出張で、山あいの古い温泉旅館に泊まった夜のことです。
その日は朝から得意先を四軒もまわり、私はくたくたに疲れきっていました。
案内されたのは、館の一番奥にある、古めかしい八畳の和室でした。
廊下のいちばん突き当たりで、両隣の部屋には、誰も泊まっていないようでした。
窓の外には、墨を流したような闇の山が、ぼんやりと連なっていました。
電灯の傘が古く、部屋全体が、すこし黄ばんだ色に沈んで見えました。
鏡台の鏡には、薄い布がかけられていました。
なぜ布がかけてあるのか、そのときの私は気にも留めませんでした。
床の間には、色あせた掛け軸が一幅、かかっていました。
何が描かれているのか、薄暗くてよく見えませんでした。
部屋の隅には、古い行灯が置かれ、ほこりをかぶっていました。
どこか、時間が止まったような部屋でした。
私は深く考えず、荷物を畳の上に放り出しました。
畳の匂いと、かすかにかび臭い空気が、妙に懐かしく感じられました。
夕食を済ませ、温泉にゆっくり浸かると、もう瞼が落ちそうでした。
露天風呂からは、月明かりに照らされた渓谷が見えました。
ぬるめの湯に肩まで浸かると、一日の疲れが溶けていくようでした。
湯あがりに飲んだ瓶ビールも、効いたのだと思います。
部屋に戻る廊下で、もう、足元がふらつくほどでした。
私は布団に倒れ込むようにして、すぐに眠りに落ちました。
枕に頭をつけた瞬間の記憶が、もう曖昧なほどでした。
その日の私は、それほどまでに疲れ果てていたのです。
得意先の部長に長々と説教をされ、帰りの電車も乗り過ごしました。
とにかく、横になれることが、何よりのごちそうでした。
思えば、ここ一週間ほど、まともに眠れていませんでした。
締め切りに追われ、夜遅くまで資料を作る日が続いていたのです。
身体の芯から、鉛のように重い疲れが、抜けずにいました。
だからこの夜の眠気は、もう、抗いようのないものでした。
※
どれくらい経った頃でしょうか。
何か、ただならぬ気配を感じて、私はうっすらと目を開けました。
押し入れの襖が、すうっと、音もなく細く開いていたのです。
その隙間の暗闇から、白く細い手が、にゅっと一本、伸びてきました。
続いて二本、三本と、青白い手がわらわらと這い出してきます。
普通なら、ここで悲鳴をあげる場面でしょう。
ところが私を襲ってきたのは、恐怖よりも、それを上回る、強烈な眠気でした。
「ああ……なんか出てるなあ」
私はぼんやりと、十秒ほど考えました。
相手をしてやったほうがいいのだろうか、とも思いました。
けれど、どうしようもなく眠いのです。
申し訳ないけれど、無視して寝ることにしました。
幽霊には悪いですが、こちらにも事情があります。
明日の朝には、大事な契約の最終確認が控えていました。
寝不足の頭で商談に臨むわけには、いかないのです。
私はそっと目を閉じ、手のことは頭の隅へ追いやりました。
不思議と、恐怖はまったく湧いてきませんでした。
眠気というものは、恐怖よりも強いのだと、このとき初めて知りました。
人は本当に疲れていると、幽霊すら面倒に思えるものなのですね。
若い頃なら、きっと飛び起きて逃げ出していたでしょう。
歳をとって、図太くなったのかもしれません。
考えてみれば、私はもともと、寝つきの良いほうでした。
枕が変わると眠れない、という人の気持ちが分かりません。
どんな場所でも、横になれば三分で眠れる質なのです。
その特技が、まさかこんなところで役に立つとは思いませんでした。
あるいは、ただ単に、疲れていただけなのかもしれません。
※
たぶん、それから五分ほど後でしょうか。
ふと目が覚めると、手はまだ、そこにありました。
動きに、なんとなく迷いが感じられました。
私が見ていることに気づいたのか、手は急に、ここぞとばかりに動き出しました。
必要以上に気合いを込めて、うねうね、ぐねぐねと、激しく蠢きはじめたのです。
その様子は、正直に言って、少し健気でした。
手は、だんだんと動きを派手にしていきました。
指をぐにゃりと反らせたり、手のひらをひらひらさせたり。
まるで、持ち芸を順番に披露しているようでもありました。
中には、わざわざ関節をぽきぽき鳴らしてみせる手もありました。
私が反応しないので、焦っているのが伝わってきます。
しまいには、襖の隙間から、白い顔のようなものが、半分だけのぞきました。
長い髪が、暗闇の中で、さらりと揺れたように見えました。
普通なら、ここが恐怖の頂点でしょう。
ところが私は、その顔に向かって、小さくこう呟いたのです。
「ごめんね、もう寝るね」
顔は、ぴたりと動きを止めました。
なんだか、ひどく拍子抜けしたような気配でした。
「がんばってるなあ」と、私は他人事のように思いました。
心のどこかで、応援したい気持ちすら芽生えていました。
これだけ努力しているのだから、誰かには驚いてほしいだろう、と。
けれど、その誰かが今夜の私でないことだけは、確かでした。
けれど、明日も朝から商談があるのです。
