失われた時間

いまでも、あの一年間が、どこへ消えたのか、わかりません。

二〇〇三年の、初冬のことでした。

わたしは当時、名古屋でひとり暮らしをしていました。

その朝、ひどい寒気がしました。

前の晩から、熱があったのです。

当時のわたしは、二十代の半ばでした。

小さな印刷会社で、毎日、遅くまで働いていました。

恋人とは、その少し前に、別れたばかりでした。

気にかけてくれる人も、近くにはいませんでした。

熱が出ても、看病してくれる人など、いない暮らしでした。

だから、その朝も、ひとりで病院へ行こうとしたのです。

近くの内科へ行こうと、地下鉄に乗りました。

平日の昼前で、車内はすいていました。

わたしは、つり革につかまって立っていました。

座る気力も、なかったのです。

頭が、ぐわんぐわんと、揺れていました。

熱のせいで、視界がにじんでいました。

わたしは、目をぎゅっと閉じて、眉間にしわを寄せて、耐えていました。

電車の、規則正しい揺れだけを、感じていました。

レールの継ぎ目を越える、ことん、ことん、という音。

それが、だんだん遠くなっていきました。

まぶたの裏が、赤く、ちかちかと明滅していました。

耳の奥で、車内アナウンスが、水のなかの声のように、ゆがんで聞こえました。

次の駅の名前を、告げているようでした。

けれど、それが何という駅なのか、聞き取れませんでした。

体が、ゆっくりと、後ろへ傾いていく感覚がありました。

つり革を握る手から、力が抜けていくのが、わかりました。

そこで、記憶が、ぷつりと途切れました。

気がつくと、わたしは、見知らぬ街角に立っていました。

はじめは、まだ熱で、夢を見ているのだと思いました。

けれど、頬を打つ風は、冷たく、現実のものでした。

知らないアーケードの、知らない看板が、頭上に並んでいました。

行きかう人の言葉が、名古屋のものとは、違っていました。

やわらかい、聞き慣れない訛りでした。

わたしは、立ちつくしたまま、しばらく動けませんでした。

足が、自分のものではないように、重かったのです。

わたしは、来た道を、戻ろうとしました。

けれど、来た道など、そもそも、覚えていないのです。

どの路地から、ここへ出てきたのかも、わかりませんでした。

アーケードの店は、半分ほど、シャッターを下ろしていました。

夕方の光が、その鉄のシャッターを、赤く照らしていました。

自分が、世界からひとり、置き去りにされたような気がしました。

あたりは、夕暮れでした。

空が、だいだい色に染まっていました。

さっきまで、昼前の地下鉄にいたはずでした。

なのに、もう、日が暮れかけている。

わたしは、自分の体を見おろしました。

見覚えのない、厚手のコートを着ていました。

買った記憶のない服でした。

足もとも、知らないスニーカーでした。

ふと、ショーウインドウに、自分の姿が映りました。

髪が、明るい茶色に染まっていました。

わたしは、髪を染めたことなど、一度もありませんでした。

鏡のなかの自分が、自分でないようでした。

頬がこけて、ずいぶん、痩せていました。

パニックになって、わたしは近くの店に駆け込みました。

小さな、古いラーメン屋でした。

湯気と、醤油の匂いが、立ちこめていました。

その匂いをかいだ瞬間、わたしは、強烈な空腹を感じました。

いつから、何も食べていないのか、見当もつきませんでした。

店主は、わたしの様子を見て、まず水を出してくれました。

「兄ちゃん、顔が真っ青だよ。大丈夫か」

わたしは、コップの水を、一息に飲み干しました。

冷たい水が、喉を通って、体の奥まで落ちていきました。

その冷たさで、ようやく、自分が現実にいるのだと、思えました。

カウンターの向こうの店主に、わたしは尋ねました。

「すみません、ここ、どこですか」

店主は、けげんな顔をしました。

「どこって、博多だよ。中洲の、すぐそばだ」

博多。福岡です。

名古屋から、何百キロも、離れた街でした。

わたしは、声が震えました。

「あの、今日って、何月何日ですか」

「あの、今日は、何年ですか」

わたしのその問いに、店主の手が、止まりました。

「兄ちゃん、ほんとに大丈夫か」

店主は、心配そうに、壁のカレンダーを指さしました。

その年号を見て、わたしの足が、がくりと崩れました。

店主が言った日付に、わたしは、息をのみました。

わたしの記憶のなかの日付から、一年近くが、経っていたのです。

わたしは、ポケットを探りました。

財布は、ありました。

でも、なかの現金は、ほとんど残っていませんでした。

財布の小銭入れの奥に、見知らぬ鍵が、一本ありました。

