猿夢

私には、昔から妙な癖がある。

夢を見ている最中に、「ああ、これは夢だ」と、はっきり自覚することがあるのだ。

そういうとき、私はたいてい、自分の意思で夢から覚めることができた。

だから、どんなに怖い夢でも、いざとなれば逃げ出せると、たかをくくっていた。

あの夜の夢も、最初はそうだった。

むしろ、私は、怖い夢を、どこか楽しんでさえいた。

夢のなかでなら、どんな恐怖も、結局は自分の手のひらの上だ。

そう、思い上がっていたのだ。

あの夜まで、私は、夢に「捕まる」ということを、知らなかった。

気がつくと、私は、薄暗い建物のなかに立っていた。

古い、寂れた百貨店のようだった。

陳列棚には埃が積もり、マネキンは、どれも首を傾げてこちらを見ていた。

天井の蛍光灯が、じじ、じじ、と切れかけの音を立てていた。

床には、色あせた福引きの紙吹雪が、散らばっていた。

どこか遠くで、壊れたオルゴールが、間延びした音を鳴らしていた。

その音は、近づいたり、遠ざかったりした。

空気は、かび臭く、そして、ほんのり甘かった。

私は、これは夢だなと、すぐに気づいた。

ずいぶん陰気な夢だと、半ば呆れていた。

歩くたびに、足元のタイルが、ぴた、ぴたと、湿った音を返した。

壁の案内板は、文字がすべて、にじんで読めなくなっていた。

ただ一つ、矢印だけが、地下へ、地下へと、私を導いていた。

その矢印に、なぜか、逆らう気が起きなかった。

進むうちに、背後で、足音がした気がした。

振り返ると、誰もいなかった。

だが、私が歩き出すと、また、ぴた、ぴたと、後ろから音がついてきた。

誰かが、私と同じ歩幅で、すぐ後ろを歩いている。

私は、振り返るのが、怖くなっていた。

そのとき、どこかから、女のアナウンスが流れた。

精気のない、平坦な声だった。

「まもなく、エレベーターがまいりますぅ」

「このエレベーターに乗ると、あなたは、こわい目に遭いますぅ」

遊園地の、お化け屋敷の客寄せのような口調だった。

けれど、その声には、抑揚というものが、まるでなかった。

機械が読み上げているのとも、違った。

感情を、すべて抜き取られた人間の声だった。

意味の分からない放送だった。

フロアの奥で、古いエレベーターの扉が、ぎい、と開いた。

なかには、顔色の悪い男女が、数人、ぎゅうぎゅうに乗っていた。

全部で、五人ほどだろうか。

くたびれた背広の男、買い物かごを抱えた老婆、制服姿の少女。

みな、生きているのか死んでいるのか、判然としなかった。

誰一人、私のほうを見ようとはしなかった。

ただ、制服姿の少女だけが、一度、ちらりと私を見た。

その目は、「乗ってはいけない」と、訴えているように見えた。

だが、私は、その警告を、好奇心で押し流してしまった。

今でも、あの少女の目を、思い出す。

みな、うつむいて、身じろぎひとつしなかった。

私は、変な夢だと思いつつも、好奇心が勝った。

自分の夢が、どれだけ自分を怖がらせられるのか、試してみたくなったのだ。

本当に耐えられなくなれば、目を覚ませばいい。

そう思って、私はそのエレベーターに乗り込んだ。

扉が、ゆっくりと閉まった。

狭い箱のなかには、生ぬるい空気が、よどんでいた。

夢にしては、あまりに生々しい感触だった。

箱の壁の鏡には、私の顔が映っていた。

だが、その鏡のなかの私だけが、なぜか、薄く笑っていた。

慌てて目をこすると、鏡の私は、いつもの無表情に戻っていた。

背筋を、冷たいものが伝った。

「下へ、まいりますぅ」

間延びした声とともに、エレベーターは下降を始めた。

階数表示のランプが、ひとつずつ、下へ降りていった。

地下一階、地下二階、地下三階。

百貨店に、こんなに地下があるはずがなかった。

それでも、箱は、ずるずると沈み続けた。

私は、ふと思った。

この古びた箱も、薄暗い照明も、どこかで見た記憶の寄せ集めだ。

子どもの頃に乗った、デパートのエレベーター。

結局、夢など、過去の記憶を並べ替えているだけだ。

少しも怖くなんか、ない。

腕時計に、目をやった。

秒針は、進んでは戻り、進んでは戻りを、繰り返していた。

この箱のなかでは、時間さえ、まともに流れていなかった。

そう、高をくくった、そのときだった。

「次は、めくり、ですぅ」

放送の声色は、変わらず、穏やかだった。

その穏やかさが、かえって、恐ろしかった。

アナウンスが、そう告げた。

めくり、とは何だろう。

そう考えた瞬間、箱の奥で、けたたましい悲鳴があがった。

それは、人が出せる声とは、思えなかった。

狭い箱のなかで、悲鳴は、何重にも反響した。

両耳をふさいでも、その声は、頭の芯まで突き刺さってきた。

