止まった十秒

止まった十秒

これは、私が高校二年の、ある昼下がりに体験した話です。

二十年が過ぎたいまでも、あの十秒間だけは、忘れられません。

あれ以来、私は「同じ世界に戻れた」という確信を、持てずにいます。

※

私の通っていた高校は、丘の上にある、古い鉄筋の校舎でした。

昭和の頃に建てられたという、四階建ての校舎です。

雨の日には、コンクリートの廊下に、独特の冷たい匂いが立ちこめました。

渡り廊下の継ぎ目は、歩くたびに、かすかに軋みました。

四階の音楽室は、放課後になると、誰もいなくなりました。

夕方、その前を通ると、なぜか、いつも、ひやりとした風が流れていました。

古い校舎には、そういう、説明のつかない場所が、いくつもありました。

中庭の楠も、樹齢百年を超えると、聞いていました。

その日は、よく晴れた、五月の昼休みでした。

私は、いつものように、中庭のベンチにいました。

中庭には、大きな楠が一本、立っていました。

風が吹くと、葉ずれの音が、さらさらと降ってきました。

私のそばには、いつもの三人組がいました。

中学からの親友、健司と、隆。

それに、私を入れた三人で、私たちはいつも一緒でした。

健司とは、小学校の登校班から、ずっと一緒でした。

隆とは、中学のサッカー部で、出会いました。

三人で、夏には川へ行き、冬には初詣に出かけました。

去年の文化祭では、徹夜で、お化け屋敷を作りました。

段ボールを切り、黒い布を張り、本気で作り込みました。

「一生、つるもうぜ」

そう言い合ったのは、ほんの、数ヶ月前のことです。

私にとって二人は、家族のような存在でした。

だからこそ、このあと起きたことが、どうしても、信じられなかったのです。

「今日の昼、購買のパン、売り切れだったよ」

隆が、口をとがらせて言いました。

「お前が遅いからだろ」

健司が、笑いながら返します。

ありふれた、なんでもない、昼休みでした。

そのときまでは。

※

それは、前ぶれもなく、起こりました。

楠の葉が、風に揺れている。

その葉が、ぴたりと、止まったのです。

揺れている途中の形のまま、空中で、固まっていました。

慣性を無視して、ぴたりと静止する。

そんな止まり方でした。

隆の口も、半分開いたまま、動きを止めていました。

健司の笑った顔も、その表情のまま、凍りついていました。

最初、私は、自分が瞬きをしたのだと思いました。

けれど、違いました。

世界そのものが、一枚の写真のように、止まっていたのです。

おかしなことに、音が、消えていました。

あれほど降っていた葉ずれの音も。

遠くの部活の声も。

何ひとつ、聞こえません。

それだけではありませんでした。

頬をなでていたはずの、風の感触が、ない。

ベンチの硬さも、感じない。

五月の日差しの、あの暖かさすら、消えていました。

視覚だけが、残っていました。

目の前の景色だけが、くっきりと、見えていました。

楠の葉の、一枚一枚の輪郭まで。

隆の制服の、ボタンの光まで。

それなのに、世界は、完全な、無音でした。

耳が詰まったような感覚すら、ありませんでした。

そもそも、耳という器官が、消えてしまったかのようでした。

匂いも、なくなっていました。

五月の中庭には、いつも、青い草の匂いがしていました。

その匂いが、すっかり、抜け落ちていました。

自分の心臓の音さえ、聞こえません。

私は、世界から、ぽつんと、切り離されていました。

ほかのすべての感覚が、ごっそりと、抜け落ちていたのです。

私は、止まった世界の中に、ただ一人、取り残されていました。

※

「……止まってる」

そう、頭の中で、なんとか思いました。

声に出したつもりでしたが、自分の声も、聞こえませんでした。

