失われた時間

失われた時間

いまでも、あの一年間が、どこへ消えたのか、わかりません。

二〇〇三年の、初冬のことでした。

わたしは当時、名古屋でひとり暮らしをしていました。

その朝、ひどい寒気がしました。

前の晩から、熱があったのです。

当時のわたしは、二十代の半ばでした。

小さな印刷会社で、毎日、遅くまで働いていました。

恋人とは、その少し前に、別れたばかりでした。

気にかけてくれる人も、近くにはいませんでした。

熱が出ても、看病してくれる人など、いない暮らしでした。

だから、その朝も、ひとりで病院へ行こうとしたのです。

近くの内科へ行こうと、地下鉄に乗りました。

平日の昼前で、車内はすいていました。

わたしは、つり革につかまって立っていました。

座る気力も、なかったのです。

頭が、ぐわんぐわんと、揺れていました。

熱のせいで、視界がにじんでいました。

わたしは、目をぎゅっと閉じて、眉間にしわを寄せて、耐えていました。

電車の、規則正しい揺れだけを、感じていました。

レールの継ぎ目を越える、ことん、ことん、という音。

それが、だんだん遠くなっていきました。

まぶたの裏が、赤く、ちかちかと明滅していました。

耳の奥で、車内アナウンスが、水のなかの声のように、ゆがんで聞こえました。

次の駅の名前を、告げているようでした。

けれど、それが何という駅なのか、聞き取れませんでした。

体が、ゆっくりと、後ろへ傾いていく感覚がありました。

つり革を握る手から、力が抜けていくのが、わかりました。

そこで、記憶が、ぷつりと途切れました。

※

気がつくと、わたしは、見知らぬ街角に立っていました。

はじめは、まだ熱で、夢を見ているのだと思いました。

けれど、頬を打つ風は、冷たく、現実のものでした。

知らないアーケードの、知らない看板が、頭上に並んでいました。

行きかう人の言葉が、名古屋のものとは、違っていました。

やわらかい、聞き慣れない訛りでした。

わたしは、立ちつくしたまま、しばらく動けませんでした。

足が、自分のものではないように、重かったのです。

わたしは、来た道を、戻ろうとしました。

けれど、来た道など、そもそも、覚えていないのです。

どの路地から、ここへ出てきたのかも、わかりませんでした。

アーケードの店は、半分ほど、シャッターを下ろしていました。

夕方の光が、その鉄のシャッターを、赤く照らしていました。

自分が、世界からひとり、置き去りにされたような気がしました。

あたりは、夕暮れでした。

空が、だいだい色に染まっていました。

さっきまで、昼前の地下鉄にいたはずでした。

なのに、もう、日が暮れかけている。

わたしは、自分の体を見おろしました。

見覚えのない、厚手のコートを着ていました。

買った記憶のない服でした。

足もとも、知らないスニーカーでした。

ふと、ショーウインドウに、自分の姿が映りました。

髪が、明るい茶色に染まっていました。

わたしは、髪を染めたことなど、一度もありませんでした。

鏡のなかの自分が、自分でないようでした。

頬がこけて、ずいぶん、痩せていました。

※

パニックになって、わたしは近くの店に駆け込みました。

小さな、古いラーメン屋でした。

湯気と、醤油の匂いが、立ちこめていました。

その匂いをかいだ瞬間、わたしは、強烈な空腹を感じました。

いつから、何も食べていないのか、見当もつきませんでした。

店主は、わたしの様子を見て、まず水を出してくれました。

「兄ちゃん、顔が真っ青だよ。大丈夫か」

わたしは、コップの水を、一息に飲み干しました。

冷たい水が、喉を通って、体の奥まで落ちていきました。

その冷たさで、ようやく、自分が現実にいるのだと、思えました。

カウンターの向こうの店主に、わたしは尋ねました。

「すみません、ここ、どこですか」

店主は、けげんな顔をしました。

「どこって、博多だよ。中洲の、すぐそばだ」

博多。福岡です。

名古屋から、何百キロも、離れた街でした。

わたしは、声が震えました。

「あの、今日って、何月何日ですか」

「あの、今日は、何年ですか」

わたしのその問いに、店主の手が、止まりました。

「兄ちゃん、ほんとに大丈夫か」

店主は、心配そうに、壁のカレンダーを指さしました。

その年号を見て、わたしの足が、がくりと崩れました。

店主が言った日付に、わたしは、息をのみました。

わたしの記憶のなかの日付から、一年近くが、経っていたのです。

※

わたしは、ポケットを探りました。

財布は、ありました。

でも、なかの現金は、ほとんど残っていませんでした。

