止まった十秒

これは、私が高校二年の、ある昼下がりに体験した話です。

二十年が過ぎたいまでも、あの十秒間だけは、忘れられません。

あれ以来、私は「同じ世界に戻れた」という確信を、持てずにいます。

私の通っていた高校は、丘の上にある、古い鉄筋の校舎でした。

昭和の頃に建てられたという、四階建ての校舎です。

雨の日には、コンクリートの廊下に、独特の冷たい匂いが立ちこめました。

渡り廊下の継ぎ目は、歩くたびに、かすかに軋みました。

四階の音楽室は、放課後になると、誰もいなくなりました。

夕方、その前を通ると、なぜか、いつも、ひやりとした風が流れていました。

古い校舎には、そういう、説明のつかない場所が、いくつもありました。

中庭の楠も、樹齢百年を超えると、聞いていました。

その日は、よく晴れた、五月の昼休みでした。

私は、いつものように、中庭のベンチにいました。

中庭には、大きな楠が一本、立っていました。

風が吹くと、葉ずれの音が、さらさらと降ってきました。

私のそばには、いつもの三人組がいました。

中学からの親友、健司と、隆。

それに、私を入れた三人で、私たちはいつも一緒でした。

健司とは、小学校の登校班から、ずっと一緒でした。

隆とは、中学のサッカー部で、出会いました。

三人で、夏には川へ行き、冬には初詣に出かけました。

去年の文化祭では、徹夜で、お化け屋敷を作りました。

段ボールを切り、黒い布を張り、本気で作り込みました。

「一生、つるもうぜ」

そう言い合ったのは、ほんの、数ヶ月前のことです。

私にとって二人は、家族のような存在でした。

だからこそ、このあと起きたことが、どうしても、信じられなかったのです。

「今日の昼、購買のパン、売り切れだったよ」

隆が、口をとがらせて言いました。

「お前が遅いからだろ」

健司が、笑いながら返します。

ありふれた、なんでもない、昼休みでした。

そのときまでは。

それは、前ぶれもなく、起こりました。

楠の葉が、風に揺れている。

その葉が、ぴたりと、止まったのです。

揺れている途中の形のまま、空中で、固まっていました。

慣性を無視して、ぴたりと静止する。

そんな止まり方でした。

隆の口も、半分開いたまま、動きを止めていました。

健司の笑った顔も、その表情のまま、凍りついていました。

最初、私は、自分が瞬きをしたのだと思いました。

けれど、違いました。

世界そのものが、一枚の写真のように、止まっていたのです。

おかしなことに、音が、消えていました。

あれほど降っていた葉ずれの音も。

遠くの部活の声も。

何ひとつ、聞こえません。

それだけではありませんでした。

頬をなでていたはずの、風の感触が、ない。

ベンチの硬さも、感じない。

五月の日差しの、あの暖かさすら、消えていました。

視覚だけが、残っていました。

目の前の景色だけが、くっきりと、見えていました。

楠の葉の、一枚一枚の輪郭まで。

隆の制服の、ボタンの光まで。

それなのに、世界は、完全な、無音でした。

耳が詰まったような感覚すら、ありませんでした。

そもそも、耳という器官が、消えてしまったかのようでした。

匂いも、なくなっていました。

五月の中庭には、いつも、青い草の匂いがしていました。

その匂いが、すっかり、抜け落ちていました。

自分の心臓の音さえ、聞こえません。

私は、世界から、ぽつんと、切り離されていました。

ほかのすべての感覚が、ごっそりと、抜け落ちていたのです。

私は、止まった世界の中に、ただ一人、取り残されていました。

「……止まってる」

そう、頭の中で、なんとか思いました。

声に出したつもりでしたが、自分の声も、聞こえませんでした。

