灰色の背広の男

私は今でも、エレベーターに乗るとき、誰もいなくても軽く会釈をする。

妙な癖だと、自分でも思う。

けれど、こうするようになったのには、理由がある。

駅裏の古いビル

あれは、私が二十代の終わり、保険の外交をしていた頃の話だ。

当時の私は、とにかく数字に追われていた。

月末が近づくと、客先を回る足が止まらなかった。

昼は契約を取り、夜は書類をまとめる。

帰りが終電になる日も、珍しくなかった。

担当していた客先のひとつに、尼崎の駅裏の古い雑居ビルがあった。

扇栄ビルという、築四十年は経っていそうな、薄暗いビルだった。

一階に金物屋、上は会計事務所や小さな貿易商で、人の出入りは多くない。

そのビルの七階に、私の大口の取引先が入っていた。

そのビルには、以前から妙な噂があった。

夜になると、誰もいないはずの階で物音がする、というのだ。

私自身、何度か奇妙なことに出くわしていた。

昼間でも、四階の廊下の奥でだけ、空気がひやりと冷たい。

エレベーターのボタンが、押してもいないのに灯っていたこともある。

そのたびに、私は気のせいだと自分に言い聞かせた。

幽霊を信じるような性質では、もともとなかったのだ。

一階の金物屋の主人にも、それとなく聞いたことがある。

「四階やろ」と、主人は釘の箱を数えながら、こともなげに言った。

「夜中にな、算盤の音がするんやて。パチ、パチ、いうて」

「気色悪い言う人もおるけどな、わしは別に。真面目な音やもん」

真面目な音、という言い方が、妙に耳に残った。

四階の会計事務所は、もう長いこと空きテナントのままだった。

すりガラスの戸には、事務所の名前を剥がした跡だけが、白く残っていた。

剥がし跡の下に、ネジ穴が二つ。

誰かの名札が、長いあいだ、そこに掛かっていたのだと思う。

十一時四十分の一往復

もうひとつ、気になっていたことがある。

管理人の東野さんは、毎晩十一時四十分になると、誰も乗せないまま、エレベーターを七階まで一往復させていた。

一階のボタンの前に立ち、箱を上へやって、降りてくるのを黙って待つ。

扉が開くと、中を覗きもせず、電源を落として帰っていく。

一度、遅くなった帰りに見かけて、尋ねたことがある。

「点検ですか」

「まあ、そんなもんです」

東野さんは、それ以上は言わなかった。

古いビルには古いビルの決まりがあるのだろうと、私は深く考えなかった。

ただ、一度だけ、妙な晩があった。

七階で打ち合わせを終え、エレベーターを待っていたときのことだ。

階数表示が、四階で、ふっと止まった。

誰かが乗ってくるのだろうと、私は身構えた。

ところが、上がってきた箱は、空だった。

空のくせに、中の空気だけが、妙に生ぬるかった。

誰かが、たったいままで乗っていたような温度だった。

私は乗るのを一本見送って、階段で降りた。

五階ぶんの階段は、膝にこたえた。

それでもあの晩は、そうしたかったのだ。

遅いエレベーター

そのビルのエレベーターは、とにかく遅かった。

ボタンを押してから来るまで、たっぷり一分はかかる。

箱の中は二畳ほどの広さで、蛍光灯が一本、じりじりと鳴っていた。

壁の鏡は曇っていて、自分の顔がぼんやりとしか映らない。

昼間でも、どこか湿った空気が漂っていた。

私はこのエレベーターが、正直、少し苦手だった。

検査済のステッカーは、何年も前の日付のまま貼り替えられていなかった。

操作盤の「閉」のボタンだけが、妙にへこんでいた。

せっかちな乗客が、長年押し続けた跡だ。

けれどこの箱は、どれだけ押しても、急ぎはしなかった。

その日は、契約の最終確認で、打ち合わせが長引いた。

細かい条件で何度ももつれ、先方の担当者も疲れていた。

窓の外が暗くなっていくのを、私は横目で見ていた。

ようやく判子をもらえたとき、私は心の底から安堵した。

その安堵が、後の油断につながったのだと思う。

フロアを出たのは、夜の九時を回った頃だ。

廊下の電気は半分落とされ、非常灯だけが緑色に光っていた。

ほかのテナントは、もうとっくに帰ったらしい。

ビル全体が、しんと静まり返っていた。

三階を過ぎたあたりで

エレベーターのボタンを押すと、例によって、なかなか来ない。

シャフトの奥から、ぎい、ぎい、と滑車のきしむ音が響いてきた。

扉が開くと、中の蛍光灯が、まばたきをするように点滅した。

私は一瞬ためらってから、足を踏み入れた。

誰もいない空間と、大きな契約を取れた安堵で、緊張は一気にほどけた。

そして、決してわざとではないのだが。

つい、すうっと、放屁をしてしまった。

(……これは、なかなか、きついな)

