あれは、私がまだ八つだった年の、初冬の出来事です。
私の生まれた家は、城下町の外れにありました。
昭和のはじめに建ったという、古い平屋でした。
玄関を上がると、長い廊下が、家の奥までまっすぐ伸びていました。
その廊下の突き当たりに、六畳の仏間がありました。
仏間には、大きな仏壇が据えられていました。
祖母が毎朝、そこで手を合わせるのが、我が家の決まりでした。
祖母は、その前の年の秋に、この家で亡くなっていました。
穏やかな人で、私を、それはかわいがってくれました。
熱を出すたび、祖母は氷枕を替え、額に手をあててくれたものです。
「熱は、悪いものが体から出ていく証しやからね」
そう言って、しわだらけの手で、私の頭を撫でてくれました。
その祖母がいなくなって、家の中は、急に広く、静かになりました。
仏間の仏壇には、祖母の白黒の写真が、新しく増えていました。
その隣には、私の見たことのない、古い男の人の写真もありました。
私が生まれる前に亡くなった、祖父の写真だと、あとで知りました。
その家は、祖父の代から、我が家が住み継いできたものでした。
城の堀に近い、細い路地の奥にありました。
まわりには、同じような古い平屋が、肩を寄せ合って並んでいました。
昼でも日の差さない、薄暗い一角でした。
家の柱は、長い年月で、飴色に黒ずんでいました。
廊下を歩くと、板が、きしきしと鳴りました。
幼い私は、その長い廊下が、少しだけ苦手でした。
とりわけ、突き当たりの仏間は、昼でも、ひんやりとしていました。
その日、私は風邪をひいて、学校を休んでいました。
熱は下がりかけていましたが、体はまだ、だるく重いままでした。
母は、隣町の医者へ薬をもらいに、朝から出かけていました。
「昼には戻るからね。誰か来ても、絶対に開けたらだめよ」
母は、出しなに、そう念を押していきました。
母が出かけると、家の中は、いっそう静かになりました。
私は、熱でぼんやりした頭で、うとうとと、まどろんでいました。
夢の中で、誰かが、私の名を呼んだような気がしました。
祖母の声だったような、そうでないような、曖昧な声でした。
目を覚ますと、障子に映る庭の木の影が、ゆらゆらと揺れていました。
風もないのに、その影だけが、揺れているように見えました。
私は布団にくるまって、天井の木目を、ぼんやり数えていました。
家の中は、しんと静まり返っていました。
柱時計の振り子の音だけが、規則正しく響いていました。
※
おかしなことは、実は、呼び鈴が鳴る前から、少しずつ起きていました。
まず、枕元に置いていたラジオが、ふいに、ざあざあと砂嵐の音を立てました。
つまみを回しても、どの局も、雑音しか拾いませんでした。
次に、廊下の奥から、みしり、みしり、と、床のきしむ音がしました。
誰かが、ゆっくりと歩いているような、そんな音でした。
私は、母が帰ってきたのかと思い、廊下をのぞきました。
けれど、そこには、誰もいませんでした。
ただ、仏間の障子だけが、すうっと、細く開いていました。
そして、部屋の空気が、井戸の底のように、冷たくなっていました。
吐く息が、白く見えるほどでした。
湿った土の匂いは、その冷気に乗って、いよいよ濃くなっていきました。
私は、怖くなって、また布団にもぐり込みました。
今にして思えば、あれは、何かの前触れだったのでしょう。
昼が近づいたころ、私は妙なことに気づきました。
いつもは正午に鳴るはずの柱時計が、まだ、鳴っていないのです。
振り子は、変わらず動いていました。
けれど、時報の鐘だけが、どういうわけか、鳴りませんでした。
そのうち、廊下の奥から、冷たい風が流れてきました。
戸は、どこも閉めきっていたはずです。
風には、雨のあとのような、湿った土の匂いが混じっていました。
私は、なんとなく胸がざわついて、布団を頭までかぶりました。
その時でした。
もう一つ、あの時、奇妙なことがありました。
影が玄関に立つ少し前、一度だけ、電話が鳴ったのです。
私が受話器を取ると、相手は、何も言いませんでした。
ただ、ざあ、という、雨のような音だけが聞こえました。
その奥で、誰かが、低く息を吐く音がしました。
私は、気味が悪くなって、すぐに受話器を置きました。
今思えば、あれは、家の様子を、うかがっていたのでしょう。
子どもだけだと、確かめるために。
玄関の呼び鈴が、鳴りました。
柱時計を見ると、針は、正午を、とうに過ぎていました。
それなのに、時報の鐘は、やはり鳴らないままでした。
まるで、その家の時間だけが、どこかで止まってしまったようでした。
私は、寒さと不安で、歯の根が合いませんでした。
