二階の部屋とさしあげますから

民家

もう十年以上前の、大学時代の話だ。

実家の近所の運送会社で、荷分けと助手のアルバイトをしていた。

そのとき、俺は、一人の友人が、後ろ向きに階段を昇っていくのを、見た。

彼は、歯を剥き出したまま、何かを、繰り返し呟いていた。

「さしあげますから」と。

それが、誰に向けた言葉なのか、今も、俺には、分からない。

運送会社と空き家の倉庫

バイト先は、町外れの国道沿いにある、小さな運送会社だった。

現場を仕切っていたのは、社長の息子で、二つ年上の若旦那。

気さくで、面倒見が良くて、バイトにも、よく缶コーヒーをおごってくれた。

バイト仲間には、同じ大学のA君がいた。

A君は、自他ともに認める、アホキャラだった。

バイト初日に、荷物の宛名を逆さに読んで、三十分、迷子になったこともある。

それを、本人が、一番大きな声で笑っていた。

けれど、明るくて、元気で、同僚としては、すごく良い奴だった。

重い荷物を持つときも、いつも、真っ先に手を出した。

昼休みには、三人で、コンビニの弁当を、トラックの荷台に腰かけて食べた。

若旦那が、大学生の頃の武勇伝を話し、A君が、大げさに驚いてみせる。

俺は、それを聞いているだけで、十分に、楽しかった。

ああいう時間が、ずっと続くものだと、疑っていなかった。

会社は国道沿いにあったが、隣町の商店街の近くにも、倉庫があった。

倉庫といっても、普通の、二階建ての民家だ。

一階が、広い土間になっていた。

何年か前まで、そこで商売をしていた家だという。

借金で店を畳んで、住人は、居なくなった。

その家を、運送会社が、借金のかたとして、手に入れたらしい。

けれど、すぐに使う当てもなく、空き家のまま、放置されていた。

窓には、雨戸が、ぴったりと、閉められていた。

近所の人は、その家の前を通るとき、なぜか、少し早足になった。

夏でも、玄関の前だけが、ひんやりしていると、噂があった。

俺は、そんな噂を、真に受けては、いなかった。

通りかかる人は、誰も、その家に目を向けなかった。

ある日、若旦那が、嬉しそうな顔で、俺に写真を見せてきた。

「見てみ? あの倉庫で、写真撮ったらコレよ!」

薄暗い民家の中を、撮った写真だった。

どの写真にも、白っぽい円い光や、煙のようなものが、写り込んでいた。

「うわっ、これ、心霊写真ですか?」

「な? 凄いやろ」

若旦那は、鼻の穴を、膨らませた。

俺は、愛想笑いで、写真を、返した。

あのとき、もう少し、真剣に、見ておけばよかった。

「凄いやろー。あの家は、出るんだよ」

若旦那は、誇らしげに、写真を一枚ずつ、めくって見せた。

光の円は、どれも、廊下の奥の、同じ辺りに、集まっていた。

そう気づいたが、俺は、口には、出さなかった。

人が、はっきり写っているわけではなかった。

だから、俺は、『レンズのゴミじゃないのか』と、半信半疑だった。

それでも若旦那は、その家を、倉庫として使うことに決めた。

「出る家なら、泥棒も、入らんやろ」

若旦那は、そう言って、豪快に笑った。

社長は、その話を聞いても、何も、言わなかった。

ただ、帳面から、顔を上げずに、小さく、咳払いをしただけだった。

二階には上がるなという言葉

荷物を移す日は、よく晴れた、蒸し暑い午後だった。

俺と、若旦那と、A君で、トラックに荷物を積んでいた。

そこへ、普段あまり現場に来ない社長が、やって来た。

社長は、俺たちを呼んで、言った。

「中崎の家に、行くんやろ」

「はい」

「二階には、上がるなよ」

何のことだか、分からなかった。

倉庫として使うのは、一階の土間だけと、聞いていた。

若旦那も、「あーはいはい」と、聞き流していた。

だから、俺も、深くは、考えなかった。

荷台の鍵を閉めながら、俺は、ふと、社長の背中を、見た。

