着物の少女と山道の約束

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子どもの頃、毎年の夏を、祖母の家で過ごしていた。

あの町の山道で、俺は、着物の少女と、三年間、遊んだ。

彼女は、最後まで、自分の名前を、俺にしか教えなかった。

そして今、俺は、その名前を、思い出せない。

けれど、たまに見る夢の中で、彼女は、いつも、お手玉を投げている。

これは、小学校に上がる前の夏に始まった、小さくて、不思議な記憶の話だ。

祖母の家と山の入口

毎年、夏になると、両親に連れられて、祖母の家へ行った。

祖母の家のある町は、今でこそ、都心へ通う人たちのベッドタウンだ。

けれど、二十年ほど前は、まるで違った。

隣の家まで、数十メートル離れているのが、普通だった。

見渡せば、田んぼと、畑と、雑木林ばかり。

夜は、蛙の声が、窓ガラスを震わせるほど、響いていた。

同じ年頃の子は、ほとんど、いなかった。

だから俺は、祖母の家へ着くと、いつも、一人で外へ飛び出した。

畦道を走り、用水路の小魚を追い、雑木林でカブトムシを探した。

それなりに、楽しかった。

祖母の家の台所には、いつも、煮物の甘い匂いが、漂っていた。

夕飯の前に、井戸水で冷やしたトマトを、丸かじりするのが好きだった。

風呂は、薪で焚く五右衛門風呂で、底板を沈めるのに、いつも苦労した。

そんな夏の日々を、俺は、本当に、気に入っていた。

けれど、同じことを繰り返せば、いつか、飽きがくる。

祖母は、麦茶を冷やして、縁側で団扇を使いながら、よく言った。

「健ちゃん、日が暮れる前に、帰っておいでね」

「うん」

「それから、山のほうには、行っちゃいけんよ」

「どうして?」

「あそこは、危ないけえね。道も悪いし、迷うといけん」

父も母も、同じことを言った。

理由を聞いても、「危ないから」としか、返ってこなかった。

子どもというのは、禁じられると、かえって気になる生き物だ。

小学校に上がる前の夏。

その日の俺は、ひどく、退屈していた。

セミの声が、頭の中まで、じりじりと入り込んでくる午後だった。

俺は、麦わら帽子をかぶって、玄関を、そっと抜け出した。

行き先は、決めていた。

山の方だ。

畑を二つ越えて、細い農道を抜けると、杉林の入口に出た。

そこから先は、道が、急に、細くなっていた。

入口には、苔に覆われた、小さな石が、一つだけ置かれていた。

何の石なのか、分からなかった。

あとから思えば、あれは、道しるべのようなものだったのかもしれない。

けれど、その前を通るとき、俺は、なぜか、軽く頭を下げていた。

祖母が仏壇の前でするのを、真似たのだと思う。

着物の少女と遊んだ夏

杉林の中は、ひんやりしていた。

真夏なのに、土の匂いが、冷たかった。

木漏れ日が、まだらに、足元へ落ちていた。

薄暗くて、少しだけ、怖かった。

遠くで、蜩の声が、一匹だけ、鳴いていた。

自分の足音が、やけに、大きく聞こえた。

それでも、俺は、歩き続けた。

もう少し、もう少しだけ、奥まで。

そう思った、そのときだった。

「一人で行っちゃだめだよ」

声が、した。

いつから、そこに居たのか、分からなかった。

少し進んだ山道の脇に、一人の女の子が、立っていた。

俺と、同じくらいの背丈だった。

髪は、肩のあたりまで、適当に伸ばしてあった。

そして、着物を着ていた。

夏祭りでもないのに、変わった子だな、と思った。

これが、着物の少女との、最初の出会いだった。

「なんで、駄目なの?」

「危ないからだよ。山の中は、一人で行っちゃ駄目。帰らなきゃ」

「嫌だよ。せっかく、ここまで来たんだもん。戻っても、つまらないし」

俺は、少女の脇を、通り抜けようとした。

その瞬間、手首を、つかまれた。

少女の手は、妙に、冷たかった。

真夏の、昼間なのに。

