リアル(長編)

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俺の経験から言わせてもらう。何かに取り憑かれたりしたら、マジで洒落にならないことになると最初に言っておく。

もう一つ。一度や二度、お祓いをすれば何とかなるってことはまずない。長い時間かけてゆっくり蝕まれるからね。祓えないってことの方が多いみたいだ。

俺の場合は大体2年半くらいかかった。あの恐ろしい出来事を語ろうと思う。

まず始まりから書くことにする。

当時、俺は23才。名前は瞬ってことにしとく。

社会人一年目ってことで、新しい生活に馴染むのに精一杯なころだな。会社が小さかったから、同期も少ない。必然的に仲がよかった。

その同期のひとりに荒木って奴がいた。

こいつが変なこと色々と知ってたり、妙な知り合いが多かったりしたわけ。

よく「これをしたら祟られる」とか「死霊が来る」とかって話あるよね。荒木はそんな話が得意でたくさん知っていた。そういう話のほとんどはガセなんだけど、中には本当にヤバイものもあるらしい。荒木が言うには、発生条件がいくつかあって、偶然それが揃っちゃうと起きるんじゃないかって。

車を買ってすぐのころだった。一人暮らし始めて間もなかったし、何よりバイトとは比べ物にならない給料が入るんで、週末は遊び呆けてた。8月の頭に、ナンパして仲良くなった女の子たちと荒木の知ってるいわゆる心霊スポットに肝試しに行ったわけ。

その場は確かに怖かったし、なんか妙な寒気もした。やたらとお札が貼られた場所だった。そのせいか何かいるような気もしたけど特に何も起こらず、まぁスリルを満喫して帰ってきたわけだ。

それから3日後だった。

仕事が終わって疲れて部屋に帰ってきた。ほんと今思い出してもどうしてあんなことしたのか思い出せないのだけど、部屋の入口にある姿見鏡の前で荒木に教えてもらった「してはいけないこと」をやってしまった。ほんの思いつきだった。

少し細かく説明する。

当時の俺の部屋は、八畳1R。玄関から入ると細い廊下があり、その先に八畳分の部屋がある。

姿見鏡は部屋の入口、つまり廊下と部屋の境に置いてあった。

俺が荒木から聞いていたのは「鏡の前で(伏字)をしたまま右を見ると(伏字)が来る」とかいう話だった。姿勢的に、ちょっとお辞儀をしているような格好になる。

「来るわけねぇよな」なんて呟きながら、お辞儀のまま右向いた時だった。

部屋の真ん中辺りに何かいた。明らかに異質なものが。

背は150センチくらいだったと思う。髪はバッサバサで腰まであって、顔にはお札みたいなのが何枚も乱暴に貼り付けてあった。亡くなった人に着せる経帷子を着て、小さい振り幅で左右に揺れてた。

声も出なかったし、体も動かなかった。

想像して欲しい。

狭い1Rの部屋の真ん中にそれがいるって状態を。

そいつの周りだけ青みがかって見えた。時間が止まったと錯覚するくらい静かだった。

とりあえず俺が出した結論は「部屋から出る」だった。

足元にある鞄を、ゆっくりと手に取った。そいつからは目が離せなかった。目を離したらヤバいと思った。

後退りしながら廊下の半分を過ぎた辺りで、そいつが体を揺する動きが、少しずつ大きくなり始めた。そして呻き声みたいなのを出し始めた。

そこから先は、実はあんまり覚えてない。気が付くと駅前のコンビニにいた。結局、その日は部屋に戻る勇気はなくて、一晩中ファミレスで過ごした。

空が白み始めた頃、恐る恐る部屋のドアを開けた。アレの姿は見えなかった。

部屋に入る前にもう一回部屋の外で缶コーヒーを飲みながら一服した。実は錯覚だったんじゃないかって思い始めていた。

朝なので少し余裕出来たんだろうね。さっきよりやや大胆に部屋に入った。「よし、いない」なんて声に出しながら、カーテンを勢いよく開けた。

嫌なものが目に入った。

昨日、アレがいた辺りの床に、赤黒い泥が大量に残ってた。すごい臭いだった。

錯覚じゃなかった。何かが確かにここにいたんだ。

しばらくはどんよりした気持ちに沈んだ。でもまぁ、ここら辺が俺がAB型である典型的なところなんだけど、気持ちを切替えて泥を掃除してシャワー浴びて出社した。臭いが取れなくてかなりムカついたし、こっちはこっちで大問題だが、会社を休むことも一大事だったからね。

それでも会社に着くと、俺は何とか荒木と話す時間を探った。事の発端である荒木から、何とか情報を得ようとしたんだ。

昼休み、やっと荒木を捕まえることに成功した。

俺「前にさぁ、「(伏字)すると(伏字)が来る」とかって話あったじゃん。昨日それやったら来たんだけど」

荒木「は?何それ?」

俺「だからぁ、マジ何か出たんだって!」

荒木「はいはいっと」

俺「ふざけんなよ。やっべーのが出たってんだよ」

荒木「何言ってんのかわかんねーよ!」

俺「俺だってわかんねーよ!」

駄目だ、埒があかない。俺は詳細に昨晩の出来事を説明した。

最初は冗談だと思っていた荒木も、やっと半信半疑になった。それで仕事が終わってから俺の部屋にきて確かめることになった。

夜10時ごろ、荒木と俺は部屋に着いた。

扉を開けた瞬間に悪臭が鼻を突いた。締め切った部屋から熱気とともにあの臭いが噴き出してきた。

帰りの道でもしつこいくらい俺から説明を受けていた荒木は「…マジ?」と一言呟いた。信じたようだ。

荒木にもこの事態がさっぱりわからないようだ。とりあえず、お祓いに行った方がいいことと、知り合いに聞いてみるって言葉を残し、逃げるように帰っていった。予想通りとしか言いようがなかったが、荒木の顔の広さに期待を残した。