振り向くと、いちばん奥にいた男の周りに、小さな影が群がっていた。

子どもほどの背丈の、ぼろをまとった影だった。

影は、男の皮膚を、端から、めくりはじめた。

薄い紙を剥がすような音が、箱に響いた。

その音は、聞き覚えのある音だった。

子どもの頃、シールを台紙から剥がした、あの音に似ていた。

こんなときに、そんなことを思い出す自分が、信じられなかった。

男は、耳をつんざく声で、叫び続けた。

私のすぐ隣にいた、髪の長い女は、前を向いたまま、微動だにしなかった。

私は、想像を超える展開に、息を呑んだ。

これは、本当に夢なのか。

怖い。だが、もう少しだけ、様子を見てから覚めよう。

いつもなら、ここで目を覚ましていた。

だが、なぜか、この夢からは、まだ抜け出せる気がしていた。

その油断が、あとで、私を後悔させることになる。

箱は、止まる気配を見せなかった。

むしろ、下るほどに、速度を増していくようだった。

耳の奥が、つん、と痛んだ。

戻りたいと思ったときには、もう、上り階のボタンは消えていた。

地下五階、地下六階。

ランプは、もう、見たこともない数字を、淡々と点していった。

下るにつれ、箱のなかの温度が、じわじわと上がっていった。

まるで、生き物の腹のなかへ、飲み込まれていくようだった。

乗客たちの呼吸だけが、ふう、ふうと、暗がりに重なった。

ふと、その呼吸が、ぴたりと、揃っていることに気づいた。

五人の乗客が、まるで一つの生き物のように、同じ間隔で息をしていた。

そして、私だけが、その呼吸に、合わせられずにいた。

場違いな、よそ者は、私のほうだった。

気がつくと、奥の男は、いなくなっていた。

あとには、赤黒い、なにかの塊だけが残っていた。

その塊が、ぴくり、ぴくりと、まだ動いていた。

影たちは、その塊を、どこかへ運び去った。

箱の床に、点々と、黒い染みが残った。

その染みを、私は、見ないようにした。

私は、込み上げるものを、必死でこらえた。

ここで吐けば、影たちに気づかれる。

なぜか、そんな確信があった。

箱のなかは、むせ返るような匂いで満ちていた。

隣の女は、相変わらず、無表情に一点を見つめていた。

「次は、すりつぶし、ですぅ」

アナウンスが、また流れた。

すると、小さな影が二つ、女に取りついた。

そして、石臼のようなもので、女の指を、ゆっくりとすりつぶしはじめた。

無表情だった女の顔が、ぐにゃりと歪んだ。

私のすぐ耳元で、鼓膜が破れそうな悲鳴があがった。

私は、前を向き、身を縮めて、震えていた。

「次は、つけかえ、ですぅ」

放送が、また流れた。

制服姿の少女のところへ、影が群がった。

影たちは、少女の腕を引き抜き、別の誰かの腕を、無理やり押し込んだ。

少女は、声にならない声で、口を大きく開けていた。

もう、悲鳴をあげる力さえ、残っていないようだった。

箱のなかは、いつのまにか、私と、買い物かごの老婆だけになっていた。

もう、潮時だと思った。

これ以上は、とても付き合いきれない。

しかも、順番からいけば、次は、私の番だった。

私は、夢から覚めようと、意識を集中させた。

いつもなら、それですぐに、目が覚めるはずだった。

だが、いくら念じても、まぶたは開かなかった。

覚めない。

全身から、血の気が引いた。

私は、扉を、両手で叩いた。

「開けてくれ、ここから出してくれ」

叫んでも、箱は、ただ沈み続けるだけだった。

すると、スピーカーから、あの平坦な声が、私にだけ応えた。

「お客さま、順番は、お守りくださいぃ」

その声には、かすかに、笑いが混じっていた。

覚められない夢など、初めてだった。

「次は、たたみ、ですぅ」

放送が、無慈悲に告げた。

老婆のところへ、影が殺到した。

影は、老婆の体を、洗濯物でもたたむように、二つに、四つに、折りたたんでいった。

関節の砕ける音が、ぱき、ぱき、と続いた。

やがて、老婆は、小さな塊になって、買い物かごのなかに収まった。

箱のなかに、立っているのは、もう、私一人だった。

影たちが、ゆっくりと、私のほうへ向き直った。

もう、私の前に、誰もいなかった。

盾になってくれる乗客は、一人もいなくなっていた。

私は、せめて、自分の番に何が起きるのか、それだけは知りたくなった。

いや、知りたくなどなかった。

だが、アナウンスを、聞かずにはいられなかった。

女の声が、ゆっくりと流れた。

「次は……」

その一瞬の間が、永遠のように長かった。

「次は、ほどき、ですぅ」

ほどき。

その言葉の意味を、私は、嫌でも想像してしまった。

糸をほどくように、私は、端から、ほどかれていくのだ。

