白い傘を差した人が先回りする夜

夜道

俺の家の玄関には、白い傘が一本、立っている。

買った覚えはない。

もらった覚えもない。

持ち手は木で、どこの店のものかを示す札も、文字も、何も付いていない。

雨の夜でも、その傘は使わない。

使えない。

あの夜、白い傘を差した人が、俺の行く先に先回りし続けた。

十九の秋のことだ。

山陰の、山に挟まれた小さな町だった。

二本の川の間に、碁盤の目のような住宅街がある町だ。

昔は田んぼだったところに、同じ幅の道を縦横に通したのだと、祖父から聞いたことがある。

俺はその町で、国道沿いのガソリンスタンドで働いていた。

今でも、あの夜のことを順番に思い出すと、手の中の携帯が湿ってくる。

けれど一度、きちんと書いておこうと思う。

書く前に、玄関の傘を一度、手に取ってみた。

軽かった。

開かなかった。

開かないのではなく、開けられなかった。

持ち手を握ると、指先だけが冷えた。

十九の秋から、ずっとそうだ。

家族は、誰もその傘に触らない。

触るなと言ったことは、一度もないのに。

白い傘を差した人が、何だったのか。

それは今も分からない。

分からないまま、玄関の傘だけが残っている。

友人に言われた言葉が、たぶん俺を助けた。

その言葉を、最後に書く。

誰かの役に立つかもしれないからだ。

コンビニの傘立ての白い傘

その夜、俺は友人の家で遅くまでゲームをしていた。

外は雨で、終バスもなかった。

友人は車を持っていなかった。

俺は原付で来ていたから、友人を後ろに乗せて、先に家まで送った。

友人の家は、町の北の端にあった。

俺の家は、南の端だ。

間に、国道と、碁盤の目のような住宅街がある。

帰り道、国道沿いのコンビニに寄った。

今週の漫画雑誌を、まだ読んでいなかった。

店内に、客は俺だけだった。

レジには、顔なじみの店員が居た。

山根さんという、五十くらいの男の人だ。

「遅いな、今日」

「雨で、帰れんかった」

「濡れとるぞ」

「原付じゃから」

「風邪ひくぞ、そんなん」

俺は雑誌の棚の前に立って、一冊目を手に取った。

ふと顔を上げた。

コンビニの前の道を、白い傘を差した人が歩いていた。

白い服を着ていた。

上も、下も、白だった。

こんな時間に何をしているのだろう、と思った。

時計は、二時を回っていた。

俺は、本に目を落とした。

一冊目を読み終えた。

二冊目を手に取って、顔を上げた。

さっきの人が、前の道を歩いていた。

同じ方向に。

同じ速さで。

歩道とコンビニの間には、駐車場がある。

至近距離で見たわけではない。

けれど、傘の白さと、歩き方が同じだった。

変だな、とは思った。

色々な人が居る、と思うことにした。

二冊目も読み終えた。

肩を回した。

そのとき、自動ドアが一度、開いた。

誰も、入ってこなかった。

ドアは、少し待ってから、閉まった。

山根さんが、レジから顔を上げて、首を傾げた。

「風かな」

「でしょ」

俺は、山根さんが並べてくれた、今日発売の雑誌を手に取った。

顔を上げた。

また、前の道を歩いている人が居た。

白い傘を差した人。

三度目だった。

俺は、それ以上、窓の外を見なかった。

漫画に、集中することにした。

山根さんが、レジから声をかけてきた。

「なあ。傘立てに、白い傘が一本、置きっぱなしでな」

「白い傘」

「お客はお前しか居らんのに。誰のじゃろう」

俺は、何も答えなかった。

答えられなかった。

さらに二冊ほど読んで、弁当を買った。

山根さんは、袋に割り箸を二本入れてくれた。

「気をつけて帰れ」

「うん」

外に出た。

雨は、小雨になっていた。

傘立てを見た。

白い傘が、一本、立っていた。

濡れていなかった。

骨の一本一本まで、乾いていた。

外は、まだ雨が降っているのに。

俺は、自分の紺色の傘を取って、歩道に出た。

その瞬間、胸の奥が、一度だけ跳ねた。

二十メートルほど先を、白い傘を差した人が歩いていた。

俺の家の方向だった。

田舎の深夜は、車がほとんど走らない。

街灯も少ない。

コンビニの明かりを離れると、道は暗くなる。

俺は、わざとゆっくり歩いた。

それでも、距離が縮んだ。

白い傘を差した人は、それ以上に遅かった。

三メートルほどになった。

これ以上、近づきたくなかった。

追い抜く気にも、なれなかった。

だいぶ早いけれど、次の路地で曲がろうと思った。

その人が、その路地を曲がった。

俺の家への近道だった。

ほっとする気持ちが、半分あった。

何もされていないのに、勝手に怖がった申し訳なさが、半分あった。

俺は、その後ろ姿に、軽く頭を下げた。

その瞬間、その人が、何か言った。

声は低く、言葉にはなっていなかった。

こちらは、向いていなかった。