その日はカプセルホテルに泊まった。今夜も出たら終わりかもしれないと思ったのが本音。

翌日、さすがに会社どころじゃなかった。とりあえず近所の寺に行く。お坊さんに訳を話すと、

「専門じゃないからわからないですね。しばらくゆっくりしてはいかがでしょう。きっと気のせいですよ」

なんて呑気な答えが返ってきた。世の中こんなもんだ。その日は都内で有名な寺や神社をいくつも回ったが、どこの反応も大して変わらなかった。

困り果てた俺は、埼玉の実家を頼った。

正確には、母方の祖母がお世話になっている「葵先生」という尼僧に相談したかった。その人以外でまともに取り合ってくれそうな人が思い浮かばなかったから。

ここで「葵先生」を紹介する。

母は長崎県出身で当然祖母も長崎にいる。

祖母は、戦争経験からか熱心な仏教徒だ。 葵先生はその祖母が週一度通っている寺の住職だ。

俺も何度か会ったことがある。その宗派は教科書に載っているくらいだから新興宗教なんかじゃない。葵先生もしっかりと仏様に仕えてきた人だ。人柄は温厚、落ち着いた優しい話し方をするのが印象に残っている。

こんな話を思い出す。

俺が中学にあがる頃、親父が土地を買い家を建てることになった。地鎮祭と言うんだっけ? とにかくその土地をお祓いした。

その一週間後、長崎の祖母から「土地が良くないから葵先生がお祓いに行く」という電話があった。当然、母親も「もう終わってるのにどうして?」と尋ねたらしい。そしたら祖母から「でも葵先生がまだ残ってるって言うたったい」って。

つまり、俺が知る限り、唯一頼れる人物である可能性が高いのが葵先生だった。

埼玉の実家があるバス停に着いた頃には、夜9時を回るころだった。

工場ばかりの町なので、夜9時でも人気は少ない。バス停から実家までの約20分を足早に歩いた。歩きながら俺は自分の身体の異変に気が付いた。

どうも首の付け根辺りが熱い。首に紐を巻き付けられて、左右に擦っているような感じがした。

首に手をやった。熱い。どうも発疹のようなものがある。嫌な予感がして、実家まで全力で走った。

息を切らせながら実家の玄関を開けると、母が電話を切るところだった。

そして俺の顔を見るなりこう言ったんだ。

「あんた。長崎のお婆ちゃんから電話来て、心配だって。葵先生が、あんたが良くないことになってるからこっちおいでって言われたって。あんたなんかしたの?あらやだ。あんた首の回りどうしたの?」

答える前に玄関の鏡を見た。

首に巻きつけるような赤い線が出来ていた。近づいて見ると、細かな発疹がびっしり浮き上がっていた。

小刻みに身体が震えた。

階段を駈け上がり、母の部屋の小さな仏像の前で、南無阿弥陀仏を繰り返した。

母は異常を察知して祖母に電話している。逃げ場はない。恐ろしいことになってしまっていると、この時やっと理解した。

実家に帰り、自分が置かれている状況を理解して3日が過ぎた。

精神的に参ったからか、それともアレが起こしたものなのかはわからなかったが、2日間高熱に悩まされた。

ただ3日目の朝には熱も微熱くらいまで下がり、少しは落ち着いた。

ただ、首の回りが異常に痒かった。触れると痛い。

枕や布団、タオルなどが触れると、鋭い小さな痛みが走る。布団にもぐり、気にしないようにしたが、便所に行った時にどうしても気になって鏡を見た。

首回りが真っ赤になっていた。色白な俺の肌に赤い縄を巻きつけたように見えた。赤い線の正体である発疹には膿が溜まっていて、巨大なニキビがみっしりとひしめき合っていた。