私は、叫ぼうと、しました。

けれど、声は、出ませんでした。

口を開けても、空気が、震えないのです。

動こうとしても、体は、私の意のままに、なりませんでした。

ただ、目だけが、止まった世界を、見つめていました。

どれくらいの時間が、経ったでしょう。

体感では、十秒ほど。

けれど、それが本当に十秒だったのか、私にはわかりません。

止まった世界には、時間という感覚が、なかったからです。

私は、動けないまま、ただ、止まった親友たちの顔を、見ていました。

健司の笑顔。

隆の、とがった口。

楠の、固まった葉。

すべてが、息を呑んだように、静止していました。

そして、唐突に。

ズン、と、世界が、動き出しました。

戻ってきたとき、私は、何の違和感もなく、ベンチに座っていました。

葉ずれの音も、風の感触も、日差しの暖かさも、すべて戻っていました。

めまいも、吐き気も、ありませんでした。

まるで、何ごともなかったかのようでした。

私は、ほっと、息をつきました。

私は、自分の手のひらを、じっと見ました。

震えても、いませんでした。

脈拍も、いたって、正常でした。

体は、何も、覚えていないようでした。

覚えているのは、私の、意識だけ。

夢でも見たのだろう、と。

そう、思おうとしました。

けれど、その日から、少しずつ、世界が、ずれ始めたのです。

その後、時間が完全に止まることは、二度と、ありませんでした。

ただ一度だけ、よく似た瞬間が、訪れました。

数日後の、夕暮れの廊下。

窓の外で、一羽の鳥が、空中で、ぴたりと止まって見えたのです。

心臓が、跳ねました。

けれど、それは、ほんの、まばたきの間でした。

鳥は、また、何ごともなく、飛び去りました。

あの感覚が、いつ、また訪れるのか。

私は、そのことが、怖くて、たまりませんでした。

最初に気づいたのは、放課後でした。

私は、いつものように、健司と隆に声をかけました。

「帰ろうぜ」

すると、二人は、けげんな顔で、私を見ました。

「え、なんで?」

健司が、よそよそしく、言いました。

「俺ら、そんな仲よかったっけ」

心臓が、冷たくなりました。

中学からの、三人の親友。

その関係が、まるで、なかったことになっていたのです。

二人にとって私は、ただの、同じクラスの一人。

そういう、距離感でした。

「何、言ってんだよ」

私は、笑ってごまかそうとしました。

けれど、二人の目は、本気で、戸惑っていました。

それからの数日、私は、何度も二人に、話しかけました。

昔の思い出を、ひとつずつ、確かめるように。

「去年の文化祭、一緒にお化け屋敷やったろ」

「は? 俺、お化け屋敷の係じゃなかったけど」

健司は、本気で、けげんそうでした。

「川に行ったの、覚えてないのか」

「お前と川? 行ってないと思うけど」

隆も、首をかしげるばかりでした。

嘘をついている様子は、まるで、ありませんでした。

二人の中から、私との思い出が、きれいに、消えていたのです。

私の知る健司と隆は、もう、どこにもいませんでした。

担任の先生の態度も、変わっていました。

私は、その先生に、よく叱られる生徒でした。

宿題を忘れ、居眠りをし、何度も注意されていました。

ところが、その日から、先生は、私を優等生のように扱いました。

「きみは、いつもまじめでいいね」

そう、褒められました。

身に覚えの、ないことでした。

私は、何ひとつ、変わっていないのに。

変わったのは、私を取り巻く、世界のほうでした。

おかしなことは、それだけでは、ありませんでした。

翌日、私が、いちばん仲の悪かったはずの男子が、親しげに、話しかけてきたのです。

「昨日のゲーム、続きやろうぜ」

ゲーム?

