飼い猫

あれは、私が七つだった冬の話です。

守ってくれた猫の、命日にあたる日。

ふと思い出して、はじめて誰かに書いてみようと思いました。

当時、私の家は、雪深い山あいの町にありました。

築六十年をこえる、古い木造の平屋でした。

祖父が建てた家だと、母から聞いていました。

廊下は歩くたびに、みしり、みしりと鳴りました。

冬になると、家じゅうが古い木と、灯油の匂いに包まれました。

私はその匂いが、嫌いではありませんでした。

家には、一匹の年老いた猫がいました。

名前を、クロといいました。

背中だけが黒く、あとは灰色の縞模様の猫でした。

私が生まれる前から、この家にいたそうです。

クロは、いつも私のそばで眠りました。

冷たい布団の中で、クロの体だけが、あたたかいのです。

私は毎晩、母と同じ部屋で寝ていました。

父は仕事で、家を空けることが多かったのです。

母の寝息と、クロの喉を鳴らす音。

その二つが、私の子守唄でした。

家の裏手には、小さな祠がありました。

苔むした石の祠で、いつからあるのか、誰も知りませんでした。

祖母は、その祠を毎朝、拝んでいました。

「この家は、いろんなものに、守られてるんだよ」

祖母は、よくそう言いました。

幼い私には、その意味がわかりませんでした。

クロは、祖母のことが、特に好きでした。

祖母が縁側に座ると、必ずその膝に乗りました。

「この子は、ただの猫じゃないねえ」

祖母は、クロの背をなでながら、笑っていました。

クロは、祖母が拾ってきた猫でした。

ある雪の朝、祠のそばで、震えていたのだそうです。

まだ、掌に乗るほどの、小さな子猫でした。

「この子は、この家に呼ばれて来たんだよ」

祖母は、そう言って、クロを迎え入れました。

それから十年あまり、クロは、ずっと家族のそばにいました。

人の言葉が、わかるような猫でした。

私が泣いていると、どこからか、すっとやって来ました。

そして、膝の上で、静かに喉を鳴らすのです。

その音を聞くと、不思議と、涙が引いていきました。

雪の日は、家じゅうの雨戸を閉め切りました。

すると、家の中は、昼でも夕暮れのように暗くなりました。

その暗がりが、私は少しだけ、こわかったのです。

けれど、クロがそばにいれば、平気でした。

はじまりは、ある雪の夜でした。

寝つけずに、私は何気なく、布団の裾をめくりました。

すると、足もとの暗がりに、白い顔が二つ、浮かんでいたのです。

小さな、子どもの顔でした。

けれど、その表情は、この世のものとは思えませんでした。

目を見開き、口を歪め、じっと私を見上げていました。

私は悲鳴をあげて、布団から這い出しました。

あわてて電気をつけ、布団をめくりました。

けれど、そこには何もいませんでした。

母は、私の声で目を覚ましました。

「どうしたの、こんな時間に」

「布団の中に、顔が」

「夢でも見たのね。ほら、もうお休み」

母はそう言って、私の背中をとんとんと叩きました。

その夜は、それきり何も起きませんでした。

けれど私は、明け方まで眠れませんでした。

次の日、私は一日じゅう、落ち着きませんでした。

昼間の光の中でも、あの二つの顔が、頭から離れませんでした。

クロの様子も、いつもと違っていました。

廊下の一点を、じっと見つめて、動かないのです。

何もないはずの、暗い座敷の隅でした。

クロは、時々、低く喉を鳴らしました。

まるで、何かを見張っているようでした。

「クロ、どうしたの」

声をかけても、クロは振り向きませんでした。

背中の毛が、うっすらと逆立っていました。

異変は、それだけでは終わりませんでした。

翌日の、同じ時刻のことです。

私はふと、窓のほうに目をやりました。

凍りついたガラスの向こうに、女の子が立っていました。

顔を、ぴたりとガラスに押しつけていました。

外は一面の雪で、足あと一つ、ないはずでした。

女の子の顔が、ゆっくりと歪んでいきました。

笑っているような、泣いているような、恐ろしい表情でした。

逃げようとしても、体が、まったく動きません。

指の先まで、金縛りにあったようでした。

喉がからからに渇き、声も出せませんでした。

ガラスに押しつけられた頬が、みしりと音を立てました。

頭の中が、真っ白になりました。

そのときです。

クロが、ふわりと部屋に入ってきました。

そして、まっすぐ窓枠に飛び乗ったのです。

クロは、低く喉を鳴らして、窓の外を睨みました。

その瞬間、女の子の姿が、すっと消えました。

同時に、私の体も、動くようになりました。

クロは、私の隣に来て、丸くなりました。

あたたかい背中に触れると、涙が止まりませんでした。