我ながら、相当なものだった。

狭い箱の中に、それは見事に充満していった。

窓のない箱では、空気の逃げ場がない。

私は息を止めて、ただ階数表示を見上げていた。

取引先は七階、出口は一階。

このビルで、途中の階から人が乗ってくることは、まずない。

まあ、このまま一階まで誰にも会わないだろう。

私はそう高をくくっていた。

五階、四階、三階。

階数表示のランプが、順番に灯っては消える。

その、三階を過ぎたあたりだった。

箱の中、私のすぐ左横で、低い声がした。

「うっ……」

灰色の背広の男

心臓が、跳ねた。

乗ったときは、確かに誰もいなかったはずだ。

私はとっさに右へ身を寄せ、おそるおそる左を見た。

そこには、私と同じようなスーツ姿の男が立っていた。

年の頃は四十くらい、くたびれた灰色の背広を着ていた。

その男が、顔をしかめて、片手で鼻を覆っていた。

よく見ると、男の足元には、影がなかった。

曇った鏡には、私だけが映っていて、男の姿はなかった。

背筋が、すうっと冷たくなった。

男はうつむき加減で、ネクタイが緩んでいた。

いかにも、残業帰りといった風体だった。

ただ、その輪郭が、どこかぼんやりとにじんで見えた。

左手に、黒い鞄を提げていた。

角の擦り切れた、書類の重さでいびつに膨らんだ鞄だった。

毎日、同じ重さを提げ続けた形だった。

(まずい、まずすぎる)

