体育館の脇で会った子犬

犬(フリー写真)

心霊体験になるのかどうか、いまもわかりません。

ただ、体育館の脇の土のことだけは、三十年経っても忘れられずにいます。

わたしが小学五年生の、初冬の話です。

その日わたしは、一匹の子犬をそこに埋めました。

そして同じ日の夕方に、その子犬と、農閑期の畑のまんなかで遊びました。

当時わたしが暮らしていたのは、本当に何もない土地でした。

小学校は統合され、登下校はスクールバスでないと通えません。

バスが停まるのは、廃校になった小学校の校庭でした。

校舎はもう使われておらず、窓ガラスが何枚か割れたままになっていました。

校庭の隅には、朝礼台だけが残っていました。

雨に濡れて黒くなった木の台で、誰も上がらないのに、そこだけ草が生えませんでした。

校庭の一角には、町民体育館が建っていました。

廃校になったあと、町が体育館だけ残して使っていたのです。

平日の夕方は卓球のサークルが入り、それ以外はたいてい閉まっていました。

バスを降りた子どもたちは、そこから徒歩か、親の車で家に帰ります。

わたしの家は団地で、歩いて十五分ほどでした。

途中に信号はひとつもありません。

畑と、用水路と、農協の倉庫があるだけの道でした。

門限は五時半と決まっていました。

日が落ちると本当に暗くなる土地で、街灯は交差点にしかありませんでした。

犬は、当時その辺りにたくさんいました。

放し飼いの家もあれば、繋がれたまま一日じゅう吠えている家もありました。

どこの犬でもない犬も、何匹か歩いていました。

誰も追い払わないし、誰も飼いません。

子どもだけが名前をつけて、次の年にはいなくなっています。

そういうことが、毎年ふつうに起きる土地でした。

スクールバスの終点

その日も、いつものようにスクールバスで下校しました。

バスを降りると、停留所の脇に、茶色い小さなものが横たわっていました。

子犬でした。

全身が藁のような色で、四肢の先と尻尾の先だけが白く、鼻の周りが黒い犬です。

わたしが近づいても、動きませんでした。

もう、息をしていませんでした。

体はまだ柔らかく、冷たくなりかけているところでした。

轢かれたようには見えませんでした。

外に傷はなく、ただ眠っているように横向きになっていました。

バスはもう行ってしまっていて、あたりには誰もいません。

わたしは、どこかに埋めてあげなきゃ、と思いました。

理由はうまく説明できません。

ただ、そのまま置いて帰るという選択肢が、そのときの頭には浮かびませんでした。

両手で抱き上げると、思ったより重いのです。

運んでいるあいだに、口とお尻から少しずつ水のようなものが漏れて、袖が濡れました。

それでも、持ち替えながら校庭の隅まで運びました。

最初に掘ろうとしたのは、朝礼台の裏です。

長年踏み固められた校庭の土は、指では何も起きませんでした。

木の枝を差しても、先が折れるだけでした。

わたしは子犬を抱えたまま、校庭をあっちへうろうろ、こっちへうろうろしました。

そのうち日が傾いてきて、指の感覚がなくなってきました。

泣きはしませんでした。

泣くより先に、場所を決めなければいけなかったからです。

校舎の裏も試しました。

そこは半分がコンクリートで、残りは砂利でした。

鉄棒の下も掘れませんでした。

雨どいの落ち口のあたりだけ土が柔らかかったのですが、水が溜まる場所です。

水の溜まるところに入れてはいけない、と、なぜかそのときのわたしは思いました。

誰かに教わったわけではありません。

子どもというのは、そういうことだけは自分で決めます。

抱えている腕が、だんだんしびれてきました。

途中で一度、朝礼台の上に子犬を置いて、手を休めました。

木の台は冷たく、子犬の毛のほうが、まだ少し温かいのです。

そのことに気づいて、急に手が震えました。

急がなければいけない、と思いました。

何を急ぐのか、自分でもわかりませんでした。

それでもわたしは、また抱き上げました。

体育館の脇の土

ようやく見つけたのが、校庭の中にある町民体育館の脇でした。

建物と金網のあいだの、幅一メートルほどの細い場所です。

日が当たらないのに、そこだけ草が生えていませんでした。

体育館の脇だけは草が生えん、と母がいつも言っていたのを、あとで思い出しました。

わたしは砂利を一つずつ手でどけました。

すると、その下の土が、驚くほど柔らかいのです。

校庭の土とは、まるで違いました。

枝の先が、すっと入っていきます。

何度か掘り返されたことのある土の柔らかさでした。

当時のわたしは、そこまで考えませんでした。

あとになって、あの土のことを何度か考えました。

あそこは建物と金網に挟まれていて、耕されることはありません。

人が入ることもない。

それなのに、掘り返された土の柔らかさだけがありました。

