアノブの回る音は、ますます大きくなっていきました。

右のドアも、左のドアも、後ろのドアも、

「ガチャガチャガチャガチャ……」

と音を立てて、回り続けました。

私は、振り返りませんでした。

振り返ったら、札に彫られたひらがなが、全部、読めてしまう気がしたからです。

夜のセミナーの廊下は、どこまでも、同じ形で、続いているように見えました。

その日は、いつもよりずっと早く、帰されました。

母は、玄関の前で待っていました。

私の顔を見た母は、何も尋ねず、ただ、強く抱きしめました。

その日以来、二度と、そのセミナーに行くことはありませんでした。

母も、二度と、連れていこうとはしませんでした。

それから、三十年が過ぎました。

実家に帰ったとき、台所で、母に尋ねました。

「ねえ、あの夜のセミナーって、覚えてる?」

母は、洗い物をしていた手を、止めました。

「札があったんだ。ドアの横に、子供の名前の札が」

水が、出しっぱなしでした。

長い沈黙のあと、母は、蛇口を閉めました。

背中を向けたまま、言いました。

「あの札は、私が書いたの」

窓の外を、遠くのトラックが、ゆっくり通り過ぎていきました。

それ以上、母は、何も話してくれませんでした。

その夜、私は、実家の布団で、天井を見つめていました。

『お守り袋の米粒に字が彫ってあったという話』や、『指さし表の端の空欄だけが黒く汚れていたという話』のように、誰かの名前が、思いがけない場所に刻まれている話を、スマートフォンで探しました。

どれも、読み終えて、画面を閉じたとき、少しだけ、背中が冷たくなりました。

私も、尋ねませんでした。

ただ、あの突き当たりのドアの向こうに、私の名前の札を、誰が、どうして用意していたのか。

それだけは、今も、考えないようにしています。

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