真水で首を洗い無言で布団に戻った。何も考えられなかった。

そのとき携帯が鳴った。荒木からだった。

俺「もしもし」

荒木「おぉ!大丈夫?」

俺「…大丈夫な訳ねーだろ…」

荒木「やっぱヤバい?」

俺「やべーなんてもんじゃねーよ。つーか何かないんかよ?」

荒木「地元の友達に聞いてみたんだけどさ、ちょっとわかる奴いなくて…申し訳ない」

俺「申し訳ないじゃ済まないんだけど」

荒木「いや、その代わり、友達の知り合いにそーいうの強い人がいてさ。紹介してもいいんだけど、金かかるって…」

俺「金とんの?」

荒木「うん、みたい。どーする?」

俺「どんくらい?」

荒木「知り合いの話だと、とりあえず五十万くらいらしい…」

俺「五十万?」

働いているとはいえ五十万なんてすぐに払えるわけない。でも選択肢はなかった。

俺「…わかった。いつ紹介してくれる?」

荒木「聞いてみるから、ちょっと待ってて」

話が前後するが、俺が仏像の前で南無阿弥陀仏を繰り返していた時、母は祖母に電話をかけていた。

祖母からすぐに葵先生に相談が行き(相談と言うよりも、助けて下さいってお願いだったらしいが)、最終的には、葵先生がこっちに来てくれることになっていた。

ただし、葵先生も多忙だし、何より高齢だ。こっちに来るのは三週間先に決まった。

つまり、三週間は不安と恐怖と、何か起きてもおかしかない状況に耐えなければならなかった。

そんな状況だから、荒木のツテでも頼って少しでも出来ることをしてないと、気持ちが落ち着かなかったんだ。

荒木が折り返し連絡をしてきたのは、夜11時を過ぎた頃だった。

荒木「待たせて悪いね。知り合いに相談したら連絡入れてくれて、明日行けるって」

俺「明日?」

荒木「ほら、明日、日曜じゃん?」

そうか。いつの間にかアレを見てから五日も経つのか。不思議と会社のことなんてすっかり忘れてたな。

俺「わかった。ありがと。こっちまで来てくれるの?」

荒木「家まで行くって。車で行くらしいから、住所メールしといて」

俺「お前はどーすんの?来て欲しいんだけど」

荒木「行く行く」

俺「金、後でも大丈夫かな?」

荒木「多分大丈夫じゃね?」

俺「わかった。近くまで来たら電話して」

そんなことを話して電話を切った。その晩、夢を見た。

寝てる俺の脇に、白い和服を着た若い女性が正座していた。

俺が気付くと、三指をつき深々と頭を下げた後、部屋から出ていった。部屋から出る前に、もう一度深々と頭を下げた。この夢がアレと関係しているのかはわからなかった。

翌日、昼過ぎに荒木から連絡が来た。電話で誘導し出迎えた。

来たのは荒木とその友達、そして三十代後半くらいの男だった。男は「林」と名乗った。

一般人には思えなかったな。チンピラみたいな感じだったし、何の仕事をしてるのか想像もつかなかった。

俺がちゃんと説明していなかったから、両親が訝しんだ。

林「瞬君の話は荒木君から聞いてましてね。まー厄介なことになってるんです」

父「それで、林さんはどういった関係でいらしていただいたんですか?」

林「いやね、これもう素人さんじゃどーしようもなぃんですよ。お父さん、いいですか?信じられないかも知れませんが、このままだと瞬君、危ないですよ?で、荒木君が友達の瞬君が危ないから助けて欲しいって言うんでね、ここまで来たって訳なんですよ」

母「瞬は危ないんでしょうか?」

林「いやね、私も結構こういうのは経験してますけど、こんなに酷いのは初めてですね。この部屋いっぱいに悪い気が充満してます」

母「あの、林さんにお願いできるでしょうか?」

林「それはもう、任せていただければ。こーいうのは、私みたいな専門の者じゃないと駄目ですからね。ただね、お母さん。こっちとしとも危険があるんでね、少しばかりは包んでいただかないとね」

父「いくらあればいいんです?」

林「こちらも命がけですからね、まぁ二百万はいただかないと…」

父「そんなに?」

林「こっちもわざわざ遠方から時間かけて来てるんですよ?嫌だって言うなら、こっちは別に関係ないですからね。でも、たった二百万で瞬君が助かるなら、安いもんだと思いますけどね。それに瞬君もお寺に行って相手にされなかったんでしょう?わかる人なんて一握りなんですわ。また一から探すんですか?」

俺は黙って聞いてた。さすがに二百万って聞いた時は荒木を睨んだが、荒木もばつの悪そうな顔をしていた。結局、父も母もそれ以上の意見を言える筈もなく、渋々任せることになった。

林は、今夜、除霊すると言い出した。準備をすると言って一度出掛けた。出がけに、両親に準備にかかる金をもらっていった。

林は夕方に戻ってくると、蝋燭を立て、御札のような紙を部屋中に貼りはじめた。膝元に水晶玉を置き数珠を持ち、日本酒だと思うが、それを杯に注いだ。何となくそれっぽくはなった。

林「瞬君。これからお祓いするから。これでもう大丈夫だから。お父さん、お母さん。すみませんが、一旦家から出ていってもらえますかね?もしかしたら、悪いモノがそっちに行くこともない訳じゃないですから」

両親は不本意ながら、車で待機することになった。

日も暮れて辺りが暗くなった頃、林のお祓いが始まった。

林はお経のようなものを唱えながら、一定のタイミングで杯に指をつけ、俺にその滴を飛ばした。俺は半信半疑のまま、林に言われるまま布団に横たわり目を閉じていた。

お祓いが始まってからずいぶん経った頃、お経を唱える声が途切れ途切れになりはじめた。

目を閉じていたから、嫌な雰囲気と、少しずつおかしくなってゆくお経だけが俺にわかることだった。それに首がやけに痛い。痒さを通り越して、明らかに痛みを感じていた。目を開けまいと、痛みに耐えようと歯を食いしばっていた。そのときお経が不意に止んだ。

