その音を初めて聞いたのは、引っ越して三日目の夜だった。
私が借りたのは、築四十年のアパートの二階だった。
家賃が相場より一万円も安いのには、それなりの理由がある。
壁が、紙のように薄いのだ。
隣の生活音が、まるで同じ部屋にいるように聞こえてくる。
それでも、都心へ三十分の立地で、この家賃は破格だった。
会社員の私には、贅沢を言える余裕などなかった。
内見のとき、不動産屋は壁の薄さには触れなかった。
ただ「静かないい物件ですよ」と繰り返すばかりだった。
実際、昼間はたしかに静かだった。
古いが、日当たりはよく、畳の匂いも嫌いではなかった。
私は段ボールを運び込み、一人暮らしの新生活を始めた。
仕事は忙しく、家に帰るのはいつも夜遅くだった。
それでも、自分だけの城を持てたことが、嬉しかった。
引っ越しの祝いに、同僚が観葉植物をくれた。
私はそれを窓辺に置き、毎朝水をやった。
古いアパートにも、少しずつ愛着が湧いていった。
近所には、昔ながらの銭湯と、小さな商店街があった。
夜遅くまで開いている定食屋が、私のお気に入りになった。
そこの女将は、いつも一品多く付けてくれた。
「若いんだから、たくさん食べな」と言って。
この街は、悪くない。
私は、そう思い始めていた。
だからこそ、あの音は、よけいに不安だった。
隣の二〇一号室には、年配の男性が一人で暮らしているらしい。
廊下ですれ違うと、いつも丁寧に頭を下げてくれる。
穏やかそうな、品のいい老人だった。
白髪をきれいに撫でつけ、いつも糊のきいたシャツを着ていた。
背筋がぴんと伸びていて、若い頃は教師だったのではと思わせた。
ゴミ出しの日には、決まった時間に、きちんと分別して出していた。
近所でも、評判のいい人なのだろう。
そう感じさせる、隙のなさがあった。
「どうも、お隣に越してきました」と挨拶すると、にこやかに応じてくれた。
「ええ、ええ、よろしくお願いしますね」
その時は、何も気に留めなかった。
静かで、いい人そうだ。
私は、それだけ思っていた。
※
異変に気づいたのは、その夜だった。
深夜の一時を過ぎた頃だ。
壁の向こうから、かすかな音が聞こえた。
「リン……」
鈴を、ひとつだけ鳴らしたような音。
気のせいかと思った。
私は寝返りを打って、また目を閉じた。
だが、音は続いた。
「リン……リリン……」
今度は、はっきりと聞こえた。
鈴の音にしては、どこか湿っている。
人の、声のようにも聞こえた。
時計を見ると、午前一時半だった。
私は耳を澄ませた。
音は、明らかに隣の二〇一号室から来ていた。
けれど、テレビの音でも、話し声でもない。
強いて言えば、何かを唱えているような響きだった。
やがて音はやみ、部屋は再び静まり返った。
静けさが戻ると、今度はその静けさが怖くなった。
また、あの音が始まるのではないか。
そう思うと、なかなか寝つけなかった。
私は布団をかぶり、自分の呼吸の音だけを聞いていた。
こんな時間に、何をしているのだろう。
私は不審に思いながらも、その夜は眠りについた。
※
次にその音を聞いたのは、三日後の夜だった。
前よりも、音が大きくなっていた。
「リン! リリン!」
はっきりと、人の声だった。
低く、絞り出すような声。
そして、それに合わせて、何かが規則正しく軋む音。
ぎし、ぎし、と。
私は布団の中で、息を殺した。
あの穏やかな老人が、出している声とは思えなかった。
何かの、お経だろうか。
それとも、まじないの類だろうか。
声は、十分ほど続いて、ふつりとやんだ。
その晩、私はほとんど眠れなかった。
翌日、職場であくびを噛み殺しながら、私は考え続けた。
あの声は、いったい何なのだろう。
ネットで「夜中 隣 唱える 声」と検索してみた。
出てくるのは、心霊体験の記事ばかりだった。
読めば読むほど、背中が寒くなった。
心霊体験の掲示板には、似たような話がいくつもあった。
「夜中、隣から経のような声が聞こえる」
「やがて、その家で不幸が起きた」
そんな書き込みばかりだった。
もちろん、本気で信じたわけではない。
それでも、夜になると、その文字が頭をよぎった。
ある記事には、こう書いてあった。
「夜中に規則正しい声が聞こえる家は、何かを呼び込んでいる」
私は、スマホを閉じた。
考えすぎだ、と自分に言い聞かせた。
それでも、その夜は電気を点けたまま眠った。
それからというもの、私は夜が来るのが怖くなった。
日付が変わる頃になると、自然と体がこわばる。
壁の方を見ては、息をひそめる。
そんな夜が、何日も続いた。
寝不足で、仕事のミスも増えた。
