疫病神

もう、二十年以上も前の話になります。

私が、高校生だったころのことです。

私の家は、山あいの、小さな集落にありました。

三方を山に囲まれ、日暮れの早い土地でした。

家は、曾祖父の代から続く、古い農家でした。

茅葺きを瓦に葺き替えた、大きな平屋です。

庭の隅には、屋敷神を祀った、小さな祠がありました。

「あの祠のおかげで、この家は代々、守られてきたんや」

祖父は、口癖のように、そう言っていました。

集落には、二十軒ほどの家が、身を寄せ合っていました。

朝は、どこかの家の鶏の声で、目を覚ましました。

夕方には、味噌汁の匂いが、家々の軒先から漂いました。

私の家は、その集落でも、古いほうでした。

広い土間に、黒光りする大黒柱。

奥には、仏間と、客間が、続いていました。

父は無口で、頑固な人でした。

母は、いつも笑っていて、家の真ん中にいるような人でした。

弟は野球にのめり込み、妹は絵を描くのが好きでした。

祖父は、庭の祠の世話を、毎朝、欠かしませんでした。

水を替え、榊を供え、手を合わせる。

それが、我が家の、変わらぬ朝の風景でした。

ごく、ありふれた、けれど、あたたかい暮らしでした。

その日は、朝から、冷たい雨が降っていました。

両親は法事で出かけ、私は一人、留守番をしていました。

弟は部活、妹は友達の家、祖父は昼寝をしていました。

薄暗い座敷で、私は、こたつに入って、うとうとしていました。

雨だれの音が、軒先から、絶え間なく落ちていました。

昼過ぎ、玄関の戸を叩く音がしました。

とんとん、ではなく、どん、どん、と、鈍い音でした。

私は、宅配便かと思い、玄関へ出ました。

戸を開けると、見知らぬ男が、立っていました。

ずぶ濡れの、ぼろぼろの身なりでした。

傘も差さず、雨に打たれるまま、じっと突っ立っていました。

顔は、雨と髪で、よく見えませんでした。

ただ、落ちくぼんだ目だけが、こちらを、じっと見ていました。

男の身なりは、この時代の人とは、思えませんでした。

色のあせた、古い外套を、まとっていました。

足もとは、裸足でした。

その足が、雨のぬかるみに、深く沈んでいました。

近くにいるだけで、饐えたような、土の匂いがしました。

それは、雨の匂いとも、汗の匂いとも、違うものでした。

墓場の土を、掘り返したような、そんな匂いでした。

男が口を開くと、その匂いは、いっそう、濃くなりました。

「あの……何か、ご用ですか」

私が尋ねても、男は、しばらく何も言いませんでした。

やがて、しわがれた声で、ぽつりと言いました。

「この家には、悪いものが、憑いとる」

私は、背筋が、ひやりとしました。

「え……なんの、ことですか」

「この家は、もう、見込まれとる。次々と、持っていかれるぞ」

男は、それだけ言うと、くるりと背を向けました。

そして、雨の中へ、ゆっくりと歩き去っていきました。

私は、その後ろ姿を、ただ、見送ることしかできませんでした。

気づくと、男の立っていた場所だけ、地面が、黒く濡れて沈んでいました。

戸を閉めたあとも、私は、しばらく動けませんでした。

心臓が、どくどくと、鳴っていました。

雨の音だけが、やけに、大きく聞こえました。

私は、恐る恐る、もう一度、戸を細く開けてみました。

男の姿は、もう、どこにもありませんでした。

ぬかるんだ道には、足あと一つ、残っていませんでした。

裸足で歩いたはずなのに、です。

そのことを、私は、誰にも話しませんでした。

ただの、頭のおかしな男の、たわごとだ。

そう思い込もうとしました。

けれど、その日から、家の様子が、少しずつ、おかしくなっていきました。

まず、庭の井戸の水が、濁りはじめました。

澄んでいたはずの水が、白く、どろりと曇ったのです。

祠の傾きは、日ごとに、ひどくなっていきました。

祖父は、それを、ひどく気にしていました。

「この祠が倒れる時は、この家が終わる時や」

祖父は、青い顔で、そう言いました。

ある朝、祖父が祠を直そうと、土台を掘り返しました。

すると、土の中から、黒く朽ちた、小さな木札が出てきました。

札には、読めない文字が、びっしりと書かれていました。

祖父は、それを見た途端、手を止めて、真っ青になりました。

「これは……触ったら、いかんもんや」

祖父は、震える手で、その札を、そっと土に埋め戻しました。

そして、その日から、いっそう熱心に、祠に手を合わせるようになったのです。

次に、朝になると、屋敷神の祠が、少しずつ、傾いていきました。

誰も、触れていないはずなのに、です。

祖父が直しても、翌朝には、また、同じほうへ傾いていました。

夜には、天井裏で、かさ、こそ、と、何かの這う音がしました。