土は、自分では柔らかくなりません。

けれど当時は、ただ運がよかったと思っていました。

掘れる場所が見つかった、というだけで、うれしかったのです。

手はすっかり泥だらけで、爪の先が痛くなっていました。

枝を三本折りました。

三本目は、太くて丈夫なもので、それでようやく穴らしくなりました。

掘っているあいだ、体育館の非常口の扉が半分開いていました。

中は暗くて、モップの柄が一本、壁に立てかけてあるのが見えました。

人の気配はありませんでした。

それなのに、扉はずっと開いたままでした。

帰るときには、閉まっていました。

ただ、掘れる、とだけ思って、夢中で掘りました。

三十センチほど掘ったところで、枝の先が固いものに当たりました。

石だと思って掻き出すと、小さな金物でした。

錆びた鈴です。

直径は一センチあるかないか。

猫や小型犬の首につける、あの丸い鈴でした。

割れ目に土が詰まっていて、振っても音はしませんでした。

鈴には、色の褪せた細い紐が、まだ結ばれたままでした。

わたしはそれを、掘った穴の脇の砂利の上に置きました。

紐は、もとは赤だったように見えました。

色が抜けて、灰色に近い薄い桃色になっていました。

結び目は固く締まっていて、ほどけそうにありません。

わたしは一度、その紐を指で挟みました。

土の匂いがしました。

それから、なぜかその匂いを嗅ぐのが怖くなって、手を離しました。

鈴を見つけたことを、その日のわたしは誰にも言うつもりがありませんでした。

知らない誰かのものを掘り出してしまった、という感覚があったからです。

勝手に掘って、勝手に見つけて、勝手に見てしまった。

それは、庭木の枝を折ったことより、ずっと悪いことのような気がしました。

近所のスーパーへ走って、子犬がぎりぎり入る大きさの段ボールをもらってきました。

棺のつもりでした。

花も入れてあげたかったのですが、初冬です。

枯れ葉は落ちていても、雑草の花ひとつ咲いていません。

悪いとは思いましたが、近所の家の庭先から道路に伸びていた庭木の枝を、一本だけ折りました。

花のついた枝でした。

それを段ボールに入れて、土をかぶせました。

最後に、鈴を段ボールの上に戻しました。

手を合わせて、わたしは家に帰りました。

土をかぶせたあと、しばらくその場にしゃがんでいました。

指の爪のあいだに土が入って、黒くなっていました。

体育館の中から、卓球の球の音がしていました。

カツ、カツ、カツ。

規則正しい音でした。

その音を聞いていたら、少しだけ落ち着きました。

金網の向こう側に何かが立っている、という話を、当時のわたしは信じていませんでした。

線路の柵の外に立つもののような話は、上級生が下級生を脅かすためのものだと思っていました。

農閑期の畑のまんなか

その日は、月刊誌の発売日でした。

家にランドセルを置いて、わたしはそのまま本屋へ向かいました。

袖はまだ濡れていましたが、着替えるのも忘れていました。

なぜでしょう、歩きながら、ふと体育館のほうに目が行きました。

すると、一匹の犬がこちらに向かって駆けてきます。

体育館の脇から、農閑期の畑のまんなかを、まっすぐに。

土が乾いていて、走るたびに小さな土煙が上がりました。

わたしはその犬があまりに可愛くて、その場に立ち止まりました。

近づいてきた犬は、さっき埋めた子犬と瓜二つでした。

四肢の先と尻尾の先が白く、鼻の周りが黒い。

わたしは、兄弟なのだと思いました。

「捨てられちゃったの」

「お前の兄弟は、さっき向こうに行っちゃったよ」

「このままじゃ、お前も同じになるかもしれないなぁ」

「うちで飼ってあげたいけど、うち団地だから飼えないんだ」

「ついて来ちゃだめだよ。遊んであげられないから」

そんなことを、子犬相手に言っていました。

構わないように、触らないようにして本屋へ向かおうとするのですが、子犬は後ろをついてきます。

本屋までの道は、田舎のメインストリートです。

車が通ります。

この犬も轢かれてしまうかもしれない。

そう思うと、本屋へ行けなくなってしまいました。

えぇい、もういいや。

わたしは雑誌を諦めて、子犬と遊びました。

両親からは、こう言われていました。

「犬は人に懐く。飼う気がない、飼えないなら、構ったり餌をあげてはいけない」

「そんなことをしたら、逆に犬が可哀想だ」

それでも、足元でお腹を見せて「触って」という顔をしている子犬を、触らずにはいられませんでした。

門限の五時半ぎりぎりまで、わたしは子犬と遊びました。

走ったり、撫でまくったり。

不思議なことが、ひとつだけありました。

子犬が跳ねるたびに、どこかで小さく、チリ、と鳴るのです。

首には何もついていません。

音がするのは、犬の体ではなく、体育館のほうからでした。