私は、叫ぼうと、しました。

けれど、声は、出ませんでした。

口を開けても、空気が、震えないのです。

動こうとしても、体は、私の意のままに、なりませんでした。

ただ、目だけが、止まった世界を、見つめていました。

どれくらいの時間が、経ったでしょう。

体感では、十秒ほど。

けれど、それが本当に十秒だったのか、私にはわかりません。

止まった世界には、時間という感覚が、なかったからです。

私は、動けないまま、ただ、止まった親友たちの顔を、見ていました。

健司の笑顔。

隆の、とがった口。

楠の、固まった葉。

すべてが、息を呑んだように、静止していました。

そして、唐突に。

ズン、と、世界が、動き出しました。

※

戻ってきたとき、私は、何の違和感もなく、ベンチに座っていました。

葉ずれの音も、風の感触も、日差しの暖かさも、すべて戻っていました。

めまいも、吐き気も、ありませんでした。

まるで、何ごともなかったかのようでした。

私は、ほっと、息をつきました。

私は、自分の手のひらを、じっと見ました。

震えても、いませんでした。

脈拍も、いたって、正常でした。

体は、何も、覚えていないようでした。

覚えているのは、私の、意識だけ。

夢でも見たのだろう、と。

そう、思おうとしました。

けれど、その日から、少しずつ、世界が、ずれ始めたのです。

※

その後、時間が完全に止まることは、二度と、ありませんでした。

ただ一度だけ、よく似た瞬間が、訪れました。

数日後の、夕暮れの廊下。

窓の外で、一羽の鳥が、空中で、ぴたりと止まって見えたのです。

心臓が、跳ねました。

けれど、それは、ほんの、まばたきの間でした。

鳥は、また、何ごともなく、飛び去りました。

あの感覚が、いつ、また訪れるのか。

私は、そのことが、怖くて、たまりませんでした。

※

最初に気づいたのは、放課後でした。

私は、いつものように、健司と隆に声をかけました。

「帰ろうぜ」

すると、二人は、けげんな顔で、私を見ました。

「え、なんで?」

健司が、よそよそしく、言いました。

「俺ら、そんな仲よかったっけ」

心臓が、冷たくなりました。

中学からの、三人の親友。

その関係が、まるで、なかったことになっていたのです。

二人にとって私は、ただの、同じクラスの一人。

そういう、距離感でした。

「何、言ってんだよ」

私は、笑ってごまかそうとしました。

けれど、二人の目は、本気で、戸惑っていました。

それからの数日、私は、何度も二人に、話しかけました。

昔の思い出を、ひとつずつ、確かめるように。

「去年の文化祭、一緒にお化け屋敷やったろ」

「は? 俺、お化け屋敷の係じゃなかったけど」

健司は、本気で、けげんそうでした。

「川に行ったの、覚えてないのか」

「お前と川? 行ってないと思うけど」

隆も、首をかしげるばかりでした。

嘘をついている様子は、まるで、ありませんでした。

二人の中から、私との思い出が、きれいに、消えていたのです。

私の知る健司と隆は、もう、どこにもいませんでした。

※

※

担任の先生の態度も、変わっていました。

私は、その先生に、よく叱られる生徒でした。

宿題を忘れ、居眠りをし、何度も注意されていました。

ところが、その日から、先生は、私を優等生のように扱いました。

「きみは、いつもまじめでいいね」

そう、褒められました。

身に覚えの、ないことでした。

私は、何ひとつ、変わっていないのに。

変わったのは、私を取り巻く、世界のほうでした。

おかしなことは、それだけでは、ありませんでした。

翌日、私が、いちばん仲の悪かったはずの男子が、親しげに、話しかけてきたのです。

「昨日のゲーム、続きやろうぜ」

ゲーム?