しかしおかしい。

不意にかき消えたような、区切りの悪い終り方だった。それに終わったにしては林は何も声をかけてこない。

首の痛みは一向に引かず、むしろ増しているようだった。

目を開けたらいけない。それだけは絶対にしてはいけない。それはわかってはいたが…開けてしまった。

林は、布団で寝ている俺の右手側に座りお祓いをしていた。

林と向き合うようにアレがうずくまっていた。手を床につけ、上半身だけを伸ばして林の顔を覗き込んでいる。林とアレの顔の間には、拳一つ分くらいの隙間しかなかった。

ふくろうのように小刻みに顔を傾けながら、アレは林の顔を覗き込んでいた。

今思うと、林に何かを囁いていたのかもしれない。

林は俯き気味に、目線を下に落としていた。瞬きもせず、口はだらしなく開いたまま涎を垂らしていた。少し笑っていたように見えた。時々小さく頷いている。

俺は瞬きも忘れ、その光景を凝視していた。

不意にアレが動きを止めた。次の瞬間、こちらに振り向いた。

俺は慌てて目をギュッと閉じ、布団を被り、ひたすら南無阿弥陀仏と唱えていた。俺の顔の間近で、アレがふくろうのように顔を動かしている光景が瞼に浮かんできた。恐ろしかった。

どのくらいその状態が続いたのだろう。ガタガタと部屋の扉が開くのと、階段を駈け降りる音が聞こえた。林が逃げ出したようだ。俺は怖くて怖くて布団に潜り続けていた。

両親が来て、電気を点けて布団を剥いだとき、真っ青な顔で丸まった俺がいたそうだ。

林は両親に見向きもせず車に乗り込み、待っていた荒木、その友達とともにどこかへ消えていった。後から荒木に聞いた話では「車を出せ」以外は言わなかったらしい。

解決するどころか、ますます悪いことになってしまった。俺にはもう三週間先の葵先生を待っている余裕など残っていなかった。

アレを再び目にしてから、さらに4日が経った。

俺は朝だろうが夜だろうが関係なく怯えていた。いつどこでアレが姿を現すかと思うと、怖くて仕方なかった。眠れない夜が続き、食事もほとんど受け付けられなかった。

たった10日足らずで、精神的に追い詰められていた俺の人相は随分変わってしまった思う。

葵先生が来るまでには、まだ二週間あまりが残っていたが、限界だった。見かねた両親は、怯える俺を強引に車に押し込んだ。父が何度も「心配するな」「大丈夫だ」と声をかけてくれた。

車の後部座席で、母は俺の肩を抱き頭を撫でてくれた。母に頭を撫でられるなんて何年ぶりだったろう。時間の感覚もなく、車で移動しながら夜を迎えた。

二十歳も過ぎて恥ずかしい話だが、母に寄り添われ安心したのか、久方ぶりに深い眠りに落ちた。 目が覚めるとすでに陽は登っていて、久しぶりに熟睡してすっきりしていた。

実際には丸1日半眠っていたらしい。多分、あんなに長く眠るなんてもうないだろうな。

少しずつ、見覚えのある景色が目に入り始めた。道路の中央に電車が走っている。

驚いたことに車は長崎に着いていた。

怯え続ける俺を気遣い、飛行機や新幹線は利用しないで車だけでの移動にしたらしい。

ろくに眠らず車を走らせ続けた父と、俺が怖がらないようにずっと寄り添ってくれた母への恩は、一生かけても返しきれそうもない。

祖父母の住む所は、長崎の柳川という。

柳川に着くと坂道の下に車を停めた。祖父母の家は、坂道から脇に入った石段を登った先にある。父親が祖父母を呼びに向かった。久しぶりに会う祖父母は挨拶もそこそこにすぐに車を走らせた。向かうのは葵先生の寺だ。

葵先生の寺に着くと、ふっと軽くなった気がした。何か起きたっていうよりは、俺が勝手に安心したって方が正しいだろうな。

立派な門をくぐり、石畳が敷かれた細い道を抜けると、初老の男性が迎え入れてくれた。

そう言えば、葵先生の家にはいつもお客さんがいたような気がする。きっと、祖母のように通っている人が多いんだろう。

奥に通され裏手の玄関から入り進んでいくと、十畳くらいの仏間がある。

葵先生は俺の記憶の通り、仏像の前に敷かれた座布団の上に正座していて、ゆっくりと振り向いたんだ。

(下手な長崎弁を記憶に頼って書くが勘弁)

祖母「瞬ちゃん、もうよかけんね。葵先生が見てくれなさるけん」

葵先生「久しぶりねぇ。随分立派になって。早いわねぇ」

祖母「葵先生、瞬ちゃんば大丈夫でしょかね?」

祖父「大丈夫って。そげん言うたかてまだ来たばかりやけん、葵先生かてようわからんてさ」

祖母「あんたさんは黙っときなさんてさ。もうあたし心配で心配で仕方なかってさ」

何でだろう…ただ葵先生の前に来ただけなのにそれまで慌ていた祖父母が安心した様子だった。それは両親にも俺にも伝わってきて、深く息を吐いたら身体から悪いものが出ていった気がした。

