夜のビルの隙間に入っていく人

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去年の夏休み、夜のビルの隙間に、人が入っていくのを見た。

それも、一人ではなかった。

翌日の昼には、その隙間は、行き止まりの壁になっていた。

あれから私は、夜にあの道を通っていない。

コンビニ帰りの一メートル

大学二年の夏休みだった。

実家には帰らず、駅から歩いて十五分のアパートに、一人で残っていた。

昼夜が逆転して、起きるのはいつも夕方だった。

その夜も、午前零時を回ってから、夜食を買いにコンビニへ向かった。

いつも通る道だった。

片側に、シャッターの閉まった古い雑居ビルが並んでいる。

民家は、ほとんどない。

街灯の間隔が広くて、夜は足元が心許なかった。

ふと、立ち止まった。

ビルとビルの間に、一メートルほどの隙間がある。

こんな場所に、あっただろうか。

何十回も通っている道なのに、気づいたことがなかった。

隙間の入口だけ、街灯の明かりが届いていなかった。

闇が、四角く口を開けているように見えた。

隙間からは、湿った土と、古い排水溝のような匂いが流れ出していた。

夏だというのに、そこだけ空気が冷たい。

頬に当たる冷気が、地下室の扉を開けたときのそれに似ていた。

首をかしげたが、特に気にせず、通り過ぎようとした。

そのときだった。

後ろから、ハイヒールの音が聞こえてきた。

カッ、カッ、カッ。

かなり急いでいる足音だった。

私は歩道の端に寄った。

早く追い越してくれればいい、と思った。

足音は、すぐ後ろまで来た。

そして、ビタリと止んだ。

おかしい、と思った。

この先に、曲がり角はない。

民家もない。

どこへも入りようがない道なのだ。

私は何気なく、後ろを振り向いた。

二十代半ばくらいの女性が、先ほどの隙間を覗き込んでいた。

肩までの黒髪が、ゆっくり揺れていた。

不審に思ったが、まあ彼女も気になったのだろう、と前を向いた。

歩き出そうとしたとき、背後で足音が再び響いた。

カッ、カッ。

振り返ると、女性が、何のためらいもなく、隙間の中へ歩いていった。

二メートル先の壁

突然の行動に、私は思わず引き返した。

近道でもあるのか。

そう思って、隙間の中を覗き込んだ。

ビルの隙間の先は、真っ暗だった。

ずっと先まで、同じ暗さが続いている。

それどころか、入っていったはずの女性の姿も、見えなかった。

足音も、聞こえなかった。

スマートフォンのライトを点けて、隙間の奥を照らしてみた。

白い光は、三歩先でぼやけて、そこから先へは進まなかった。

まるで、闇が光を飲み込んでいるようだった。

虫の声も、遠くの車の音も、いつのまにか消えていた。

少し気持ちが悪くなった。

明日、明るくなってから来てみよう。

そう決めて、その日はコンビニで買い物を済ませて帰った。

翌日の夕方、私は友人の達也と会う約束があった。

駅へ向かう道すがら、昨夜の場所に寄ってみた。

昼間の明るさのなかで、ビルの隙間は確かに、同じ場所にあった。

ただ、様子が違った。

二メートルほど先に、灰色のコンクリート壁がある。

どう考えても、そこから先へは進めない。

壁にドアでもあるのかと、目を凝らした。

そんなものは、どこにもなかった。

私は首をひねりながら、駅へ向かった。

踏切の警報音が、いつもより長く、耳の奥で鳴っていた。

待ち合わせの店で、達也に昨夜の話をした。

「ハイヒールの女? 夜中に?」

「そう。隙間に入っていったんだ」

「あの道に、そんな隙間ないよ」

達也は、笑いながらスマホを取り出した。

地図アプリの航空写真を、私に見せた。

「ほら。ビルとビルは、ぴったりくっついてる」

画面には、確かに、隙間のない屋根が連なっていた。

私の背中を、冷たい汗が伝った。

「見間違いじゃないの?」

達也は、ストローをくわえたまま、続けた。

「夜中に、ふらふらコンビニに行くからだよ。ちゃんと寝ろって」

「寝てるよ。昼に」

「それを、寝てるって言わないんだよ」

軽口で笑い合ったのに、グラスを持つ私の指先は、少しだけ冷えていた。

「……そう、かもな」

同じように、深夜の道で数が合わなくなる話を、金の亡者という体験談で読んだことがある。

行き先のない足音の話なら、峠の先にあった灯りも忘れがたい。

そう答えたが、昨夜の足音は、耳の奥にはっきり残っていた。

ビルの隙間から伸びた手

その夜、友人たちと別れたのは、終電ぎりぎりの午前一時過ぎだった。

駅から歩いて、同じ道に差しかかった。

道の先に、十歳くらいの子どもが立っていた。