「……なら、私が、遊んであげるから。ね? 山に行っちゃ、駄目」

少女は、困ったように、でも、真剣に、俺の目を見ていた。

「えー……。うん。わかった」

正直に言えば、一人遊びに飽きて、山へ来たのだ。

遊んでくれるのなら、無理に奥へ行く必要は、なかった。

その日から、俺と少女は、毎日、遊んだ。

出会った山道のあたりが、いつもの場所だった。

鬼ごっこと、木登りが、ほとんどだった。

少女は、驚くほど、足が速かった。

着物の裾を、ひらひらさせながら、どんな木にも、するすると登った。

いつの間にか、少女は、俺を、健ちゃんと呼んでいた。

俺は、一度も、自分の名前を、教えていないのに。

けれど、子どもの俺は、そんなことを、気にしなかった。

ときどき、少女は、お手玉や、まりを、持ってきた。

「健ちゃん、やってみる?」

最初のうちは、俺は、一つも、続けられなかった。

少女は、笑って、手を重ねて、投げ方を教えてくれた。

その手は、やっぱり、冷たかった。

けれど、その冷たさが、いつの間にか、心地よくなっていた。

少女は、ときどき、空を見上げて、雲の形を、教えてくれた。

「あれは、うさぎ。あっちは、お舟」

俺が、「違うよ、犬だよ」と言い返すと、少女は、声を立てて笑った。

笑うと、肩が、小さく揺れた。

少女は、小川のほとりへも、連れて行ってくれた。

水に足を浸すと、ひやりとして、くすぐったかった。

二人で、桑の実を摘んで、口の周りを、紫色にして笑った。

少女は、いつも、俺より少し後ろを、歩いていた。

足跡が、土に残っていないことには、そのころの俺は、気づかなかった。

夕方になると、少女は、必ず言った。

日が傾くと、少女の輪郭が、少しずつ、薄くなる気がした。

けれど、それも、夕日のせいだと、思っていた。

「もう、帰る時間だよ」

俺が、山道を下りて、ふと振り返ると、そこには、もう、誰も居なかった。

名前を教えてくれた日

ある日の夕食のとき、祖母が、聞いた。

「健ちゃん、最近、何して遊んでんだ?」

「山の近くで、女の子と、遊んでる」

「女の子? どこの子だ?」

「わかんない。着物着てるよ。かわいいよ」

祖母と母が、顔を見合わせた。

「どこの子だろうなあ。名前は、なんて言うんだ?」

「……教えてくれない」

実際、少女は、一度も、名前を教えてくれなかった。

祖母も、両親も、村のどこかの家の子だろう、と言った。

「あの辺りには、子どものいる家は、なかったはずだけどねえ」

祖母は、首を傾げた。

けれど、それ以上は、誰も、何も言わなかった。

その夜、祖母は、仏壇の前で、長いこと、手を合わせていた。

どうして、そんなことをするのか、俺には、分からなかった。

ただ、線香の匂いが、いつもより、濃かった気がする。

お盆が過ぎた。

帰る前の日、いつもの山道で、俺は、言った。

「僕、明日、帰るんだ」

「……そうなんだ」

少女は、うつむいた。

「あのさ。名前、教えてよ。どこに住んでるの?」

「それは……」

「また、冬に、おばあちゃんちに来たら、遊びに行くから」

少女は、困ったような、何とも言えない顔をした。

何度も、何度も、俺は、頼んだ。

やがて、少女は、俺の耳元に、顔を寄せた。

そして、小さな声で、自分の名前を、教えてくれた。

「でも、約束して。絶対に、誰にも、私の名前は、言わないでね」

「わかった」

「遊びたくなったら、ここに来て、名前を呼んでくれればいいから」

少女は、そう言って、初めて、にっこりと笑った。

その笑顔を、俺は、今も、はっきりと思い出せる。

頬に、小さなえくぼが、できていた。

年末、祖母の家へ行った日。

俺は、やはり、山へ向かった。

雪はなかったが、霜柱が、足の下で、さくさくと鳴った。

山道の入口で、教えてもらった名前を、小さく呼んだ。

すると、本当に、少女は、現れた。

