私には、昔から妙な癖がある。
夢を見ている最中に、「ああ、これは夢だ」と、はっきり自覚することがあるのだ。
そういうとき、私はたいてい、自分の意思で夢から覚めることができた。
だから、どんなに怖い夢でも、いざとなれば逃げ出せると、たかをくくっていた。
あの夜の夢も、最初はそうだった。
むしろ、私は、怖い夢を、どこか楽しんでさえいた。
夢のなかでなら、どんな恐怖も、結局は自分の手のひらの上だ。
そう、思い上がっていたのだ。
あの夜まで、私は、夢に「捕まる」ということを、知らなかった。
※
気がつくと、私は、薄暗い建物のなかに立っていた。
古い、寂れた百貨店のようだった。
陳列棚には埃が積もり、マネキンは、どれも首を傾げてこちらを見ていた。
天井の蛍光灯が、じじ、じじ、と切れかけの音を立てていた。
床には、色あせた福引きの紙吹雪が、散らばっていた。
どこか遠くで、壊れたオルゴールが、間延びした音を鳴らしていた。
その音は、近づいたり、遠ざかったりした。
空気は、かび臭く、そして、ほんのり甘かった。
私は、これは夢だなと、すぐに気づいた。
ずいぶん陰気な夢だと、半ば呆れていた。
歩くたびに、足元のタイルが、ぴた、ぴたと、湿った音を返した。
壁の案内板は、文字がすべて、にじんで読めなくなっていた。
ただ一つ、矢印だけが、地下へ、地下へと、私を導いていた。
その矢印に、なぜか、逆らう気が起きなかった。
進むうちに、背後で、足音がした気がした。
振り返ると、誰もいなかった。
だが、私が歩き出すと、また、ぴた、ぴたと、後ろから音がついてきた。
誰かが、私と同じ歩幅で、すぐ後ろを歩いている。
私は、振り返るのが、怖くなっていた。
そのとき、どこかから、女のアナウンスが流れた。
精気のない、平坦な声だった。
「まもなく、エレベーターがまいりますぅ」
「このエレベーターに乗ると、あなたは、こわい目に遭いますぅ」
遊園地の、お化け屋敷の客寄せのような口調だった。
けれど、その声には、抑揚というものが、まるでなかった。
機械が読み上げているのとも、違った。
感情を、すべて抜き取られた人間の声だった。
意味の分からない放送だった。
※
フロアの奥で、古いエレベーターの扉が、ぎい、と開いた。
なかには、顔色の悪い男女が、数人、ぎゅうぎゅうに乗っていた。
全部で、五人ほどだろうか。
くたびれた背広の男、買い物かごを抱えた老婆、制服姿の少女。
みな、生きているのか死んでいるのか、判然としなかった。
誰一人、私のほうを見ようとはしなかった。
ただ、制服姿の少女だけが、一度、ちらりと私を見た。
その目は、「乗ってはいけない」と、訴えているように見えた。
だが、私は、その警告を、好奇心で押し流してしまった。
今でも、あの少女の目を、思い出す。
みな、うつむいて、身じろぎひとつしなかった。
私は、変な夢だと思いつつも、好奇心が勝った。
自分の夢が、どれだけ自分を怖がらせられるのか、試してみたくなったのだ。
本当に耐えられなくなれば、目を覚ませばいい。
そう思って、私はそのエレベーターに乗り込んだ。
扉が、ゆっくりと閉まった。
狭い箱のなかには、生ぬるい空気が、よどんでいた。
夢にしては、あまりに生々しい感触だった。
箱の壁の鏡には、私の顔が映っていた。
だが、その鏡のなかの私だけが、なぜか、薄く笑っていた。
慌てて目をこすると、鏡の私は、いつもの無表情に戻っていた。
背筋を、冷たいものが伝った。
※
「下へ、まいりますぅ」
間延びした声とともに、エレベーターは下降を始めた。
階数表示のランプが、ひとつずつ、下へ降りていった。
地下一階、地下二階、地下三階。
百貨店に、こんなに地下があるはずがなかった。
それでも、箱は、ずるずると沈み続けた。
私は、ふと思った。
この古びた箱も、薄暗い照明も、どこかで見た記憶の寄せ集めだ。
子どもの頃に乗った、デパートのエレベーター。
結局、夢など、過去の記憶を並べ替えているだけだ。
少しも怖くなんか、ない。
腕時計に、目をやった。
秒針は、進んでは戻り、進んでは戻りを、繰り返していた。
この箱のなかでは、時間さえ、まともに流れていなかった。
そう、高をくくった、そのときだった。
※
「次は、めくり、ですぅ」
放送の声色は、変わらず、穏やかだった。
その穏やかさが、かえって、恐ろしかった。
アナウンスが、そう告げた。
めくり、とは何だろう。
そう考えた瞬間、箱の奥で、けたたましい悲鳴があがった。
それは、人が出せる声とは、思えなかった。
狭い箱のなかで、悲鳴は、何重にも反響した。