足の先から、髪の毛の一本まで。

一本ずつ、丁寧に、ほどかれていく自分を、私は思い描いてしまった。

そして、ほどき終えたあと、何も残らないのだ。

あの男も、あの女も、あの老婆も、そうやって、何も残らなくなった。

名前も、顔も、生きていた証も、すべて、ほどかれてしまった。

だから、誰も、彼らがいなくなったことに、気づかない。

悲鳴をあげることすら、できなかった。

影たちの数が、増えていた。

暗い天井からも、するすると、新しい影が降りてきた。

箱のなかが、影で、いっぱいになった。

その中心で、私は、ただ立ち尽くしていた。

小さな影たちが、いっせいに、こちらを向いた。

暗がりのなかで、いくつもの目が、ぬらりと光った。

影が、私の足元に、にじり寄ってきた。

冷たい指が、私のくるぶしに触れた。

その瞬間、私は、ありったけの力で叫んだ。

叫びながら、私は、夢のなかの自分の頬を、力いっぱい殴った。

痛みが、頭の奥で、白く弾けた。

その痛みを頼りに、私は、意識を、必死で現実へ手繰り寄せた。

遠くなりかけた意識の端で、影の冷たい指が、足首をつかむのを感じた。

ずるり、と、引きずり込まれる感覚があった。

いやだ、と、私は心のなかで叫んだ。

その瞬間、ぷつりと、何かが切れる音がした。

そして、目が覚めた。

自分の部屋の、自分の布団の上だった。

全身は、汗でぐっしょりと濡れていた。

心臓が、痛いほど早鐘を打っていた。

ただの夢だ。私は、何度も自分に言い聞かせた。

だが、くるぶしに触れた、あの冷たい感触だけが、いつまでも消えなかった。

震える手で、足元の布団をめくった。

左のくるぶしに、うっすらと、赤い指の跡が、四本ついていた。

その跡は、三日かけて、ゆっくりと消えていった。

消えるまでのあいだ、私は、夜が来るのが、怖くてたまらなかった。

眠れば、また、あの箱に戻されるのではないか。

そう思うと、私は、何日も、まともに眠れなかった。

幸い、あの夢を、二度と見ることはなかった。

だから、ただの悪夢だったのだと、私は思い込もうとした。

けれど、心のどこかで、私は知っていた。

あれは、ただの夢では、なかったのだと。

それから、十年が過ぎた。

あの夢のことは、いつしか忘れていた。

先日、私は、取り壊しの決まった古い百貨店の前を通りかかった。

夢で見たのと、よく似た建物だった。

入口の脇に、古いエレベーターが、一基だけ残っていた。

その扉には、黄ばんだ紙が、貼ってあった。

「故障中。ご利用に、なれませぅ」

最後の一文字が、なぜか、夢のあの声と、同じ訛りだった。

「なれませぅ」と、その紙には、書かれていた。

「なれません」ではなく、「なれませぅ」と。

誰かが、わざと、そう書いたとしか思えなかった。

いや、書いたのは、人ではないのかもしれない。

私は、足を止めた。

立ち去ろうとしたのに、足が、地面に縫いつけられたように動かなかった。

そのとき、扉の向こうから、ぎい、と、箱が動く音がした。

聞き間違いかと、私は耳を疑った。

だが、確かに、箱は、ゆっくりと下りはじめていた。

誰も乗っていないはずの、故障中のエレベーターが。

そして、あの平坦な女の声が、かすかに聞こえた。

故障中のはずの、誰もいないはずの箱から。

「お待ちしておりましたぁ」

私は、振り返らずに、その場を立ち去った。

家に帰ってから、私は、あの百貨店のことを調べた。

古い記事に、こうあった。

かつてその店のエレベーターで、点検中の事故があり、数名が亡くなっていた。

記事には、犠牲者の人数が、五名と書かれていた。

あの箱に乗っていた、乗客の数と、同じだった。

地下へ落下したまま、長く引き上げられなかった、という。

あの箱に乗っていた、顔色の悪い人たち。

あれは、今も、あの暗い穴の底に、囚われている人たちなのかもしれない。

そして、女の声は、新しい乗客を、ずっと待ち続けているのだ。

あの夜、私が乗ったのは、六人目の席だったのかもしれない。

定員に、一人だけ、足りていなかったのだ。

だから、あの箱は、私を逃がしたくなかった。

そう考えると、すべての辻褄が、ぞっとするほど合ってしまう。

あの夢は、まだ、終わっていないのだと思う。

あれから、私は、エレベーターに乗るのが、苦手になった。

とくに、下りのボタンを押す瞬間が、たまらなく怖い。

箱が沈みはじめると、あの平坦な声が、聞こえてくる気がするのだ。

「お待ちしておりましたぁ」と。

次に乗ってしまったら、私はもう、覚めることができない気がする。

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