
7年ほど前、タクシーの運転手さんから聞いた話です。
六本木の龍土町にあったバー『舞姫』にまつわる、不思議な話でもあります。
当時、私は六本木にある会社に勤めていました。
仕事は夜遅くまでかかることが多く、終電を逃すたびにタクシーで帰るのが日常でした。
自宅は横浜市のT地区で、六本木からはおよそ40分ほどかかります。
それは5月のことだったと記憶しています。
小雨が降っていたか、あるいは雨上がりの夜でした。
アスファルトが街灯の色を映して、濡れた黒い鏡のようになっていたのを覚えています。
その日も深夜2時を回るまで、六本木で過ごしていました。
アマンドのある交差点から防衛庁方面へ、龍土町へと歩いてタクシーを拾おうとしました。
湿った夜気に、排気ガスと雨の匂いが混じっています。
昼間は人で溢れる通りも、その時間になると、人影がまばらになっていました。
防衛庁の前だけが、取り残されたように静まり返っています。
防衛庁前のガソリンスタンド付近で客待ちをしていた一台に、乗り込みました。
車内には、生ぬるい空調の風と芳香剤の甘い匂いが満ちていました。
ワイパーが一定の間隔で、窓の雨粒を払っています。
雨の夜のタクシーは、外の音が遠くなって、少しだけ別の世界のようでした。
私はタクシーに乗ると、よく運転手さんにこんな質問をしていました。
「今までに怖い体験をしたことはありませんか?乗せたお客さんが途中で消えたとか…定番でも構いません。」
黙って40分過ごすより、こうして話を聞く方が楽しかったからです。
その日も同じように尋ねました。
運転手さんは、少し考えてから口を開きました。
低く落ち着いた、聞き取りやすい声でした。
「実は私、子どもの頃からそういう体験をよくする方なんです。」
そう前置きして、いくつかの洒落にならない体験談を語ってくれました。
その中から、比較的最近あったという出来事を話してくれたのです。
庇の下の五人
「あの日も、今日と同じような雨模様でしてね。」
運転手さんの声は、そこで少し低くなりました。
「雨の夜はね、人の動きがいつもと違うんですよ。」
「傘を持たない人が、屋根のある場所に集まって、なかなか動かない。」
「あの交差点近くで客待ちをしていたら、向かいのビルのエレベーターから、男女5人が出てきたのが見えたんです。」
「飲み屋がいくつも入っているビルでね。」
「私たちはお客さんの動きに敏感ですから、きっと乗ってくるなと直感しました。」
「けれど5人は、ビルの庇の下で雨を避けながら、何やら真剣に話し込んでいました。」
フロントガラス越しに、ビルの看板の灯りが雨に滲んでいたといいます。
その光の下で、5人の影が、並んで揺れていたそうです。
「やがてそのうち2人は、停めてあったベンツに乗って去りました。」
「残りの3人が、こちらに歩いてきたんです。」
「男性の一人が私のタクシーに乗り込んで、『野方まで』とだけ告げました。」
「その顔は妙に深刻でした。」
「道中、ぽつりとこう言ったんです。」
「車に乗ってからは、ずっと窓の外ばかり見ていました。」
「『運転手さん、信じてくれますかね…今の店、すごく変だったんです。』」
私はルームミラーに映る運転手さんの横顔を、黙って見ていました。
竹のついたての人形
その5人は、有名キー局の長寿番組のスタッフでした。
麻布で食事をした後、スタッフの一人・K氏が「知り合いがやっているバーに行きたい」と提案しました。
そのマスターは、病気で長く入院していました。
退院したと聞いて、久しぶりに顔を出したいというのです。
店は、龍土町のビル5階にありました。
店の名は、『舞姫』といいました。
カウンター15席、テーブル3卓の小さなバーです。
5人は水割りを飲みながら、談笑を始めました。
氷がグラスの中で、からりと鳴っていたそうです。
薄暗い照明の下で、ボトル棚の琥珀色が静かに光っていました。
店内には、低い音量でジャズが流れていたそうです。
ところが、次第に会話が途切れ、場がしんと静まり返ります。
いつの間にかジャズも途切れ、空調の音だけがやけに大きく聞こえていました。
グラスの表面を、水滴がゆっくり伝っていきます。
K氏が「どうしたんだ?」と問うと、皆は「いや、別に…」と目を逸らしました。
やがて、一人が小声で漏らしました。
「この店、気持ち悪い。」
ほかのスタッフも、同意しました。