両親はもう体力的にも精神的にも限界に近かったらしく「疲れちゃったやろ?後は葵先生がよくしてくれるけん、隣ば行って休んでたらよか」と、祖父の言葉で隣の部屋へ。

葵先生「じゃあ瞬ちゃん、こっちにいらっしゃい」

葵先生に呼ばれ、向かい合わせで正座した。

葵先生「それじゃおじいちゃん達も隣の部屋で寛いでらして下さい。瞬ちゃんと話をしますからね。後は任せて、こっちの部屋には良いと言うまで戻って来ては駄目ですよ?」

祖父「葵先生、瞬ちゃんばよろしくお願いします!」

祖母「瞬ちゃん、心配なかけんね。葵先生がうまいことしてくれるけん。あんたさんはよく言うこと聞いといたらよかけんね。ね?」

しきりに葵先生にお願いして、俺に声をかけてくれる祖父母の優しいさに涙が出てきた。

葵先生はもっと近づくように言い、膝と膝を付け合わせるように座った。

俺の手を取り、暫くは何も言わず優しい顔で俺を見ていた。俺は何故か、悪さをして怒られるじゃないかと親の顔色を伺っていた、子供の頃のような気持ちになっていた。

目の前の、敢えて書くが、自分よりも小さくて明らかに力の弱いお婆ちゃんの、威圧的でもなんでもない雰囲気に呑まれていた。あんな人本当にいるんだな。

葵先生「…どうしようかしらね」

俺「…」

葵先生「瞬ちゃん、怖い?」

俺「…はい」

葵先生「そうよねぇ。このままって訳には行かないわよねぇ」

俺「えっと…」

葵先生「あぁ、いいの。こっちの話だから」

何がいいんだ?ちっともよくないだろ!そんな気持ちに耐えきれずついに大声をあげてしまった。

俺「俺どーなるんすか? もう早いとこ何とかして欲しいんです。いったい何なんですか?何で俺なんですか!もう勘弁してくれって感じですよ!葵先生、何とかならないんですか!」

葵先生「瞬ちゃ…」

俺「俺、別に悪いこと何もしてないっすよ!?確かに(心霊スポット)には行ったけど、俺だけじゃないし、何で俺だけこんな目に会わなきゃいけないんすか?鏡の前で(伏字)しちゃだめだってのも関係あるんですか?ホント訳わかんねぇ!なんで俺だけこんな目に!!」

(ドォドォルルシッテ)

(チルシッテ)

…何だか解らなかった。そんな小さな音だった。

(ドォドォルルシッテ)

声だ。左からオウムみたいな、甲高くて抑揚のない声が聞こえている。

それが「どうして」と繰り返していると理解するまで少し時間がかかった。

俺は葵先生の目を見ていたし、葵先生は俺の目を見ていた。

ただ優しかった葵先生の顔は、少し強張っているように見えた。

左に何かいるってのはわかってた。視界の端にチラチラと見えちゃうからね。よせばいいのに、そっちを向いてしまった。首から生暖かい血が流れてるのを感じながら。

アレがいた。体をくの字に曲げて、俺の顔を覗き込んでいた。

半ば予想していたとは言え、起きてることを認められなかった。

ここは寺なのに、目の前には葵先生がいるのに…何でなんで何で…。

一週間前に見たままだった。ふくろうのように小刻みに顔を傾けながら、俺を不思議そうに覗き込んでいた。

(ドォシッテ?ドォシッテ?ドォシッテ?ドォシッテ?)

オウムのような声で繰り返し、何度も何度も。

俺は息することを忘れてしまっていた。目と口を大きく開いたままだった。

そうこうしているうちに、アレが顔に貼り付けてあるお札を、ゆっくりめくり始めた。

見ちゃ絶対駄目だ!ってわかってるし逃げたかったんだけど、動けなかった。

お札の下からアレの口もとが見えていた。心の中で「ヤメロ!めくるな!」って叫んでるのに、口からはため息みたいな情けない声しか出なかった。

その時耳元で「パンッ!」という破裂音が起こった。冷たい風が頬にあたった。

「パン!」

もう一度。その音で身動きが取れるようになった。俺は跳び上がった。

後に振り向いて、すぐ走り出した。とにかくアレから逃げなくては。体が勝手に動いたんだ。

でも慣れない正座のせいで、足が痺れてまともに走れない。足がもつれ、異常な興奮状態からまともな状態じゃなかった俺はそのまま金具の突き出た柱に激突した。

額が割れたようだったけど、ちっとも痛くなかった。噴き出す血もそのままにして這うように出口を探した。

「まだいけません!」

いきなり葵先生が大きい声を出した。障子の向こうにいる両親や祖父母に言ったのか、俺に言ったのかわからなかった。わからなかったが、その声は俺の動きを止めるには十分だった。

