
先月、近所の川で布の人形を釣り上げた。
そのときから、俺は三十年前の夏のことばかり考えている。
俺は東京で働いて、家庭を持っていた。
二年前、ちょっとキツイ病気になった。
入退院を繰り返したあげく、会社をクビになった。
それだけが理由じゃない。あれこれ重なって、女房とも離婚した。
娘が二人いる。
生活能力のない俺に代わって、女房が育てている。
申し訳ないと思っている。養育費も、今は払えていない。
病気がなんとか小康を得て、俺は郷里に帰ってきた。
療養と言えば聞こえはいい。
実際は、年老いた両親のもとへ一文無しで転がり込んだ、やっかい者だ。
近所の目も、親戚の評判も、良いはずがない。
パチンコに行く金すらない。
だから暇な時間は、釣りをして過ごすことにした。
竿は、中学のとき使ったファイバーのやつだ。
仕掛けも押し入れに残っていた。
近所の川で、毎日、鮒を狙った。
家にいると、息が詰まった。
おふくろは何も言わず、三度の飯だけは出してくれる。
親父は、顔を合わせても新聞から目を上げない。
夕飯の箸の音だけが、茶の間に響いた。
「少しは、食べて太れ」
ある晩、親父がぽつりとそう言った。
俺は、はい、と答えるのが精一杯だった。
川の土手は、そんな家から抜け出せる、唯一の場所だった。
水面に浮きを浮かべていると、何も考えずに済んだ。
布の人形が釣れた日
その日は、朝から妙に静かな川だった。
いつもなら聞こえる、トラックの音も、子どもの声もしない。
水面には、鱗のような雲が映っていた。
浮きは、ぴくりとも動かない。
俺は缶コーヒーを開けて、ぬるくなるまで、ただ水を見ていた。
背後の葦が、ひとりでに揺れたような気がして、何度か振り返った。
その日は朝から釣りをしていた。
仕掛けを鯉用に変えていたせいか、釣果はゼロだった。
日が暮れたので、帰ろうと竿を上げた。
針に、何かが引っ掛かっている。
重い。水草にしては、ぬるりとした重さがない。
手元に寄せると、ぐしょ濡れの人形だった。
十五センチばかりの、女の子の人形。
プラスチックじゃない。中に綿を詰めた布製だ。
髪は毛糸でできていて、泥を吸って黒ずんでいる。
毛糸の髪が、一本だけ長くほつれていた。
俺は、それを見て「あっ」と声を上げた。
三十年も前の記憶が、一気に押し寄せてきた。
川の音が遠くなり、自分の息だけが耳に響いた。
夕暮れの土手に、水の匂いと、腐った葦の匂いが立ちのぼっていた。
玄関の前で待つ子
俺が幼稚園の頃の話だ。
近所に、ミキちゃんという一つ下の女の子がいた。
俺の家から百メートルほど離れた、通りの向かいに住んでいた。
バラックに近いような、ぼろぼろの家だった。
今はスーパーの駐車場になっていて、跡形もない。
ミキちゃんは片親で、酒に溺れた父親と二人で暮らしていた。
服は汚れて、髪もぼさぼさだった。
遊び道具なんて、ほとんど持っていなかった。
家ではろくに構ってもらえなかったのだろう。
幼稚園にも保育園にも、通っていなかった。
だから俺が帰ってくる時間になると、うちの前でずっと待っていた。
「お兄ちゃん、遊ぼ」
俺の姿を見つけると、そう言って駆け寄ってくる。
そのたびに脇に抱えていたのが、布の人形だった。
色の褪せたワンピース。毛糸の髪。
毛糸の髪が、一本だけ長くほつれていた。
「この子ね、ミキと一緒なんだよ」
彼女はそう言って、よく人形の頭を撫でていた。
俺が小学校に上がると、ミキちゃんとはほとんど遊ばなくなった。
新しい友達に、からかわれるのが嫌だったのだ。
家の前でミキちゃんが待っていても、俺は横を向いて家に入った。
その頃のミキちゃんは、ボロ布のような格好をしていた。
父親が酒場のあちこちで迷惑をかけるせいで、うちの両親も、あまりいい顔をしなかった。
一度だけ、ミキちゃんが人形を俺に抱かせてくれたことがある。
「お兄ちゃんにも、貸してあげる」
そう言って、両手で大事そうに差し出した。
その人形は、日向のにおいと、少しの湯気のにおいがした。
「この子ね、お兄ちゃんが好きなんだって」
俺は照れくさくて、すぐに返した。
返した瞬間の、ミキちゃんの嬉しそうな顔を、俺はなぜか忘れていた。
土手の草むら
ある日、河川敷で友達と野球をして遊んでいた。
ミキちゃんが、ふらりと近づいてきた。
そして人形を草むらに置いて、膝を抱えて、俺たちを見はじめた。
