岡山の笠岡に、海を埋め立ててつくった、まっすぐな道ばかりの土地があります。
干拓地です。
見渡すかぎり畑で、電柱と、風を防ぐための細い並木しかありません。
私が通っていた小学校は、その干拓地の縁に建っていました。
三十年以上前の話になります。
いまも、時計の秒針を見ていると、あの昼休みのことを思い出します。
昼休みの終わりは、サイレンで知らされた
うちの学校には、昼休みの終わりのチャイムがありませんでした。
代わりに、干拓の放水路のサイレンが鳴りました。
水門を動かすときに鳴らすものです。
潮の具合で、鳴る時刻は毎日少しずつずれます。
三分早い日もあれば、七分遅い日もありました。
※
だから私たちは、サイレンが鳴るまで校庭にいてよかったのです。
これは、いま考えるとずいぶん妙な決まりでした。
先生も、そのことを不思議とは言いませんでした。
干拓地では、時計より水のほうが偉いのだと、みんなが思っていました。
※
もうひとつ、決まりがありました。
サイレンが鳴らなかった日は、校舎に入ってはいけない。
そういう言い伝えです。
六年間で、鳴らなかった日は一度もありませんでした。
だから誰も、その決まりの意味を考えませんでした。
校庭の隅にあった、ゼロの石
校庭の南の隅に、四角いコンクリートが埋まっていました。
地面から三十センチほど頭を出しています。
上面に、細かい数字が彫ってありました。
私たちはそれを「ゼロの石」と呼んでいました。
※
鬼ごっこのベースにしたり、缶蹴りの缶を置いたりする場所です。
先生は、干拓の測量に使う印だと言っていました。
干拓地は、年々わずかに沈むのだそうです。
だから高さを測る印がいる。
そういう説明でした。
※
ゼロの石の数字は、毎年、少しずつ書き足されていました。
上から下へ、細い字で並んでいきます。
私は五年生のとき、数えたことがあります。
十三ありました。
学校ができてから四十年ほどでしたから、毎年ではありません。
そのことに引っかかったのは、ずっとあとです。
十秒だけ、世界が止まった
六年生の、六月でした。
よく晴れて、風の強い日です。
干拓地は風が強く、砂がいつも目に入ります。
その日、私は校庭の真ん中でボールを追っていました。
※
急に、音が消えました。
耳が塞がった感じではありません。
音そのものが、最初から無かったようになったのです。
そして、目に映るものが、全部止まりました。
※
校庭の砂が、落ちる途中で止まっていました。
風で舞い上がった砂粒が、そのままの位置に浮いています。
跳ねていたボールも、地面から少し離れたところで静止していました。
止まったというより、最初からそこに描かれていたようでした。
※
匂いも、風の圧力も、暑さも、ありませんでした。
残っていたのは、見えるということだけです。
自分の体があるのかどうかも、よく分かりませんでした。
時間にして、十秒ほどだったと思います。
数えたわけではありません。
ただ、そのくらいの長さでした。
※
「あっ、止まっとる」
頭の中でそう思った瞬間、世界がずんと動き出しました。
砂が落ち、ボールが跳ね、音が戻りました。
継ぎ目は、まったくありませんでした。
誰も、私が立ち止まっていたことに気づいていませんでした。
その日、サイレンは二度鳴った
昼休みの終わりに、サイレンが鳴りました。
私たちは校舎へ戻りました。
ところが、教室に入って少ししてから、もう一度鳴ったのです。
私は窓のほうを見ました。
※
同じ列の宮地も、窓を見ていました。
宮地とは、当時あまり仲がよくありませんでした。
理由は覚えていません。
小学生の仲の悪さなど、たいてい理由がないものです。
※
放課後、私は職員室に行きました。
水門の記録は、事務室に控えが来ることになっていたのです。
その日の欄には、一回としか書かれていませんでした。
先生も「一回しか聞いとらん」と言いました。
※
二度目を聞いたのは、私と宮地だけでした。
そのことを確かめたのは、ずいぶんあとになってからです。
三人組が、二人になっていた
その日を境に、クラスの中で、はっきりと変わったことがありました。
いちばん仲のよかった三人組が、ばらばらになったのです。
岸本と、田中と、早瀬の三人でした。
いつも一緒に給食を運び、いつも一緒に帰っていました。
※
それが、あの週から、岸本と田中の二人になりました。
喧嘩をしたようには見えませんでした。
早瀬が仲間外れにされている様子もありません。
ただ、二人になっていました。
※
私は、岸本に訊きました。
「早瀬とは、もうつるまんの」
岸本は、心底きょとんとした顔をしました。
「誰や、それ」
冗談を言っている顔ではありませんでした。
※
それから私は、何人にも同じことを訊いて回りました。