俺の動きが止まり、仏間に入ろうとする両親と祖父母の動きが止まったことを確認するかのように、少しの間を置いてから葵先生が話し始めた。

葵先生「瞬ちゃんごめんなさいね。怖かったわね。もう大丈夫だからこっちに戻ってらっしゃい。おじいちゃん、大丈夫ですからもう少し待ってて下さいね」

襖の向こうから、しきりに何か言ってのは聞こえてたけど、覚えてない。

血を拭いながら葵先生の前に戻ると、手拭いを貸してくれた。お香なのかしんないけど、いい匂いがしたな。

ここに来てやっと、あの音は葵先生が手を叩いた音だって気付いた。

「瞬ちゃん、見えたわね?聞こえた?」

「見えました…どうして?って繰り返してました」

この時にはもう、葵先生の顔はいつもの優しい顔になってたんだ。

俺も今度はゆっくりと、出来るだけ落ち着いて答えることだけに集中した。

「そうね。どうして?って聞いてたわね。何だと思った?」

さっぱりわからなかった。考えようなんて思わなかったしね。

「…いや…わかりません」

「瞬ちゃんはさっきの怖い?」

「怖い…です」

「何が怖いの?」

「いや…だって普通じゃないし。化け物だし…」

ここらへんで、俺の思考能力は限界を越えてたな。葵先生が何を言いたいのかさっぱりだった。

「でも何もされてないわよねぇ?」

「いや…首から血が出たし、それに何かお札みたいなのめくろうとしてたし。明らかに普通じゃないし…」

「そうよねぇ。でも、それ以外はないわよねぇ」

「…」

「難しいわねぇ」

「あの、よくわからなくて…すいません」

「いいのよ」

葵先生は、俺にもわかるように話してくれた。諭すっていった方がいいかもしれない。

まず、アレはこの世のものではないことは間違いない。

じゃあいわゆる悪霊ってヤツかって言うと、そう断言していいか葵先生にも難しいということだった。

よいものではないが、葵先生には悪意は感じられなかったって言っていた。

俺に起きたことは何なのかに対してはこう答えた。

「悪気はなくても強すぎるとこうなっちゃうのよ。あの人ずっと寂しかったのね。話したい、触れたい、見て欲しい、気付いて気付いてって、ずっと思ってたのね。瞬ちゃんはね、わからないかもしれないけど、暖かいのよ。色んな人によく思われてて、それがきっと「優しそうだな」って思ったのね。だから、自分に気付いてくれたことが、嬉しくて仕方なかったんじゃないかしら。でもね、瞬ちゃんはあの人と比べると全然弱いのね。だから、近くに居るだけでも怖くなっちゃって、体が反応しちゃうのね」

葵先生は、まるで子供に話すようにゆっくりと話してくれた。

俺はどうすればいいのかわからなくなった。葵先生にお祓いしてもらえばそれで終ると思ってたから。

「さて、それじゃあ今度は何とかしないといけないわね。瞬ちゃん、時間かかりますけど、何とかしてあげますからね」

この一言には本当に救われたよ。あぁ、もういいんだ。終るんだって思った。

葵先生に教えられたことを書きます。俺にとって一生忘れたくない言葉です。

「見た目が怖くても、自分が知らないものでも、自分と同じように苦しんでると思いなさい。救いの手を差し伸べてくれるのを待っていると思いなさい」

葵先生はお経をあげ始めた。お祓いのためじゃなく、アレが成仏出来るように。
その晩、額は裂けてたし、よくよく見れば首の痕が大きく破けて痛かったけど、本当にぐっすり眠れた。

翌日、朝早く起きたつもりが、葵先生はすでに朝のお祈りを終らしてた。

「おはよう、瞬ちゃん。さ、顔洗って朝御飯食べてらっしゃい。食べ終わったら本山に向かいますからね」

関係者でも何でもないんで、あまり書くのはどうかと思うが少しだけ。

葵先生が属している宗派は、前にも書いた通り教科書に載るくらい歴史があって、信者の方も修行されてる方も、日本全国にいらっしゃるのね。教えは一緒なんだけど、地理的な問題から東と西それぞれに本山があるんだって。俺が連れていってもらったのが西の本山。

本山に暫くお世話になって、自分が元々持っている徳を高めることと、アレが少しでも早く成仏出来るように、本山で供養してあげられるためって葵先生は言ってた。

その話を聞いて一番喜んだのが祖母。まだ信じられなそうだったのが親父。最後は、俺が「もう大丈夫。行ってくる」って言ったから反対しなかったけど。

本山に着くと迎えの若い方が待っていて、葵先生に丁寧に挨拶してた。

本堂の横奥にある小屋(小屋って呼ぶのが憚れるほど広くて立派だったが)で本山の方々にご挨拶。ここでも皆、葵先生にはかなり低姿勢だったな。

俺は本山にしばらく厄介になり、まぁ客人扱いではあったけど、皆さんと同じような生活をした。多分、葵先生の言葉添えがあったからだろうな。

その中で、自分が本当に幸運なんだなって実感したよ。

いろんな人がそこにはいた。もう四十年間ずっと蛇の怨霊に苦しめられている女性。家族親族まで祟りで没落してしまって、身寄りがなくなってしまった人々。家系を辿れば立派な士族の末裔だとか。

俺なんかよりよっぽど辛い思いしてる人が、こんなにいるなんて知らなかったから…。

厳しい生活の中にいたからなのか、場所がそうだからなのか、あるいは葵先生の話があったからなのか、恐怖は大分薄れた。

本山に預けてもらって一ヶ月経った頃、葵先生がいらっしゃった。

「あらあら、随分良くなったみたいね」

「えぇ、葵先生のおかげですね」

「あれから見えたりした?」

「いや…一回も。多分成仏したかどっかにいったんじゃないですか?ここ、本山だし」

「そんなことないわよ?」

顔がひきつった。

「あら、ごめんなさい。また怖くなっちゃうわよね。でもね瞬ちゃん、ここには沢山の苦しんでる人がいるの。その人達を少しでも多く助けてあげるのが、私達の仕事なのよ」

多分だけど、葵先生の言葉にはアレも含まれてたんだと思う。

「瞬ちゃん、もう少しここにいて勉強しなさい。折角なんだから」

俺は葵先生の言葉に従った。あの時のことがまだまだ尾を引いていて、まだここにいたいって思ってたからね。それにこの場所は時間がゆっくり流れてような感じが好きだったな。

