
木の箱から声がする家
鹿児島の大隅で育ちました。
茶の畑ばかりの、二十軒ほどの集落です。
昭和五十年代の話になります。
当時、どの家の柱にも、木の箱がついていました。
有線放送のスピーカーです。
役場や農協の連絡が、朝と夕方に流れてくる。
受話器がついていて、集落内なら電話としても使えました。
いまで言えば、家じゅうに置かれた放送設備のようなものです。
うちの箱は、囲炉裏のある部屋の、鴨居の上にありました。
茶色く塗った杉の箱で、正面に丸い穴が開いていました。
朝六時に、「おはようございます」で始まります。
霜の注意報や、集荷の時間や、寄り合いの日取り。
夕方五時には、子ども向けの短い番組がありました。
十分ほどの、おはなしの時間です。
おじさんの声が、話を読んで、最後に問いかけをする。
答えは翌日にわかる、という作りでした。
五歳だった私は、それを毎日聞いていました。
※
返事をしてはいけん
祖母は、その放送に厳しい人でした。
流れているあいだは、家の中で騒いではいけない。
それだけならよくある話です。
祖母の言い方は、少し違いました。
「放送に返事をしてはいけん」
そう言われました。
何度か言われた記憶があります。
聞くのはいい。
けれど、こちらから声を出してはいけない。
理由は教えてくれませんでした。
もうひとつ、決まりがありました。
箱は、家を建て替えても外さない。
集落には、その頃すでに建て替えた家が三軒ありました。
どの家も、新しい柱に古い箱をつけ直していました。
塗りの剥げた箱が、真新しい杉の柱についている。
子ども心にも、変な眺めでした。
「外した家は、次の放送が入らんようになる」
祖母はそう言っていました。
入らなくなったら困るのか、と訊いたことがあります。
祖母は、こう答えました。
「入らんのは、こっちの都合やなか」
※
そうか、わからんか
その日のことは、はっきり覚えています。
夕方の、おはなしの時間でした。
障子の向こうが、まだ少し明るかった。
台所では、母が芋を洗う音がしていました。
話の中身は覚えていません。
覚えているのは、最後の問いかけです。
「どう。わかったかな」
おじさんの声が、そう言いました。
私は箱の下に立っていました。
そして、口に出しました。
「わからん」
言ってしまってから、祖母の言葉を思い出しました。
放送に返事をしてはいけん。
けれど、もう遅かった。
スピーカーから、声が返ってきました。
「そうか。わからんか」
それだけでした。
そのあとが、続きませんでした。
放送は、いつも軽い音楽で終わります。
その日は、音楽が鳴りませんでした。
かわりに、無音が続きました。
切れたのではありません。
箱は、通電しているときだけ、ごく低い唸りを出します。
その唸りは、ずっと続いていました。
つまり、繋がったまま、黙っていたのです。
※
三十秒
どのくらい黙っていたのか、正確には分かりません。
子どもの感覚では、ずいぶん長いあいだでした。
いまなら三十秒ほどだったろうと思います。
私はその間、箱から目を離せませんでした。
丸い穴の奥が、暗いのです。
覗いているつもりが、覗かれているような気がしました。
箱は鴨居の上にあります。
見上げる形になります。
五歳の背では、ちょうど顔の高さに、その穴があるように見えました。
怖くなって、台所へ走りました。
母のエプロンにしがみつきました。
母は芋を持ったまま、どうしたのかと訊きました。
説明できませんでした。
言葉が出てこないのです。
震えているのが自分でも分かりました。
母は手を拭いて、私を抱きました。
そのとき、部屋のほうで、ぷつ、と音がしました。
放送が切れた音でした。
※
番組表にない時間
翌日から、夕方の放送が変わりました。
おはなしの時間が、なくなったのです。
正確に言うと、番組の予定表に載らなくなりました。
有線放送は、月に一度、紙の予定表が配られます。
わら半紙に、時間と内容が刷ってあるものです。
その月の分にも、翌月の分にも、おはなしの時間はありませんでした。
私は母に訊きました。
母は予定表を見て、首をかしげました。
「もともと無かったんじゃない」
そんなはずはありません。
私は毎日聞いていました。
けれど五歳の記憶です。
大人に言われれば、そうかもしれないと思ってしまう。
その話は、そこで終わりました。
ただ、夕方五時になると、箱の唸りだけが少し大きくなりました。
何も流れていないのに、繋がっている音です。
それは、私が中学に上がるまで続きました。
※
箱だけが温かい
次に気づいたのは、冬でした。
大隅でも、山手は霜が降ります。
家の中は寒く、鴨居のあたりは特に冷えます。