私は、そいつと、ゲームをした記憶など、ありませんでした。

それなのに、彼の中では、私たちは、仲のいい友達でした。

教室の、座席表も、変わっていました。

私の隣は、話したこともない、女子の席になっていました。

その子は、私を見て、当たり前のように、微笑みました。

「ねえ、この前の話の続き」

私には、その子と、何を話したのかも、わかりません。

※

時間割も、ひとつ、ずれていました。

水曜の三限は、数学だったはずなのに、英語になっていました。

私の鞄には、いつのまにか、買った覚えのない、英語の問題集が入っていました。

自分の体にも、知らないものが、ありました。

左手の甲に、小さな傷あとが、あったのです。

こんな傷を負った記憶は、まるで、ありません。

友人に聞くと、「去年、転んでできたやつだろ」と言われました。

私の知らない過去が、私の体に、刻まれていました。

鏡を見るのが、だんだん、怖くなりました。

そこに映る私は、本当に、私なのでしょうか。

ある日、見知らぬ男子が、親しげに、私の肩を叩きました。

「よお、相棒」

相棒、と呼ばれる覚えは、ありません。

けれど彼の中では、私たちは、無二の親友でした。

私は、戸惑いながら、話を合わせました。

誰かの記憶の中の『私』を、演じているようでした。

本当の私は、どんどん、居場所を、なくしていきました。

※

私は、だんだん、怖くなりました。

※

ある晩、私は、思いきって、母に聞いてみました。

「健司って、覚えてる? 俺の、いちばんの親友」

母は、しばらく考えて、首をかしげました。

「健司くん? そんな子、いたかしら」

「小学校から、ずっと一緒だっただろ」

「あなた、小さい頃は、一人で遊ぶことが多かったじゃない」

私は、言葉を失いました。

母の記憶の中にすら、健司は、存在していませんでした。

この世界で、健司を覚えているのは、私、ただ一人だったのです。

あの十秒のあいだに、何かが、入れ替わったのではないか。

止まった世界から戻ったとき、私は、ほんの少しだけ、違う世界に、降り立ったのではないか。

そう、思えてならなかったのです。

※

私は、こっそり、世界を、試すようになりました。

流行っている歌を、口ずさんでみる。

すると、サビの歌詞が、私の記憶と、微妙に違っていました。

昨日見たはずのテレビ番組の話をすると、誰も知りませんでした。

逆に、みんなが知っている話題を、私だけが、知らないのです。

ほんの少しずつ、世界の細部が、ずれていました。

大きな違いなら、まだ、よかったのかもしれません。

気づかないほど、わずかなズレが、いちばん、恐ろしいのです。

私は、押し入れから、古いアルバムを引っ張り出しました。

中学の、修学旅行の、集合写真。

そこに、健司も、隆も、写っていませんでした。

いえ、正確には、別の誰かが、私の隣に立っていました。

名前も知らない、見覚えのない、男子でした。

私の記憶では、そこに、健司がいたはずなのに。

写真の中の私は、知らない友達に囲まれて、笑っていました。

その、自分の笑顔が、いちばん、怖かったのです。

指先が、震えて、アルバムを閉じました。

証拠を、探しました。

けれど、何も、見つかりませんでした。

日記を見ても、写真を見ても、すべては、新しい関係のままに、整っていました。

まるで、最初から、そうだったかのように。

ずれていたのは、私の記憶だけ。

そう言われれば、否定できる材料が、ひとつもないのです。

※

あれから、二十年が経ちました。

私はいま、ごく普通の、会社員として暮らしています。

健司とも、隆とも、卒業以来、一度も、会っていません。

あの三人で過ごした日々を、覚えているのは、この世で、私ひとりだけです。

ときどき、考えます。

私が戻ってきた世界は、本当に、元の世界だったのでしょうか。

それとも、私は、あの十秒のあいだに、どこか別の場所へ、置き去りにされたのでしょうか。

一度だけ、勇気を出して、隆に打ち明けました。

「実は、時間が止まったあと、世界が変わった気がするんだ」

隆は、しばらく黙って、それから、こう言いました。

「お前、疲れてるんじゃないか」

「一度、病院に行ったほうが、いいかもよ」

心配する、目でした。

それ以上は、何も、言えませんでした。

信じてもらえないことが、いちばん、こたえました。

※

週が変わるごとに、私は、孤独になっていきました。

誰も、私の知る『昔』を、共有してくれません。

私の十六年間が、私の中にしか、存在しない。

そんな感覚でした。

クラスメートと話していても、足元が、ぐらぐらしました。

この人たちは、本当に、私の知っている人たちなのか。

それとも、よく似た、別の誰かなのか。

夜、布団の中で、私は、よく考えます。

あの十秒のあいだに、二つの世界が、入れ替わったのだとしたら。

では、元の世界にいた私は、いったい、どこへ行ったのでしょう。

健司と隆と、笑い合っていた、もう一人の私は。

もしかすると、向こうの世界でも、誰かが、私のことを、忘れているのかもしれません。

そう思うと、いつも、背筋が、冷たくなります。

止まった楠の葉を、私は、いまでも、夢に見ます。

あの葉が、ふたたび、揺れ始める瞬間を。

卒業してからも、私は、何度か、あの高校を訪ねました。

中庭の楠は、いまも、同じ場所に、立っています。

その下のベンチに座ると、あの日の感覚が、よみがえります。

無音の世界。止まった、葉。

時間が止まる、というのは、よく聞く話です。

けれど、本当に怖いのは、止まったことではありません。

また動き出したとき、何かが、すり替わっていることです。

そして、すり替わったことに、自分以外、誰も、気づかないことです。

私はいまも、ときどき、確かめます。

家族の顔を。友人の名前を。昨日の記憶を。

ひとつでも、ずれていないかと。

あれから、私は、誰とも、深く関わらなくなりました。

親しくなった人が、ある日、私を忘れてしまうかもしれない。

そう思うと、どうしても、踏み込めないのです。

私の世界には、いつも、薄い膜が、一枚、かかっています。

その膜の向こうに、本当の世界が、あるような気がして。

手を伸ばしても、決して、届きません。

そして、ふと、思うのです。

元の私は、まだあの十秒の中にいて。

いまここにいる私だけが、別の世界へ、こぼれ落ちてしまった。

そんな気が、どうしても、ぬぐえないのです。

もしかすると、本当の私は、まだあの中庭で、止まったまま、なのかもしれない、と。

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