額には、薄く、汗が滲んでいた。

社長は、事務所へ戻る途中で、一度、こちらを振り返った。

何か言いたそうな顔だった。

けれど、結局、何も言わずに、扉の向こうへ消えた。

あの背中を、今でも、よく思い出す。

三人で、トラックに乗って、馬鹿話をしながら、その家へ向かった。

到着して、正面のシャッターを開けると、かび臭い空気が、流れ出た。

長いこと、空気の入れ替えをしていないようだった。

入ってすぐは、四畳半ぐらいの土間になっている。

その奥に、茶の間と、台所があった。

さらに奥に、風呂と、便所。

向かって左側には、二階へ上がる、細い木の階段が見えた。

奥行きのある家だった。

『二階には、二間ぐらい、あるんだろうな』と、考えていた。

荷物を、土間に運び込んで、棚に並べていった。

作業は、順調だった。

けれど、ときどき、天井のあたりから、ぎし、と、小さな音がした。

「古い家だから、仕方ないっすよ」と、A君が笑った。

それでも、音は、一定の間隔で、続いていた。

ぎし。ぎし。

誰かが、二階の床を、ゆっくり、歩いているような音だった。

俺は、気のせいだと、自分に言い聞かせた。

俺も、「そうだな」と、答えた。

積み込みが終わると、若旦那が、ニヤニヤしながら、言った。

「……なあ、二階、行ってみようや」

俺は、その日、バイトが終わったら、友人と呑む約束があった。

本音を言えば、早く帰りたかった。

けれど、A君は、「行っちゃいますかぁ?」と、ノリノリだった。

そうなると、俺も、嫌とは、言えなくなった。

同年代の友人の前で、怖がっているところを、見せたくなかったのだと思う。

若旦那は、懐中電灯を、一本、手に取った。

電気は、もう、止められていた。

階段の電球は、スイッチを押しても、点かなかった。

懐中電灯の光が、階段の壁を、円く、照らした。

壁紙には、小さな手形のような染みが、いくつも、残っていた。

俺は、見なかったふりを、した。

若旦那の背中が、いつもより、少し、小さく見えた。

A君だけが、場違いなほど、楽しそうだった。

軋む階段と後ろ向きの足音

靴を脱いで、若旦那、俺、A君の順に、階段を昇った。

やたらに軋む、木の階段だった。

一段ごとに、足の裏へ、湿った冷たさが、伝わってきた。

昇り切ると、薄暗い廊下が、まっすぐ伸びていた。

右側に、襖の部屋が、三つ並んでいる。

一番手前の部屋を、開けた。

襖は、重たくて、レールに、引っかかった。

力を込めて、ぐいと引くと、ようやく、開いた。

土間の真上にあたる、三畳ぐらいの物置だった。

中には、古い箱が、いくつか、積まれていた。

埃の匂いが、むっと、鼻をついた。

真ん中の部屋は、六畳間だった。

焼けた畳が、あるだけだった。

一番奥の部屋も、同じ、六畳間だった。

そこも、空っぽで、窓の障子が、色褪せて、破れていた。

白状すれば、俺は、ちょっとだけ、スリルを楽しんでいた。

社長が、あんなことを言っていたからだ。

『何か、あるかもしれない』と、期待していた。

けれど、ぶっちゃけ、何も起きなかった。

A君は、「何もないすねー」と言いながら、携帯で、写真を撮りまくっていた。

フラッシュが、薄暗い廊下を、ぱっと、白く染めた。

「まー、こんなもんだ。帰るべ」

若旦那が、先頭に立って、階段を降り始めた。

そのあとに、俺、A君の順で、続いた。

拍子抜けした気分だった。

階段の途中で、背中に、視線のようなものを、感じた。

けれど、後ろには、A君しか、いない。

俺は、気のせいだと、思おうとした。

それが、最後の、安心だった。

「トントントン」と、俺は、土間まで降りた。

そして、A君を、振り返った。

様子が、おかしかった。

A君は、階段の一番下まで、降りてきていた。

いつもニヤニヤしている顔が、強張った、真顔になっていた。