独り言だと、思うことにした。

一本奥の道を歩く人

俺は、路地を曲がらずに、そのまま直進した。

雨が、傘の上で小さく鳴っていた。

自分の靴の音が、濡れた道に貼りつくように響いた。

次の路地を横切るとき、なんとなく右を見た。

見慣れた住宅街だった。

その一本奥の道を、白い傘を差した人が歩いていた。

俺と、同じ方向に。

嫌な感じがした。

この町の道は、碁盤の目だ。

一本奥の道と、平行になること自体は、おかしくない。

おかしかったのは、ずっと同じ位置に居続けることだった。

さっきまで、俺がゆっくり歩けば、向こうもゆっくりだった。

今、俺は早足だ。

いつもより、少し大股で歩いている。

それなのに、向こうも、平行して歩いている。

偶然だと思うことにした。

歩く速さを変えて遊んでいる人だと、思うことにした。

次の路地でも、右を見た。

居た。

その次でも、居た。

俺は、路地を数え始めた。

五本目。

六本目。

七本目の路地でも、同じ位置に、白い傘があった。

数えるのを、やめた。

数えても、何も変わらなかったからだ。

路地の数だけ、同じ白が並んでいた。

どの家も、窓が暗かった。

一軒だけ、二階の明かりが点いて、すぐに消えた。

いつもなら一軒くらい吠える犬が、その夜は一匹も鳴かなかった。

俺は、見えないところで、速さを変えてみた。

走って、止まって、また歩いた。

路地を横切るとき、向こうも横切った。

同じ瞬間に。

向こうの足音は、一度も聞こえなかった。

聞こえるのは、自分の靴と、傘の上の雨だけだった。

俺は、脇目もふらずに、大通りまで走った。

頭の中で、自分に言い聞かせていた。

雨が強くなってきたから、濡れたくないから、走っているだけだ、と。

大通りには、車が数台走っていた。

ヘッドライトが、濡れた路面に長く伸びていた。

少し、息が戻った。

大通りを渡るとき、右を見た。

人影はなかった。

そもそも、向こうの路地から大通りに出ても、横断歩道がない。

渡れるはずがない。

それでも、渡って一つ目の路地で、右を見た。

誰も居なかった。

二つ目の路地でも、誰も居なかった。

当たり前だ、と思った。

落ち着きが戻って、俺は歩き続けた。

この角を曲がれば、家までもうすぐだ。

いつもの角を、右に曲がった。

奥の路地から、白い傘を差した人が出てきた。

え、と思った。

その人は、路地を曲がって、こちらへ歩いてきた。

俺は、元来た道を走っていた。

走りながら、一つ前の路地を曲がった。

曲がった路地の奥から、白い傘を差した人が歩いてきた。

道の真ん中まで出てきて、止まった。

止まったまま、不自然な動きで、ぐるりとこちらへ向き直った。

首だけが先に回って、体が遅れて付いてくるような動きだった。

そして、歩みを進めてきた。

住宅街の交差点には、街灯がある。

白い傘と、白い服が、はっきり見えた。

服は、雨の中なのに、どこも濡れて見えなかった。

顔は、傘の影で見えなかった。

深夜だというのに、俺は大声を出した。

持っていた傘と、コンビニの袋を、放り投げた。

一目散に、その場から走った。

後で思えば、あのとき俺は、自分の家の方向を見失っていた。

逆に曲がれという友人

走りながら、友人に電話をかけた。

「今から行くから、家に入れてくれ」

友人は寝る間際だった。

数時間前に送ったばかりだったのに、いいよ、と言ってくれた。

助かった、と思った。

大通りを越え、コンビニを過ぎた。

店の明かりの中に、山根さんの背中が見えた。

入ろうとは、思わなかった。

道路を横断して、曲がろうとした先に、白い傘を差した人が立っていた。

もう、なぜ、としか考えられなかった。

曲がるのをやめて、次の路地を目指した。

そこでも、奥から、白い傘を差した人が出てきた。

俺は、通りを先へ進んだ。

携帯が鳴った。

おかしなことに、着信ではなかった。

不在着信の表示だった。

三件。

友人からだった。

時間を見た。

午前四時を、回っていた。

俺の中では、まだ十分ほどしか経っていなかった。

一時間近く、過ぎていた。

町から、出ていない。

曲がれないから、この通りを抜けてもいない。

住んでいる町が、知らない町のようだった。

友人に、電話をかけた。

「まだ? 今どこ? 来ないの?」

眠そうな声だった。

「行きたいけど無理。曲がれない」

「何それ」

「曲がった先に、白い傘を差した何かが、先回りしてる」

きちんと言えたか、分からない。

友人は、少し黙った。

それから、言った。

「何言ってるかわかんないけど。先回りされるなら、追わせればいいんじゃない」

「え? え? 意味わかんねえ」

俺は、怒鳴っていた。

友人は、怒らなかった。

ゆっくり、丁寧に、言い直した。

「一度、曲がりたい方向と逆に曲がるでしょ」

