帳場の椅子

古い宿場町の、外れに、その旅籠(はたご)は、あった。

「井筒屋(いづつや)」という。

築百五十年を、超える、黒光りした、木造の建物だった。

太い梁が、天井を、低く、横切っていた。

廊下は、歩くたびに、きしきしと、鳴った。

壁は、長い年月で、飴色に、変わっていた。

俺は、その井筒屋を、祖父から、継いだ。

祖父は、頑固だが、客には、優しい人だった。

旅籠といっても、今は、素泊まりの、小さな宿だ。

かつて、街道を、行き来した、旅人も、めっきり、減った。

それでも、古い建物が、好きだという客が、ぽつぽつと、訪れた。

建物の、いちばん奥に、帳場(ちょうば)が、あった。

帳場とは、宿の、勘定場のことだ。

古い、大福帳や、そろばんが、今も、棚に、残っている。

その帳場の、隅に、一脚の、椅子が、置かれていた。

黒く、節くれだった、古い木の椅子だった。

背もたれが、奇妙に、ねじれていた。

座面は、固く、黒ずんで、てかてかと、光っていた。

いつも、白い布が、すっぽりと、かぶせて、あった。

子どもの頃、俺は、一度、その布を、めくろうと、した。

すると、祖父が、血相を変えて、飛んできた。

「それに、触るんじゃない!」

あんなに、怒った祖父を、見たのは、後にも先にも、その一度きりだった。

「あの椅子には、決して、座ってはいかん」

祖父は、低い声で、そう、言った。

「どうして」と、俺は、聞いた。

だが、祖父は、それきり、口を、つぐんでしまった。

以来、俺も、あの椅子のことは、なんとなく、避けて、生きてきた。

井筒屋は、俺で、五代目に、あたる。

表の、看板は、文字が、かすれて、もう、読めなかった。

軒先には、古い、提灯が、一つ、ぶら下がっていた。

風が、吹くたびに、それが、かたかたと、揺れた。

二階には、客間が、六つ、並んでいた。

どの部屋も、畳が、すり減り、襖の絵は、色褪せていた。

それでも、不思議と、居心地の、いい宿だった。

祖父は、生前、よく、こう言っていた。

「この宿は、人を、見ているんだ」

「悪い心の者は、長く、いられん」

子どもの俺は、その意味が、分からなかった。

だが、今なら、少しだけ、分かる気がする。

この建物には、長い年月ぶんの、何かが、染みついている。

柱の、一本一本に。

畳の、目の、一つ一つに。

布の下の、ねじれた影は、子ども心にも、ただ事では、なかった。

祖父は、毎朝、その椅子の前で、手を、合わせていた。

線香を、一本、上げることも、あった。

俺は、それを、ただの、習慣だと、思っていた。

だが、今思えば、あれは、供養だったのだ。

椅子に、宿る、何かを、鎮めるための。

祖父が、死ぬ間際、俺の手を、握って、言った。

「あの椅子だけは、頼む」

「布を、取るな。動かすな。座らせるな」

それが、祖父の、最期の言葉だった。

当時の俺は、その重みを、分かって、いなかった。

祖父が、亡くなり、俺が、宿を、継いだ。

帳場に、座るようになって、改めて、あの椅子が、気に、なりはじめた。

布の下から、ねじれた背もたれの、影が、いつも、こちらを、見ているようだった。

ある日、古くから、宿を手伝ってくれている、トメさんに、聞いてみた。

トメさんは、もう、八十を、超える、老婆だった。

「トメさん。あの、帳場の椅子は、何なんだ」

トメさんの、皺だらけの顔が、ふっと、こわばった。

「ああ……あれね」

「先代が、ずっと、布をかぶせて、しまっておいた、椅子だよ」

「もとは、この宿の、ずっと昔の、持ち主のものでね」

「多兵衛(たへえ)さん、という人の、椅子さ」

多兵衛、というのは、幕末の頃、この宿を、営んでいた、男だという。

強欲で、旅人を、だましては、身ぐるみ、剝いでいた、らしい。

「あくどいことを、しすぎてね」

「最後は、捕まって、宿場の外れで、首を、刎ねられたのさ」

「その、多兵衛さんが、生前、いつも、座っていたのが、あの椅子だよ」

俺は、ぞくり、とした。

「それが、どうして、今も、ここに、残ってるんだ」

「捨てようと、した者が、みんな、ね……」

トメさんは、そこで、言葉を、濁した。

「みんな、どうしたんだ」

「死んだのさ。あの椅子を、動かそうとした者は、みんな」

俺は、笑い、飛ばそうと、した。

だが、トメさんの、目は、笑って、いなかった。

「座った者も、同じだよ」

「一年と、経たずに、みんな、死んでいる」

それから、トメさんは、ぽつぽつと、語りはじめた。

戦争の、頃の、話だ。

出征する、村の若者たちが、この宿で、別れの宴を、開いた。

酔った、若者の一人が、ふざけて、あの椅子に、座った。

「景気づけだ。多兵衛の椅子で、武運長久を、祈ろう」

そう言って、何人かが、代わる代わる、腰を下ろした。

