
私には、昔から妙な癖がある。
夢を見ている最中に、「ああ、これは夢だ」と、はっきり自覚することがあるのだ。
そういうとき、私はたいてい、自分の意思で目を覚ますことができた。
崖から落ちる夢でも、見知らぬ街で追われる夢でも、頬をつねる要領でまぶたに力を入れれば、見慣れた天井が戻ってきた。
それは、私にとって、ちょっとした特技のようなものだった。
友人に話すと、羨ましがられた。怖い映画を観る気分で、悪夢を眺められるのだから。
だから、どんなに怖い夢でも、いざとなれば逃げ出せると、たかをくくっていた。
夢の主導権は、いつも自分にある。そう信じていたし、三十年近く、その信頼は一度も裏切られなかった。
あの夜は、残業続きで、風邪気味で、枕元に水を置いて眠った。
目を閉じる前、遠くで救急車のサイレンが、ずっと鳴っていた。
閉館後の水族館で見たあの夢も、最初はそうだった。
閉館後の水族館で見たあの夢まで、私は、夢に「捕まる」ということを、知らなかった。
これは、目を覚ませなかった夜の話だ。
閉館後の水族館に迷い込んだ夢の話を、書いておく。
ただ、夢だと言い切れないものが、いまも足首の記憶に残っている。
閉館後の水族館
気がつくと、私は、薄暗い建物のなかに立っていた。
天井の照明は半分ほど落とされ、床の青い案内灯だけが、足元をぼんやり照らしている。
水族館だと、すぐに分かった。
子どもの頃に遠足で来た、海沿いの古い水族館によく似ていた。
入口のガラス扉には、色あせた魚のシールが貼ってあり、角がめくれていた。
ガラスに映る自分の顔は、いつもより少しだけ、青かった。
ただ、水槽のなかには、魚が一匹もいなかった。
解説板だけが律儀に並んでいて、「イワシの群れ」「クラゲの海」と書かれていた。
その下の水は、どれも、ひどく静かだった。
濁った水だけが、ゆっくりと渦を巻いていた。
空気は、潮の匂いと、濡れた段ボールの匂いが混ざっていた。
遠くで、ポンプの低い音が、一定の間隔で鳴っていた。
耳を澄ますと、その音のあいだに、誰かが小声で数を数えているような気配が混じっていた。
いち、に、さん、と。
どこまで数えても、終わりのない数え方だった。
私は、ああ、これは夢だな、と思った。
足の裏が、湿ったタイルの目地を、ひとつずつ拾っていた。
夢の感触としては、あまりに細かい。
そう気づきながらも、私はそれを、出来の良さだと受け取っていた。
ずいぶん陰気な夢だと、半ば呆れてもいた。
入口の脇に、傘立てがあった。
傘立ての穴は六つあって、そのうち五つに、濡れた傘が差してあった。
傘の先から、ぽた、ぽたと、水が落ちていた。
受付台に、パンフレットが一部だけ置かれていた。
表紙には「本日のご見学順路」とあり、その下に、六つの空欄が並んでいた。
五つの空欄には、読めない字で、名前らしきものが書き込まれている。
六つ目だけが、白いままだった。
鉛筆は、受付台に置かれていなかった。
私は、ペンを探すふりをして、空欄から目をそらした。
その音に合わせるように、館内放送のチャイムが鳴った。
女の声が、流れた。
精気のない、平坦な声だった。
「まもなく、ご見学の時間でございますぅ」
語尾が、妙に伸びて、くぐもっていた。
「順番に、お進みくださいぅ」
機械の音声とも違った。
感情を、すべて抜き取られた人間の声だった。
入口の前に、五人が、一列に並んでいた。
背広を着た男、作業服の男、買い物袋を提げた老婆、髪の長い女、そして制服姿の少女。
誰も、口をきかなかった。
誰も、私のほうを見なかった。
ただ、制服の少女だけが、一度だけ振り返った。
その目は、はっきりと、首を横に振っていた。
行かないほうがいい、と言っていた。
私はその目を、好奇心で押し流した。
自分の夢が、どこまで自分を怖がらせられるのか、試してみたくなったのだ。
本当に耐えられなくなれば、目を覚ませばいい。
そう思って、列の最後尾に、並んだ。
順番を告げる放送
列は、青い通路を、ゆっくり進んだ。
床には、濡れた足跡が、点々と続いていた。
足跡は、私たちの前にも、ずっと伸びていた。
最初の水槽の前で、列が止まった。
「最初の水槽は、おなまえ、ですぅ」
放送が、そう告げた。
ガラスの内側に、白い文字が、ゆらゆらと浮かんでいた。
水草のように揺れる文字は、人の名前に見えた。
ひとつひとつ字の形が違うのに、全部が、誰かの癖字で書かれているようだった。
背広の男が、一歩前に出た。
彼は、文字を見上げて、口を開いた。
「……くわた、ひろし」
低い声が、ガラスに吸われていった。
そのとたん、文字が、すうっと消えた。
男は、口を開けたまま、止まった。