冬だというのに、夏と同じ、薄い着物姿だった。

見ている俺のほうが、寒かった。

けれど、少女は、少しも、気にしていなかった。

二人で、枯れ葉を集めて、焚き火のまねごとをして遊んだ。

少女は、火の近くへは、決して、寄ろうとしなかった。

「熱いのは、苦手なの」と、少し、恥ずかしそうに言った。

「寒くないの?」

「寒くないよ。慣れてるから」

俺は、マフラーを、少女の首に、巻こうとした。

少女は、驚いた顔をして、それから、そっと、首を横に振った。

「ありがとう。でも、いいの」

「どこに住んでるの?」

「今度、僕のおばあちゃんちに、遊びに来ない?」

何度、そう聞いても、少女は、首を横に振るだけだった。

熱の五日間と消えた山

そんなふうに、俺は、祖母の家へ行くたびに、少女と遊んだ。

それが、楽しみで、春も、夏も、冬も、祖母の家に長く居るようになった。

両親は、「健は、すっかり田舎が好きになったな」と、笑っていた。

少女と遊び始めて、三年目の夏。

俺は、小学二年生になっていた。

いつものように、山道へ行くと、少女が、突然、言った。

「多分、もう、遊べなくなる……」

「何で?」

「ここに、居なくなるから」

「えー、やだよ」

引っ越しか何かで、居なくなるのかな、と思った。

俺が嫌がったところで、どうにもならないことは、さすがに分かっていた。

それでも、ごねずには、居られなかった。

「どこに、行っちゃうの?」

「わからない。でも、明日からは、来ないでね。……もう、さよなら」

あまりに、いきなりの別れだった。

俺は、喚いて、女の子の前なのに、泣き出してしまった。

少女は、俺をなだめるために、いろいろな話をした。

俺は、ただ、また遊びたい、さよならは嫌だ、と言い続けた。

そのうち、少女の頬を、つーっと、涙が伝った。

夕焼けが、杉の幹を、赤く染めていた。

蜩の声が、いつもより、ずっと近くで、響いていた。

「……ありがとう。私、嬉しいよ。でも、今日は、もう帰ってね。暗いし、危ないからね」

「嫌だ。帰ったら、もう、会えないんでしょ?」

「……そうだね……。あなたと一緒も、いいのかもね」

「え?」

「大丈夫。多分、また会えるよ」

俺は、諭されて、家路についた。

途中、何度も、振り向いた。

夕暮れの山道に、着物の少女は、ずっと立って、こちらを見ているようだった。

その夜、祖母の家へ帰ると、疲れて、すぐ眠ってしまった。

そして俺は、その夜から、五日間、高熱に苦しむことになった。

一時は、四十度を超える熱が、続いたという。

隣の町の病院へ運ばれて、入院した。

それでも、熱は、なかなか下がらなかったらしい。

五日間のことは、ほとんど、覚えていない。

ただ、断片だけが、今も、頭に残っている。

熱にうなされる額に、冷たい手が、そっと、置かれていた。

その手は、ずっと、離れなかった。

「大丈夫。大丈夫だよ」

誰かが、耳元で、そう繰り返していた。

目を開けると、いつも、母の顔があった。

けれど、母の手は、あんなに、冷たくなかった。

五日目の朝、熱は、あっさり、平熱に戻っていた。

医者は、首を傾げながら、「よく、持ち直しましたね」と、言った。

母は、病室の隅で、何度も、頭を下げていた。

父は、廊下で、祖母と、低い声で話していた。

「あの子が、山へ行っていたことは、本当か」

そんな言葉が、扉の隙間から、かすかに聞こえた。

退院して、祖母の家へ戻ると、驚くことが、待っていた。

俺が、少女と遊んでいた、山の麓。

木は切られ、山は削られ、宅地造成の工事が、始まっていた。

「あそこの山は、売れたんだよ」と、祖母が、言った。

俺は、焦って、泣きながら、頼んだ。

祖母は、困った顔で、俺の頭を、何度も撫でた。

「あの山は、もう、静かにしてあげんといけんよ」

祖母は、小さな声で、そう言った。

あのとき、祖母は、何かを、知っていたのだと思う。