いつから乗っていたのか、という疑問よりも。

ばつの悪さのほうが、はるかに勝っていた。

「す、すみません……」

私は、消え入るような声で謝った。

男は、鼻を覆ったまま、ゆっくりとこちらを向こうとした。

だが、まだ臭いが残っていたのだろう。

「うっ」という顔をして、途中でやめ、また正面に向き直った。

気まずい。

これほど気まずい沈黙を、私は知らない。

二階。

あと少しで、一階だ。

私は、横目でちらりと、もう一度その男をうかがった。

その瞬間だった。

男の姿が、すうっと、空気に溶けるように消えた。

「えっ」

今度は、はっきりと声が出た。

箱の中には、私一人と、私の残した臭いだけがあった。

足音も、衣擦れの音もなかった。

心臓が、まだ早鐘のように鳴っていた。

あの「うっ」という声だけが、耳の奥に残っていた。

幽霊にも、嗅覚があるのだろうか。

そんな、間の抜けた疑問が、頭をよぎった。

考えてみれば、あちらは声を出しただけだ。

先に失礼をしたのは、間違いなく、こちらである。

一階に着き、私は転がるように外へ出た。

閉まっていくシルバーの扉を、しばらく呆然と眺めていた。

奇妙なことに、恐怖は、後からじわじわとやってきた。

その場では、申し訳なさのほうが大きかったのだ。

幽霊に対して放屁をして、あまつさえ臭がらせてしまった。

これほど失礼な話があるだろうか。

私は誰もいない一階のロビーで、深々と頭を下げた。

管理人の打ち明け話

後日、私は東野さんに、それとなく聞いてみた。

夜の遅い時間に、何か出るという話はないか、と。

東野さんは、ああ、と苦笑いをした。

「昔から、灰色の背広の人が出るって言われてましてね」

「残業帰りのサラリーマンの幽霊だって、有名なんですよ」

私の見た男と、寸分たがわぬ姿だった。

東野さんは、煙草に火をつけて、ぽつぽつと話してくれた。

その男は、十数年前まで、このビルの四階の会計事務所で働いていたらしい。

几帳面で、真面目な人だったという。

残業続きで体を壊し、ある晩、机に突っ伏したまま、帰らぬ人になった。

いつも、最終のエレベーターで帰っていた人だったそうだ。

「わしがまだ新入りの頃でね。よう挨拶してくれる人でした」

「エレベーターの前で会うと、お先です、言うて頭を下げてね」

「傘立てにな、あの人の置き傘が、ずっと一本残っとったんです」

「捨てられんでね。事務所が引き払うときも、わしが黙って預かりました」

管理人室の隅に、その黒い傘は今もあるという。

「雨の晩だけな、玄関の灯り、消すのを少し待つんですわ」

「傘、持って行きよるかもしれんでしょう」

東野さんは、冗談とも本気ともつかない顔で、そう言った。

だからきっと、今も同じ時間に、昇り降りを繰り返しているのだろう、と。

そこまで聞いて、私はふと、あの一往復のことを思い出した。

「毎晩の、あの十一時四十分のは……」

東野さんは、煙を長く吐いてから、言った。

「あの人がいつも乗っとった最終便の時間ですわ」

「箱だけでも、動かしといたろ思いましてね。もう十何年になりますか」

あれは点検ではなく、最終便だった。

東野さんが動かしていたのは、箱ではなく、あの人の帰り道だった。

誰に頼まれたわけでもなく、十何年。

私は、返す言葉が見つからなかった。

最終便の行き先

東野さんは、不思議そうに付け加えた。

「でもね、ここ最近、ぱったり出なくなったらしいんですわ」

「何かあったんですかねえ」

私は、何も言えなかった。

思い当たることは、ありすぎるほどあった。

まさか、私の放った一発が原因だとは、口が裂けても言えない。

せめてもの詫びにと、私は次の訪問の帰り、四階に寄った。

自動販売機で買った熱い缶コーヒーを、空き事務所の戸の前に、そっと置いた。

残業の夜には、これがいちばん沁みる。

現役の頃の私が、そうだったからだ。

一週間後に通りかかると、缶はまだそこにあった。

ただ、置いたときとは、向きが変わっていた。

プルタブの向きが、戸のほうを向いていた。

掃除の人が動かしただけかもしれない。

それでも私は、勝手に、受け取ってもらえた気になった。

七階の取引先の事務の女性にも、後日、それとなく聞いてみた。

「四階の方でしょう」と、彼女はあっさり言った。

「残業してるとね、たまに聞こえるんですよ」

「十一時四十分ぴったりに、エレベーターが四階で停まって、開いて、閉まるの」

「誰も降りてこないのにね」

彼女は、怖がるでもなく、湯呑みを両手で包んでいた。

「真面目な人なんだなあって、思ってました」

金物屋の主人と、同じことを言うのだった。

このビルの人たちは、みんな、あの男を怖がっていなかった。

ただ、少しずつ気にかけて、そっとしておいた。

古いビルには、そういう間合いがあるのだと思う。

翌日、私は同僚たちに、この話をした。

誰も、まともに信じてはくれなかった。

屁で幽霊を退治した、などという話を、誰が信じるだろう。

「お前、疲れてるんだよ」と、笑い飛ばされて終わった。

それでいい、と私は思った。

信じてもらえないほうが、あの男のためにも、いいような気がした。

思えば、あの頃の私も、あの男と大して変わらなかった。

数字に追われ、毎晩遅くまで働き、家に帰っても眠るだけ。

いつ倒れてもおかしくない暮らしだった。

鏡に映らない男の、映っていた私との違いは、紙一重だったのだと思う。

あの晩から、私は少しだけ、働き方を考えるようになった。

無理を続けた先に何が待っているのかを、あの遅いエレベーターの中で、見せられた気がしたのだ。

早く帰れた日は、駅前で温かいものを食べて帰る。

それだけのことが、あの頃の私には、革命だった。

それから何度か、私はあのビルに足を運んだ。

夜のエレベーターにも、また乗った。

けれど、あの灰色の男が現れることは、二度となかった。

ただ一度だけ、扉が閉まる直前に、ほんのかすかに、煙草の匂いがした。

東野さんが吸っていたものとは、別の銘柄の匂いだった。

乗り物には、目に見えない先客がいることがあるらしい。

後になって、タクシーの先客という話を読んだとき、私は妙に納得してしまった。

行き先のない便を待つ人の話なら、架空の最終電車にも出てくる。

この世には、時刻表に載らない最終便が、案外たくさん走っているのかもしれない。

あのビルは、数年前に取り壊されたと聞いた。

跡地には、真新しいマンションが建っているそうだ。

あの遅いエレベーターも、もうどこにもない。

取り壊しの少し前、私は最後にもう一度、あのビルを訪ねた。

東野さんは、もう辞めたあとだった。

四階の廊下は、最後まで、あの一角だけ空気が冷たかった。

すりガラスのネジ穴も、そのままだった。

私は剥がし跡に向かって、小さく頭を下げた。

お先です、と口の中で言ってみた。

返事の代わりに、廊下の非常灯が、一度だけ瞬いた。

偶然だと思う。

偶然だと、思うことにしている。

それでも夜の十一時四十分、エレベーターの階数表示が、ひとりでに七階まで昇っていくのを、私は一階から見上げた。

新しい管理人は、そんな設定はしていないと言った。

最終便は、最後の夜まで、走っていたのだと思う。

灰色の男は、今ごろ、どこへ行ったのだろう。

願わくば、もう昇り降りを繰り返さなくてよい場所であってほしい。

残業のない、静かな場所であればいい。

新しいエレベーターに乗るたび、私は今でも会釈をする。

周りの人には、不思議な顔をされる。

会社を移った今の勤め先のビルでも、癖は続いている。

残業で遅くなった晩、たまにエレベーターの階数表示を見上げる。

十一時四十分に、動く箱はもうない。

それが少し、寂しいような気もするのだから、勝手なものだ。

それでも、この癖だけは、やめられそうにない。

見えないだけで、隣に誰かがいるかもしれない。

そして、心の中で、もう一度だけ謝るのだ。

あのときは、本当に失礼しました、と。

どうか、安らかに昇っていってください、と。

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