湿った土の匂いは、廊下の奥から、途切れることなく流れてきました。
それは、雨あがりの墓地で嗅ぐような、そんな匂いでした。
今にして思えば、家の中には、あの時すでに、私のほかに、何かがいたのです。
すりガラスの向こうに、黒い人影が立っているのが見えました。
「もしもし。警察の者ですが」
低い、男の声でした。
「お父さんが、交通事故に遭われました。今すぐ、病院に来てほしい」
私は、頭の中が真っ白になりました。
父が、事故に。その言葉だけが、ぐるぐると回りました。
「玄関を、開けてくれるかな。おじさんが、病院まで連れていってあげるから」
声は、やけに優しく、そして、急いていました。
私は、母の言いつけも忘れて、ふらふらと立ち上がりました。
裸足のまま、冷たい廊下を、玄関へと歩きました。
玄関の掛け金は、冷たく、指に吸いつくようでした。
すりガラス越しの影は、思ったよりも、背の高い男でした。
影の足もとが、うっすらと、こちらへ伸びていました。
私の心臓は、早鐘のように鳴っていました。
それでも、父に会えるのだと、幼い私は、その手を動かしました。
掛け金が、かちり、と半分ほど、外れかけました。
引き戸の掛け金に、手をかけました。
※
その、瞬間でした。
すぐ耳のうしろで、しわがれた声がしました。
「でちゃいかん!」
私は、心臓が止まるかと思いました。
家の中には、私のほかに、誰もいないはずでした。
けれど、その声は、確かに、私の背後から聞こえたのです。
低く、けれど、はっきりと。
「開けたら、二度と戻れんぞ」
私は、掛け金から手を離し、その場に尻もちをつきました。
すりガラスの向こうの影が、じっと、こちらをうかがっていました。
私は、はっと我に返りました。
そして、震える声で、こう言いました。
「い、今、着替えるので、待っていてください」
影は、少しのあいだ、動きませんでした。
受話器を握る私の手は、汗で、じっとりと湿っていました。
すりガラスの向こうの影は、まだ、そこにありました。
影は、ときおり、ゆらり、と揺れました。
私の様子を、じっと、探っているようでした。
「早く来ないと、間に合わないよ」
男の声が、戸の外から、催促するように言いました。
その声は、さっきよりも、低く、苛立っていました。
私は、父の声を聞いたあとも、しばらく、動けませんでした。
ただ、あの背後の声が言った言葉だけが、頭の中で、鳴り続けていました。
私は、その隙に、電話へ飛びつきました。
電話の横の柱には、父の勤め先の番号を書いた紙が、貼ってありました。
震える指で、その番号を回しました。
呼び出し音が、二度、三度と続きました。
「はい、○○鉄工所です」
受話器の向こうから、聞き慣れた、父の声がしました。
「とうちゃん……とうちゃん、生きとるん」
「なんや、どうした。とうちゃんは、ぴんぴんしとるぞ」
私は、その声を聞いた瞬間、へなへなと座り込みました。
父は、無事だったのです。
私は、電話を切ったあとも、玄関から目を離せませんでした。
もし、あの男が、戸を破って入ってきたら。
そう思うと、足がすくんで、動けませんでした。
私は、仏間まで這っていき、仏壇の前に、うずくまりました。
不思議と、その場所だけは、安心できたのです。
仏壇の、祖母と祖父の写真が、じっと、私を見下ろしていました。
「助けて。おばあちゃん、おじいちゃん、助けて」
私は、小さな声で、そう繰り返していました。
どれくらい、そうしていたでしょうか。
やがて、遠くから、パトカーのサイレンが、近づいてきました。
※
事情を聞いた父が、すぐに、本物の警察へ連絡してくれました。
しばらくして、パトカーが、家の前に着きました。
けれど、あの黒い影は、もう、どこにもいませんでした。
気づかれたと悟って、逃げたのだろう、と警官は言いました。
警官たちは、家のまわりを、丁寧に調べていきました。
けれど、争った跡も、逃げた足跡も、何一つ見つかりませんでした。
路地には、その日、雨も降っていませんでした。
それなのに、仏間の畳だけが、濡れていたのです。
あのころ、その手口の悪い連中が、近隣を荒らしていたそうです。
向かいの家の、おばあさんも、その男を見ていたそうです。
けれど、おばあさんの話は、どこか、要領を得ませんでした。
「黒い外套の男が、おたくの戸口に、じっと立っとった」
「声をかけようとしたら、いつの間にか、消えとってなあ」
足音も、車の音も、聞こえなかった、と、おばあさんは言いました。
細い路地の、どこにも、逃げ道などなかったはずでした。
それなのに、男は、まるで煙のように、消えたのです。