「その、若い衆はね」

トメさんの声が、震えた。

「一人も、生きて、帰ってこなかったよ」

戦死の報せが、村に、次々と、届いた。

あの椅子に、座った若者だけが、全員、帰らぬ人と、なったのだという。

「だから、先代は、布を、かぶせて」

「もう、誰も、座れないように、したんだよ」

トメさんは、そこで、ふう、と、息を、ついた。

「あんたの、お祖父さんはね」

「あの椅子を、ずっと、見張って、生きてきたんだよ」

「他に、できる者が、いなかったからね」

俺は、初めて、祖父の、人生の、重さを、知った。

ただの、頑固な、宿の主だと、思っていた。

だが、祖父は、ずっと、この宿の、闇を、一人で、背負っていたのだ。

「あの椅子はね」

トメさんは、声を、潜めた。

「ときどき、夜中に、ひとりでに、軋むんだよ」

「ぎ、ぎ、ってね」

「まるで、誰かが、座って、いるみたいに」

俺は、ぞっと、して、帳場の隅を、振り返った。

白い布は、しんと、静まって、いた。

だが、その下で、何かが、息を、ひそめている、気が、した。

俺の、背筋を、冷たいものが、這い上がった。

あのとき、祖父が、あれほど、怒った理由が、ようやく、分かった。

それから、俺は、古い、宿帳を、調べてみた。

蔵の、奥から、埃まみれの、帳面が、何冊も、出てきた。

明治、大正、昭和。

変色した、紙の、あちこちに。

赤い字で、印が、つけられた、名前が、あった。

その、横には、小さく、こう、書き添えてあった。

「椅子に座る。○月、物故」

物故とは、亡くなった、という意味だ。

祖父か、その前の代の、誰かが、記録して、いたのだ。

椅子に座った者が、いつ、死んだかを。

印は、ぜんぶで、十を、超えていた。

十人以上が、あの椅子のせいで、死んでいる。

記録に、残っている、だけで、それだけだ。

戦争で、死んだ、若者たちは、含まれて、いないはずだった。

とすれば、犠牲者は、いったい、何人に、なるのか。

俺は、帳面を、そっと、閉じた。

手が、震えて、いた。

それからは、俺も、あの椅子に、近づかないように、していた。

だが、世の中には、そういう話を、面白がる者も、いる。

常連に、酒好きの、源さん、という男がいた。

工事現場で、長年、働いてきた、屈強な人だ。

ある晩、源さんは、すっかり、酔って、帳場に、入り込んできた。

「なあ、大将。この椅子、いわくつき、なんだろ」

「やめてくれ、源さん。それは、座っちゃ、いけない椅子だ」

「はは、いい大人が、迷信を、信じてるのかい」

止める間も、なかった。

源さんは、布を、はぎ取り、どっかと、あの椅子に、腰を、下ろした。

「ほら、何ともない。ただの、古い椅子じゃないか」

そう言って、源さんは、大声で、笑った。

黒い椅子は、源さんの体の下で、ぎ、と、低く、軋んだ。

まるで、何かを、飲み込んだような、音だった。

俺は、ぞっと、した。

だが、そのときは、ただの、酔っ払いの、戯れだと、思おうとした。

源さんは、しばらくして、機嫌よく、帰っていった。

俺は、すぐに、布を、拾い、椅子に、かぶせ直した。

布を、かける、その手が、なぜか、ひどく、重かった。

座面に、源さんの、体温が、まだ、残っている、気がした。

いや、それは、体温とは、違う、何か、だった。

ぬるりと、湿った、嫌な、温かさだった。

俺は、慌てて、手を、引っ込めた。

その晩は、なかなか、寝つけ、なかった。

隣の、帳場から、ときおり、ぎ、と、音が、した。

風の、せいだと、思おうとした。

だが、その夜は、風など、吹いて、いなかった。

それから、ひと月ほど、経った頃だ。

源さんが、工事現場で、足場から、落ちて、死んだ。

即死だった、という。

ベテランの、源さんが、なぜ、足を、踏み外したのか。

誰にも、分からなかった。

「足を、何かに、つかまれたみたいに、落ちた」

一緒にいた、同僚は、青い顔で、そう、証言した、らしい。

俺は、その話を、聞いて、立っていられなく、なった。

あの晩、源さんが、座った、黒い椅子。

まさか、と、思いたかった。

だが、トメさんの言葉が、頭の中で、こだました。

座った者は、一年と、経たずに、死んでいる。

源さんの、葬式が、済んで、しばらく、した頃だった。

噂を、聞きつけた、若者が、三人、宿に、やってきた。

「ここに、呪いの椅子が、あるって、本当っすか」

度胸試しの、つもりらしかった。

俺は、必死で、止めた。

「やめておけ。本当に、人が、死んでるんだ」

だが、若者たちは、げらげらと、笑うばかりだった。

一人が、面白半分で、あの椅子に、座り、写真を、撮った。

「ほら、これで、フォロワー、増えるぞ」

そう言って、はしゃいでいた。