わたしは、風で金網が鳴っているのだと思うことにしました。

その日は、風のない日でした。

畑の向こうの旗も、農協の倉庫の幟も、垂れたまま動きませんでした。

わたしはそのとき、音のことをそれ以上考えませんでした。

考えるより、遊ぶほうが大事だったのです。

子犬は、わたしが走ると先回りをしました。

止まると、必ず一メートルほど離れたところで止まります。

近づきすぎない犬でした。

手を出すと、そのときだけ寄ってきます。

お腹を見せて、足をぴんと伸ばして、目を細めました。

腹の毛は、白くて柔らかく、温かいのです。

わたしはそれを、いまでもはっきり覚えています。

温かかった、ということだけは、どうしても説明がつきません。

遊んでいるあいだ、道を車が三台通りました。

どの車も、わたしのほうをちらりと見て、そのまま行きました。

軽トラックの運転席のおじさんとは、顔見知りでした。

次の日、学校でその人の孫に会いました。

「きのう、じいちゃんが見たって。畑で一人で走っとったって」

一人で、と言われました。

わたしはそのとき、言い返しませんでした。

言い返したところで、どう言えばいいのかがわかりません。

犬といた、と言えば、どの犬か訊かれます。

訊かれたら、わたしは答えられませんでした。

それから何年も、この話は誰にもしませんでした。

台所の洗い物の手

「そろそろ帰らなきゃ」

そう犬に言うと、犬は笑ったような顔のまま、体育館に向かって走っていきました。

ちょうどわたしが立っていたのは、畑のまんなかです。

体育館の脇が、よく見える場所でした。

走っていく子犬は、何度かこちらを振り返りました。

そのとき、不意に思いました。

あの子、さっき埋めた子だ。

そう思った瞬間、遊んでいた子犬が、埋めた場所にちょこんと立っているのが見えました。

距離にして、五十メートルほどだったと思います。

胸が、自分でもわかるほど大きく鳴りました。

次の瞬間、子犬は消えました。

隠れたのでも、走り去ったのでもありません。

立っていた場所から、ふっと。

わたしは、その場に立ったまま、しばらく体育館を見ていました。

日が落ちて、金網の影が畑の上に長く伸びていました。

わたしは、体育館まで走っていきませんでした。

行けばいいのに、行きませんでした。

確かめてしまうのが、怖かったのだと思います。

それとも、確かめなくてもわかっていたのかもしれません。

歩き出したとき、袖の濡れたところが、もう乾いていました。

初冬の夕方は、風がなくても、そういうふうに乾きます。

わたしは手のひらを見ました。

爪のあいだの土は、まだ黒いままでした。

家に帰ったのは、門限を十分ほど過ぎてからでした。

母は台所で洗い物をしていました。

叱られると思って、わたしは先に言い訳を並べました。

バスを降りたら犬がいたこと。

校庭の土が掘れなかったこと。

体育館の脇なら掘れたこと。

母は背中を向けたまま、「そう」とだけ言っていました。

最後に、わたしは鈴のことを話しました。

土の中から、錆びた鈴が出てきたこと。

紐がまだ結ばれていたこと。

母は、鈴の話をしたとたん、洗い物の手を止めました。

水を止めて、こちらを向きました。

「その鈴、どうした」

「上に戻した」

母は、ゆっくり頷きました。

それから、エプロンで手を拭いて、椅子に座りました。

「母さんも、あそこ掘ったことがある」

母も小学五年生のとき、あの脇の土を、手で掘っていました。

飼っていた雑種の子で、名前はチロといったそうです。

校庭は固くて掘れず、体育館の脇だけが掘れた。

そこも同じでした。

「鈴、つけとったんよ。だから、いっしょに入れた」

母はそれだけ言って、また立ち上がりました。

「学校の子やったんか」

「うん。バスのとこにおった」

「そうか」

母は、食器を拭きながら、少し笑いました。

泣くのでも、驚くのでもなく、ただ少し笑ったのです。

その顔を、わたしは三十年経っても覚えています。

「帰り道で、会わんかったか」

わたしは、母の背中を見ました。

母は、蛇口をひねりませんでした。

「母さんも、会うたけんね」

それ以上は、何も言いませんでした。

雪の積もらない場所や、草の生えない場所の言い伝えは、この国のあちこちにあります。

雪が積もらない灰坂の湯屋の話を読んだとき、わたしはあの一メートルほどの細い土を思い出しました。

あの場所を最初に掘ったのは、わたしではありませんでした。

体育館は、十年ほど前に取り壊されたと聞いています。

跡地がどうなったのかは、確かめていません。

確かめないほうがいいような気が、いまもしています。

ただ、初冬になって風のない夕方になると、チリ、という音を探してしまいます。

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