そんなこんなが続いて、結局三ヶ月も居座ってしまった。

でも、哀しいかな、流石に三ヶ月もそれまで自分がいた騒々しい世界から隔離されると、物足りない気持ちが強くなってた。

二ヶ月ぶりに葵先生がやって来て、やっと本山での生活は終りを迎えようとしていた。

お世話になった皆さんに一人ずつ御礼をして、身支度を整え葵先生と帰ろうとしたんだ。

廊下を歩いているとふと葵先生が立ち止まった。そして優しい顔で「瞬ちゃん、帰るのやめてここに居たら?」って言った。

俺は葵先生に認められた気がして少し嬉しかった。

「いや、僕にはここの人達みたいには出来ないです。本当に皆さん凄いと思います。真似出来そうもないですよ」

照れながら答えたら、

「そうじゃなくて、帰っちゃ駄目みたいなのよ」

「え?」

「だってまだ残ってるから」

結局、本山を降りることが出来たのは、それから二ヶ月後だった。実に五ヶ月も居座ってしまった。多分、こんなに長く、家族でもない誰かに生活の面倒を見てもらうことは、この先ないだろう。

葵先生から「しばらくの間は月に一度おいでなさい」と言われた。アレが消えたのか、それとも隠れてれのか、本当のところはわからないからだそうだ。

長かった本山の生活も終って、やっと日常に戻って来た。

借りてたアパートは母が退去手続きを済ましてくれていて、実家には俺の荷物が運び込まれてた。

実家に戻り、実に約半年ぶりくらいに携帯を見ると(そーいや、それまでは気にならなかったな)、物凄い件数の着信とメールがあった。中でも一番多かったのが荒木。

メールから、奴は奴なりに自分のせいでこんなことになったって自責の念があったらしく、謝罪とか、こうすればいいとか、こんな人が見つかったとか、まめに連絡が入ってた。

母から荒木が家まで来たことも聞いた。

戻って二日目の夜、荒木に電話を入れた。

電話口が騒がしい。荒木は呂律が回らず何を言っているかわからなかった…コンパしてやがった。

とりあえず電話をきり「殺すぞ」とメールを送っておいた。所詮世の中他人は他人だ。

翌日、荒木から「謝りたいから時間くれないか?」とメールが来た。電話じゃなかったのは、気まずかったからだろう。

夜になると、家まで荒木が来た。

わざわざ遠いところまで来るくらいだ。相当後悔と反省をしていたのだろう(夜に出歩くのを俺が嫌ったからってのが、一番の理由であることは言うまでもない)。

玄関を開け荒木を見るなり、二発ぶん殴ってやった。

一発は奴の自責の念を和らげるため、一発はコンパなんぞに行ってて俺を苛つかせたことへの贖罪のめに。

言葉で許されるよりも、殴られた方がすっきりすることもあるしね。まぁ、二発目は俺の個人的な怒りだが。

荒木に経緯を細かく話し、その晩は二人して興奮したり怖がったり…今思うと当たり前の日常だなぁ。

荒木からは、あの晩のそれからを聞いた。

あの晩、逃げたした時には、林は明らかにおかしくなっていた。

林の車の中で友達と待っていた荒木には、まず間違いなくヤバいことになっているってことがすぐにわかったそうだ。
でも、後部座席に飛び乗ってきた林の焦り方は尋常じゃ無かったらしく、車を出さざるを得なかったらしい。

「反抗したりもたついたりしたら、何されっかわかんなかったんだよ」

荒木の言葉が状況を物語っていた。
荒木は、車が俺の家から離れ高速の入り口近くの信号に捕まった時に、逃げ出したらしい。

「だってあいつ、途中から笑い出したり、震えたり「俺は違う」とか「そんなことしません」とか言い出して怖いんだもん」

アレが何か囁いてる姿が甦ってきて、頭の中の映像を消すのに苦労した。俺の家に戻って来なかったのは、単純に怖すぎたからだって。

「根性無しですみませんでした」って謝ってたから許した。俺が荒木でも勘弁だしね。

その後、林がどうなったかは誰も知らない。知りたいとも思わないけど。

その後、俺は葵先生の言い付けを守って、毎月一度葵先生を訪ねた。最初の一年は毎月、次の一年は三か月に一度。

荒木も俺への謝罪からか、何もなくても家まで来ることが増えたし、葵先生のところに行く前と帰ってきた時には、必ず連絡が来た。

アレを見てから二年が経った頃、葵先生から、

「できることはすべてしました。瞬ちゃん、これからはたまに顔出せばいいわよ。でも、変なことしちゃだめよ」

って言ってもらえた。それが大きな区切りだったな。

葵先生はその三ヶ月後、他界されてしまった。敬愛すべき葵先生、もっと多くのことを教えて欲しかった。

葵先生のお葬式から二ヶ月が経った。

頼りになる大切な人を亡くした喪失感も薄れ始め、俺は日常に戻っていた。

慌ただしい毎日の隙間に、ふとあの頃を思い出す時がある。

あまりにも日常からかけ離れ過ぎていて、本当に起きたことだったのかわからなくこともある。こんな話を誰かにするわけもなく、またする必要もなく、ただ毎日を懸命に生きてくだけだ。

