白いスーツの男は番号を変えて来る

抽象画

あまり思い出したくないのですが、私が体験した話を書きます。

先にお断りしておきます。

これは、幽霊や心霊の話ではありません。

出てくるのは、生きている人間が一人だけです。

白いスーツの男です。

それでも私は、この男のことを、今でも夜に思い出します。

思い出すと、携帯の画面を伏せて置く癖が出ます。

長文ですが、どうかお付き合い願います。

四年前、二十歳の私が、会社勤めをしていた頃の話です。

私のことは、仮に洋子とします。

男のことは、仮に小野とします。

私は、小さな商社の事務をしていました。

三階建ての古いビルで、春から外壁の修復工事が入っていました。

窓の外に足場が組まれ、朝から金属を叩く音が響く日々でした。

小野は、その工事に来ていた作業員でした。

最初に見たのは、三階の窓の外でした。

足場の上から、こちらに手を振っていたのです。

日焼けした顔に、ヘルメットの跡が白く残っていました。

私は、気づかないふりをしました。

ブラインドを、少し下げました。

下げても、隙間から、手だけが見えていました。

それでも次の日も、その次の日も、同じ時間に窓の外に居ました。

それが、始まりでした。

洋子ちゃんの連呼

小野は、私より十七歳も年上でした。

けれど見た目が若く、最初は二十七、八くらいかと思っていました。

小野と話すようになったきっかけは、先輩の美帆さんでした。

美帆さんは、小野の友人に一目惚れしました。

その友人も、修復作業の作業員でした。

二人が仲良くなる中で、小野が私を大層気に入っているらしい、という話になりました。

何度か、飲みに誘われました。

私は、断りました。

恋愛対象かどうか以前に、年上すぎたのです。

けれど美帆さんに言われました。

「洋子が来ないから、いつも小野の機嫌が悪くて、場の空気が悪くなるの」

「嫌かもしれないけど、頼むから、少しでいいから来てくれない」

私は、断れなくなりました。

一回だけなら、と思って、飲み会に参加しました。

駅前の、安い居酒屋でした。

六人掛けの座敷に、五人でした。

小野は、私の正面に座りました。

席を決めたのは、小野でした。

話してみると、小野は優しく、周りからも信頼されているようでした。

気さくで、よく笑う男でした。

私のグラスが空くと、誰より早く瓶を持ちました。

注ぐ手が、私の手に触れないように、妙に慎重でした。

その慎重さが、後になって、一番嫌な記憶になりました。

最初は、みんなで他愛のない話をしていました。

お酒が進むにつれて、小野の質問が、私だけに向き始めました。

「洋子ちゃんは、彼氏いないの?」

「洋子ちゃんは、いつもどこで遊んでるの?」

「洋子ちゃんは、お酒、何が好き?」

「洋子ちゃんは、今まで何人と付き合ったの?」

「洋子ちゃんは、どの駅から来てるの?」

洋子ちゃん、洋子ちゃん、洋子ちゃん。

私は、いい加減うんざりしていました。

「……あー……はぁ……そうですねぇ……」

やる気のない返事をして、飲むことに逃げました。

駅の名前だけは、答えませんでした。

答えなかったことを、私は後で、何度も自分に確かめることになります。

小野は、途中で一度、携帯を出しました。

「みんなで写真撮ろう」

そう言って、テーブルの端から一枚撮りました。

私は、写らないように、少し横を向きました。

「洋子ちゃん、こっち向いてよ」

「いいです」

美帆さんが笑って、場が流れました。

しばらくして、美帆さんが酔い潰れて眠ってしまいました。

私は、これだと思いました。

「先輩を介抱します」

そう言って、飲み会を後にしました。

小野は、店の外まで見送りに出てきました。

「気をつけてね。洋子ちゃん」

私は、頭だけ下げました。

帰りの電車で、私は定期券を改札に通しながら、ようやく息をつきました。

鞄の、定期券を入れる透明の窓を、親指で押さえていました。

その窓を、鞄の外側に向けて置いていたことを、私はそのとき、気にもしていませんでした。

ブーケと白いスーツの男

その日は、特に何もありませんでした。

次の日、仕事が休みで、家でくつろいでいました。

携帯に、メールが届きました。

小野からでした。

『昨日は美帆ちゃん大丈夫だった? かなり飲んでたみたいだけど』

私は、一瞬、訳が分かりませんでした。

小野と、メールアドレスを交換した覚えがなかったのです。

いくら飲んでいたと言っても、私はお酒に強い方です。

絶対に、忘れません。

私は、なぜアドレスを知っているのかと、問い質しました。

小野は、こう言いました。

『いやあ、ゴメンゴメン。昨日、洋子ちゃんがトイレに行ってる間に、みんなが「今のうちにアドレスもらっちゃえ」って囃したててさ』

