私は今でも、エレベーターに乗るとき、誰もいなくても軽く会釈をする。
妙な癖だと、自分でも思う。
けれど、こうするようになったのには、理由がある。
あれは、まだ私が二十代の終わり、保険の外交をしていた頃の話だ。
当時の私は、とにかく数字に追われていた。
月末が近づくと、客先を回る足が止まらなかった。
昼は契約を取り、夜は書類をまとめる。
帰りが終電になる日も、珍しくなかった。
疲れていたことは、間違いない。
だから最初は、見間違いだろうと思った。
いや、思おうとした、と言うべきかもしれない。
※
担当していた客先のひとつに、駅の裏手の古い雑居ビルがあった。
築四十年は経っていそうな、薄暗いビルだった。
テナントは会計事務所や小さな貿易商で、人の出入りは多くない。
そのビルの七階に、私の大口の取引先が入っていた。
そのビルには、以前から妙な噂があった。
夜になると、誰もいないはずの階で物音がする、というのだ。
私自身、何度か奇妙なことに出くわしていた。
昼間でも、廊下の奥でだけ、空気が冷たく感じることがあった。
エレベーターのボタンが、押してもいないのに灯っていたこともある。
そのたびに、私は気のせいだと自分に言い聞かせた。
幽霊を信じるような性質では、もともとなかったのだ。
契約の更新が近く、私は何度も足を運んでいた。
※
そのビルのエレベーターは、とにかく遅かった。
ボタンを押してから来るまで、たっぷり一分はかかる。
箱の中は二畳ほどの広さで、蛍光灯が一本、じりじりと鳴っていた。
壁の鏡は曇っていて、自分の顔がぼんやりとしか映らない。
昼間でも、どこか湿った空気が漂っていた。
私はこのエレベーターが、正直、少し苦手だった。
※
その日は、契約の最終確認で、打ち合わせが長引いた。
気づけば、外はすっかり暗くなっていた。
フロアを出たのは、夜の九時を回った頃だ。
廊下の電気は半分落とされ、非常灯だけが緑色に光っていた。
ほかのテナントは、もうとっくに帰ったらしい。
その日の打ち合わせは、細かい条件で何度ももつれた。
先方の担当者も疲れていて、話はなかなか進まなかった。
窓の外が暗くなっていくのを、私は横目で見ていた。
ようやく判子をもらえたとき、私は心の底から安堵した。
その安堵が、後の油断につながったのだと思う。
ビル全体が、しんと静まり返っていた。
※
エレベーターのボタンを押すと、例によって、なかなか来ない。
ようやく到着した箱に、私は一人で乗り込んだ。
箱が降りてくる音が、シャフトの奥から響いてきた。
ぎい、ぎい、と、滑車がきしむような音だった。
扉が開くと、中の蛍光灯が、まばたきをするように点滅した。
私は一瞬ためらってから、足を踏み入れた。
誰もいない空間と、大きな契約を取れた安堵で、私の緊張は一気にほどけた。
そして、決してわざとではないのだが。
つい、すうっと、放屁をしてしまった。
※
(……これは、なかなか、きついな)
我ながら、相当なものだった。
狭い箱の中に、それは見事に充満していった。
窓のない箱の中では、空気の逃げ場がない。
私は息を止めて、ただ階数表示を見上げていた。
早く一階に着いてくれと、それだけを願っていた。
取引先は七階、出口は一階。
このビルで、途中の階から人が乗ってくることは、まずない。
まあ、このまま一階まで誰にも会わないだろう。
私はそう高をくくっていた。
※
エレベーターは、ゆっくりと降りていった。
五階、四階、三階。
階数表示のランプが、順番に灯っては消える。
その、三階を過ぎたあたりだった。
箱の中、私のすぐ左横で、低い声がした。
「うっ……」
※
心臓が、跳ねた。
(人が、いた……?)
