
三年ほど前の話だ。
俺はフリーランスの写真家をやっていて、当時は北陸のある雑誌社から廃線の特集撮影を依頼されていた。
廃線の跡は観光名所になっているものもあるが、依頼されたのはそういう整備されたものではなく、昭和六十年代に廃止されてそのまま放置されている山間の路線だった。
駅舎が一つだけ残っているから、そこを中心に撮影してほしいという話だった。
フィルムカメラで撮ってほしいとも言われた。
廃線のレトロな雰囲気にはそのほうが合う、と俺も思っていたので異論はなかった。
※
現地に着いたのは平日の午前中で、周辺に人の姿は一人もなかった。
駅舎への道は舗装が剥がれかけた細い坂道で、両側に背の高い草が茂っていた。
木造の小さな建物が視界に入ったとき、思ったより状態がいいと感じた。
窓ガラスはほとんど割れていたが、壁は原形をとどめていたし、屋根も大きく崩れてはいなかった。
ホームは石造りで、長さは三十メートルもなかった。
待合室のベンチには塗装が剥げた跡があり、隅には鳥の巣の残骸が落ちていた。
こういう場所を撮り慣れているせいか、特に不気味とは感じなかった。
ただ静かだった。
山の中にあるせいか、風の音さえほとんど聞こえなかった。
※
最初の一時間ほどは順調だった。
駅舎の外観、待合室の内部、ホームに残された案内板の錆び、枕木の腐食具合。そういったものを一つずつ丁寧に撮っていった。
フィルムを二本使い切ったあたりで、俺はホームの端に移動した。
線路が山の方向に消えていく、その先端を狙おうと思ったのだ。
ファインダーを覗いて構図を探していたとき、何かが見えた。
線路の先、五十メートルほど先の地点に、人が立っているように見えた。
俺は一度カメラを下ろした。
肉眼でその方向を確認した。
何もなかった。
錆びた線路が草の中に伸びているだけだった。
もう一度ファインダーを覗いた。
また、あった。
陽炎のようでもあるし、枯れ草が重なって見えているだけのようにも思えた。
ただ、それが人の形をしているように見えた。
しばらく眺めていると、なくなった。
俺はその場でシャッターを押せなかった。
どうしてそうしたのか、今でも説明できない。
※
三本目のフィルムを入れ、残りの撮影を続けた。
ホーム側に戻り、駅舎を背景にした線路方向を何枚か押さえた。
さっきファインダーで見たものはもう気にしなかった。
疲れ目のせいだと、そのときは本気でそう思っていた。
前日も深夜まで別の仕事をしていた。
目が限界だったとしても不思議はなかった。
撮影を終えて車に戻り、コーヒーを飲みながらその日のメモをつけた。
フィルムは全部で三本だった。
帰りの山道を走りながら、ファインダーの中で見たものを何度か思い返した。
それだけだった。
※
現像して上がってきたのは五日後だった。
コンタクトシートを広げてルーペで一コマずつ確認していた。
ほとんどのコマは問題なかった。
雑誌用に使えそうな写真が十分そろっていた。
三本目のフィルム、後半のコマを確認しているとき、俺は手を止めた。
ホームの端から線路の先方向を縦に収めたカットがあった。
そのコマの中に、影が写っていた。
遠くに伸びていく線路の上、ちょうど俺がファインダー越しに何かを見たあたりの場所だ。
ルーペで拡大すると、影は一つではなかった。
重なるように、三つか四つ並んでいた。
人の形をしていた。
ただそこに立っているだけのように見えた。
カメラを下ろして肉眼で確認したとき、そこには何もいなかった。
ファインダーには何かが見えた。
そして、フィルムにも残っていた。
その三つが同時に頭の中に並んだとき、俺はしばらくルーペを持ったまま動けなかった。
※
依頼主には別のコマを選んで渡した。
影が写ったカットは使わなかった。
特に理由は聞かれなかったし、俺も説明しなかった。
ただ渡したくなかった。
それだけだった。
依頼主は問題なく受け取ってくれて、雑誌は翌月に発行された。
掲載されたのは駅舎の外観と待合室のベンチの写真で、読者からの反応もよかったと後で連絡が来た。
※
後になって、あの廃線のことを少し調べた。
廃止の理由は過疎化と採算悪化で、特に変わったことは出てこなかった。
ただ、廃止になる数年前に、ホームで人が倒れているのを保線作業員が発見したという記事が、地方紙のデータベースに残っていた。
記事は短かった。
詳細は書かれていなかった。
倒れていた理由も、その後どうなったのかも、記事には出てこなかった。
俺はそれ以上調べなかった。
※
撮影したフィルムはまだ手元にある。
現像したプリントは全部捨てた。
影が写ったコマだけでなく、その日に撮影したものをすべてだ。
依頼主に渡した分も、使用後に返してもらった。
そうしたいと思ったのは、自分でも驚くくらい自然なことだった。
なぜフィルムだけ捨てなかったのかは、自分でもわからない。
引き出しの奥に、黒い袋に入れて置いてある。
見ることもないし、捨てることもない。
あのホームの端に、何かがいたのかどうか、今でも分からないままだ。
分からないままでいい、と最近は思っている。