両耳をふさいでも、その声は、頭の芯まで突き刺さってきた。
振り向くと、いちばん奥にいた男の周りに、小さな影が群がっていた。
子どもほどの背丈の、ぼろをまとった影だった。
影は、男の皮膚を、端から、めくりはじめた。
薄い紙を剥がすような音が、箱に響いた。
その音は、聞き覚えのある音だった。
子どもの頃、シールを台紙から剥がした、あの音に似ていた。
こんなときに、そんなことを思い出す自分が、信じられなかった。
男は、耳をつんざく声で、叫び続けた。
私のすぐ隣にいた、髪の長い女は、前を向いたまま、微動だにしなかった。
私は、想像を超える展開に、息を呑んだ。
これは、本当に夢なのか。
怖い。だが、もう少しだけ、様子を見てから覚めよう。
いつもなら、ここで目を覚ましていた。
だが、なぜか、この夢からは、まだ抜け出せる気がしていた。
その油断が、あとで、私を後悔させることになる。
箱は、止まる気配を見せなかった。
むしろ、下るほどに、速度を増していくようだった。
耳の奥が、つん、と痛んだ。
戻りたいと思ったときには、もう、上り階のボタンは消えていた。
地下五階、地下六階。
ランプは、もう、見たこともない数字を、淡々と点していった。
下るにつれ、箱のなかの温度が、じわじわと上がっていった。
まるで、生き物の腹のなかへ、飲み込まれていくようだった。
乗客たちの呼吸だけが、ふう、ふうと、暗がりに重なった。
ふと、その呼吸が、ぴたりと、揃っていることに気づいた。
五人の乗客が、まるで一つの生き物のように、同じ間隔で息をしていた。
そして、私だけが、その呼吸に、合わせられずにいた。
場違いな、よそ者は、私のほうだった。
※
気がつくと、奥の男は、いなくなっていた。
あとには、赤黒い、なにかの塊だけが残っていた。
その塊が、ぴくり、ぴくりと、まだ動いていた。
影たちは、その塊を、どこかへ運び去った。
箱の床に、点々と、黒い染みが残った。
その染みを、私は、見ないようにした。
私は、込み上げるものを、必死でこらえた。
ここで吐けば、影たちに気づかれる。
なぜか、そんな確信があった。
箱のなかは、むせ返るような匂いで満ちていた。
隣の女は、相変わらず、無表情に一点を見つめていた。
「次は、すりつぶし、ですぅ」
アナウンスが、また流れた。
すると、小さな影が二つ、女に取りついた。
そして、石臼のようなもので、女の指を、ゆっくりとすりつぶしはじめた。
無表情だった女の顔が、ぐにゃりと歪んだ。
私のすぐ耳元で、鼓膜が破れそうな悲鳴があがった。
私は、前を向き、身を縮めて、震えていた。
「次は、つけかえ、ですぅ」
放送が、また流れた。
制服姿の少女のところへ、影が群がった。
影たちは、少女の腕を引き抜き、別の誰かの腕を、無理やり押し込んだ。
少女は、声にならない声で、口を大きく開けていた。
もう、悲鳴をあげる力さえ、残っていないようだった。
箱のなかは、いつのまにか、私と、買い物かごの老婆だけになっていた。
※
もう、潮時だと思った。
これ以上は、とても付き合いきれない。
しかも、順番からいけば、次は、私の番だった。
私は、夢から覚めようと、意識を集中させた。
いつもなら、それですぐに、目が覚めるはずだった。
だが、いくら念じても、まぶたは開かなかった。
覚めない。
全身から、血の気が引いた。
私は、扉を、両手で叩いた。
「開けてくれ、ここから出してくれ」
叫んでも、箱は、ただ沈み続けるだけだった。
すると、スピーカーから、あの平坦な声が、私にだけ応えた。
「お客さま、順番は、お守りくださいぃ」
その声には、かすかに、笑いが混じっていた。
覚められない夢など、初めてだった。
「次は、たたみ、ですぅ」
放送が、無慈悲に告げた。
老婆のところへ、影が殺到した。
影は、老婆の体を、洗濯物でもたたむように、二つに、四つに、折りたたんでいった。
関節の砕ける音が、ぱき、ぱき、と続いた。
やがて、老婆は、小さな塊になって、買い物かごのなかに収まった。
箱のなかに、立っているのは、もう、私一人だった。
影たちが、ゆっくりと、私のほうへ向き直った。
もう、私の前に、誰もいなかった。
盾になってくれる乗客は、一人もいなくなっていた。
※
私は、せめて、自分の番に何が起きるのか、それだけは知りたくなった。
いや、知りたくなどなかった。
だが、アナウンスを、聞かずにはいられなかった。
女の声が、ゆっくりと流れた。
「次は……」
その一瞬の間が、永遠のように長かった。
「次は、ほどき、ですぅ」
ほどき。
その言葉の意味を、私は、嫌でも想像してしまった。