上司に「最近どうした」と心配される始末だった。
いっそ引っ越そうか、とも考えた。
だが、敷金も礼金も、もう手元には残っていない。
私は、逃げ場のない気分だった。
※
翌朝、私は思い切って大家に電話をした。
「夜中に、隣から変な声が聞こえるんですが」
大家は、少し言葉に詰まった。
「ああ……二〇一号の田所さんね」
「ご存じなんですか」
「いや、まあ、悪い人じゃないのよ」
「でも、夜中に大きな声を出すのは、ちょっと」
「そうねえ……一度、私からも言っておくわ」
大家の歯切れは、やけに悪かった。
何かを、隠しているような口ぶりだった。
電話を切ったあと、私は階下の住人にも、それとなく聞いてみた。
一階に住む主婦は、苦笑いを浮かべた。
「ああ、あの声ね」
「前の人も、それで気味悪がってたわよ」
「でもね、慣れると、どうってことないから」
慣れる、という言葉が、かえって不気味だった。
いったい、何に慣れろというのだろう。
主婦は、声をひそめて付け加えた。
「田所さん、奥さん亡くされてからね」
そう言いかけて、彼女は口をつぐんだ。
「まあ、本人から聞いたほうがいいわね」
その含みのある言い方が、私には分からなかった。
何か、事情があるのは確かだった。
私は、ますます落ち着かなくなった。
私の不安は、かえって膨らんだ。
※
それから一週間、音は聞こえなかった。
大家が注意してくれたのだろう。
私は、ようやく安心して眠れるようになった。
だが、その油断を嘲笑うように、それは再び始まった。
その夜の音は、これまでとは、明らかに違っていた。
※
午前二時。
私は、自分の名前を呼ばれたような気がして、目を覚ました。
耳をすます。
壁の、すぐ向こうだった。
「リン……!」
声が、これまでで一番近い。
まるで、壁に口を押し当てているようだった。
「リン! リリン! リリン!」
声は、だんだん速くなっていく。
ぎし、ぎし、ぎし、と軋む音も、それに合わせて速まる。
何かが、壁の向こうで、激しく揺れている。
私の背筋を、冷たいものが這い上がった。
壁に手を当てると、振動が伝わってきた。
どん、どん、と床を踏む音。
それに合わせて、声が跳ねる。
「リン! リリン!」
まるで、何かに取り憑かれているようだった。
これは、まずい。
あの老人の身に、何かが起きている。
あるいは、老人が、何かを呼び寄せている。
私は布団を握りしめ、ただ震えていた。
声は、十五分以上も続いた。
そして、最後に大きく「リリーン!」と響いて、ぴたりとやんだ。
あとには、不気味な静寂だけが残った。
私は、汗で湿った布団を握りしめていた。
心臓は、まだ早鐘を打っていた。
このアパートには、何かがいる。
そう確信しかけていた。
もう、限界だった。
一度は、警察に電話をしようとした。
受話器を握って、けれど、思いとどまった。
もし、ただの大声だったら。
穏やかなあの老人を、犯罪者のように扱うことになる。
それは、できなかった。
ならば、自分の目で確かめるしかない。
もし、本当に何かがいるなら。
知らないままでいるほうが、ずっと怖い。
私は、懐中電灯を握りしめた。
なぜか、それが少しの勇気になった。
私は、そう腹を決めた。
※
私は、確かめずにはいられなくなった。
このまま放っておけば、自分まで眠れなくなる。
次の夜、私はあの音を待った。
午前一時を回った頃、案の定、それは始まった。
「リン……リリン……」
私はそっと玄関を出て、隣の部屋の前に立った。
二〇一号室のドアが、わずかに開いている。
換気のためか、五センチほどの隙間ができていた。
中から、あの声が漏れてくる。
「リン! リリン!」
私は、心臓の音を聞きながら、その隙間を覗き込んだ。
そして、息を呑んだ。
※
部屋の真ん中に、あの老人が立っていた。
両手を高く上げ、腰を、これでもかと振っている。
前へ、後ろへ、ぎし、ぎし、と床を鳴らしながら。
そして、満面の笑みで叫んでいた。
「リン! リリン!」
私は、ぽかんと口を開けたまま、固まってしまった。
幽霊でも、まじないでもなかった。
ただ、品のいい老人が、全力で腰を振っていただけだった。
あまりに想定外の光景に、私は声も出なかった。
その時、老人と、ばっちり目が合った。
気まずい。
これ以上ないほど、気まずい沈黙が流れた。
老人は、ぴたりと腰を止めて、ばつが悪そうに笑った。
「……見られちゃいましたか」
私は、しどろもどろに頭を下げた。
「す、すみません、夜中に声がするので、つい」
老人は、私を部屋に招き入れて、お茶を淹れてくれた。
そして、照れくさそうに、わけを話してくれた。