そして、なぜか、歯だけを、ゾロっと剥き出していた。

じっと、立っていた。

「おい、A?」

返事は、なかった。

次の瞬間、A君は、動いた。

ビデオの逆再生のように、今降りてきた階段を、こちらを向いたまま、後ろ向きに昇り始めた。

俺も、若旦那も、『冗談だろう』と、思った。

けれど、A君は、止まらなかった。

「トントントン」と、後ろ向きで、昇っていく。

足元を、確認することも、なかった。

手すりに、つかまる様子も、なかった。

ただ、膝だけが、機械のように、一定の間隔で、上下していた。

俺は、喉が、からからに、渇いていた。

顔は、ずっと、こちらを向いていた。

真顔で、歯を剥き出したままの、顔だ。

段を踏み外す気配は、少しも、なかった。

A君は、階段を昇り切ると、廊下の奥へ、後ずさっていった。

そして、見えなくなった。

何か、只事ではない、と感じた。

胸の奥で、鼓動が、どくん、どくん、と鳴っていた。

階段を駆け上がる俺の足音が、やけに、遠くに聞こえた。

俺と若旦那は、階段を、駆け上がった。

廊下の突き当たりで、A君は、正座していた。

一番奥の部屋の、襖の前だった。

上半身が、ふらーりふらーりと、揺れていた。

顔は、泣き笑いのようで、ほろ酔いの人のように、目を瞑って、へらへら笑っていた。

「おいA!」

何度、呼びかけても、反応は、なかった。

若旦那は、A君の肩を、揺すった。

けれど、その肩は、岩のように、固かった。

指先が、触れた瞬間、若旦那は、手を引っ込めた。

「……冷たい」

若旦那は、小さく、そう呟いた。

さしあげますからと言う声

そのとき、A君の前の襖が、ゆっくりと、開いた。

誰も、触れていないのに。

襖の向こうは、真っ暗だった。

窓があるはずなのに、光が、一筋も、入っていなかった。

湿った畳の匂いが、廊下まで、流れ出てきた。

A君は、正座したまま、襖のほうへ、少しずつ、動き始めた。

つま先だけで、「ずっ、ずっ」と、畳を滑るように。

体は、そのまま、部屋の中へ入っていった。

襖が、またゆっくりと、閉まった。

血相を変えた若旦那が、俺を押しのけて、廊下を走った。

襖を、バーンと、開けた。

俺も、あとを追った。

部屋の真ん中で、A君は、うつ伏せに横たわっていた。

身体を伸ばした、気を付けの、姿勢だった。

さっきまで、正座していたはずなのに。

足を、揃えて、顔を、畳に伏せて。

まるで、誰かに、深く、頭を下げているようだった。

二人で、A君を、引きずり起こした。

体は、びっくりするほど、軽かった。

まるで、中身が、抜けてしまった人形のようだった。

そのとき、A君が、何かを呟いていることに、気づいた。

耳を近づけると、こう聞こえた。

「さしあげますから。さしあげますから。さしあげますから。さしあげますから。さしあげますから」

抑揚の、ない声だった。

お経のように、一定の調子で、繰り返されていた。

誰に、何を、さしあげるというのか。

命、なのか。体、なのか。

それとも、もっと別の、何かなのか。

答えは、どこにも、書かれていなかった。

俺は、背筋が、ぞくりとした。

とにかく、外へ出なければ、と思った。

二人でA君を、引きずって、階段を降りた。

いくら呼びかけても、A君は、正気に戻らなかった。

頬を、軽く叩いても、瞼は、動かなかった。

口だけが、別の生き物のように、ぱくぱく、動いていた。

俺は、この部屋に、他の誰かが、居る気がしてならなかった。

視界の隅で、部屋の奥の暗がりが、わずかに、濃くなった。

そこに、誰かが、膝を揃えて、座っているように見えた。

目を凝らすと、何も、居なかった。

それでも、俺は、確かに、見られている、と感じた。

若旦那が、携帯で、救急車を呼んだ。

若旦那の指は、震えて、何度も、番号を押し間違えた。