翌朝、私は祖母にだけ、窓の女の子のことを話しました。

祖母は、驚きませんでした。

ただ、静かにうなずいて、祠のほうを見ました。

「この土地はね、昔から、子どもを大事にする土地なんだよ」

祖母は、ゆっくりと語りました。

昔、この一帯では、幼くして亡くなる子が多かったそうです。

だから村の人たちは、あの祠を建てて、子らの魂を守ってきたのだと。

「悪いものじゃないよ。きっと、寂しいだけ」

祖母は、そう言って、私の頭をなでました。

その手は、乾いていて、あたたかでした。

「クロがいるから、大丈夫。あの子が、ちゃんと見ててくれる」

祖母の言葉に、私は少しだけ、安心しました。

けれど、異変は、まだ続きました。

その夜から、廊下で、小さな足音が聞こえるようになったのです。

ぺた、ぺた、と。

裸足の、子どもの足音でした。

雨戸を閉め切った、真っ暗な廊下です。

足音は、私の部屋の襖の前で、いつも止まりました。

襖の向こうで、誰かが、じっと立っている気配がしました。

かすかに、濡れた土のような匂いが、漂ってきました。

私は布団を頭までかぶり、息をひそめました。

すると、クロが、襖に向かって、低く唸るのです。

その声がすると、足音は、すっと遠のいていきました。

朝になって襖を開けても、廊下には、何もありませんでした。

ただ、床がひんやりと、湿っているように感じました。

それからしばらくは、何も起きませんでした。

あのころの私は、夜が来るのが、こわくてなりませんでした。

日が傾きはじめると、胸の奥が、ざわつきました。

母は、そんな私を、不思議そうに見ていました。

「最近、よく眠れていないみたいね」

「うん、ちょっとね」

私は、本当のことを言えませんでした。

信じてもらえないと、思っていたからです。

それでも母は、寝るとき、手をつないでくれるようになりました。

その手のぬくもりと、クロの背中のあたたかさ。

二つに挟まれて、私はようやく、眠りにつきました。

子ども心にも、守られているのだと、感じていました。

私は少しずつ、あの夜のことを忘れかけていました。

けれど、今度は夢の中に、あらわれたのです。

暗い部屋で、私は一人、立ちすくんでいました。

目の前に、あの女の子と、もう一人、男の子がいました。

二人とも、私と同じくらいの背丈でした。

けれど、その目には、深い悲しみと、怒りが宿っていました。

二人は、両手をこちらへ、まっすぐに伸ばしてきました。

「どうして」と、女の子の声がしました。

「どうして、あなただけ」

男の子も、同じ言葉をくり返しました。

冷たい手が、私の腕をつかもうとしました。

「もう、だめだ」

そう思った、その瞬間でした。

どこからか、クロが飛び出してきたのです。

クロは、二人の前に立ちはだかり、大きく毛を逆立てました。

そして、私を守るように、低く唸り続けました。

その声で、私は夢から覚めました。

飛び起きると、枕もとに、クロがいました。

私を、じっと見つめていました。

クロの目は、暗闇の中で、金色に光っていました。

その目に見つめられていると、恐ろしさが、すっと引いていきました。

クロは、私のそばを、片時も離れませんでした。

昼も、夜も。

まるで、見えない何かから、私を守るように。

次の朝、私はとうとう、母にすべてを話しました。

夢は、その後も、何度か続きました。

いつも、同じ暗い部屋でした。

二人の子どもは、少しずつ、私に近づいてきました。

けれど、決して、触れることはできませんでした。

いつも、あと一歩というところで、クロが飛び出してくるのです。

金色の目を光らせ、私を背にかばいました。

二人は、そのたびに、悲しそうに、後ずさりしました。

今なら、わかります。

あの子たちは、私を傷つけたかったのではありません。

ただ、こちらの世界に、触れてみたかっただけなのだと。

うちの両親は、こういう話を信じない人でした。

だから、ずっと黙っていたのです。

けれど、もう、一人では抱えきれませんでした。

布団の顔のこと。

窓の女の子のこと。

そして、夢の中の、二人の子どものこと。

話を聞くうちに、母の顔から、血の気が引いていきました。

「その子たちは、どんな顔をしていたの」

母の声が、かすかに震えていました。

私が二人の背格好を伝えると、母はしばらく黙り込みました。

それから、静かに口を開きました。

「お母さんね、あなたが生まれる前に」

「二度、赤ちゃんを、見送っているの」

はじめて聞く話でした。

母は、授かった二つの命を、育てることが叶わなかったのです。

一人は女の子、もう一人は、男の子になるはずだったといいます。

「ずっと、きちんと供養してあげられていなかった」