特に、店の入り口付近が嫌な感じだと言います。
視線がそちらへ向くたびに、誰もがすぐに目を逸らしたそうです。
K氏だけが、最後まで平静を装っていたといいます。
K氏は「気のせいだろう」と席を立って、入り口へ向かいました。
そこには、竹のついたてがありました。
和紙で作られた平たい人形が4つ貼られていました。
父、母、息子、娘を思わせる並び方でした。
席に戻ったK氏は、「ただの和紙人形だ」と言いました。
けれど、女性スタッフは震える声で告げました。
「私は店に入った瞬間、毛が逆立った。人形が怖くて仕方ない。」
別の男性も、口を開きました。
「トイレに入ったら、おかしな気配を感じた。」
霊感など信じないK氏は、「何でもない」と笑いました。
そして、わざとトイレに行きました。
ところが、用を足している最中に、両肩にずしりと重いものが乗ったのです。
錯覚ではありません。
確かな重みでした。
もちろん、個室には誰もいません。
水の流れる音も、換気扇の音もしない、静かなトイレでした。
青ざめたK氏は、席へ戻って「やっぱり出よう」と告げました。
勘定を済ませ、全員でエレベーターへ向かいました。
ビルの外で雨宿りをしながら、K氏はその出来事を皆に話したといいます。
その光景を、タクシーの運転手さんは偶然目にしていたのでした。
窓ガラスが曇った車内
「お客さんの話は信じますよ。」
運転手さんは、K氏にそう告げて続けました。
「もうその店には行かない方がいい。現に、いま連れてきちゃってますよ。」
驚いたK氏が問い返すと、運転手さんはこう説明しました。
「あなたを乗せた途端、窓ガラスが一斉に曇ったんです。」
「そして後部座席から、大勢の気配がしました。」
「剣道をやっていたせいか、そういう気配はわかるんです。」
「ただ、今回は数が多かった。」
「大勢と言っても、騒がしいわけじゃない。みんな、じっと座っているような感じでした。」
結局、運転手さんはK氏の自宅前で「活」を入れました。
「活」とは、剣道の稽古で身につけた、腹の底から出す鋭い掛け声のことだそうです。
そうして、憑いてきたものを追い払ったそうです。
「あの時ばかりは、バックミラーを見るのが怖かったですよ。」
運転手さんは、そう言って小さく笑いました。
話を聞き終えたとき、車内は不思議なほど静かでした。
窓の外では、雨音だけが遠くで続いています。
ワイパーの動く音が、いつもより大きく聞こえました。
私は後部座席の左右の座面を、そっと手で確かめていました。
バー『舞姫』の入り口
この話を聞いた私は、興味を抑えられませんでした。
翌日、友人とともに、龍土町のビルを訪れました。
友人は半信半疑のまま、付き合ってくれました。
昼の光の中で見ると、古びた、ごく普通の雑居ビルでした。
壁には雨の染みが残り、エントランスの床はまだ少し湿っていました。
エレベーターの前で、看板を一つずつ見ていきます。
階数表示が、ゆっくりと上がっていきます。
すると、『舞姫』というバーがありました。
5階の扉が開くと、ひんやりした空気が足元に流れ込みました。
5階に上がると、フロア全体が線香の匂いに包まれていました。
夜の店のはずなのに、寺の廊下のような匂いでした。
どこかで線香を焚き続けているような、重たい匂いです。
鼻の奥に、いつまでも残りました。
管理人らしい人の姿は、どこにもありません。
ドアを開けた瞬間、視線は竹のついたてに向かいます。
そこには、確かに和紙人形が4体貼られていました。
しかし、それらには赤く吊り上がった目と、異様な位置にある黒目、小さな牙が描かれていたのです。
私たちは息を呑みました。
赤い目が、こちらを見ているように思えました。
声を出す余裕さえありませんでした。
友人の手が、私の袖を掴んでいました。
そのまま、非常階段を駆け下りました。
靴音が、階段室に大きく反響していました。
一階に着くまで、振り返ることはできませんでした。
外へ出ると、昼の六本木の喧騒が、妙にありがたく思えました。
友人と私は、駅の近くまで、ほとんど口をききませんでした。
運転手さんから聞いた話と、私自身の体験は以上です。
『舞姫』は、その後なくなっています。
龍土町のビルには、他にも数々の不穏な噂が残っていました。
運転手さんの話が、すべて本当だったのかは分かりません。
ただ、あの線香の匂いと、赤く吊り上がった四つの目だけは、今もはっきりと思い出せます。