秒針の名前

時計職人の静かな作業部屋

師匠の店で時計の修理を覚え始めたのは、三十二歳のときだった。

もとはグラフィックデザインの会社で働いていた。仕事自体に不満があったわけではない。ただ、何かを直すという作業に、漠然と惹かれ続けていた。気づいたら勤め先を辞め、神保町の路地裏にある古い時計修理店の前に立っていた。

店は表通りから一本入った路地の奥にあって、看板らしい看板は出ていない。すりガラスの引き戸に「修理」と二文字だけ墨で書かれた紙が貼ってあるだけで、知らない人間には店だとわからない。私自身、最初に紹介されて訪ねたとき、二度ほど通り過ぎてから戻った。

師匠は当時すでに七十を越えていて、白髪をきちんと撫でつけ、いつも紺色の作業衣を着ていた。修理を頼みに来る客は古道具屋や時計商、それから持ち主から直接持ち込まれる遺品の時計が多かった。看板を出さなくても、必要としている人が必要なだけ来るのだという。

店内は奥行きが八畳ほどしかない。手前のショーケースには修理を終えて引き取りを待つ時計が並び、奥に作業机が二つ。私の机は師匠の斜め向かいに置かれた。窓は北向きの小さなものが一つきりで、そこに白く曇ったガラスがはめてある。日中でもデスクライトを点けないと細かい部品は見えなかった。

修行は単純で、しかし終わりがなかった。最初の半年は時計を分解させてもらえず、ただ師匠の手元を見ていた。半年経ってから、客の品ではなく師匠が古道具市で集めてきたジャンク品を分解させられた。組み立てて動くようになるまでに、さらに一年かかった。

師匠は雑談をしない人で、修行中に余計なことを話しかけてくることはなかった。時計の調整について、ぜんまいの巻き方について、油の量について、必要なことだけを必要な分だけ口にした。一日中ほとんど言葉のない日もあった。それでも気詰まりではなかった。いつもどこかで鳴っているチクタクという音が、店の沈黙をやさしく区切ってくれていたからだと思う。

静かな店だった。時計のチクタクという音だけが、いつもどこかで鳴っていた。

その人が来たのは、十一月の終わりの夕方だった。

路地に枯れ葉の積もる季節で、ガラス戸の向こうがもう暗くなりかけていた。私は師匠に頼まれた小さな置き時計のテンプを直していた。引き戸が静かに開いて、八十くらいの女性が一人、店に入ってきた。

濃い茶色のコートに、同じ色のショールを巻いていた。背は低く、髪は薄い銀色で、きちんと一筋に編んで肩に流していた。私が顔を上げると、その人はゆっくり頭を下げた。

「修理を、お願いしたくて」

声は細いが、はっきりしていた。

師匠が立って迎えに出た。婦人はハンドバッグから紫色の小さな袱紗を取り出し、それをショーケースの上で広げた。中から出てきたのは、銀色の懐中時計だった。

大きさは大人の手のひらの半分ほど。蓋に細かな唐草模様の彫金が施してあって、所々で銀の地金が黒ずんでいる。鎖は途中で切れていた。蓋の縁に小さな擦り傷が無数にあった。

師匠は袱紗の上の時計を、両手で持ち上げるようにして手に取った。

「ずいぶん古いですね」

「祖父のものなんです」と婦人は言った。「大正の十四年に、祖父はこれを買いました。買ってすぐに、亡くなったそうです」

「お祖父さま、おいくつで」

「三十二、と聞いています」

その数字を聞いたとき、私は自分の指先がほんの一瞬止まったのを覚えている。私はそのとき三十二歳だった。ただ、それだけのことだろう、と思った。それだけのことだ、と思おうとした。

師匠は時計の竜頭をそっと巻いた。古い機械が、しばらくしてから乾いた音で動き出した。短い間だけ動いて、すぐに止まった。

「中を見せてもらいます。今日はお預かりということで」

婦人は深く頭を下げ、控えめな声で「お願いします」と言った。連絡先を書いた紙を置くと、入ってきたときと同じように静かに帰っていった。

翌日の午前から、師匠は懐中時計を私の机に置いた。

「分解してみなさい。中の状態を見て、必要な部品をあとで一緒に確認しよう」

私はうなずき、時計を作業台の上に据えた。手のひらの上で蓋を起こす。蓋の内側には、年月の経った銀特有の白っぽい曇りが薄く広がっていた。

その曇りの下に、刻印が見えた。

最初は持ち主の名前だろうと思った。古い時計の蓋の裏には、贈り主の名前や日付が刻まれていることがある。私はルーペを目に当て、刻印の上に光を当てた。

三行に分けて、文字が彫られていた。

一行目は「贈」とだけある。二行目に名前が一つ、三行目に日付があった。

名前のところで、私はルーペを覗き込んだまま動けなくなった。

そこに彫られていた漢字は、私の名前だった。姓も、名も、私の戸籍にあるそれと一字一句違わなかった。

三行目の日付には、昭和六十一年六月の、ある日付が彫ってあった。私の生年月日と同じ年月日だった。

大正十四年に作られた時計の蓋の裏に、昭和六十一年生まれの私の名前と、私の生まれた日が、はっきりと彫られていた。

銀地に切り込まれた線の縁は、長い年月のあいだに丸くなっていた。新しく彫られたものではない。

私はルーペを外し、時計を作業台に置いた。深く息を吸い、もう一度ルーペを当てた。文字は同じだった。錯覚ではなかった。

師匠は自分の机で、別の腕時計の文字盤を磨いていた。手元から目を離さないまま、こちらを見ずに言った。

「気づいたか」

その声には、驚きも何もなかった。前の日に時計を受け取ったときからすでに、師匠はあの刻印に気づいていたらしかった。

「これは、どういう」と、私は言いかけた。

師匠は文字盤から顔を上げ、しばらく私を見た。それから低い声で、

「こういうことが、たまにあるんだ」

とだけ言って、また文字盤に目を戻した。

修理は進んだ。私は黙って分解を続けた。

歯車を一つずつ取り外し、洗浄液に沈め、布の上で乾かした。テンプの軸が摩耗していて、ぜんまいの一部に錆があった。錆の状態を師匠に見せ、交換する部品を相談した。会話はそれだけだった。蓋の裏の刻印については、師匠も私も、その後何も言わなかった。