私は、そいつと、ゲームをした記憶など、ありませんでした。

それなのに、彼の中では、私たちは、仲のいい友達でした。

教室の、座席表も、変わっていました。

私の隣は、話したこともない、女子の席になっていました。

その子は、私を見て、当たり前のように、微笑みました。

「ねえ、この前の話の続き」

私には、その子と、何を話したのかも、わかりません。

時間割も、ひとつ、ずれていました。

水曜の三限は、数学だったはずなのに、英語になっていました。

私の鞄には、いつのまにか、買った覚えのない、英語の問題集が入っていました。

自分の体にも、知らないものが、ありました。

左手の甲に、小さな傷あとが、あったのです。

こんな傷を負った記憶は、まるで、ありません。

友人に聞くと、「去年、転んでできたやつだろ」と言われました。

私の知らない過去が、私の体に、刻まれていました。

鏡を見るのが、だんだん、怖くなりました。

そこに映る私は、本当に、私なのでしょうか。

ある日、見知らぬ男子が、親しげに、私の肩を叩きました。

「よお、相棒」

相棒、と呼ばれる覚えは、ありません。

けれど彼の中では、私たちは、無二の親友でした。

私は、戸惑いながら、話を合わせました。

誰かの記憶の中の『私』を、演じているようでした。

本当の私は、どんどん、居場所を、なくしていきました。

私は、だんだん、怖くなりました。

ある晩、私は、思いきって、母に聞いてみました。

「健司って、覚えてる? 俺の、いちばんの親友」

母は、しばらく考えて、首をかしげました。

「健司くん? そんな子、いたかしら」

「小学校から、ずっと一緒だっただろ」

「あなた、小さい頃は、一人で遊ぶことが多かったじゃない」

私は、言葉を失いました。

母の記憶の中にすら、健司は、存在していませんでした。

この世界で、健司を覚えているのは、私、ただ一人だったのです。

あの十秒のあいだに、何かが、入れ替わったのではないか。

止まった世界から戻ったとき、私は、ほんの少しだけ、違う世界に、降り立ったのではないか。

そう、思えてならなかったのです。

私は、こっそり、世界を、試すようになりました。

流行っている歌を、口ずさんでみる。

すると、サビの歌詞が、私の記憶と、微妙に違っていました。

昨日見たはずのテレビ番組の話をすると、誰も知りませんでした。

逆に、みんなが知っている話題を、私だけが、知らないのです。

ほんの少しずつ、世界の細部が、ずれていました。

大きな違いなら、まだ、よかったのかもしれません。

気づかないほど、わずかなズレが、いちばん、恐ろしいのです。

私は、押し入れから、古いアルバムを引っ張り出しました。

中学の、修学旅行の、集合写真。

そこに、健司も、隆も、写っていませんでした。

いえ、正確には、別の誰かが、私の隣に立っていました。

名前も知らない、見覚えのない、男子でした。

私の記憶では、そこに、健司がいたはずなのに。

写真の中の私は、知らない友達に囲まれて、笑っていました。

その、自分の笑顔が、いちばん、怖かったのです。

指先が、震えて、アルバムを閉じました。

証拠を、探しました。

けれど、何も、見つかりませんでした。

日記を見ても、写真を見ても、すべては、新しい関係のままに、整っていました。

まるで、最初から、そうだったかのように。

ずれていたのは、私の記憶だけ。

そう言われれば、否定できる材料が、ひとつもないのです。

あれから、二十年が経ちました。

私はいま、ごく普通の、会社員として暮らしています。

健司とも、隆とも、卒業以来、一度も、会っていません。

あの三人で過ごした日々を、覚えているのは、この世で、私ひとりだけです。

ときどき、考えます。

私が戻ってきた世界は、本当に、元の世界だったのでしょうか。

それとも、私は、あの十秒のあいだに、どこか別の場所へ、置き去りにされたのでしょうか。

一度だけ、勇気を出して、隆に打ち明けました。

「実は、時間が止まったあと、世界が変わった気がするんだ」

隆は、しばらく黙って、それから、こう言いました。

「お前、疲れてるんじゃないか」

「一度、病院に行ったほうが、いいかもよ」

心配する、目でした。

それ以上は、何も、言えませんでした。

信じてもらえないことが、いちばん、こたえました。

週が変わるごとに、私は、孤独になっていきました。

誰も、私の知る『昔』を、共有してくれません。

私の十六年間が、私の中にしか、存在しない。

そんな感覚でした。

クラスメートと話していても、足元が、ぐらぐらしました。

この人たちは、本当に、私の知っている人たちなのか。

それとも、よく似た、別の誰かなのか。

夜、布団の中で、私は、よく考えます。

あの十秒のあいだに、二つの世界が、入れ替わったのだとしたら。

では、元の世界にいた私は、いったい、どこへ行ったのでしょう。

健司と隆と、笑い合っていた、もう一人の私は。

もしかすると、向こうの世界でも、誰かが、私のことを、忘れているのかもしれません。

そう思うと、いつも、背筋が、冷たくなります。

止まった楠の葉を、私は、いまでも、夢に見ます。

あの葉が、ふたたび、揺れ始める瞬間を。

卒業してからも、私は、何度か、あの高校を訪ねました。

中庭の楠は、いまも、同じ場所に、立っています。

その下のベンチに座ると、あの日の感覚が、よみがえります。

無音の世界。止まった、葉。

時間が止まる、というのは、よく聞く話です。

けれど、本当に怖いのは、止まったことではありません。

また動き出したとき、何かが、すり替わっていることです。

そして、すり替わったことに、自分以外、誰も、気づかないことです。

私はいまも、ときどき、確かめます。

家族の顔を。友人の名前を。昨日の記憶を。

ひとつでも、ずれていないかと。

あれから、私は、誰とも、深く関わらなくなりました。

親しくなった人が、ある日、私を忘れてしまうかもしれない。

そう思うと、どうしても、踏み込めないのです。

私の世界には、いつも、薄い膜が、一枚、かかっています。

その膜の向こうに、本当の世界が、あるような気がして。

手を伸ばしても、決して、届きません。

そして、ふと、思うのです。

元の私は、まだあの十秒の中にいて。

いまここにいる私だけが、別の世界へ、こぼれ落ちてしまった。

そんな気が、どうしても、ぬぐえないのです。

もしかすると、本当の私は、まだあの中庭で、止まったまま、なのかもしれない、と。

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