その冬、私は椅子を持ってきて、箱に手を当ててみました。
温かかったのです。
熱いのではありません。
人の手を握ったときくらいの温度でした。
箱の中には、コイルとスピーカーが入っているだけです。
放送していないときに温まる理由がありません。
私は毎日、手を当てました。
いつ触っても、同じ温度でした。
夏も触りました。
夏は、部屋のほうが暑いので、箱は冷たく感じました。
つまり、箱の温度は変わっていないのです。
一年中、人の手の温度でした。
祖母にそれを言うと、初めて怒られました。
「触るな」
それしか言いませんでした。
※
覚えている子がいない
小学校に上がってから、同級生に訊いてまわりました。
夕方のおはなしの時間を覚えているか、という質問です。
集落から通っていたのは、六人でした。
五人が、そんな番組は知らないと言いました。
一人だけ、知っていると答えました。
川向こうの、恵子ちゃんという子です。
恵子ちゃんは、こう言いました。
「あれ、うちは聞いたらいけんて言われとる」
聞いてはいけない。
うちは、返事をしてはいけないでした。
同じ集落で、家によって決まりが違うのです。
私はそれが不思議で、恵子ちゃんに理由を訊きました。
恵子ちゃんは知りませんでした。
ただ、こう付け足しました。
「うちのばあちゃん、箱の下で寝るんよ」
鴨居の真下に、布団を敷いて寝る。
そういう習慣の家だったそうです。
恵子ちゃんの家は、中学のときに町へ出ました。
引っ越すとき、箱は外さなかったと聞きました。
空き家の柱に、いまもついているはずです。
※
もう一度、言ってみた夜
中学二年の冬に、一度だけ試しました。
怖さより、確かめたい気持ちが勝ったのだと思います。
夕方五時、私は鴨居の下に立ちました。
何も流れていません。
唸りだけが、少し大きくなっていました。
私は箱に向かって言いました。
「わからん」
五歳のときと、同じ言葉です。
返事はありませんでした。
かわりに、唸りが止まりました。
完全な無音になったのです。
それまで、箱が完全に黙ったことは一度もありませんでした。
私は息を止めて、待ちました。
一分ほどで、唸りが戻りました。
戻ったとき、音が少しだけ高くなっていました。
その晩、祖母が私の部屋に来ました。
祖母は何も訊きませんでした。
ただ、こう言いました。
「同じことは、二回言うたらいけん」
私が何をしたか、祖母は知っていました。
どうして分かったのかは、訊けませんでした。
※
台所の音が返ってくる
小学四年のときです。
夕方、放送の終わりぎわに、妙なものが聞こえました。
いつもの終わりの音楽が鳴って、切れる直前。
一秒ほど、別の音が混じったのです。
水の音でした。
鍋に水を入れる音です。
そのとき、台所では母が鍋に水を入れていました。
同じ音が、箱から返ってきていました。
わずかに遅れて、です。
私は台所へ行って、母に「いま水入れた」と言いました。
母は入れた、と答えました。
そして、それ以上は取り合いませんでした。
私はその日から、放送の終わりぎわに耳を澄ますようになりました。
毎日ではありません。
月に一度か二度、返ってきました。
返ってくるのは、いつもうちの台所の音でした。
包丁の音。
薬缶の蓋の音。
誰かの咳。
向こうが、こちらを聞いているのだと分かりました。
※
呼びかけ試験
有線放送が廃止になったのは、平成八年です。
電話が各戸に入って、役目が終わりました。
その年、私は大学生で、盆に帰省していました。
集落の集会所で、機材の撤去の説明会がありました。
役場の人が、書類を配っていました。
私は暇だったので、それを読みました。
加入者の一覧と、年ごとの保守記録です。
うちの番号の欄に、毎年一行だけ、同じ記載がありました。
「呼びかけ試験、実施」
他の家の欄には、その記載がありません。
うちだけです。
記録は昭和二十八年から始まっていました。
私が生まれるより、ずっと前からです。
役場の人に訊きました。
その人は若く、意味が分からないようでした。
「引き継ぎで、そう書くことになっとるだけです」
何を試験しているのか、誰も知りませんでした。
※
元技師の話
説明会のあと、機材の整備をしていた古い技師の人と話しました。
七十を過ぎた、痩せた人でした。
私が呼びかけ試験のことを訊くと、少し笑いました。
「あれはな、線の生きとるか見るだけよ」
それなら全戸でやるはずです。
そう言うと、その人は黙りました。
それから、こう続けました。
「あんたんとこの線はな、途中で一本、余っとった」
配線図に載っていない線が、うちの分だけ一本多かったのだそうです。
どこから来ているのか、辿れなかった。