財布の小銭入れの奥に、見知らぬ鍵が、一本ありました。

古い、真鍮の鍵でした。

どこの鍵なのか、まるで見当がつきませんでした。

わたしは、その鍵を、いまも持っています。

どこかに、その鍵で開く扉が、あるはずなのです。

その向こうで、あの一年のわたしが、暮らしていたのかもしれません。

開けたいような、開けたくないような、奇妙な鍵です。

携帯電話も、ありました。

けれど、それは、わたしの知らない機種でした。

新しく買い替えた覚えなど、ありません。

震える指で、アドレス帳を開きました。

そこには、奇妙な登録が並んでいました。

「ま」

「ひ」

「く」

ただ、一文字だけの名前で、電話番号が、十件ほど。

知り合いの名前も、実家の番号も、ひとつもありませんでした。

わたしの知っている連絡先は、すべて、消えていました。

そのかわりに、見も知らぬ、一文字の名前ばかり。

わたしは、ためしに、いちばん上の「ま」を、押してみようとしました。

指が、発信ボタンの上で、止まりました。

なぜか、どうしても、押せませんでした。

押した瞬間に、何か取り返しのつかないことが起きる。

そんな確信が、体の芯から、せり上がってきたのです。

画面の光が、暗い手のひらを、青白く照らしていました。

着信履歴を見ると、ほんの数時間前にも、「ひ」から電話が来ていました。

わたしは、その記録を見て、ぞっとしました。

つい先ほどまで、わたしは、この番号と、話していたのです。

わたしは、その電話が、たまらなく恐ろしくなりました。

※

店を出て、わたしは橋の上まで歩きました。

川が、暗く流れていました。

わたしは、その携帯を、川に投げ捨てました。

ぽちゃん、という音が、闇のなかに小さく響きました。

そうしなければ、いけない気がしたのです。

あの一文字の名前たちと、二度と、つながりたくなかった。

理由は、自分でも、わかりませんでした。

ただ、本能が、捨てろと、言っていました。

川面は、街の灯りを映して、にぶく光っていました。

水は、思っていたより冷たそうで、底が見えませんでした。

携帯が沈んでいくのを、わたしは、手すりにもたれて見届けました。

小さな波紋が、いくつか広がって、すぐに消えました。

それきり、川は、何ごともなかったように、流れつづけました。

いま思えば、あの携帯こそ、唯一の手がかりだったのです。

あの一文字の名前たちに、かけ直せば、何かわかったかもしれません。

それでも、わたしには、できませんでした。

知らないほうが、いいこともある。

あのとき、わたしの体が、そう判断したのだと思います。

いまでも、ふと、川のそばを通ると、足が止まります。

あの底に、まだ、あの携帯が沈んでいる気がするのです。

画面を光らせて、わたしからの着信を、いまも静かに待ちながら。

もし、いま、かけ直したら、いったい誰が出るのでしょう。

妙な解放感と、もっと深い不安とが、同時に押し寄せてきました。

捨てたところで、消えた一年が、戻るわけではないのです。

それから、わたしは、近くの交番に駆け込みました。

事情を話すと、若い警官が、目を丸くしました。

「あなた、もしかして」

警官は、奥から、一枚の紙を持ってきました。

それは、わたしの、捜索願でした。

写真のなかのわたしは、髪が黒く、少しふっくらしていました。

いまの、痩せて髪を染めたわたしとは、別人のようでした。

「ご家族が、ずっと探しておられましたよ」

警官は、静かに、そう言いました。

わたしは、その言葉に、ようやく実感が、追いついてきました。

自分は、一年ものあいだ、行方不明になっていたのだと。

一年近く前に、家族が出していたものでした。

※

実家に、連絡が行きました。

電話の向こうで、母が、泣いていました。

「あんた、今まで、どこにいたの」

その声を聞いて、わたしの目から、涙があふれました。

「ごめん。ごめん、お母さん」

わたしは、それしか、言えませんでした。

「無事で、よかった。本当に、よかった」

母は、嗚咽のあいだから、何度も、そう繰り返しました。

わたしは、受話器を握ったまま、交番の床に、座りこんでいました。

わたしには、答えようが、ありませんでした。

どこにいたのか、何をしていたのか、まるで覚えていないのです。

記憶は、地下鉄のつり革のところで、ぷつりと切れている。

そのあとの一年が、まるごと、空白でした。

わたしは、その空白の一年を、生きていたはずなのに。

誰かと連絡を取り、髪を染め、博多まで来ていたはずなのに。

その「わたし」のことを、いまのわたしは、何ひとつ知らないのです。

名古屋のアパートは、とうに、引き払われていました。