畳の部屋は、きちんと片付いていた。
仏壇には、優しそうな女性の写真が飾られていた。
線香の、かすかな匂いがした。
老人は、私に座布団をすすめた。
「驚かせてしまって、本当に申し訳ない」
「夜中だと、つい夢中になってしまってね」
私は、首を横に振ることしかできなかった。
※
老人は、半年前に、長年連れ添った奥さんを亡くしたという。
気落ちして、家に閉じこもる日々が続いた。
見かねた医者が、こう勧めたそうだ。
「大きな声を出すのは、体にも心にもいいですよ」
「笑って、声を出して、体を動かしてごらんなさい」
そこで老人は、テレビで見た健康体操を始めた。
腰を振りながら、大声で発声する、という運動らしい。
「リン! リリン!」というのは、その掛け声なのだという。
「妻がね、鈴の音が好きだったんですよ」
「だから、鈴の音を真似て、声を出すことにしたんです」
老人は、湯呑みを両手で包みながら、静かに微笑んだ。
「こうしていると、不思議と、元気が出てくるんです」
私は、なんと言っていいか分からなかった。
夜中の不気味な声の正体は、亡き妻を想う、健康体操だった。
怖がっていた自分が、急に恥ずかしくなった。
そして、少しだけ、胸が温かくなった。
「奥さん、鈴の音が好きだったんですね」と、私は尋ねた。
「ええ。風鈴を、毎年楽しみにしていてね」
「あの音を聞くと、笑ってくれるんですよ」
老人は、写真に目をやって、目を細めた。
「だから、私が代わりに、鈴になろうと思いましてね」
その言葉に、私は胸を突かれた。
老人には、遠くに嫁いだ娘が一人いるという。
「娘も、心配して電話をくれるんですがね」
「年寄りが一人、めそめそしていても仕方ない」
「だったら、笑って、声を出して、汗をかこうと」
「そう思って、始めたんですよ」
老人は、しわだらけの手で、湯呑みを撫でた。
「最初は、声なんて出ませんでした」
「妻のいない部屋で、声を出すのは、淋しくてね」
「でも、鈴のつもりで鳴いていると」
「なんだか、妻が笑ってくれている気がするんです」
私は、何も言えなかった。
ただ、お茶を、ゆっくりと飲んだ。
おかしくて、それでいて、泣きそうになる話だった。
帰り際、老人は玄関まで見送ってくれた。
「うるさかったら、壁を叩いてくださいね」
「すぐ、やめますから」
その夜、私は久しぶりに、ぐっすりと眠れた。
壁の向こうから、「リン! リリン!」と聞こえてくる。
けれど、もう少しも怖くなかった。
むしろ、その声に、おやすみ、と心の中でつぶやいた。
私は、首を横に振った。
「いえ、もう、気になりません」
「むしろ、聞こえないと、心配になりそうです」
老人は、少し驚いた顔をして、それから、ふっと笑った。
「ありがとう」
その一言が、やけに温かかった。
※
それからというもの、あの「リン! リリン!」は、もう怖くなくなった。
深夜に聞こえてくるたびに、私は思う。
ああ、今夜も田所さんは、元気だな、と。
あの掛け声は、誰かを呼び寄せるまじないなどではなかった。
奥さんへの、声にならない呼びかけだったのかもしれない。
薄い壁は、相変わらず、何でも筒抜けだ。
けれど、もう私は、引っ越そうとは思っていない。
世界で一番不気味で、世界で一番優しい掛け声を、私は今夜も聞いている。
薄い壁は、考えようによっては、悪くない。
誰かがすぐそばで、生きている。
その気配を、いつでも感じられるのだから。
あの夜、私が覗いた隙間の向こうには、恐怖などなかった。
あったのは、亡き人を想う、一人の老人の背中だけだった。
あれから、季節がいくつか巡った。
私は今も、あのアパートで暮らしている。
田所さんとは、廊下で会えば、長く立ち話をする仲になった。
ときどき、定食屋に一緒に行くこともある。
「今夜も、やりますか」と聞くと、老人は嬉しそうに頷く。
「ええ、今夜も、妻を笑わせてやりますよ」
そして夜になると、壁の向こうから、あの声が響く。
「リン! リリン!」
私はもう、その音を子守唄のように聞いている。
人は、誰でも、淋しさを抱えて生きている。
その淋しさの紛らわせ方は、人それぞれだ。
ある人は酒を飲み、ある人は鈴になって鳴く。
他人から見れば、滑稽かもしれない。
それでも、その人にとっては、生きるための儀式なのだ。
私はあの夜、怖い話を探しにいって、優しい話を持ち帰った。
薄い壁一枚向こうにあったのは、化け物ではなかった。
誰かを想い続ける、まっすぐな心だった。
今夜も、私は壁に背を預けて、目を閉じる。
聞こえてくるのは、世界で一番優しい掛け声だ。
「リン! リリン!」
今夜も、お隣は、ちゃんと生きている。