ねずみにしては、大きすぎる音でした。

おかしなことは、井戸の水だけでは、ありませんでした。

ある朝、庭の木に、烏が、何十羽も、とまっていました。

一羽も鳴かず、ただ、じっと、家を見下ろしていました。

母が箒を振り回すと、一斉に、音もなく飛び立ちました。

台所では、炊いたばかりの米が、半日で、糸を引きました。

買ったばかりの牛乳も、その日のうちに、すえた匂いを放ちました。

飼っていた犬は、ある夜、鎖を引きちぎって、姿を消しました。

それきり、二度と、帰ってきませんでした。

そして、家の柱時計が、決まって、真夜中に止まりました。

止まる時刻は、いつも、同じでした。

午前二時、四十分。

誰かが、この世を去るには、ちょうどいい頃合いだと、祖父は言いました。

そして、雨の日には、決まって、あの湿った土の匂いが、家中に満ちました。

不幸が始まったのは、それから、間もなくのことでした。

最初は、父でした。

仕事帰りに、車で崖から転落し、大怪我を負いました。

命こそ助かりましたが、半年、寝たきりになりました。

父が崖から落ちた夜のことを、私は、忘れられません。

病院に運ばれた父は、意識が、朦朧としていました。

それでも、うわ言のように、こう繰り返していました。

「道に、男が……濡れた男が、立っとった……」

私は、その言葉に、全身の血が、引いていくのを感じました。

あの男の言葉を、誰にも話さなかった自分を、私は責めました。

もし、話していれば。もし、祠に、もっと手を合わせていれば。

母が病に倒れた時も、私は、同じことを、悔やみました。

やせ細った母の手を握りながら、私は、祈ることしか、できませんでした。

「お願いです。もう、誰も、連れていかないでください」

けれど、私の祈りは、届きませんでした。

災いは、順番を待つように、一人ずつ、家族を襲っていったのです。

次は、母でした。

胃に、悪いものが見つかり、大きな手術をしました。

やせ細っていく母を見るのは、つらいものでした。

弟は、野球の練習中、打球を、左の目に受けました。

一時は、失明も覚悟しなければ、なりませんでした。

妹は、学校で、ひどいいじめに遭い、部屋から出てこなくなりました。

弟が、打球を目に受けたのは、梅雨のさなかでした。

グラウンドに、私が駆けつけた時、弟は、両手で顔を覆っていました。

指のあいだから、血が、したたっていました。

「見えん……兄ちゃん、目が、見えん」

その声を、私は、今も、耳の奥で覚えています。

妹が、学校へ行けなくなったのも、そのころでした。

いつも明るかった妹が、一日中、部屋の隅で、膝を抱えていました。

そして、祖父です。

あれほどしっかりしていた祖父が、日ごとに、遠い人になっていきました。

祖父は、庭の祠の前に、何時間も、座り込むようになりました。

「すまん、すまん」と、誰かに詫びるように、頭を下げていました。

「じいちゃん、誰に謝っとるん」

私が尋ねても、祖父は、うつろな目で、庭を見ているだけでした。

そして、あれほど元気だった祖父の頭が、急に、ぼけはじめました。

祖父は、時々、庭のほうを指さして、こう言いました。

「ほれ、そこに、また来とる。あの、濡れた男が」

けれど、私の目には、誰も、見えませんでした。

一年のうちに、家族は、次々と、災いに見舞われました。

幸い、死人こそ、出ませんでした。

けれど、あんなに明るかった家は、すっかり、暗く沈んでいました。

私は、あの男の言葉を、毎晩、思い出していました。

次々と、持っていかれるぞ。

五人が、やられました。

残っているのは、私、ひとりでした。

次は、俺の番かもしれない。

私は、毎晩、布団の中で、そう怯えていました。

雨の音がするたび、あの、どん、どん、という戸を叩く音が、耳によみがえりました。

そのころ、私は、夜が来るのが、恐ろしくてなりませんでした。

雨の降る晩は、とりわけ、眠れませんでした。

軒を打つ雨だれの音が、あの、戸を叩く音に、重なるのです。

どん、どん、と。

私は、布団の中で、耳をふさぎました。

それでも、あの男の声が、頭の奥で、響きました。

次々と、持っていかれるぞ。

私は、何度も、庭の祠に、手を合わせに行きました。

けれど、祠の扉は、いつも、ほんの少しだけ、開いていました。

閉めても、閉めても、翌朝には、また開いているのです。

その暗い隙間を、私は、のぞくことが、できませんでした。

けれど、なぜか、私の身にだけは、何も起こりませんでした。

私は、家を出る前の晩、祖父に、一つだけ尋ねました。

「じいちゃん。あの濡れた男は、いったい、何なん」

祖父は、しばらく、庭のほうを見ていました。