糸をほどくように、私は、端から、ほどかれていくのだ。
足の先から、髪の毛の一本まで。
一本ずつ、丁寧に、ほどかれていく自分を、私は思い描いてしまった。
そして、ほどき終えたあと、何も残らないのだ。
あの男も、あの女も、あの老婆も、そうやって、何も残らなくなった。
名前も、顔も、生きていた証も、すべて、ほどかれてしまった。
だから、誰も、彼らがいなくなったことに、気づかない。
悲鳴をあげることすら、できなかった。
影たちの数が、増えていた。
暗い天井からも、するすると、新しい影が降りてきた。
箱のなかが、影で、いっぱいになった。
その中心で、私は、ただ立ち尽くしていた。
※
小さな影たちが、いっせいに、こちらを向いた。
暗がりのなかで、いくつもの目が、ぬらりと光った。
影が、私の足元に、にじり寄ってきた。
冷たい指が、私のくるぶしに触れた。
その瞬間、私は、ありったけの力で叫んだ。
叫びながら、私は、夢のなかの自分の頬を、力いっぱい殴った。
痛みが、頭の奥で、白く弾けた。
その痛みを頼りに、私は、意識を、必死で現実へ手繰り寄せた。
遠くなりかけた意識の端で、影の冷たい指が、足首をつかむのを感じた。
ずるり、と、引きずり込まれる感覚があった。
いやだ、と、私は心のなかで叫んだ。
その瞬間、ぷつりと、何かが切れる音がした。
そして、目が覚めた。
※
自分の部屋の、自分の布団の上だった。
全身は、汗でぐっしょりと濡れていた。
心臓が、痛いほど早鐘を打っていた。
ただの夢だ。私は、何度も自分に言い聞かせた。
だが、くるぶしに触れた、あの冷たい感触だけが、いつまでも消えなかった。
震える手で、足元の布団をめくった。
左のくるぶしに、うっすらと、赤い指の跡が、四本ついていた。
その跡は、三日かけて、ゆっくりと消えていった。
消えるまでのあいだ、私は、夜が来るのが、怖くてたまらなかった。
眠れば、また、あの箱に戻されるのではないか。
そう思うと、私は、何日も、まともに眠れなかった。
幸い、あの夢を、二度と見ることはなかった。
だから、ただの悪夢だったのだと、私は思い込もうとした。
けれど、心のどこかで、私は知っていた。
あれは、ただの夢では、なかったのだと。
※
それから、十年が過ぎた。
あの夢のことは、いつしか忘れていた。
先日、私は、取り壊しの決まった古い百貨店の前を通りかかった。
夢で見たのと、よく似た建物だった。
入口の脇に、古いエレベーターが、一基だけ残っていた。
その扉には、黄ばんだ紙が、貼ってあった。
「故障中。ご利用に、なれませぅ」
最後の一文字が、なぜか、夢のあの声と、同じ訛りだった。
「なれませぅ」と、その紙には、書かれていた。
「なれません」ではなく、「なれませぅ」と。
誰かが、わざと、そう書いたとしか思えなかった。
いや、書いたのは、人ではないのかもしれない。
私は、足を止めた。
立ち去ろうとしたのに、足が、地面に縫いつけられたように動かなかった。
そのとき、扉の向こうから、ぎい、と、箱が動く音がした。
聞き間違いかと、私は耳を疑った。
だが、確かに、箱は、ゆっくりと下りはじめていた。
誰も乗っていないはずの、故障中のエレベーターが。
そして、あの平坦な女の声が、かすかに聞こえた。
故障中のはずの、誰もいないはずの箱から。
「お待ちしておりましたぁ」
私は、振り返らずに、その場を立ち去った。
家に帰ってから、私は、あの百貨店のことを調べた。
古い記事に、こうあった。
かつてその店のエレベーターで、点検中の事故があり、数名が亡くなっていた。
記事には、犠牲者の人数が、五名と書かれていた。
あの箱に乗っていた、乗客の数と、同じだった。
地下へ落下したまま、長く引き上げられなかった、という。
あの箱に乗っていた、顔色の悪い人たち。
あれは、今も、あの暗い穴の底に、囚われている人たちなのかもしれない。
そして、女の声は、新しい乗客を、ずっと待ち続けているのだ。
あの夜、私が乗ったのは、六人目の席だったのかもしれない。
定員に、一人だけ、足りていなかったのだ。
だから、あの箱は、私を逃がしたくなかった。
そう考えると、すべての辻褄が、ぞっとするほど合ってしまう。
あの夢は、まだ、終わっていないのだと思う。
あれから、私は、エレベーターに乗るのが、苦手になった。
とくに、下りのボタンを押す瞬間が、たまらなく怖い。
箱が沈みはじめると、あの平坦な声が、聞こえてくる気がするのだ。
「お待ちしておりましたぁ」と。
次に乗ってしまったら、私はもう、覚めることができない気がする。