ガラスの文字は、彼が声に出した順に、ひとつずつ色を失っていった。
自分の名前を探すように、舌が、何度か唇をなぞった。
けれど、声は、もう出てこなかった。
通路の奥から、雨合羽を着た小柄な人影が、静かに近づいてきた。
白い長靴が、ぴたり、ぴたりと、濡れた音を立てた。
人影は、男の手を取り、関係者以外立入禁止、と書かれた扉の向こうへ、連れていった。
男は、抵抗しなかった。
子どもが、親に手を引かれるように、ついていった。
扉が閉まる直前、向こう側から、ざあ、と水の流れる音が聞こえた。
浴場の排水口が、一斉に開いたような音だった。
私は、息を呑んだ。
夢にしては、足の裏に伝わる冷たさが、あまりに生々しかった。
「次の水槽は、かおあわせ、ですぅ」
水槽の前の床には、濡れた足跡の輪が、すでにいくつも重なっていた。
髪の長い女が、前に出た。
その水槽のガラスは、鏡のように、黒かった。
女が覗き込むと、ガラスに映った顔が、にこりと笑った。
女は、笑っていなかった。
映っている顔だけが、笑っていた。
女は、ゆっくりと、ガラスに額をつけた。
ガラスは、水ではなく、冷たい皮膚のように、ぬめっていた。
次の瞬間、女の体が、ガラスの前から、いなくなった。
床に、濡れた足跡だけが、二歩分、残っていた。
雨合羽の人影は、その足跡を、雑巾で丁寧に拭き取った。
拭き終えた雑巾を、人影は、手すりの下のバケツで絞った。
絞られた水は、薄く青い色をしていた。
私は、気づいた。
雨合羽の人影は、どれも同じ背丈で、同じ歩幅で歩いていた。
一人の人間を、何人にも見せているようだった。
私のなかで、何かが、ぷつりと切れた。
これは、ただの夢ではない。
そんな予感が、遅れて、足元から這い上がってきた。
それでも、列から離れる気には、なれなかった。
離れたら、ひとりだけ、取り残される気がしたのだ。
「次の水槽は、おいてけ、ですぅ」
老婆が、買い物袋を、床に置いた。
袋のなかで、ごとり、と音がした。
老婆は、ガラスの前に立ち、背筋を伸ばした。
天井の照明に照らされて、老婆の足元に、長い影が落ちた。
その影が、すうっと、床から浮き上がった。
薄い布を引きはがすように、影だけが、老婆から離れていった。
老婆は、それでも、動かなかった。
「影がなくなると、肩が軽くなるのよ」
老婆は、誰にともなく、そう言った。
その声は、びっくりするほど、穏やかだった。
影が、水槽の奥へ吸い込まれたあと、老婆は、ゆっくりとしゃがんで、買い物袋を抱え直した。
そして、そのまま、扉の向こうへ連れていかれた。
列に残ったのは、制服の少女と、私だけになった。
少女の傘が、手の中でかたかたと震えていた。
彼女は、その震えを押さえつけるように、握りしめていた。
覚められない夢
もう、潮時だと思った。
これ以上は、とても付き合いきれない。
私は、目を覚ますために、意識を集中させた。
いつもなら、それですぐに、まぶたが開くはずだった。
だが、いくら念じても、視界は、青いままだった。
頬をつねった。痛みは、遠くのほうで鳴っているようだった。
息を止めてみた。苦しくならなかった。
壁の時計を見た。秒針は、二十一時四十七分のあたりで、震えていた。
覚めない。
背中に、冷たい汗が、一気に噴き出した。
「次の水槽は、ひとやすみ、ですぅ」
少女が、小さく息を吸った。
彼女は、通路のベンチに、自分から腰を下ろした。
そして、私のほうを見て、唇だけを動かした。
「ごめんね」
そう、読めた。
少女は、目を閉じ、体をゆっくりと横に倒した。
雨合羽の人影が、毛布のようなものを、そっとかけた。
そのまま、ベンチごと、少女を押して、闇のなかへ消えていった。
誰もいなくなった通路に、私ひとりが、立っていた。
ポンプの音が、止んでいた。
遠くで、誰かが傘立ての傘を一本ずつ数えるような音がした。
水槽の渦も、止まっていた。
水槽の渦が止まると、ガラスに、私の顔だけが映った。
その顔は、泣き出しそうに歪んでいたのに、口元だけが、うすく笑っていた。
静けさのなかで、私は、自分の呼吸が、やけに大きいことに気づいた。
スピーカーが、かすかに、ざらついた。
「お客さま」
あの平坦な声が、初めて、私にだけ話しかけた。
「順番は、お守りくださいぅ」
声の端に、笑いが混じっていた。
私は、出口の矢印を探して、走った。
青い案内灯は、どれも、同じ方向を指していた。
指された先には、必ず、水槽があった。
非常口の緑のランプを見つけて、扉に体当たりした。
扉は、押しても引いても、びくともしなかった。
ノブの向こうから、こつ、こつと、内側を叩く音が返ってきた。