母は、そう言って、目を伏せました。

「あの子たちは、ずっと、あなたのそばにいたかっただけなのね」

その週末、父が仕事から帰ってきました。

母が事情を話しても、父は取り合いませんでした。

「子どもの見た夢だろう」

父は、そう言って笑いました。

けれど、その夜のことです。

居間で、父が急に、口をつぐみました。

廊下の暗がりを、じっと見つめていました。

「今、何か、通らなかったか」

父の声が、かすかに、こわばっていました。

クロが、父の足もとで、廊下を睨んでいました。

父は、それ以上、何も言いませんでした。

翌朝、父は黙って、母に供養の相談をすすめました。

その言葉に、私の胸の奥が、ぎゅっと締めつけられました。

母は、その日のうちに、近くのお寺へ相談に行きました。

翌日、私たちは、二人の子のための供養をお願いしました。

お経の声が、雪の積もった境内に、静かに響きました。

線香の白い煙が、まっすぐ天へのぼっていきました。

住職さんは、私たちの話を、静かに聞いてくれました。

「よく、気づいてあげましたね」

そう言って、二つの小さな位牌を、こしらえてくれました。

母は、その位牌に、そっと手を触れました。

「遅くなって、ごめんね」

母の声は、涙で、かすれていました。

私も、母の隣で、手を合わせました。

堂の中は、線香の匂いと、冷たい木の匂いがしました。

風が鳴るたび、軒の風鈴が、りん、と澄んだ音を立てました。

その音が、まるで、返事のように聞こえました。

私は手を合わせながら、心の中で語りかけました。

ごめんね、と。

そして、ありがとう、と。

不思議なことに、その日から、二人はあらわれなくなりました。

布団にも、窓にも、夢の中にも。

あの子たちは、ようやく、安心して眠れたのだと思います。

供養をした夜のことは、今もよく覚えています。

家の中が、ふしぎなほど、静かでした。

廊下の足音も、しませんでした。

濡れた土の匂いも、消えていました。

私は久しぶりに、ぐっすりと眠りました。

明け方、ふと目を覚ますと、クロが窓辺に座っていました。

雪あかりの中で、外を、静かに見つめていました。

その背中は、もう、毛を逆立ててはいませんでした。

まるで、大切な役目を、終えたあとのようでした。

私は、その背中に、そっと手を伸ばしました。

あたたかい体が、ゆっくりと、喉を鳴らしました。

きっと、寂しかっただけなのでしょう。

私を、恨んでいたのではなく。

ただ、家族のそばに、いたかっただけ。

そう思うと、恐ろしさよりも、切なさが胸に残りました。

あれから、長い年月が流れました。

クロは、私が中学に上がった年の冬に、静かに旅立ちました。

最期まで、私の布団のそばで、丸くなっていました。

あの子は、ただの飼い猫ではなかったのだと、今も思います。

見えないものから、私を守り続けてくれた。

言葉を持たないまま、たしかに、そばにいてくれたのです。

雪の降る夜になると、私はふと、あのあたたかい背中を思い出します。

クロの喉が鳴る音を、耳の奥で探してしまいます。

供養のあと、祖母は私に、そっと教えてくれました。

「あの子たちも、これで安心して、眠れるよ」

「クロが、よく守ってくれたねえ」

祖母は、クロを膝にのせ、いつまでもなでていました。

クロは、気持ちよさそうに、目を閉じていました。

あの祠は、今も裏手に、静かに佇んでいます。

帰省するたび、私は祖母にならって、手を合わせます。

祖母は、もう、この世にはいません。

けれど、あの言葉だけは、今も胸に残っています。

この家は、いろんなものに、守られている。

見えないものは、こわいものばかりではないのだと、今の私は思います。

寂しさを抱えたものに、そっと寄り添うこと。

それを、クロと祖母が、幼い私に教えてくれました。

今、私にも、小さな子どもがいます。

その寝顔を見ていると、ふと、あの二人のことを思います。

生まれてくることの叶わなかった、私の姉と、弟。

きっと、どこかで、この子を見守ってくれている。

そんな気がして、私はそっと、手を合わせます。

雪の夜、子どもの布団のそばには、一匹の猫の姿を、いつも探してしまいます。

守ってくれてありがとう。

命日の今日、私はもう一度、そう伝えたくて、この話を書きました。

あの家で過ごした冬の日々を、私は今も、忘れられません。

こわかったのは、確かです。

けれど、あの体験があったからこそ、私は知りました。

見えないものにも、心があるということを。

読んでくださって、ありがとうございました。

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