寝ないわけにはいきません。
私は反対側にごろりと寝返りを打って、また無視して寝ることにしました。
※
ウトウトと、心地よくまどろみはじめた頃でした。
とん、とん、と背中を軽く叩かれて、私は仕方なく振り向きました。
同じ手が、まだそこにいました。
今度は襖の隙間から身を乗り出すようにして、一生懸命、うねうねしています。
「ねえ、ねえ、こっち見てよ」とでも言いたげな、必死さでした。
私は薄目を開けたまま、心の中で手を合わせました。
本当に申し訳ない、でも、寝かせてほしい。
そう念じて、私はまた目を閉じました。
※
その後も、手は何度も諦めませんでした。
背中を叩かれたり、布団の裾を、つんつんと引っぱられたりしました。
枕元で、かさかさと衣ずれのような音を立ててみたりもしました。
天井のあたりで、とん、とん、と何かを転がすような音もしました。
耳元に、ひやりと冷たい息を吹きかけられたこともありました。
それでも私は、寝返りを打つだけで、応じませんでした。
いっそ感心するほど、相手は粘り強いのです。
夜が更けるにつれ、抵抗は少しずつ、弱々しくなっていきました。
とん、という音の間隔が、だんだんと長くなっていくのです。
まるで、諦めかけているような、そんな間合いでした。
最後にもう一度だけ、ふわりと布団の端が持ち上がりました。
それきり、部屋は静かになりました。
私はそのまま、朝まで一度も目を覚ましませんでした。
「ねぇってば、ちょっとだけでいいから!」
声にならない声が、たしかにそう訴えているようでした。
布団の中の私の足を、ぎゅっと握ってくることもありました。
その握力は、思いのほか弱々しく、まるで子どもの手のようでした。
怖いというより、どこか、放っておけない気持ちにさせる手でした。
それでも、眠気には勝てませんでした。
私はその手をやんわりと振りほどき、また布団にもぐりました。
そんな声が聞こえてきそうな、健気な抵抗でした。
けれど、私はもう、目すら開けませんでした。
疲れた身体には、どんな心霊現象よりも、睡眠のほうが大事だったのです。
私は手の必死のアピールを、最後まで完全に黙殺して、ぐっすりと眠りました。
※
翌朝、私はすっきりと目を覚ましました。
久しぶりに、信じられないほど深く眠れた気がしました。
身体が、羽のように軽くなっていました。
あれほど抜けなかった疲れが、嘘のように消えていたのです。
皮肉なことに、幽霊の出る部屋で、一番よく眠れたわけです。
押し入れの襖は、きちんと閉まっていました。
昨夜のことは、疲れが見せた夢だったのかもしれません。
ところが、宿を発つとき、女将さんが妙なことを言ったのです。
「奥のお部屋、よくお休みになれましたか」
その含みのある言い方に、私は少しだけ、引っかかりました。
「いえ、ぐっすり眠れましたよ」と、私は正直に答えました。
女将さんは、ほんの一瞬、きょとんとした顔になりました。
それから、何かに納得したように、ふっと笑ったのです。
「あの部屋でそんなに眠れた方は、久しぶりですよ」
女将さんは、湯呑みにお茶を注ぎながら言いました。
私は、昨夜の手のことを話すべきか、少し迷いました。
けれど、口に出すのも野暮な気がして、やめておきました。
※
「あの部屋、たいていのお客さまは、夜中に目を覚ましてしまうんですよ」
女将さんは、困ったように笑いました。
なんでも、何かが出るという噂が、昔から絶えないのだそうです。
怖がって、夜中に別の部屋へ移りたいと言い出す客も、少なくないとか。
「でも、お客さまはぐっすりお休みで。あの子も、張り合いがなかったでしょうねえ」
あの子、という言い方が、妙に親しげで、私は背筋がひやりとしました。
※
思い返せば、あの手は、最後まで私を傷つけようとはしませんでした。
ただ、こちらを振り向かせたくて、必死だっただけのように思います。
もしかすると、あの旅館の手は、ずっと誰かに気づいてほしかったのかもしれません。
怖がられるためではなく、ただ、相手をしてほしかっただけなのかもしれない。
そう考えると、無視して寝てしまったことが、少しだけ申し訳なく思えてきました。
今度あの宿に泊まることがあれば、夜中に手が出てきても、無視しないでおこうと思います。
せめて一言、「おやすみ」と返してあげたい。
そのくらいの礼儀は、見せてやってもいい気がするのです。
後日、同じ部署の後輩に、この話をしてみました。
後輩は、信じられないという顔で、私を見ました。
「先輩、それ、よく無視できましたね」と。
私は、ただ眠かっただけだと、正直に答えました。
すると後輩は、しばらく黙ってから、ぽつりと言いました。
「その手、先輩のこと、気に入ってたんじゃないですか」
言われてみれば、そんな気もしてきました。
怖い思い出のはずなのに、なぜか、ほのぼのとしているのです。
幽霊にも、人恋しい夜があるのかもしれません。
あの旅館の奥の部屋で、今夜も手は、誰かを待っているのでしょうか。