誰も、早瀬を知りませんでした。
担任も知りませんでした。
あの三人組を三人だと言うのは、この町で私だけでした。
早瀬のことを、私はよく覚えている
早瀬について、私が覚えていることを書いておきます。
背は、クラスで前から三番目でした。
声が低く、笑うときだけ少し高くなりました。
給食の牛乳を、いつも最後まで残す子でした。
※
家は、干拓地の中ほどの農家だと言っていました。
バスで通っていて、朝はいつも岸本と田中より早く来ていました。
教室の窓を開けるのが、早瀬の役目でした。
私はそれを、六年間ずっと見ています。
※
三人組は、給食の食缶をいつも一緒に運びました。
重い日は、早瀬が真ん中を持ちます。
真ん中がいちばんきついのだと、早瀬は自分から言っていました。
「端やと、腕が伸びるけん楽やろ」
そう言って笑った顔まで、私は思い出せます。
※
けれど、その顔を知っている人が、私のほかにいません。
岸本も田中も、食缶は二人で運んでいたと言います。
二人で運ぶには重かったはずだと言うと、二人は同じことを答えました。
「重かったよ。ずっと重かった」
重いと感じていた記憶だけが、二人には残っているのです。
名簿と写真が、食い違っていた
六年生の学級名簿を、私は卒業のあとに確かめています。
三十八人です。
早瀬の名前は、ありませんでした。
※
けれど、学級写真は違いました。
後列の右から四番目に、早瀬が写っています。
私の記憶にある顔と、まったく同じです。
襟の詰まった、少し大きい上着を着ています。
※
写真の下には、名前が刷ってありました。
そこには、早瀬の位置だけ、空白があります。
印刷の落ちではありません。
前後の名前は、詰められずに、そのままの位置に並んでいます。
空白のぶんだけ、きちんと場所が取ってあるのです。
※
同じ写真を、岸本にも見せました。
岸本は、後列の右から四番目を指さして言いました。
「ここ、誰も写っとらんよ」
私には、はっきり見えていました。
宮地の記憶は、私と反対だった
宮地は、あの週から、急に私に話しかけてくるようになりました。
それまで一言も口をきかなかった相手です。
しかも、昔からの友達のような話し方でした。
※
中学に上がってから、一度だけ訊いたことがあります。
「おまえ、前は俺のこと嫌いやったやろ」
宮地は、本気で驚いていました。
「なんでや。ずっと仲ようしとったやんか」
※
宮地の中では、私たちは一年生からの友達でした。
私の中では、六年生の六月までは口もきかない相手でした。
どちらかが間違っているのだと、当時は思いました。
いまは、そう思っていません。
あの十秒で、私と宮地は、互いの側へ一歩ずつ入れ替わったのではないか。
そう考えると、二度目のサイレンを二人だけが聞いた理由も、なんとなく通ります。
水門の記録を、もう一度見た
同窓会の名簿を作った年に、私は土地改良区の事務所を訪ねました。
三十年前の水門の操作記録が、まだ残っていました。
分厚い簿冊で、日ごとに回数と時刻が書いてあります。
※
あの六月の日を開きました。
回数の欄は「一」でした。
ただ、その一の字が、少し変でした。
下に、消したあとがあるのです。
インクの色が違う線で、上から書き直されていました。
※
消えている下の字は、光にかざすと読めました。
「二」でした。
担当の方に訊くと、書き間違いの訂正はよくあることだと言われました。
それはそうでしょう。
けれど、その簿冊の中で、訂正はその一箇所だけでした。
四十年ぶんで、たった一箇所です。
※
帰り際、事務所の年配の方が、私を呼び止めました。
「あんた、あの学校の子か」
そうだと答えると、その人は少しだけ黙りました。
「サイレンが二回鳴る日はな、うちらは畦に立たんことにしとった」
理由は教えてくれませんでした。
三十年後、同窓会の名簿をつくった
四年前、同窓会の幹事をやることになりました。
名簿を作る仕事です。
卒業名簿を元に、住所を追いかけていきました。
※
三十八人のうち、三十六人まで連絡がつきました。
残りの二人は、住所が古いままでした。
そして、名簿の最後の行に、印刷されていない一行がありました。
※
手書きで、こう書いてありました。
早瀬。
住所の欄には、笠岡市干拓地、とだけあります。
番地はありません。
※
その名簿は、前回の幹事から引き継いだものです。
前回の幹事に電話をして訊きました。
「その行、あんたが書いたんと違うんか」
向こうは、笑って否定しました。
「わしの字と違うわ。というか、その名前、誰や」
入れ替えの日
あとから、干拓地の古い方に、その話を聞きました。
水門を二度鳴らす日というのが、年に何度かあるのだそうです。
内側の水を落として、外の潮を少しだけ入れる日です。
「入れ替え」と呼ばれていました。