古い、真鍮の鍵でした。

どこの鍵なのか、まるで見当がつきませんでした。

わたしは、その鍵を、いまも持っています。

どこかに、その鍵で開く扉が、あるはずなのです。

その向こうで、あの一年のわたしが、暮らしていたのかもしれません。

開けたいような、開けたくないような、奇妙な鍵です。

携帯電話も、ありました。

けれど、それは、わたしの知らない機種でした。

新しく買い替えた覚えなど、ありません。

震える指で、アドレス帳を開きました。

そこには、奇妙な登録が並んでいました。

「ま」

「ひ」

「く」

ただ、一文字だけの名前で、電話番号が、十件ほど。

知り合いの名前も、実家の番号も、ひとつもありませんでした。

わたしの知っている連絡先は、すべて、消えていました。

そのかわりに、見も知らぬ、一文字の名前ばかり。

わたしは、ためしに、いちばん上の「ま」を、押してみようとしました。

指が、発信ボタンの上で、止まりました。

なぜか、どうしても、押せませんでした。

押した瞬間に、何か取り返しのつかないことが起きる。

そんな確信が、体の芯から、せり上がってきたのです。

画面の光が、暗い手のひらを、青白く照らしていました。

着信履歴を見ると、ほんの数時間前にも、「ひ」から電話が来ていました。

わたしは、その記録を見て、ぞっとしました。

つい先ほどまで、わたしは、この番号と、話していたのです。

わたしは、その電話が、たまらなく恐ろしくなりました。

店を出て、わたしは橋の上まで歩きました。

川が、暗く流れていました。

わたしは、その携帯を、川に投げ捨てました。

ぽちゃん、という音が、闇のなかに小さく響きました。

そうしなければ、いけない気がしたのです。

あの一文字の名前たちと、二度と、つながりたくなかった。

理由は、自分でも、わかりませんでした。

ただ、本能が、捨てろと、言っていました。

川面は、街の灯りを映して、にぶく光っていました。

水は、思っていたより冷たそうで、底が見えませんでした。

携帯が沈んでいくのを、わたしは、手すりにもたれて見届けました。

小さな波紋が、いくつか広がって、すぐに消えました。

それきり、川は、何ごともなかったように、流れつづけました。

いま思えば、あの携帯こそ、唯一の手がかりだったのです。

あの一文字の名前たちに、かけ直せば、何かわかったかもしれません。

それでも、わたしには、できませんでした。

知らないほうが、いいこともある。

あのとき、わたしの体が、そう判断したのだと思います。

いまでも、ふと、川のそばを通ると、足が止まります。

あの底に、まだ、あの携帯が沈んでいる気がするのです。

画面を光らせて、わたしからの着信を、いまも静かに待ちながら。

もし、いま、かけ直したら、いったい誰が出るのでしょう。

妙な解放感と、もっと深い不安とが、同時に押し寄せてきました。

捨てたところで、消えた一年が、戻るわけではないのです。

それから、わたしは、近くの交番に駆け込みました。

事情を話すと、若い警官が、目を丸くしました。

「あなた、もしかして」

警官は、奥から、一枚の紙を持ってきました。

それは、わたしの、捜索願でした。

写真のなかのわたしは、髪が黒く、少しふっくらしていました。

いまの、痩せて髪を染めたわたしとは、別人のようでした。

「ご家族が、ずっと探しておられましたよ」

警官は、静かに、そう言いました。

わたしは、その言葉に、ようやく実感が、追いついてきました。

自分は、一年ものあいだ、行方不明になっていたのだと。

一年近く前に、家族が出していたものでした。

実家に、連絡が行きました。

電話の向こうで、母が、泣いていました。

「あんた、今まで、どこにいたの」

その声を聞いて、わたしの目から、涙があふれました。

「ごめん。ごめん、お母さん」

わたしは、それしか、言えませんでした。

「無事で、よかった。本当に、よかった」

母は、嗚咽のあいだから、何度も、そう繰り返しました。

わたしは、受話器を握ったまま、交番の床に、座りこんでいました。

わたしには、答えようが、ありませんでした。

どこにいたのか、何をしていたのか、まるで覚えていないのです。

記憶は、地下鉄のつり革のところで、ぷつりと切れている。

そのあとの一年が、まるごと、空白でした。

わたしは、その空白の一年を、生きていたはずなのに。

誰かと連絡を取り、髪を染め、博多まで来ていたはずなのに。

その「わたし」のことを、いまのわたしは、何ひとつ知らないのです。

名古屋のアパートは、とうに、引き払われていました。