『俺も、その場のノリでやっちゃったんだ』

そうです。

小野は、私の居ない間に、私の携帯から自分の携帯へメールを送っていたのです。

電話まで、かけていました。

発信履歴に、知らない番号が一件、残っていました。

通話時間は、四秒でした。

私は、半ば怒鳴るように抗議しました。

小野は、何度も何度も謝りました。

『ただのメル友でいいから』

あまりにも何度も謝るので、私は許してしまいました。

ただのメル友なら、と。

今思えば、ここで番号を変えるべきでした。

その後、心配していたほど頻繁にメールは来ませんでした。

週に一度か、二度。

『今日は雨だね』

『足場、今日で外したよ』

そんな、どうでもいい内容でした。

私は、一言だけ返すか、返さないかでした。

返さなくても、小野は怒りませんでした。

その頃は、まだ。

修復作業も終わり、小野を見ることもなくなりました。

窓の外に足場がないことに、私は安心していました。

ブラインドも、上げました。

空が、ひと月ぶりに見えました。

ある日突然、メールが来ました。

『仕事が終わったら、話したいことがあるので会いたい』

何だろう、と思いました。

会社を出たところで待っていると、小野がすぐにやってきました。

その姿を見て、私は言葉を失いました。

小野は、真っ白いスーツに身を包んでいました。

光沢のある生地で、肩のところが少し大きかった。

手には、結婚式で花嫁が持つような、小さなブーケがありました。

白い薔薇と、かすみ草でした。

通りを歩く人が、何人も振り返りました。

ビルの警備員さんが、受付の窓から、こちらを見ていました。

白いスーツの男は、私の前で立ち止まり、ブーケを差し出しました。

「結婚を前提に、付き合ってほしい」

あの飲み会から、一度も会っていません。

まともに話したことも、ありません。

何を言っているのだろう、と、私は呆れました。

けれど、会社の前です。

誰かに見られるのも、嫌でした。

「ごめんなさい。お付き合いは、できません」

私は、丁重にお断りしました。

小野は、笑っていました。

断られたのに、笑っていました。

その顔を見て、私は、初めて怖いと思いました。

白いスーツの男を、その場に残して、走って帰りました。

振り返りませんでした。

振り返れば、まだ立っている気がしたからです。

電車の中で、手が震えていることに気づきました。

コンビニからのメール

その日の夜からです。

小野の様子が、おかしくなりました。

『さっきはゴメン。急でびっくりしたんだよね? 俺は全然怒ってないよ(^^)/ メールちょうだい!』

『洋子ちゃん、なんで返事くれないのかなぁ?』

『俺さぁ、けっこう気ぃ短いんだけど(^_^;) さっきの返事くれないの? いつまで延ばすつもりなの?』

『ゴメン、もうしつこくメール送りません』

『お願い! 電話だけでも出て!!』

『洋子ちゃんゴメン洋子ちゃんゴメンね』

『今、何してる?』

『寝た?』

『起きてるでしょ?』

こんなメールが、朝まで何十通と届きました。

三十八通でした。

数えてしまったことを、今は後悔しています。

中には、写真が添付されているものもありました。

飲み会のとき、私を隠し撮りした写真でした。

横を向いた私の顔と、テーブルの端に置いた私の鞄が写っていました。

『この写真、お気に入りなんだ』

そう書いてありました。

私は、怒りを通り越して、怖くなりました。

急いで、小野のアドレスと番号を、受信拒否と着信拒否にしました。

本当は、強く言ってやりたかった。

けれど、小野は私の会社を知っています。

下手に刺激して、会社に来られたら、まずい。

そう思って、何も言えませんでした。

小野から最後に届いたメールには、こう書いてありました。

『洋子ちゃんとなら、どこまででも行けるなぁ』

『終わりまで、一緒に行こうよ』

正直、ぞっとしました。

終わり、という言葉を、この男は何に使っているのか。

考えないようにしました。

翌日、美帆さんに全部話しました。

美帆さんは、顔色を変えて、謝ってくれました。

「私のせいだ」

「先輩のせいじゃないです」

「でも、私が連れてった」

美帆さんは、小野の友人に、やんわりと伝えてくれました。

それで、収まったと思っていました。

けれど、小野の執着は、それだけでは終わりませんでした。

最後のメールから、半月ほど経った日曜日でした。

家でテレビを見ていた私の携帯に、登録していないアドレスからメールが届きました。

『今、〇〇町のコンビニにいるんだけど、洋子ちゃんの家ってこの辺だよね?』

『今日、仕事休みでしょ? どっか遊びに行こうよ!(^O^)/』

小野からでした。

〇〇町は、私の住む町でした。

そのコンビニは、私の家から、数百メートルしか離れていません。