その若者が、半年後、事故で、亡くなったと、知ったのは。

ずっと、あとに、なってからだった。

残りの、二人とも、その後、消息が、知れなくなった、という。

携帯も、つながらず、家にも、帰っていない、と。

俺は、その話を、聞いて、また、眠れなく、なった。

あの椅子に、座った、源さん。

写真を、撮った、若者。

その、若者と、一緒に、いた、二人。

関わった者が、次々と、闇に、消えていく。

まるで、椅子が、一人ずつ、手繰り寄せて、いるかのようだった。

俺は、もう、客を、帳場の奥へは、入れないように、した。

あの椅子の、存在を、知る者を、増やしたく、なかった。

ある晩のことだ。

帳場で、帳簿を、つけていて、ふと、気づくと。

俺は、無意識に、あの椅子の、すぐ前に、立っていた。

いつ、立ち上がったのか、覚えて、いなかった。

体が、ふらりと、椅子へ、引き寄せられた。

座れ。

頭の中で、誰かが、そう、囁いた、気がした。

低く、ねっとりとした、男の、声だった。

膝が、勝手に、折れ、腰が、椅子へ、落ちようと、した。

座面の、黒い艶が、俺を、待っているように、見えた。

そのときだ。

どこからか、祖父の、声が、聞こえた。

「それに、座るんじゃない!」

俺は、はっと、我に返り、転がるように、後ずさった。

心臓が、痛いほど、早鐘を、打っていた。

全身に、冷たい、汗を、かいていた。

あの椅子の、ねじれた背もたれが。

ほんの一瞬、笑った、ように、見えた。

俺は、もう、限界だった。

近くの、寺の、住職に、相談した。

住職は、あの椅子を、一目見て、顔を、しかめた。

「これは、ずいぶん、強い、念が、こもっている」

「軽々しく、燃やしたり、壊したりは、できません」

「下手をすれば、災いが、こちらに、跳ね返る」

結局、ねんごろに、供養を、してもらった。

そのうえで、椅子は、宿の、奥の、蔵に、しまうことに、した。

太い、鎖で、梁から、吊り下げ、床から、浮かせた。

もう、誰にも、座れないように。

蔵に、運び込む、その日。

俺と、寺の、若い僧が、二人がかりで、椅子を、持ち上げた。

たった、一脚の、木の椅子だ。

それなのに、信じられないほど、重かった。

まるで、大人が、一人、座って、いるかのような、重さだった。

僧の、額に、玉のような、汗が、浮かんだ。

「これは……ただ事では、ありませんな」

僧は、青い顔で、そう、つぶやいた。

蔵の、梁に、鎖を、回し、椅子を、吊り下げた。

床から、足が、浮いた、その瞬間。

ぎ、と、椅子が、ひときわ、大きく、軋んだ。

まるで、不満げに、唸る、声のようだった。

俺と、僧は、顔を、見合わせ、急いで、蔵を、出た。

後で、聞いた話だが。

遠い、異国にも、よく似た、呪いの椅子が、あるのだという。

座った者が、次々と、命を落とすので。

今では、博物館の、天井から、吊るして、あるそうだ。

きっと、世界中の、どこにでも。

座っては、いけない、椅子は、あるのだろう。

それから、もう、何年も、経った。

あの椅子は、今も、蔵の、暗がりで、鎖に、吊られている。

ときどき、風も、ないのに。

ぎ、ぎ、と、軋む音が、聞こえる。

まるで、誰かが、座ろうとして、いるかのように。

俺は、その音を、聞くたびに。

蔵の、戸を、固く、閉ざす。

蔵の、鍵は、俺だけが、持っている。

誰にも、触らせは、しない。

この、宿を、継ぐ者が、いれば。

俺も、祖父と、同じように、伝えるつもりだ。

あの椅子だけは、頼む、と。

布を、取るな。動かすな。座らせるな、と。

それが、井筒屋を、預かる者の、定めなのだ。

派手な、いわくは、何も、ない。

ただ、黒い、古びた、椅子が、一脚。

蔵の、暗がりに、吊られている、だけだ。

だが、俺は、知っている。

あれが、ただの、椅子では、ないことを。

そして、心の中で、祖父に、礼を、言う。

あの晩、声を、かけてくれて、ありがとう、と。

もし、あのまま、座っていたら。

今ごろ、俺も、源さんたちと、同じ場所に、いたはずだ。

俺は、ときどき、夢を、見る。

暗い蔵の中で、あの椅子が、鎖を、軋ませながら。

ゆっくりと、こちらを、向く夢だ。

目が、覚めると、決まって、汗びっしょりだ。

それでも、俺は、この宿を、捨てない。

捨てれば、あの椅子は、また、誰かの手に、渡る。

そして、新たな、犠牲者を、生むだろう。

だから、俺は、ここに、残り、見張り続ける。

それが、俺の、役目だから。

あの椅子は、今も、誰かが、座るのを、待っている。

黒く、ねじれた、その姿で。

静かに、静かに、次の獲物を、待っている。

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