誰かが向こう側で、同じように出口を探している。
その誰かが、さっきまでの五人だとは、思いたくなかった。
どの水槽も、さっきまでと違って、濁りが消えていた。
澄んだ水の底に、人の形をした、白いものが、ずらりと並んでいた。
その列の端に、一つだけ、空いた場所があった。
ちょうど、私の背丈の、空きだった。
足首に、ひやりとした感触が走った。
見下ろすと、小さな手が、私のくるぶしをつかんでいた。
雨合羽の、袖口から出た、白くてふやけた指だった。
冷たかった。
引かれるたびに、床の水が、足首まで上がってきた。
「次は」
スピーカーが、間を置いた。
その一瞬が、永遠のように長かった。
「次は、おかえり、ですぅ」
おかえり。
その言葉が、なぜか、いちばん恐ろしかった。
ここに、私の場所が、もう用意されている。
そう言われた気がした。
私は、ありったけの力で、叫んだ。
叫びながら、自分の舌を、思い切り噛んだ。
鉄の味が、口いっぱいに広がった。
痛みが、頭の奥で、白く弾けた。
その痛みを頼りに、私は、意識を現実へ、手繰り寄せた。
足首をつかむ指が、一瞬、緩んだ気がした。
ぷつり、と何かが切れる音がした。
そして、目が覚めた。
傘立ての穴は六つ
自分の部屋の、自分の布団の上だった。
全身が、汗でぐっしょりと濡れていた。
舌の先が、ひどく痛んだ。
洗面所で口をゆすぐと、水が薄いピンク色に染まった。
寝ているあいだに、本当に噛んでいたらしい。
震える手で、足元の布団をめくった。
左のくるぶしに、青白い指の跡が、四本、ついていた。
触れると、湿っていて、かすかに、潮の匂いがした。
跡は、三日かけて、少しずつ薄れていった。
その間、風呂場の排水口が、気になって仕方なかった。
髪の毛ではない、細い糸のようなものが、いつも少しだけ、詰まっていた。
その間、私は、夜が来るのが怖くて、まともに眠れなかった。
幸い、同じ夢は、二度と見なかった。
だから、ただの悪夢だったのだと、思い込もうとした。
けれど、シーツの隅から、小さな鱗が、一枚だけ見つかった。
銀色の、爪ほどの鱗だった。
私は、それを、ティッシュに包んで、捨てた。
捨ててから、手を何度も洗った。
洗っても洗っても、指先から、潮の匂いが抜けなかった。
それから、十年が過ぎた。
十年のあいだに、私は結婚して、娘ができた。
娘に水族館へ行きたいとせがまれるたび、私は何かと理由をつけて断ってきた。
妻には、魚が苦手なのだと説明していた。
本当の理由は、一度も話していない。
ある晩、妻が、私の足首に触れて言った。
「ここ、いつも冷たいね」
「冷え性なんだ」
私はそう答えて、靴下を二枚重ねた。
夢のことは、いつしか忘れかけていた。
先月、出張の帰りに、海沿いの町を通った。
乗り換えの待ち時間が一時間あって、駅前を歩いた。
魚屋の店先で、ホースの水が、アスファルトを流れていた。
車窓から、古い水族館の建物が見えた。
夢のなかで見たのと、よく似た外壁だった。
「年内で閉館します」という、色あせた看板が、フェンスに掛かっていた。
駅前の喫茶店に入り、主人に、あの水族館のことを尋ねた。
「ああ、あそこね。先月、館内の点検をしたら、傘立てに傘が残っててね」
「何本ですか」
「さあ。数えたくなかった、って職員さんが」
主人は、カップを拭きながら、首をかしげた。
「それがね、傘立ての穴は、いつ見ても、ひとつだけ空いてるんだよ」
私は、降りるつもりのなかった駅で、降りた。
入口の自動ドアは、半分だけ、開いていた。
隙間から、傘立てが見えた。
傘立ての穴は、六つ。
差してあるのは、古びた傘が、五本。
そのうち一本は、制服の少女が持つような、小さな青い傘だった。
ガラス越しに、館内の暗がりが、のぞいていた。
そのとき、天井のスピーカーが、ざらり、と鳴った。
背後で、自動ドアが、ゆっくり閉まる音がした。
「お待ちしておりましたぅ」
あの平坦な声が、はっきりと、そう言った。
私は、振り返らずに、その場を立ち去った。
帰りの電車で、私は、左の足首を、何度も確かめた。
何もなかった。
何もないことが、かえって怖かった。
家に着くと、娘が、玄関で待っていた。
「パパ、これ、おみやげ?」
私の鞄の外ポケットから、濡れた小さな貝殻が、のぞいていた。
私は、そんなものを拾った覚えは、なかった。
夜、似た話がないかと、ネットで調べた。
『有刺鉄線の向こう側にあった竹林』も、『時を隔てた憑依と霧の中の馬』も、似た匂いがした。
どちらにも、戻ってこられなかった側の気配が、ある。
空いている六つ目の穴に、誰の傘が差さるのかを、考えないようにして。