家賃の滞納で、大家が、荷物を処分したあとでした。

勤めていた印刷会社も、無断欠勤が続いて、解雇になっていました。

わたしの一年は、まわりの人たちの記憶から、静かに削除されていました。

誰も、その一年のわたしが、どこで何をしていたか、知りませんでした。

わたし自身が、いちばん、それを知らなかったのです。

※

あれから、長い時間が経ちました。

わたしは、いまも、月に一度、心療内科に通っています。

医者は、解離性の遁走だろう、と言います。

強いストレスで、記憶をなくして、さまよう症状だと。

いまは、もとの会社には戻れず、派遣の仕事で、日々をしのいでいます。

職場では、あの一年のことを、誰にも話していません。

話したところで、信じてもらえるとも、思えないのです。

夜、布団に入るとき、わたしには、ひとつの習慣ができました。

枕もとに、その日の新聞を、置いておくのです。

朝、目を覚ましたとき、日付を、まっさきに確かめるために。

また一年、飛んでいないかを、たしかめないと、落ち着かないのです。

でも、それなら、説明のつかないことが、いくつもあります。

あの一文字の名前の番号は、誰のものだったのか。

なぜ、わたしはあれを、あれほど恐れたのか。

染めた髪も、知らない服も、誰のために、用意されたものだったのか。

医者に、その疑問を、ぶつけたことがあります。

「遁走中の行動は、本人にも説明できないことが多いんですよ」

医者は、おだやかに、そう答えました。

「別の人格、ということですか」

「そういう、はっきりしたものとは限りません」

医者の説明は、理屈としては、わかりました。

一度だけ、思いきって、医者に尋ねたことがあります。

「先生は、こういう患者を、何人も診てきたんですか」

医者は、少し間をおいて、こう答えました。

「ええ。ですが、戻ってこられる人ばかりでは、ないんですよ」

その言葉の意味を、わたしは、あえて訊き返しませんでした。

戻ってこられなかった人たちが、いまもどこかで、別の名前で生きている。

そう考えると、胸の奥が、しんと冷えました。

けれど、わたしの体に残った違和感までは、消してくれませんでした。

見覚えのないコートの袖を通すたびに、背筋が寒くなったのです。

あのコートは、いまも、捨てられずに、押し入れにしまってあります。

捨てようとすると、なぜか、手が止まるのです。

あの一年の、たったひとつの、手がかりだからかもしれません。

あるいは、捨ててはいけないと、あの一年のわたしが、思っているのか。

医者には、話していないことが、ひとつあります。

※

博多で目覚める、少し前のことです。

ほんの一瞬だけ、記憶の切れ端が、よぎった気がするのです。

暗い部屋で、誰かが、わたしの名前を、何度も呼んでいる。

知らない声で、知らない名前を。

わたしではない、別の名前を。

そして、その名前で呼ばれたわたしは、たしかに、返事をしていた。

暗い部屋に、小さな灯りが、ひとつだけ灯っていました。

誰かが、わたしの手を、やさしく握っていました。

その手の温度を、いまでも、なぜか覚えています。

わたしは、その人を、知っているような気がしました。

いえ、知らないのに、知っているような、奇妙な感覚でした。

その人が、わたしの、知らない名前を呼ぶと、胸が、あたたかくなったのです。

あの一文字の名前の、どれかが、その人だったのかもしれません。

だとしたら、わたしは、なぜあの番号を、川に捨てたのでしょう。

会いたいと思う気持ちと、二度と関わってはいけないという恐れ。

その両方が、いまも、わたしのなかで、せめぎあっています。

あの一年、わたしは、別の誰かとして、生きていたのではないか。

そう思うと、いまでも、夜、眠るのが怖いのです。

目を閉じた次に気づいたら、また、知らない街に立っているのではないか。

だから、わたしは、いまでも、なるべく電車では眠りません。

とくに、熱のある日は、できるだけ外に出ないようにしています。

あの感覚が、また来るのが、何より怖いのです。

まぶたの裏が赤く明滅して、まわりの音が、すっと遠くなる、あの感覚が。

気づけば、また知らない街で、知らない名前を、名乗っているのではないか。

そして今度は、わたしを探して、泣いてくれる母も、もういないかもしれない。

失われた一年は、いまも、わたしのなかで、終わってなどいないのです。

押し入れのコートと、真鍮の鍵は、その証拠のように、じっとそこにあります。

今度こそ、もう、戻ってこられないのではないか、と。

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