※
水を入れ替えると、田の塩気が変わります。
だから作物にとっては大事な日です。
その日は、大人は水路のそばに近づきませんでした。
落ちると危ないから、というのが表向きの理由でした。
※
けれど、その方はこうも言いました。
「入れ替えの日はな、こっちとあっちの水が、いっぺん同じ高さになるんじゃ」
同じ高さになった一瞬だけ、流れが止まる。
流れの止まった水は、どちらのものでもなくなる。
だから、そのあいだは何も動かさない。
それが、干拓地の年寄りの言い方でした。
※
私は、その話を聞きながら、校庭の砂のことを考えていました。
あの十秒、砂も、ボールも、どちらのものでもなくなっていたのかもしれません。
そして私と宮地は、そのあいだに、どちらのものでもない場所にいたのです。
戻ってきたとき、二人が同じ側に戻れたという保証は、どこにもありません。
干拓地へ行った日
去年の秋、私は学校の跡地へ行きました。
小学校は十年前に統合されて、いまは建物がありません。
更地に、農機具の倉庫が二棟建っています。
※
校庭のあった場所は、そのまま平らな土でした。
南の隅を探すと、ゼロの石が残っていました。
草に埋もれていましたが、上面の数字は読めました。
私は指で草をどけて、数えました。
※
十四ありました。
私が五年生のときに数えたときは、十三です。
学校が無くなったあとに、一つ増えていることになります。
※
市の土地改良の資料を、あとで見せてもらいました。
ゼロの石は、高さを測るための基準ではありませんでした。
あの数字は、測量の「合わなかった日」を刻んだものです。
※
干拓地の測量では、同じ日に二度測って、値を突き合わせます。
ほとんどの日は合います。
合わない日だけ、日付を石に刻んで残す。
そういう決まりだったのだそうです。
あれは高さではなく、合わなかった日の数でした。
※
私は、十四のうちの一つを探しました。
六年生のあの六月の日付が、確かにありました。
上から九番目でした。
石が、二つある
最後に、もう一つだけ書いておきます。
帰り際に振り返ったとき、私は妙なものを見ました。
南の隅に、同じ形の石が、二つ並んでいたのです。
※
行きに見たときは、一つでした。
私は戻って、二つとも上面を確かめました。
片方には、十四の数字。
もう片方には、一つだけ、数字が刻んでありました。
その日の日付でした。
※
私は、それ以上そこにいられませんでした。
車に戻って、来た道をまっすぐ走りました。
干拓地の道は、どこまでもまっすぐです。
信号は一つもありません。
それが、あの日はやけに長く感じられました。
鳴らなかった日のこと
六年間で、サイレンが鳴らなかった日は一度もないと書きました。
正確には、一度だけあります。
卒業式の日です。
※
その日は水門を動かさなかったのだと、あとで知りました。
けれど当時の私たちは、そんな理由を知りません。
式が終わって校庭に出たとき、誰かが言いました。
「今日、鳴っとらんな」
言ったのは、岸本でした。
※
言い伝えでは、鳴らない日は校舎に入ってはいけないことになっています。
私たちは、もう式のあとで、校舎から出たところでした。
入る用事はありません。
それなのに、何人かが、ずっと昇降口のほうを見ていました。
見ていた子の中に、宮地がいました。
※
私は、そのとき初めて宮地に話しかけました。
少なくとも、私の記憶ではそうです。
「なんか、おるん」
宮地は、しばらく答えませんでした。
それから、こう言いました。
「窓、開いとる」
六年三組の窓が、一つだけ開いていました。
開けるのは、いつも早瀬の役目でした。
いまも、秒針を見てしまう
宮地とは、いまも年に一度は会います。
あの話は、二人ともしません。
しないことにしている、というほど固い約束でもありません。
ただ、話し始めると、どちらの記憶を基準に話すのかが決められないのです。
※
学級写真は、いまも私の家にあります。
後列の右から四番目には、いまも早瀬が写っています。
妻に見せたら、そこには誰も写っていないと言われました。
娘に見せたら、写っていると言いました。
そのことを、私はまだ、どう考えたらいいのか分かりません。
※
学校の名簿にまつわる不思議な話としては、名簿にいない少年という話も知られています。
卒業写真をめぐる出来事なら、並行世界の自分が立つ卒業写真が近いかもしれません。
※
私はいまも、時計の秒針を見てしまいます。
一度だけ、止まる瞬間があるのではないかと思うのです。
止まったら、そのときは動かずにいようと決めています。
動いてしまえば、また、どちらかへ一歩入れ替わってしまう気がするからです。
あの日の私は、頭の中で言葉にしてしまいました。
止まっていると、思ってしまったのです。