そして、ぽつりと、こう言いました。

「昔な、この土地で、飢饉があった。大勢が、飢えて死んだそうや」

「その、行き場のない者らを、この家が、祠に祀って、鎮めてきたんや」

「じゃが、供養を怠ると……あれは、また、迎えに来る」

私は、言葉を失いました。

あの濡れた男は、遠い昔から、この土地をさまよう、何かだったのです。

あの飢饉の話は、集落の年寄りも、みな知っていました。

けれど、詳しいことを、口にする者は、いませんでした。

ただ、雨の続く年は、決まって、悪いことが起きる。

そう、言い伝えられていました。

私の家が、その供養を、代々引き受けてきたのだと、祖父は言いました。

庭の祠は、そのための、ものだったのです。

やがて、私は、家を出ました。

都会の大学へ進み、そのまま、就職しました。

家族も、少しずつ、快復していきました。

父は歩けるようになり、母の病も、癒えました。

弟の目も、視力を取り戻しました。

妹は、やがて、学校へ通えるようになりました。

まるで、何かが、潮が引くように、去っていったのです。

気づけば、あれから、二十年もの月日が、流れていました。

あの男のことも、いつしか、忘れかけていました。

今年の正月、私は、久しぶりに、実家へ帰りました。

年老いた父と、二人で、酒を酌み交わしました。

ふと、私は、あの日の男の話を、切り出しました。

今なら、笑い話にできる。そう思ったのです。

ところが、父は、笑いませんでした。

猪口を持つ手を止めて、遠くを見るような目をしました。

「その話は……お前も、覚えとったか」

「え。とうちゃん、知っとったん」

「あの年な。わしも、同じ男を、見たんや」

父は、低い声で、そう言いました。

「崖から落ちる、あの直前にな。道の真ん中に、濡れた男が、立っとった」

私は、ぞくりとしました。

「それは……いったい、なんやったん」

父は、しばらく黙って、猪口の酒を、じっと見つめていました。

そして、絞り出すように、つぶやきました。

「あれは……本物の、疫病神だったのかもしれんな」

その一言が、二十年越しに、私の背筋を、凍らせました。

父の話を聞いたあと、私たちは、長いあいだ、黙っていました。

囲炉裏の炭が、ぱち、と、小さくはぜました。

「なあ、とうちゃん。なんで、俺だけ、無事やったんやろ」

私が尋ねると、父は、ゆっくりと、首を振りました。

「わからん。……ただ、じいさんが、最後にな」

「祠の前で、こう言うとったんや。この子だけは、代わりに、わしが、と」

祖父が亡くなったのは、私が家を出た、翌年のことでした。

穏やかな、眠るような、最期だったと聞きました。

まるで、何かを、やり終えたかのように。

その話を聞いた時、私は、涙が止まりませんでした。

あの祠を守り続けた祖父が、最後に、私の身代わりになったのかもしれない。

そう思うと、胸が、締めつけられました。

帰りぎわ、私は、ふと、庭の祠を見に行きました。

あの、傾いていた祠です。

祠は、今は、まっすぐに、立っていました。

けれど、その扉が、ほんの少しだけ、開いていました。

中を、のぞこうとして、私は、やめました。

見てはいけない。そんな気が、したのです。

雨は、あの日と同じように、静かに、降りはじめていました。

今、私にも、家庭があります。

小さな娘が、一人います。

先日、その娘が、ふと、こんなことを言いました。

「ねえ、パパ。お庭に、濡れたおじさんが、立ってたよ」

私は、心臓を、鷲づかみにされた気がしました。

けれど、私の住むのは、雨の少ない、都会のマンションです。

庭など、どこにも、ありません。

私は、努めて、平静を装いました。

「そう。どんな、おじさんやった」

「わかんない。目だけ、こっち見てた」

娘は、けろりとした顔で、そう答えました。

その夜から、私は、あの祠のことを、また、考えるようになりました。

私は、今でも、時々、考えます。

あの疫病神は、なぜ、私だけを、見逃したのか。

それとも。

まだ、私の番が、来ていないだけなのか。

雨の音を聞くたび、私は、あの濡れた男の目を、思い出すのです。

あれから、私は、雨の日には、外を見ないようにしています。

とりわけ、二月の、冷たい雨の降る日は。

窓の外に、あの、濡れた影が、立っている気がするのです。

娘には、まだ、この話は、していません。

実家の祠は、今も、父が守り続けています。

正月に帰るたび、父は、必ず、榊を新しくしています。

「これだけは、絶やしたら、いかんのや」

年老いた父の背中は、いつしか、祖父のそれと、重なって見えました。

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