奇妙だったのは、その日からの夜のことだった。

私は子供の頃から、ときどき同じ夢を見ていた。

暗い部屋で、机の前に座っている。机の上にランプのようなものがあり、その光の中で、自分の手が小さな金属の部品を扱っている。何の作業をしているのかは、夢の中の自分にもわかっていない。ただ、部品同士をかみ合わせる感触と、どこかで鳴っているチクタクという音だけが、はっきりと残っていた。

夢の中で聞こえるその音は、私が起きた直後にもしばらく耳の奥に残っていた。子供の頃は、それを夢の中の音だと思っていた。母に話したことが一度ある。母は布団の中で苦笑いし、「眠りが浅いんでしょう」とだけ言った。当時の私もそう納得した。それ以来、家族にも友人にも、その夢のことを話したことはなかった。

店で懐中時計を分解し始めてから、その夢の中の音と、店で鳴っている時計の音が、まったく同じだということに気づいた。

速さも、間も、テンプが鳴らす独特のかすかな揺れも、どこかで聞いたことのある音だった。子供の頃から、私はずっとこの音を聞き続けていたのではないか、と思った。あるいは、夢の中で聞いていたつもりのその音を、本当は別のどこかで聞いていたのかもしれなかった。

修理は二週間ほどかかった。

欠けていた部品の一部は、師匠が古い知り合いから古い部品を回してもらって補った。組み立て直して文字盤を戻し、蓋を閉じる前に、私はもう一度蓋の裏の刻印を見た。文字は最初に見たときと同じだった。何度見ても、私の名前と、私の生まれた日が、そこにあった。

調整を終えて二日ほど店の机の上に置き、動きが安定したのを確認してから、師匠が婦人に連絡した。婦人はその翌日、引き取りに来た。

同じ茶色のコートに、同じショールだった。ショーケースの上に置かれた懐中時計を、婦人は両手で受け取り、しばらく自分の手のひらの中で見つめていた。動いている秒針を耳元に近づけ、目を閉じてその音を聞いた。

「祖父はこの時計を、買って一週間で亡くなったと聞いています」と婦人は言った。「胸の病気で、買い物の帰りに倒れて、そのまま」

師匠は黙ってうなずいた。

「亡くなる前に、祖母にひとこと言ったそうです。次に生まれてくるときは、この時計をもう一度直してもらってから来る、と」

婦人はそう言って、私の方を見た。

視線が合った。婦人は少しだけ首をかしげ、何かを思い出そうとするような顔をした。

「不思議ね。あなた、どこかで」

そこで言葉を切って、婦人は微笑んだ。微笑みのままで、もうそれ以上は何も言わなかった。

袱紗に時計を包み直し、もう一度深く頭を下げて、婦人は店を出ていった。引き戸の閉まる音がして、路地の足音はすぐに聞こえなくなった。

師匠はずっと自分の机に向かったまま、背中をこちらに見せていた。

その日の夜、私はアパートの部屋で本を読んでいた。

築四十年の木造アパートで、神保町から自転車で十五分ほどの距離に借りていた。六畳一間で、家具は本棚と卓袱台と寝具しかない。時計は壁にも卓上にも置いていなかった。携帯電話は枕元で充電していて、画面は暗かった。

本を閉じて電気を消し、布団の中に入ったとき、耳の奥で、あの音が鳴っているのに気づいた。

チクタクという音だった。

店で何度も聞いた音と、まったく同じ間で鳴っていた。

私は布団から起き上がり、部屋の中を一通り確かめた。本棚にも卓袱台にも時計はなかった。隣の部屋からの音でもなかった。窓の外からの音でもなかった。冷蔵庫の音でも、配水管の音でもなかった。

音は、自分の頭のどこかから鳴っていた。あるいは、自分の胸の中から鳴っていたのかもしれない。

布団に戻り、目を閉じても、音は変わらず鳴っていた。私は息を整え、その音を聞きながら眠ろうとした。

眠りに落ちる直前に、子供の頃から繰り返し見ていた夢が浮かんだ。机の前に座って、手元のランプの光の中で、小さな金属の部品を扱っている自分の姿だった。夢の中の自分の手は、店で時計を分解しているときの私自身の手と、同じ動きをしていた。

あの懐中時計は、もう私の店にはない。婦人が持ち帰り、たぶん婦人の家のどこかで、今も静かに動いている。蓋の裏の刻印は、おそらく婦人もすぐには気づかないだろう。気づいたとしても、自分の祖父が買った時計に若い男の名前と昭和の日付が彫られている意味を、すぐには結びつけられないだろうと思う。

それでも、私の中ではあの時計の音だけが残った。

あれが本当に祖父の声だったのか、あれが本当に私の名前だったのか、今もわからない。ただ、子供のころからずっと聞いていたあの音が、何の音だったのかだけは、今ようやく思い当たる気がしている。

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