中学生の頃の、忘れられない出来事です。
私には、家が近所のナギサという幼なじみがいました。
私もナギサも女子で、毎日いっしょに下校していました。
学校から家までは、歩いて三十分ほどの距離でした。
帰り道にはいくつもコースがあって、今日はこっち、明日はあっち、と選ぶのが日課でした。
私たちは部活も同じで、その日も部活帰りに二人で歩いていました。
ナギサは、私と違って、少し慎重な性格でした。
私が「近道しよう」と言えば、「危ないよ」と止めるような子です。
でも、だからこそ、私たちは妙に気が合いました。
その日も、部活でへとへとになりながら、たわいない話をしていました。
明日の小テストのこと、好きなアイドルのこと、給食のこと。
そんな、どこにでもある中学生の会話です。
その日に限って、私たちはお寺の脇の道を選びました。
なぜその道にしたのか、今でもよく覚えていません。
ただ、なんとなく、足がそちらへ向いたのです。
あとから考えると、それも何かに呼ばれていたのかもしれません。
季節は秋で、まだ夕方と呼べる時刻のはずでした。
それなのに、あたりはもう、薄暗くなりはじめていました。
日が沈んだ直後の、空気が青く沈む時間帯です。
いわゆる、逢魔が刻というやつでしょうか。
その日は、古いお寺の脇を通る道を選びました。
べつに珍しいことではなく、よく通るコースのひとつでした。
左手には、斜面に沿って、苔むした墓石がずらりと並んでいます。
右手は、背の高い竹林で、風が吹くとさらさらと鳴っていました。
その竹の鳴る音だけが、やけに大きく響いていました。
今思えば、いつもより、人通りがまったくありませんでした。
すれ違う人も、追い越していく自転車も、一台もいなかったのです。
でも、そのときは、そんなことに気づきもしませんでした。
いつも通る道ですし、静かで気持ちのいい場所でした。
不気味だなんて、二人とも少しも思っていませんでした。
少なくとも私は、お墓だということすら意識していませんでした。
その道は、お寺の前を百メートルほど続きます。
舗装された道を、雑談しながらてくてく歩いていたときのことです。
十メートルほど先の、道の真ん中に、黒くて小さい何かがいました。
あたりはもう薄暗くて、はっきりとは見えませんでした。
私は「あ、猫がいる」と言いながら、近づいていきました。
てっきり、黒猫だと思ったのです。
地面に、ちょうどそれくらいの大きさで、かすかに動いていました。
しかも、ふわふわして見えたものですから。
猫なら、近所でもよく見かけていました。
だから、何のためらいもなく、近づいていったのです。
近づくにつれて、少しずつ、その輪郭が見えてきました。
けれど、なんだか、形がおかしいのです。
耳もなければ、しっぽもありません。
ただ、黒いものが、もぞもぞとうごめいていました。
私は舌を鳴らして、「こっちおいで」と呼びました。
しゃがもうとして、腰をかがめたそのときです。
ナギサが急に後ずさりして、「ねえ、それ、本当に猫?」と言いました。
「え、猫でしょ」
そう言いながら、私はすぐ近くまで寄って、覗き込みました。
そして、息をのみました。
それは、猫ではありませんでした。
なんと、毛の塊だったのです。
説明が難しいのですが、真ん中を中心に、すごい勢いで長い毛が回転していました。
回転している毛そのものも、互いに激しくうねりながら絡み合っていました。
とにかく、ものすごい運動をしている、毛の塊でした。
長い髪の毛が、何百本も束になって、生き物のように動いていました。
近くで見ると、かすかに、湿ったような匂いがしました。
雨に濡れた畳のような、古い井戸の底のような匂いです。
声も出ませんでした。
頭の中が、真っ白になりました。
ナギサの「逃げよう」という声で、ようやく我に返りました。
足がもつれそうになりながら、私たちは走り出しました。
ランドセルではなく、部活のバッグが、背中でばたばたと跳ねました。
後ろを振り返るのが、たまらなく怖かったです。
それでも私は、一度だけ、振り返ってしまいました。
塊は、私たちを追いかけてくる様子はありませんでした。
ただ、その場で、くるくると回り続けていました。
まるで、置いていかれた子犬のようにも見えました。
なぜか、ほんの少しだけ、かわいそうな気がしたのを覚えています。
それが、ほんの少しだけ地面から浮いた状態で、ふらふらと動いていたのです。
私が呼んだせいでしょうか。
その塊は、ふらふらしながら、私のほうへ近づいてきました。
私は慌てて、回転する毛の塊を、ジャンプして飛び越えました。
ナギサは私より一歩先に、もう走り出していました。
私も「何あれ、何あれ、何あれ!」と叫びながら、必死に追いかけました。
しばらく走って振り返ると、塊はまだ、ふらふらしていました。
そして、道の向こうへ、ゆっくりと遠ざかっていきました。
あまりに動きが遅いので、私はちょっと安心しました。