「住所は、中崎の……いや、えーと」

電話口の声が、落ち着いて、場所を、確認してくれた。

待っている間も、A君の唇は、動き続けていた。

俺と若旦那は、廊下で、ただ、立ち尽くしていた。

二階の奥から、誰かが、息を吐くような音が、聞こえた気がした。

俺たちは、それを、聞こえなかったことに、した。

「さしあげますから」

救急車のサイレンが、近づいてきたとき、A君の声は、ようやく、止まった。

救急隊員が、A君を、担架に乗せた。

階段を降りるとき、隊員の一人が、ふと、二階を見上げた。

すぐに、目を逸らして、何も、言わなかった。

その仕草が、妙に、頭に残っている。

入院とその後の話

尻すぼみで、申し訳ないけれど、その後のことは、断片的にしか、知らない。

翌日、若旦那は、社長に、無茶苦茶、怒られていた。

事務所の衝立の向こうで、話の内容は、よく聞こえなかった。

ただ、他の社員さんが、ポロッと、漏らした。

借金で店を畳むとき、あの家で、不幸があったらしい。

もちろん、社長は、知っていた。

御祓いも、済ませてあったという。

「綺麗になったら、取り壊すつもりだった」とか、何とか。

それ以上の詳しいことは、若旦那の口からも、聞かせてもらえなかった。

A君は、精神的な発作だろう、ということで、入院した。

何度か見舞いに行くうちに、A君のお母さんから、話を聞いた。

A君は、夜になると、毎晩、ベッドから出る。

そして、床で、うつ伏せになっているのだという。

看護師さんが、何度、ベッドへ戻しても、同じだったそうだ。

あの日、A君が写真を撮っていた携帯の画像を、見せてもらえないか、頼んでみた。

けれど、お母さんは、首を横に振った。

「もう、お寺さんに、預けてありますので」

写っていたものは、結局、見せてもらえなかった。

お母さんは、小さな声で、続けた。

「あの子、夜中に、誰かと、話しているみたいなんです」

「何を、話しているんですか」

「……ありがとうございます、と、言うんです」

俺は、返す言葉が、見つからなかった。

祖母の家の山道で出会った着物の少女の話や、地図にだけ残る裏の町の話のように、理由の分からない出来事は、世の中にいくつもある。

しばらくして、俺は、大学が忙しくなり、バイトを辞めた。

やがて、A君の見舞いにも、行かなくなってしまった。

最後に行ったとき、A君は、もうガリガリに痩せていた。

頬が、こけて、目だけが、大きく見えた。

俺が名前を呼んでも、A君は、天井を見つめたままだった。

それでも、毎晩、床にうつ伏せに寝ていたそうだ。

お母さんは、帰り際に、俺に、小さく頭を下げた。

「あの子と、仲良くしてくださって、ありがとう」

その言葉が、胸に、重く、残っている。

『軽はずみに、あんなことをするんじゃなかった。俺にも、何か起きるかも』

そうビビっていた時期も、あった。

けれど、結局、俺の身の上には、何も起きなかった。

今のところは、ね。

大学を卒業して、就職して、結婚もした。

それでも、ときどき、あの階段の軋みが、耳の奥で、鳴る。

「トントントン」と、後ろ向きに昇っていく足音が。

バイトしていた運送会社は、まだ、ある。

この間、帰省したときに、前を通りかかった。

あの倉庫は、なくなって、駐車場になっていた。

白線の引かれたアスファルトの上に、夕日が、長く伸びていた。

俺は、車を停めて、しばらく、そこを眺めていた。

どこにも、二階の影は、なかった。

A君は、引っ張られてしまったんだろうな、と思う。

正座したまま、移動していったのは、つま先だけで「ずっ、ずっ」と進む感じだった。

それとも、本当に、正座の姿勢のまま、身体が、移動していったのだろうか。

後者だったとしたら、相当、怖い。

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