親局の側から数えると、加入者の数と合わない。
集落の側から数えると、合う。
つまり、途中で一本増えている。
「増えたぶんは、どこに繋がっとるんです」
その人は、道具箱の蓋を閉めながら答えました。
「繋がっとるほうを探しても、しょうがなか」
「切っても、翌年また増えとったけん」
私はその意味を確かめようとしましたが、その人は帰ってしまいました。
※
回収されなかった箱
撤去の日、集落じゅうの箱が外されました。
軽トラの荷台に、茶色い箱が積み上げられていくのを見ました。
うちの箱も外されました。
私はそのとき、外に出ていました。
戻ってきたら、鴨居の上に四角い跡だけが残っていました。
その秋、母から電話がありました。
回収の書類に、判が足りないと役場から言われたそうです。
集落の全戸に、回収済みの判が並んでいる。
うちの欄だけ、空白でした。
外したところは、私も見ています。
荷台に積まれたのも見ました。
役場は、たぶん判を押し忘れたのだろうと言いました。
母もそう思ったようです。
私だけが、そうは思えませんでした。
※
壁の中の唸り
実家を建て替えたのは、五年前です。
父が亡くなって、母が一人になったので、小さく建て直しました。
解体のとき、私は立ち会いました。
古い柱を倒したところで、大工さんが手を止めました。
鴨居の上の壁の中から、箱が出てきたのです。
茶色く塗った、杉の箱でした。
配線は繋がっていませんでした。
切られた線が、二本、垂れているだけです。
大工さんが、それを私に渡しました。
受け取ると、温かかった。
人の手を握ったときくらいの温度でした。
その日は十二月で、外は霜が降りていました。
私は箱を抱えて、しばらく立っていました。
大工さんが、不思議そうにこちらを見ていました。
耳を近づけると、低い唸りがしていました。
線は切れているのに、です。
※
まだ答えていない
箱は、いまも私の家にあります。
東京の、集合住宅の押し入れの奥です。
捨てられませんでした。
外した家は、次の放送が入らんようになる。
祖母のあの言葉が、いまも引っかかっているからです。
入らなくなったら困るのは、こちらではない。
向こうが困る、という意味だったのだと思います。
何年か前、祖母のことを叔母から聞きました。
祖母も子どもの頃、一度だけ放送に返事をしたそうです。
昭和二十年代の話です。
何と答えたのかは、誰も知りません。
うちの欄の「呼びかけ試験」が昭和二十八年から始まっているのは、たぶんそのためです。
あのとき私は、「わからん」と答えました。
それを、返事だと思っていました。
いまは、違うと分かります。
わからんというのは、答えではありません。
答えられないという申告です。
だから向こうは、まだ待っているのです。
返事をした者を、放送は、ずっと待つ。
私はまだ、あの問いに答えていません。
何を訊かれたのかさえ、覚えていないのに。
三年前、押し入れを整理していて、箱の裏を初めて見ました。
焼き印が押してありました。
加入者の番号だと思っていました。
番号のほかに、小さく文字が入っていました。
「返」
一文字だけです。
集落の空き家を回って、他の箱の裏も見せてもらいました。
恵子ちゃんの家の箱にも、同じ位置に文字がありました。
そちらは「聞」でした。
三軒目の箱には、何も入っていませんでした。
四軒目にも、ありませんでした。
文字が入っていたのは、二軒だけです。
うちと、恵子ちゃんの家。
役割が割り振られていたのだと思います。
聞く家と、返す家。
恵子ちゃんの家は、聞くことを禁じられていました。
うちは、返すことを禁じられていました。
禁じられていた、というより、割り当てられていた。
そして私は、割り当てを一度だけ果たしてしまった。
押し入れの奥で、いまも低い唸りがしています。
夕方の五時になると、少しだけ大きくなります。
東京には、有線放送などありません。
線も、とうに切れています。
それでも、五時です。
鹿児島の五時ではなく、こちらの五時に合わせて大きくなる。
向こうは、私の居場所を分かっているのだと思います。
答えを用意しようとしたことは、何度もあります。
けれど、何を訊かれたのかが分からない。
あの日のおはなしの中身を、私は覚えていません。
覚えていないまま、答えなければならない。
それがいちばん、怖いことです。
※
この話を書き留めたあとで
この土地の話には、外してはいけない物と、答えてはいけない声がよく出てきます。
名前を返せなくなった場所の話として蚕の町で毎年同じ手が縫う札を、こちらの声だけが向こうに届いてしまう話として無音のテープに入った返事を、あわせて置いておきます。
どちらも、待たれている側の話です。