「ねえ、もう一回見に行ってみようよ」
そうワクワクしながら言うと、ナギサに本気で引かれました。
「やめなよ……もう帰ろう」
さすがに、それで諦めました。
家に帰ってから、私は母にその話をしました。
母は「また、あんたの作り話でしょう」と笑って、取り合ってくれませんでした。
父にいたっては、「狸か何かじゃないのか」と言う始末です。
私は、見たままを必死に説明しましたが、誰も信じてくれませんでした。
黒くて、丸くて、髪の毛が回っていた。
そう言えば言うほど、家族は呆れた顔をするばかりでした。
自分でも、口に出すと、なんだか間抜けな話に思えてきました。
ナギサと二人だけの秘密に、それはなってしまいました。
次の日、学校でナギサと顔を合わせると、二人とも黙ってしまいました。
あれは夢だったのかな、と私が言うと、ナギサは首を横に振りました。
「ううん、私もちゃんと見た。あれは現実だよ」
その言葉で、私はかえってほっとしました。
見間違いではなかったと、分かったからです。
それからしばらく、私たちはあの道を避けて帰りました。
結局、あの回転する毛の塊が何だったのか、分からないまま十年が過ぎました。
私は、町の図書館で働くようになっていました。
あの出来事のことは、いつのまにか、記憶の隅に追いやられていました。
忙しい毎日の中で、思い出すことも、ほとんどなくなっていました。
妖怪なんて、子どもの頃の空想だったのだろう。
大人になった私は、いつしか、そう思うようになっていたのです。
ある日、返却された郷土資料を棚に戻していたときのことです。
古い妖怪図鑑のページが、ぱらりと開きました。
その瞬間、私は思わず「うっ」と声をあげてしまいました。
そこに、いたのです。
あの、回転する毛の塊が、挿絵になって。
白黒の、細かい筆づかいの挿絵でした。
けれど、あの夕暮れに見たものと、寸分たがわず同じでした。
私は、十年ぶりに、背筋がぞくりとしました。
あのときの竹の鳴る音まで、耳によみがえってくるようでした。
挿絵の脇には、達筆な文字で、解説が添えられていました。
私は、震える指で、そのページをそっとなぞりました。
間違いない、これだ、と確信しました。
忘れていたはずの記憶が、いっきに鮮やかによみがえってきました。
私は仕事中なのも忘れて、食い入るように見つめました。
残念ながら、妖怪の名前は忘れてしまいました。
けれど、添えられていた短い解説文は、今でもよく覚えています。
『墓場や寺に出る、亡くなった女性の髪が妖怪と化したもの』
『地面の近くを、ふわふわと飛んで移動する』
『墓場の掃除人などの足元にとりつき、その者の気分を悪くさせる』
そこには、こうも書かれていました。
『害は小さく、見かけた者は気を悪くする程度で済む』
『古来、さほど恐れられてはこなかった』
つまり、たいして悪さもしない、おとなしい妖怪だったのです。
……すごく、地味です。
あれほど怖い思いをしたのに、正体は、こんなにも地味な妖怪でした。
その日、家に帰ってすぐ、ナギサに電話で教えました。
ナギサも、やっぱり、「地味だなあ……」と言っていました。
私たちは今でも、たまに会うと、あの日の妖怪の話になります。
会うたびに、二人で大笑いするのが、お決まりになっています。
「あんなに必死で逃げたのにね」
「正体が、あれだもんね」
あれほどの恐怖が、今ではいちばんの笑い話です。
けれど、笑いながらも、二人ともどこかで分かっています。
あれは、たしかにこの世のものではなかった、と。
説明のつかないものに出会った記憶は、こうして大人になっても消えません。
でも、心のどこかで、私はずっと感謝しているのです。
あの妖怪が、子どもだった私たちに、不思議な世界をのぞかせてくれたことを。
あれから何度か、一人で夕暮れにあの道へ行ってみました。
でも、二度と見ることはできませんでした。
いつも、同じ夕暮れの時間を選んで通いました。
逢魔が刻の、あの青い空気の中を、何度も歩きました。
けれど、あの毛の塊は、もう現れてくれませんでした。
大人になった私には、見る資格がなくなってしまったのかもしれません。
子どもの頃は、世界の境目が、もっと曖昧だったのでしょう。
信じる力が、見える力に、つながっていたのかもしれません。
妖怪は、本当にいるのですね。
でもきっと、心が汚れた大人には、見えない仕様になっているのでしょう。
そう思うと、少しだけ、あの頃の自分がうらやましくなります。
あの夕暮れの青い空気を、私はきっと一生忘れません。
ナギサと並んで歩いた、あの帰り道のこともです。
こわかったけれど、今となっては、かけがえのない大切な思い出のひとつになっています。
逢魔が刻には、ほんの少しだけ、こちら側とあちら側の境目が、ゆるむのかもしれません。
もし、あなたが夕暮れの寺の脇道で、黒い毛の塊を見かけても。
どうか、軽はずみに近づかないでくださいね。
……まあ、たぶん、すごく地味なやつなのですが。