けれど、それを聞く勇気が、大人になった今も、出ない。

聞いてしまえば、この記憶が、別のものに変わってしまいそうだからだ。

意味は、分からなかった。

「山に、行きたい。連れて行って」

けれど、病み上がりだから、と、誰も、連れて行ってくれなかった。

それ以来、俺は、少女と、会うことはなかった。

ただ、たまに、夢で、見るようになった。

お手玉をする五歳の子

数年後、祖母から、ぽつりと、聞いた話がある。

宅地造成の工事のとき、麓の斜面から、小さくて古い社が、出てきたという。

工事で削った土や石が、降りかかったのか、半壊していたそうだ。

何を祀っていたのか、誰にも、分からなかった。

その社があったのは、俺が少女と遊んでいた山道の、少し奥だった。

ひょっとして、自分が遊んでいたのは、と、思ってしまった。

社の前を、俺は、毎日のように、通っていたのかもしれない。

今となっては、確かめる方法は、どこにもない。

山道のあった場所には、新しい家が、整然と並んでいる。

庭先で、子どもが、自転車の練習をしていた。

俺は、その前を、そっと、通り過ぎた。

あの苔むした石を、思い出した。

子どもの俺が、ふと頭を下げていたことも。

もしかすると、あれは、挨拶だったのだろうか。

実は、それ以降にも、不思議なことが、いくつかある。

高校のとき、同じクラスに、自称、霊感のある女子がいた。

ある日、彼女が、俺の顔を見て、言った。

「あんた、凄いのつけてるね」

「凄いのって、何だよ」

「……わかんない。けど、守護霊とか、なのかな。でも、怪我とか病気とか、あまりしないでしょ?」

言われてみれば、確かに、そうだった。

あの高熱以来、俺は、ほぼ完全に、無病息災だった。

風邪さえ、ほとんど、ひかない。

大人になった今も、それは、変わらない。

健康診断の結果を見るたび、少しだけ、不思議な気持ちになる。

その話を、つい最近、似たような怪談を集めた記事にも、重ねて読んだ。

地図にだけ残る裏の町の話や、壁の内側を撮ってしまった話を読むと、ときどき、あの少女のことを、思い出す。

そして、さらに、この前の出来事だ。

親戚の五歳の子と、遊んでいた。

その子が、カラーボールを使って、お手玉を始めた。

俺にも、やってみろ、と、ねだる。

やってみると、その子は、対抗するように、いくつものボールを、宙に投げた。

何度も、楽しそうに、お手玉をした。

その動きが、あまりに見事だった。

後で、その子の親に、俺は、言った。

「いやー、凄いよ。教えたの? あんなに何個も、俺だって、できないよ」

親は、きょとんとして、答えた。

「教えてないけど……」

もう一度、その子に、やらせてみようとした。

けれど、何度頼んでも、できなかった。

その子は、不思議そうに、首を傾げていた。

「昼間みたいに、やってみて」

「え? なにそれ?」

その子は、昼の出来事を、憶えてすら、いなかった。

そのお手玉さばきは、思い返すと、あの少女に、似ていた気がして、たまらない。

手の動きも、投げ上げるときの、小さな息づかいも。

今も、たまに、夢を見る。

夢の中の山道は、いつも、夕暮れだ。

杉の影が、長く伸びて、その向こうに、小さな背中が、見える。

呼びかけようとして、いつも、そこで、名前が、出てこない。

目が覚めると、掌が、ほんのり、冷たい。

あの最後の言葉も、ある。

ひょっとして、あの子は、本当に、俺にくっついているのかな、と、思ったりする。

ちなみに、あの子の名前は、なぜか、俺にも、思い出せなくなっている。

不気味だとか、怖いだとか、そういう感じは、ない。

ただ、懐かしい感じが、して仕方がない。

名前は、思い出せないのに、あの冷たい手の感触だけは、今も、はっきりと残っている。

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