祖母から一通の手紙が来たのは、そんなごくごく当たり前の日々のある日だった。封を切ると、祖母からの手紙と、もう一つ手紙が出てきた。祖母の手紙には、俺への言葉と共にこう書いてあった。

「葵先生から渡されていた手紙です。四十九日も終わりましたので、先生との約束通り瞬ちゃんにお渡しします」

葵先生の手紙。今となってはそこに書かれている言葉の真偽が確かめられないし、そのままで書くことは俺には憚られるので、崩して書く。

瞬ちゃんへ

ご無沙汰しています。葵です。あれから大分経ったわね。

もう大丈夫?怖い思いをしてなければいいのだけど。

いけませんね、年をとると回りくどくなっちゃって。今日はね、瞬ちゃんに謝りたくてお手紙を書いたの。

私は嘘をつきました。あの時はしょうがなかったの。でもごめんなさいね。

あの日、瞬ちゃんが私のところに来た時、本当はすごく怖かった。

だって瞬ちゃんが連れていたものは、とてもじゃないけど私の手に負えないものだったから。だけど瞬ちゃん怯えてたでしょう?だから私が怖がっちゃいけないって、そう決めたの。

本当のことを言うとね、二人ともアレに取り殺されても仕方なかった。あの時は、運が良かったのね。それともアレの気まぐれかしら。

瞬ちゃん、本山での生活はどうだった? 少しでも気が紛れたかしら?

瞬ちゃんと会う度に、私はまだ駄目よって言ったでしょう?覚えてる?

このまま帰ったら酷いことになるって思ったの。

だから、瞬ちゃんみたいな若い子には退屈だとはわかってたんだけど、帰らせられなかったのね。

毎日お祈りしたんだけど、アレはどこへも行ってくれなくて。時間がかかってしまったわね。ようやく姿を消したわ。もう残っていないと思う。少なくとも今は瞬ちゃんの近くにいないことは確かよ。

でもね、瞬ちゃん。もしもまた辛い思いをしたら、すぐに本山に逃げ込みなさい。あそこなら瞬ちゃんをまだ護れるから。

最後にね、ちゃんと伝えておかないといけないことがあるの。

あまりにも辛かったら、仏様に身を委ねなさい。

もう辛いことしかなくなってしまった時には、心を決めなさい。

決して瞬ちゃんを死なせたいわけじゃないのよ。でもね、もしもまだ終っていないとしたら、瞬ちゃんにとっては辛い時間が終らないってことなの。

瞬ちゃんも本山で何人もお会いしたでしょう?

本当に悪いモノはね、ゆっくりと時間をかけて苦しめるの。決して終らせないの。苦しんでる姿を見て、ニンマリとほくそ笑みたいのね。

悔しいけど、私達の力が及ばなくて、目の前で苦しんでいても何もしてあげられないこともあるの。

何とか瞬ちゃんだけは助けたくて手を尽くしたんだけど、正直、自信が持てない。

安心しちゃ駄目。アレは瞬ちゃんが安心して気を弛めるのを待っているかも知れないから。

いい?瞬ちゃん。決してもう終わったと思っちゃ駄目よ。

いつも気を強くもって。身体の異変には注意をしていて。

嘘ばかりついてごめんなさい。信じてって言う方が虫がよすぎるのはわかっています。

それでも、私の力の限り、最後まで仏様にお願いしていたことは信じてね。

瞬ちゃんが健やかに毎日を過ごせるよう、いつも祈ってます。

これが二年半に渡って起こった出来事の、俺が知る話の全てだ。

結局、理由もわからないし、都合よく解決できたり、何かを知ってる人がすぐそばにいるなんてこともなかった。

どこから知ったのか定かではない知識が招いたものなのか、あるいは、それが何かしらの因果関係にあったのか。俺には全くわからない。でも、ここまで苦しむようなことをしてしまったのだろうか?酷すぎる。それが正直な気持ちだ。

俺に言えることがあるとしたらこれだけだ。

「何かに取り憑かれたりしたら、マジで洒落にならないことになると改めて言っておく。最後まで、誰かが終わったと言ったとしても、気を抜いちゃ駄目だったんだ」

そして最後の最後で申し訳ないが、俺には謝らなければいけないことがある。

この話には小さな嘘がいくつもある。

これは多少なりともわかりやすくするためだったり、俺にもわからないこともあってのことなので目をつぶってほしい。おかげで意味がよくわからない箇所も多かったと思う。合わせてお詫びしたい。

ただ謝りたいのはそこじゃない。もっと根本的な部分で俺は嘘をついている。

気付かなかったと思うし、気付かれないように気を付けた。そうしなければ伝わらないと思ったから。矛盾を感じることもあるだろう。がっかりされてしまうかもしれない。でも、この話を誰かに知って欲しかった。

俺が荒木なんだ。

瞬のことは、悔やんでも悔やみきれない。

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