壁のほうを向いて、じっと動かない。

半袖のシャツに、膝丈の短パン。

裸足のように見えたが、暗くて、よくわからなかった。

こんな時間に子ども。

親が連れ出しているのだろう、と思った。

けれど、周りには、他に誰もいなかった。

私が近づく間に、その子どもは、すうっと壁の中へ歩いていった。

そのとき、気づいた。

あの場所は、昼間に確認した、行き止まりの隙間ではないか。

急いで駆け寄った。

シャッターの閉まった両隣のビルと、その雰囲気で、すぐにわかった。

昨夜、女性が入っていった場所も、間違いなくここだった。

しかし、おかしい。

昼間に見たとき、この隙間は、すぐに行き止まりだったはずだ。

私は、ビルの隙間を、恐る恐る覗き込んだ。

やはり、先は真っ暗だった。

中へ入る勇気は、さすがになかった。

足元の小石を拾って、隙間の中へ投げ込んだ。

壁があるなら、見えなくても、当たる音がするはずだ。

しかし、音はしなかった。

壁に当たる音も、地面に落ちて転がる音も、一切しなかった。

気味が悪くなった。

もう一度投げようと、小石を拾うために屈んだ。

その瞬間、腕を掴まれた。

「えっ」

顔を上げると、暗闇の中から、手だけが伸びていた。

手首から先だけが、私の腕を掴んでいる。

「うわあああああ」

その手は、驚くほど冷たかった。

氷水に浸した布で、腕を巻かれたような感触だった。

私は叫んで、振り払おうとした。

だが、ありえないほど強い力だった。

握り方が、一定ではなかった。

指が入れ替わるように、何度も、力の向きが変わった。

複数の手が、順番に握り直しているような感触だった。

腕は、ぐいぐいと私を、隙間の中へ引きずり込もうとした。

私は片足をビルの壁に引っかけて、懸命に踏ん張った。

スニーカーの底が、コンクリートをこする音がした。

ざり、ざり、と砂を噛むような音だった。

腕の骨が、きしむように痛んだ。

それでも、少しずつ、少しずつ、中へ引かれていく。

そのとき、反対側のビルの壁に、鉄製の看板が見えた。

私は無我夢中で看板を掴み、力いっぱい、手首へ振り下ろした。

看板は薄い板だった。

その縁が当たった途端、手首が、すぱりと切れた。

引く力が、急になくなった。

私は反動で、道の反対側まで転がった。

ところが、切り離されたはずの手が、まだ私の腕を握っていた。

半狂乱になって、街灯の柱に、その手を何度も叩きつけた。

自分の腕も痛かったが、構っていられなかった。

十回ほど叩きつけた頃だった。

メキッ、という音がして、手が離れ、地面に落ちた。

私は、一度も振り返らず、全速力でその場から逃げた。

背後で、ハイヒールの音がしたような気がした。

カッ、カッ、カッ。

けれど、それは自分の心臓の音だったのかもしれない。

駅前のロータリーまで走って、ようやく足を止めた。

閉店した牛丼屋のシャッターに、両手をついた。

肩で息をしながら、振り返った。

誰も、追ってはこなかった。

アスファルトに、自分の影が一つだけ、細く伸びていた。

その影が、少しだけ揺れたように見えて、私は目をそらした。

腕に残った指の跡

アパートに着いて、玄関の明かりの下で、腕を見た。

手が、小刻みに震えていた。

鍵穴に、なかなか鍵が入らなかった。

部屋に入ると、冷蔵庫のモーター音が、やけに大きく聞こえた。

電気をすべて点けた。

それでも、足元から冷気が上がってくるような気がした。

手首のあたりに、赤黒い痣が浮かんでいた。

指の跡だった。

けれど、その跡は、一人分ではなかった。

大きな指の跡に、小さな指の跡が、いくつも重なっていた。

細い指。太い指。子どもの指。

握り直されたあの感触が、そのまま皮膚に残っていた。

翌朝、明るくなってから、私はもう一度、あの道へ行った。

手は、落ちていなかった。

血の跡も、なかった。

そもそも、腕は切れたのに、一滴も血が出ていなかったことに、やっと気づいた。

騒ぎになっている様子も、全くない。

パトカーも、人だかりもなかった。

隙間は、何事もなかったように、コンクリートの壁で塞がっていた。

あれから、夜にあの道を通っていない。

昼ならまだいい。

けれど、夜中に通る勇気は、もうない。

結局、あの隙間は何だったのか。

入っていった女性と子どもは、どこへ行ったのか。

腕の痣は、一週間ほどで薄くなった。

それでも、指の跡は、一人分ではなかったと今でも思っている。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

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