友達の視線が、俺に刺さる。
「帰れ!」
俺は、怒鳴った。
それでも、ミキちゃんは動かなかった。
聞こえないふりをして、にこにこ笑ってこちらを見ている。
腹の底から、どうしようもない苛立ちが湧いてきた。
俺はミキちゃんのほうへ走った。
草の上の人形をつかんで、川に向かって投げた。
人形は土手の下の草に落ちた。
川まで届いたのか、見えなかった。
ミキちゃんは、はっと息をのんだ。
それから、ものすごく悲しそうな顔をして、とぼとぼと帰っていった。
振り返りもしなかった。
人形を投げた俺の手のひらは、あとで、なぜか熱を持っていた。
洗っても洗っても、毛糸のざらざらした感触が、指に残った。
夜、布団の中で、何度も手を握ったり開いたりした。
謝ろうと思えば、謝れたのだ。
翌日、ミキちゃんは玄関の前に来なかった。
その次の日も、来なかった。
俺は、ほっとしたような顔をして、学校へ行った。
その一か月後、ミキちゃんは帰らぬ人になった。
酒に酔った父親の怒りを受けて、ある晩、戻らなかったと聞いた。
俺は葬式にも行かなかった。
子どもだった俺は、何も考えず、ただ怖くなって、あの日のことを忘れた。
川辺で人形を見つめたまま、俺は動けなかった。
でも、ありえない。
三十年以上前の布の人形が、こんな形で残っているはずがない。
よく似た別の物だ。そう思い込もうとした。
もう一度よく見ようと、顔を近づけたときだった。
「お兄ちゃん、遊ぼ」
耳もとで、はっきりと声が聞こえた。
振り返っても、誰もいない。
風も止んでいた。
冷たい水を浴びせられたように、背中がぞくぞくした。
俺は人形を、川に投げ返した。
水を吸って重くなっていたのか、人形は石のように沈んで、すぐに見えなくなった。
逃げるように、その場を離れた。
家に着いても、手の震えが止まらなかった。
夕飯の席で、両親に何も言えなかった。
布団に入ってから、あれこれ考えた。
考えているうちに、ものすごく切ない気持ちになった。
遊びたかっただけの子を、俺は川に投げた。
その子が、三十年かけて、俺の針に掛かったのだ。
そんな言い方は、おかしいのかもしれない。
でも、他に言いようがなかった。
翌朝、おふくろに頼んで、ミキちゃんの墓の場所を聞いた。
「あんた、急にどうしたん」
「ちょっと、思い出したことがあって」
おふくろはそれ以上、聞かなかった。
苔むした自然石
おふくろは、墓の場所を地図に描いてくれた。
線の引き方が、昔のままだった。
「あの子の家はね、あんたに優しかったんよ」
「うちの前で待っとるのを、お母さんが何度も見とったから」
「見とったのに、何もしてやれんかった」
おふくろはそう言って、エプロンの端を握った。
俺は、礼も言えず、玄関を出た。
墓は、本家筋の墓の脇にあった。
小さな自然石が、ひとつ置かれているだけだった。
父親は警察に捕まっている。
墓があるだけでも、ましなのかもしれない。
そう考えながら、俺は手を合わせた。
そのとき、ふっと陽が陰った。
さっきまで鳴いていたセミの声が、ぴたりと止まった。
苔むした自然石の陰から、黒い小さな影が立ち上がった。
「お兄ちゃんがんばれ」
小さな声が、そう言った。
いや、小さな声が聞こえたような気がしただけだ。
黒い影を見たような気がしただけだ。
すべては幻覚だったのだと思う。
気づくと、セミの声が戻っていた。
本家の墓石の影が、苔むした自然石に長く伸びていた。
蝉の声が、耳の奥でじりじりと鳴っていた。
汗が背中を伝っても、なぜか寒気がしていた。
墓のまわりには、雑草が膝まで伸びていた。
俺は素手で、一本ずつ引き抜いた。
おふくろに借りた線香が、風のない境内で、まっすぐ煙を上げた。
その細い煙の向こうで、墓の前に置かれた欠けた茶碗が、一瞬だけ光った。
誰が供えたのかは分からない。
帰り道、女房に預けてある二人の娘のことを考えた。
がんばらなきゃいけない。
そう思った。
似たような「見えないもの」の話は、他にも読んだことがある。
お葬式や、二月十一日の予言とイヤリングのように、説明のつかない出来事が、人の人生に静かに入り込む話だ。
俺の場合は、怖いというより、ひどく切なかった。
布の人形はもう川底だが、せめて新しい人形を連れていきたい。
これから、ミキちゃんの墓には、大きな人形を買って供えようと思っている。
まあ、これだけの話だ。文章が下手くそでスマン。