乗ったときは、確かに誰もいなかったはずだ。
私はとっさに右へ身を寄せ、おそるおそる左を見た。
そこには、私と同じようなスーツ姿の男が立っていた。
年の頃は四十くらい、くたびれた灰色の背広を着ていた。
その男が、顔をしかめて、片手で鼻を覆っていた。
よく見ると、男の足元には、影がなかった。
曇った鏡には、私だけが映っていて、男の姿はなかった。
そのことに気づいた瞬間、背筋が、すうっと冷たくなった。
男はうつむき加減で、ネクタイが緩んでいた。
いかにも、残業帰りといった風体だった。
ただ、その輪郭が、どこかぼんやりとにじんで見えた。
※
(まずい、まずすぎる)
いつから乗っていたのか、という疑問よりも。
ばつの悪さのほうが、はるかに勝っていた。
「す、すみません……」
私は、消え入るような声で謝った。
男は、鼻を覆ったまま、ゆっくりとこちらを向こうとした。
だが、まだ臭いが残っていたのだろう。
「うっ」という顔をして、途中でやめ、また正面に向き直った。
※
気まずい。
これほど気まずい沈黙を、私は知らない。
早く着いてくれと、私はただ階数表示を見つめていた。
二階。
あと少しで、一階だ。
私は、横目でちらりと、もう一度その男をうかがった。
※
その瞬間だった。
男の姿が、すうっと、空気に溶けるように消えた。
「えっ」
今度は、はっきりと声が出た。
私は箱の中を、隅々まで見回した。
鏡の中にも、男はいない。
足音も、衣擦れの音もない。
ただ、私一人と、私の残した臭いだけが、そこにあった。
私は、しばらく動けなかった。
心臓が、まだ早鐘のように鳴っていた。
あの「うっ」という声だけが、耳の奥に残っていた。
幽霊にも、嗅覚があるのだろうか。
そんな、間の抜けた疑問が、頭をよぎった。
思えば、あの頃の私も、その男と大して変わらなかった。
数字に追われ、毎晩遅くまで働き、家に帰っても眠るだけ。
いつ倒れてもおかしくない暮らしだった。
あの男の話を聞いてから、私は少しだけ、働き方を考えるようになった。
無理を続けた先に、何が待っているのか。
それを、あのエレベーターで見せられた気がしたのだ。
※
一階に着き、扉が開いた。
私は、転がるように外へ出た。
そして、閉まっていくシルバーの扉を、しばらく呆然と眺めた。
今のは、いったい何だったのか。
考えても、答えは一つしか浮かばなかった。
あれは、たぶん、そういうものだったのだ。
※
奇妙なことに、恐怖は、後からじわじわとやってきた。
その場では、申し訳なさのほうが大きかったのだ。
幽霊に対して放屁をして、あまつさえ臭がらせてしまった。
これほど失礼な話があるだろうか。
私は誰もいない一階のロビーで、深々と頭を下げた。
本当に、申し訳ありませんでした、と。
※
後日、私はそのビルの管理人に、それとなく聞いてみた。
夜の遅い時間に、何か出るという話はないか、と。
管理人は、ああ、と苦笑いをした。
「昔から、灰色の背広の人が出るって言われてましてね」
「残業帰りのサラリーマンの幽霊だって、有名なんですよ」
私の見た男と、寸分たがわぬ姿だった。
管理人は、煙草に火をつけて、ぽつぽつと話してくれた。
その男は、十数年前まで、このビルで働いていたらしい。
会計事務所の、真面目な男だったという。
残業続きで体を壊し、ある晩、机に突っ伏したまま帰らぬ人となった。
いつも、最終のエレベーターで帰っていた人だったそうだ。
だからきっと、今も同じ時間に、昇り降りを繰り返しているのだろう、と。
管理人は、そう言って、また苦笑いをした。
※
管理人は、不思議そうに付け加えた。
「でもね、ここ最近、ぱったり出なくなったらしいんですわ」
「何かあったんですかねえ」
私は、何も言えなかった。
思い当たることは、ありすぎるほどあった。
まさか、私の放った一発が、原因だとは言えない。
翌日、私は同僚たちに、この話をした。
誰も、まともに信じてはくれなかった。
屁で幽霊を退治した、などという話を、誰が信じるだろう。
「お前、疲れてるんだよ」と、笑い飛ばされて終わった。
それでいい、と私は思った。
信じてもらえないほうが、あの男のためにも、いいような気がした。
※
あの灰色の男は、長いあいだ、あのエレベーターにいたのだろう。
毎晩、誰もいない箱の中で、静かに昇り降りを繰り返していたのかもしれない。
そこへ、私が乗り込んできて、とんでもないものを残した。
さすがの幽霊も、あれには耐えられなかったのだろうか。
だとしたら、私は、とんでもない方法で除霊をしてしまったことになる。
それから何度か、私はあのビルに足を運んだ。
夜のエレベーターにも、また乗った。
けれど、あの灰色の男が現れることは、二度となかった。
箱の中は、ただ静かで、蛍光灯がじりじりと鳴っているだけだった。
少しだけ、寂しいような気もした。
扉が閉まる直前、私はもう一度、男のいた左横を見た。
そこには、もう誰の気配もなかった。
けれど、ほんのかすかに、煙草の匂いがした気がした。
管理人が吸っていたものとは、別の銘柄の匂いだった。
あれほど失礼をしたのに、勝手なものだ。
あの夜のことを、私は今でも、誰かに話すべきか迷う。
笑い話にするには、少し申し訳ない。
怖い話にするには、間が抜けている。
それでも、たまにこうして思い出すのは、あの男のことを忘れたくないからだ。
名前も知らない、灰色の背広の男。
きっと、最後まで真面目に働いた人だったのだろう。
あのビルは、数年前に取り壊されたと聞いた。
跡地には、真新しいマンションが建っているそうだ。
あの遅いエレベーターも、もうどこにもない。
灰色の男は、今ごろ、どこへ行ったのだろう。
願わくば、もう昇り降りを繰り返さなくてよい場所であってほしい。
残業のない、静かな場所であればいい。
新しいエレベーターに乗るたび、私は今でも会釈をする。
周りの人には、不思議な顔をされる。
それでも、この癖だけは、やめられそうにない。
見えないだけで、隣に誰かがいるかもしれない。
扉が開く一瞬、私は小さく息を吸う。
そこに、もう臭いはない。
ただ、あの夜のことを、ほんの少しだけ思い出すのだ。
そう思うと、無下にはできないのだ。
※
それ以来、私はエレベーターに乗るとき、必ず会釈をする。
見えなくても、先客がいるかもしれないからだ。
そして、心の中で、もう一度だけ謝るのだ。
あのときは、本当に失礼しました、と。
どうか、安らかに昇っていってください、と。