家賃の滞納で、大家が、荷物を処分したあとでした。

勤めていた印刷会社も、無断欠勤が続いて、解雇になっていました。

わたしの一年は、まわりの人たちの記憶から、静かに削除されていました。

誰も、その一年のわたしが、どこで何をしていたか、知りませんでした。

わたし自身が、いちばん、それを知らなかったのです。

あれから、長い時間が経ちました。

わたしは、いまも、月に一度、心療内科に通っています。

医者は、解離性の遁走だろう、と言います。

強いストレスで、記憶をなくして、さまよう症状だと。

いまは、もとの会社には戻れず、派遣の仕事で、日々をしのいでいます。

職場では、あの一年のことを、誰にも話していません。

話したところで、信じてもらえるとも、思えないのです。

夜、布団に入るとき、わたしには、ひとつの習慣ができました。

枕もとに、その日の新聞を、置いておくのです。

朝、目を覚ましたとき、日付を、まっさきに確かめるために。

また一年、飛んでいないかを、たしかめないと、落ち着かないのです。

でも、それなら、説明のつかないことが、いくつもあります。

あの一文字の名前の番号は、誰のものだったのか。

なぜ、わたしはあれを、あれほど恐れたのか。

染めた髪も、知らない服も、誰のために、用意されたものだったのか。

医者に、その疑問を、ぶつけたことがあります。

「遁走中の行動は、本人にも説明できないことが多いんですよ」

医者は、おだやかに、そう答えました。

「別の人格、ということですか」

「そういう、はっきりしたものとは限りません」

医者の説明は、理屈としては、わかりました。

一度だけ、思いきって、医者に尋ねたことがあります。

「先生は、こういう患者を、何人も診てきたんですか」

医者は、少し間をおいて、こう答えました。

「ええ。ですが、戻ってこられる人ばかりでは、ないんですよ」

その言葉の意味を、わたしは、あえて訊き返しませんでした。

戻ってこられなかった人たちが、いまもどこかで、別の名前で生きている。

そう考えると、胸の奥が、しんと冷えました。

けれど、わたしの体に残った違和感までは、消してくれませんでした。

見覚えのないコートの袖を通すたびに、背筋が寒くなったのです。

あのコートは、いまも、捨てられずに、押し入れにしまってあります。

捨てようとすると、なぜか、手が止まるのです。

あの一年の、たったひとつの、手がかりだからかもしれません。

あるいは、捨ててはいけないと、あの一年のわたしが、思っているのか。

医者には、話していないことが、ひとつあります。

博多で目覚める、少し前のことです。

ほんの一瞬だけ、記憶の切れ端が、よぎった気がするのです。

暗い部屋で、誰かが、わたしの名前を、何度も呼んでいる。

知らない声で、知らない名前を。

わたしではない、別の名前を。

そして、その名前で呼ばれたわたしは、たしかに、返事をしていた。

暗い部屋に、小さな灯りが、ひとつだけ灯っていました。

誰かが、わたしの手を、やさしく握っていました。

その手の温度を、いまでも、なぜか覚えています。

わたしは、その人を、知っているような気がしました。

いえ、知らないのに、知っているような、奇妙な感覚でした。

その人が、わたしの、知らない名前を呼ぶと、胸が、あたたかくなったのです。

あの一文字の名前の、どれかが、その人だったのかもしれません。

だとしたら、わたしは、なぜあの番号を、川に捨てたのでしょう。

会いたいと思う気持ちと、二度と関わってはいけないという恐れ。

その両方が、いまも、わたしのなかで、せめぎあっています。

あの一年、わたしは、別の誰かとして、生きていたのではないか。

そう思うと、いまでも、夜、眠るのが怖いのです。

目を閉じた次に気づいたら、また、知らない街に立っているのではないか。

だから、わたしは、いまでも、なるべく電車では眠りません。

とくに、熱のある日は、できるだけ外に出ないようにしています。

あの感覚が、また来るのが、何より怖いのです。

まぶたの裏が赤く明滅して、まわりの音が、すっと遠くなる、あの感覚が。

気づけば、また知らない街で、知らない名前を、名乗っているのではないか。

そして今度は、わたしを探して、泣いてくれる母も、もういないかもしれない。

失われた一年は、いまも、わたしのなかで、終わってなどいないのです。

押し入れのコートと、真鍮の鍵は、その証拠のように、じっとそこにあります。

今度こそ、もう、戻ってこられないのではないか、と。

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