毎朝、駅へ行く途中に、前を通る店です。

一体、どうして。

どうやって調べたのか。

会社の誰にも、住所は言っていません。

美帆さんにも、町の名前までしか言っていません。

私は、驚きと恐怖で、しばらく固まっていました。

テレビの笑い声だけが、部屋に響いていました。

とにかく、携帯を握りしめて、アドレスを変えました。

番号も、変えようと思いましたが、その日は窓口が閉まっていました。

家から、一歩も出ませんでした。

カーテンを閉めて、電気を消しました。

カーテンの隙間から、一度だけ、通りを見ました。

誰も居ませんでした。

誰も居ないことが、かえって怖かった。

『この家が、どうか見つかりませんように』

それだけを、祈っていました。

今思えば、友達に来てもらう、親に電話する、警察に相談する。

対策は、いくらでもありました。

情けないことに、恐怖で、そんなことも分からなくなっていたのです。

幸い、小野は家までは来ませんでした。

夜になって、コンビニの方から、車のドアが閉まる音が一度、聞こえました。

それだけでした。

翌朝、私は駅までの道を変えました。

コンビニの前は、通らなくなりました。

先輩の携帯の無言電話

アドレスを変えたおかげか、それから一切、音信はなくなりました。

私は、いつしか小野のことを忘れかけていました。

たまに思い出しては、美帆さんと話すくらいでした。

「本当にあいつ、まずかったね。洋子も災難だった」

「あんな人だとは思いませんでした」

美帆さんは、私と小野を引き合わせたことを、本当に申し訳ないと言ってくれました。

そんなある日、美帆さんと一緒に休憩していた時のことです。

美帆さんが、携帯を見て、急に曇った顔になりました。

「……どうしたんですか、先輩」

「ん……今日、朝からずっと、知らない番号から無言電話がかかってくるんだよね」

「無言」

「着信拒否にしても、また別の番号でかかってくるし……。何なんだろ、これ」

「そういうの、びしっと言った方がいいですよ。私、代わりましょうか」

「うん、ごめんね」

私は、美帆さんの携帯の通話ボタンを押しました。

案の定、相手は無言でした。

「もしもし? もしもし!」

「………………」

息の音だけが、聞こえました。

私は、頭に来て、怒鳴りました。

「さっきからしつこいんですよ! 名乗ってください!」

少し、間がありました。

「………やっと出てくれたね、洋子ちゃん。……………元気?」

小野の、しわがれた声でした。

私は、思わず、美帆さんの携帯を床に投げてしまいました。

体の震えが、止まりませんでした。

美帆さんの携帯に、私が出ると、どうして分かったのか。

いえ、分かっていたのではないのです。

私が出るまで、美帆さんにかけ続けていたのです。

朝から、番号を変えて、何度も。

その後は、美帆さんと二人で、半泣きになりながら、その日のうちに一緒に携帯を変えました。

美帆さんは、小野の友人に、もうこれ以上私に関わらないよう説得をお願いしてくれました。

それから、小野からの音信は、ぴたりとなくなりました。

私は、怯えずに済むようになりました。

ただ、元からあまり男性と関わるのが好きではなかった私は、更に男性が怖くなりました。

ストレスで、髪も、だいぶ抜けました。

その頃、私は、消していなかった一枚の写真を、もう一度開きました。

飲み会のときの、隠し撮りの写真です。

横を向いた私と、テーブルの端の、私の鞄。

鞄の外側には、透明の窓があります。

定期券を入れる窓です。

写真の隅に、私の定期券の駅名が、読める向きで写っていた。

小野は、私の家の町の名前を、あの夜から知っていたのです。

コンビニの前で、半月、待っていたのかもしれません。

毎朝、前を通る私を、見ていたのかもしれません。

私は、その写真を、ようやく消しました。

消しても、駅名は、私の頭の中に残りました。

後になって、助手席のベルトは締めておけという話を読みました。

生きている人間の執着が、どこまで届くかという話でした。

順番を待っている奥の乾燥機にも、同じ手触りがありました。

私は、翌年、引っ越しました。

駅も、変えました。

新しい家の住所は、美帆さんにも、まだ言っていません。

美帆さんは、理由を聞かずに、頷いてくれました。

繋がりは、携帯電話一本だけでした。

それだけで、人はここまで誰かを追い込むことができるのです。

今でも、電車を降りる前に、ホームの端を一度、確かめます。

白いスーツの男が、立っていないかどうかを。

ここまで読んでくださった方々、ありがとうございました。

鞄の透明の窓には、もう、何も入れていません。

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