「うん」

「そしたら、前に先回りされてるんだよね」

「うん」

「それから後ろを向いて、追われる形でまっすぐ進めば、行きたい方向に行けない?」

俺は、何も考えられなかった。

縋りたい一心で、わかった、と言った。

言われた通りにした。

行きたい方向と、逆に曲がった。

曲がった先に、白い傘を差した人が居た。

後ろを向いて、まっすぐ走った。

追いかけてはこなかった。

正確には、こちらへ歩いてはくる。

けれど、俺が曲がった角のところまで来ると、戻っていく。

別の角を曲がろうとすると、その先の道から出てくる。

路地に入ろうとしても、同じだった。

俺は、逆に曲がって、戻る。

それだけを繰り返した。

行ける、と思った。

その途端、後ろから音がした。

「ボオオ、オ、ア、」

声なのだけれど、言葉ではなかった。

喉の奥で水が鳴るような、低い音だった。

雨の音より、近かった。

振り返らなかった。

振り返ったら足が止まると、分かっていた。

周囲に、誰も居なかった。

あれが喋っている、と感覚で分かった。

俺は、足に力を入れた。

友人の家の近くまで来た。

電話で伝えると、家の前まで出て待っていると言ってくれた。

本当に、家の前に立っていた。

「びしょびしょじゃん。傘どうしたの」

笑っていた。

少し、安心した。

俺は、見たことを説明した。

走ってきた道の先を、一緒に見てもらった。

暗くて、遠かった。

それでも、はっきりと、向こうの十字路に、白い傘と白い服が立っていた。

友人の顔が、変わった。

二人で、家に入った。

鍵を閉めた。

鍵を閉めても、少し遠くから、低い声のような音がずっと聞こえていた。

友人の飼っている猫が、窓と玄関を、行ったり来たりしていた。

毛を立てて、何も鳴かずに。

俺たちは、電気を点けたまま、朝を待った。

白い傘を差した人の声

明るくなって、車の音がうるさくなってきた頃には、声のような音は消えていた。

猫は、玄関の前で、丸くなっていた。

友人の母親が起きてきて、俺の濡れた服を見て、何も聞かずに風呂を沸かしてくれた。

その日の内に、二人で県内の神社に行った。

御祓いで有名な、古い神社だった。

長い石段を上ると、鈴の緒だけが新しかった。

鈴を鳴らすと、乾いた音がした。

神主さんは、かなりの高齢だった。

俺の話を、途中で止めずに聞いた。

聞き終わって、一言だけ言った。

「忘れたほうがいい」

「あれは、何だったんですか」

「理解出来ない者は、数多くいる。それが何かは、私にも分からん」

それ以上は、教えてくれなかった。

帰り道、友人が言った。

「あの猫、人が来ても普通は隠れるんだよ」

「うん」

「昨夜は、窓を見てた。ずっと」

友人は、その話を自分の祖母にもしたらしい。

祖母は、ただ一言、傘は返しに行くな、と言ったそうだ。

その意味が、俺にはその夜、分かることになった。

俺は、放り投げた傘と袋を取りに、コンビニへ行った。

昼の店は、明るかった。

弁当の袋は、路地の端に落ちていた。

紺色の傘は、どこにもなかった。

路地の端から端まで、三度歩いて探した。

店に入ると、山根さんが居た。

「おう。朝、お前の袋が落ちとったって、配達の人が言うとった」

「傘、見ませんでした」

「傘か。あったぞ」

山根さんは、レジの後ろから、一本の傘を出した。

「お前、昨夜これ忘れていったろ。傘立てに一本だけ残っとったから」

店員が差し出したのは、俺のではない、白い傘だった。

乾いていた。

持ち手は木で、どこの店の札も付いていなかった。

俺は、受け取った。

断る言葉が、出なかった。

「俺のは、紺です」

そう言えたのは、店を出てからだった。

家に帰ると、母が、その傘を見て言った。

「いい傘じゃない。誰の」

「もらった」

嘘ではなかった。

母は、それを玄関の傘立てに立てた。

俺は、止めなかった。

止める理由を、説明できなかった。

その夜、俺は玄関の電気を点けたまま寝た。

後になって、潮首の宿を出るときの作法という話を読んだ。

帰る順番を間違えると、元の道に戻れなくなる話だった。

空き家の内側から閉まる鍵にも、似た手触りがあった。

俺の町のあれが、何かの作法だったのかは、分からない。

碁盤の目の道が、あの夜だけ、別の目になっていたのかもしれない。

今思い出しても、まだ冷静に書けていないと思う。

これを読んだ誰かが、同じことに遭ったときは、友人の言葉を思い出してほしい。

曲がりたい方と、逆に曲がる。

それから、追わせる。

玄関の白い傘は、今も使っていない。

捨てることも、返すことも、できていない。

雨の夜、玄関を開けると、傘の先が少し濡れていることがある。

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