子どもを言葉で誘い出し、連れ去る。そういう連中でした。
もし、あのまま戸を開けていたら。
私は、今、ここにいなかったかもしれません。
あとになって、私は一つ、思い当たることがありました。
祖母が生きていたころ、よく口にしていた言葉です。
「知らん人が来ても、戸は開けたらいかんよ」
「この家には、ご先祖さんが、ちゃんと見とってくれるからね」
幼い私は、その言葉を、ただのおまじないだと思っていました。
けれど、あの日、私は、その意味を、体で知ったのです。
戸を開けてはならない日が、この世には、確かにあるのだと。
※
私を止めた、あの声。
「でちゃいかん!」という、あの一言。
あれは、いったい、誰のものだったのでしょう。
※
後日、近所の人たちにも、聞いて回ったそうです。
けれど、あの日、うちの近くで交通事故があったという話は、どこからも出てきませんでした。
警察にも、そんな連絡をした記録は、残っていませんでした。
つまり、あの男は、最初から、うそをついていたのです。
それは、当然のことかもしれません。
ただ、私が、どうしても忘れられないのは、別のことでした。
パトカーが去ったあと、母が、仏間を掃除していた時のことです。
仏壇の前の畳に、点々と、濡れた足あとが残っていました。
小さな、裸足の足あとでした。
けれど、それは、私の足あととは、向きが逆でした。
玄関からではなく、仏間から、玄関のほうへと、歩いた跡だったのです。
その足あとの向きを、母は、何度も確かめていました。
そして、最後には、何も言わずに、仏壇に線香をあげました。
細い煙が、まっすぐに、天井へ立ちのぼっていきました。
その日から、母は、以前にもまして、朝の勤めを欠かさなくなりました。
誰かが、あの仏間から出てきて、私を、玄関の前で止めた。
そう考えると、つじつまは、合いました。
けれど、それが誰なのかは、やはり、わかりませんでした。
※
その夜、帰ってきた母に、私は昼の出来事を話しました。
母は、青ざめた顔で、じっと私の話を聞いていました。
そして、ぽつりと言いました。
「そういえば、今日は、おばあちゃんの月命日だったねえ」
祖母は、その前の年に、あの仏間で息を引き取っていました。
私は、もしや祖母が守ってくれたのかと、そう思いかけました。
けれど、どうしても、腑に落ちないことがありました。
あの声は、祖母の声では、なかったのです。
優しい祖母の声とは、まるで違う、低い、男の声でした。
父方の祖父は、私が生まれるずっと前に、亡くなっていました。
その声を、私は、聞いたことがありません。
だから、あれが祖父の声かどうかも、確かめようがないのです。
ただ一つ、覚えていることがあります。
あの声がした時、仏間のほうで、りん、と、小さな鐘の音がしました。
誰も、叩いていないはずの、あの仏壇のりんが。
その仏壇のりんは、それきり、二度と、ひとりでには鳴りませんでした。
まるで、あの日、一度だけ、私を守るために鳴ったかのようでした。
母は、その音のことを、生涯、誰にも話しませんでした。
大人になってから、一度だけ、父にこの話をしたことがあります。
父は、しばらく黙って、酒の入った猪口を、見つめていました。
「その声は、たぶん、じいさんやな」
父は、ぽつりと、そう言いました。
「じいさんは、若いころ、堀で溺れかけた子を、助けたことがあってな」
「その子を岸へ押し上げて、自分は、水を飲んで死んだんや」
私は、その話を、初めて聞きました。
「人を、水から引き上げる。子どもを、悪いものから遠ざける」
「じいさんは、死んでも、それをやっとるんかもしれん」
父は、そう言って、静かに猪口を干しました。
本当のところは、誰にも、わかりません。
祖父の声を、私は、生前に聞いたことがないのですから。
けれど、あの日、私を止めたのが、家を守る誰かだったことだけは、確かでした。
※
あれから、四十年が過ぎました。
あの家は、もう、取り壊されて、ありません。
けれど、初冬の、湿った土の匂いを嗅ぐと、私は今でも、あの声を思い出します。
私は、時々、あの日のことを、思い返します。
もし、あの声がなかったら。
もし、掛け金を、最後まで外していたら。
そう考えると、今でも、背筋が、ひやりとします。
家というものには、住み継いだ者たちの、目に見えぬ何かが、宿るのかもしれません。
それは、悪いものを、遠ざけてくれることもある。
私は、そう思うことにしています。
あの家は失われましたが、あの声だけは、今も、私の中に残っています。
「でちゃいかん!」
あの一言が、誰のものだったのか。
それは、今も、わからないままです。