平成六年の暮れに、島へ帰る船で妙な目に遭った。
いまだに、あれが何だったのか説明がつかない。
当時、私は広島の大学の二年で、冬の休みに実家へ帰るところだった。
実家は周防灘に浮かぶ柄島という小さな島にある。
柳井の港から、連絡船で四十分ほどの島だ。
船は一日に四便。
最終の三便目は、冬場だと真っ暗な海を走ることになる。
その日は霧が出ていた。
港の待合室のガラスが、内側から白く曇っていた。
切符を売る窓口の人が、出るかどうかは船長次第だと言った。
待合室には、七、八人が座っていた。
島へ帰る顔ぶれは、だいたい決まっている。
正月前なら、なおさらだ。
その晩は、一人も見知った顔がいなかった。
妙だとは思ったが、深く考えなかった。
年末は、島に嫁いだ人の親戚なども乗る。
ストーブの上でやかんが鳴っていた。
窓口の人が、ガラスを指で拭いて外を見た。
「出すそうです」
「霧、大丈夫ですかね」
「船長が出すいうんじゃけ、大丈夫でしょう」
結局、十分ほど遅れて出た。
※
船に乗ると、客室には十人ほどがいた。
年末だから、帰省する人が多い。
私は後ろの席に座って、鞄を膝に置いた。
前のほうに、コートを着た年配の女の人がいた。
その人は乗ってすぐ、窓の曇りを指で拭った。
拭いた場所が、ちょうど顔の高さより少し下だった。
座ったまま外を見るには、低すぎる位置だ。
あとで思い返して、それが気になった。
子どもの背丈なら、ちょうどいい高さだった。
その人の隣に、子どもはいなかった。
暖房が効きすぎていて、窓に手をつくと冷たさが心地よかった。
祖父のことを、そのとき少し思い出した。
祖父は島の漁協で長く働いていた人で、船の作法にうるさかった。
子どもの頃、一緒に船に乗ると必ず同じことを言われた。
「降りるときはな、舫い綱に手の甲を当ててから、板を踏め」
「なんで」
「綱が繋がっとるかどうか、自分の手で確かめるためじゃ」
祖父は船を降りるとき、必ず舫い綱に手の甲を当ててから、板を踏んだ。
その手つきは、挨拶のようでもあった。
もう一つ、口癖があった。
「桟橋の灯が入ってから、船は着くんじゃ」
「灯の入らん桟橋に着いた船は、まだ沖におる」
子どもの頃は、意味が分からなかった。
年寄りの言うことだと思っていた。
綱取りの当番という決まりも、祖父から聞いた。
夜の便には、必ず島の誰かが桟橋に立つ。
昼の便は乗員が自分で掛けるが、夜だけは陸から取る。
手間のかかる決まりだ。
なぜ夜だけなのかと聞いたことがある。
「昔、綱取りが来んかった晩があってな」
「どうなったん」
「その晩に降りた者の帰りが、揃わんかった」
祖父は、それ以上言わなかった。
揃わなかった、という言い方が、子ども心に嫌だった。
足りなかったのか、多かったのか、分からないからだ。
※
異変に気づいたのは、汽笛のときだ。
柄島の手前には、切り立った岬がある。
島に近づくと船は必ず短く汽笛を鳴らす。
その音が、二拍ほど遅れて岬から返ってくる。
島の子どもは、その返しの音で「もう着く」と分かる。
その晩、汽笛は鳴った。
返しの音が、来なかった。
私は窓に額をつけて外を見た。
霧で何も見えない。
ただ、灯台の光が回っていないことだけは分かった。
柄島の灯台は、十五秒に一度、白い光を投げる。
その光が、いくら待っても来ない。
私は隣の席の人に聞こうとした。
灯台、見えますか、と。
口を開いたところで、やめた。
客室にいる誰も、外を見ていなかった。
十人が十人とも、正面を向いて座っていた。
眠っているわけではない。
目は開いていた。
年末の船で、誰も窓の外を見ないというのは、私の記憶にはない。
島が見えるかどうかを気にするのが、乗る側の癖のようなものだからだ。
船は、そのまま進んだ。
やがて減速の感覚があり、船体が横に押されて、着岸した。
※
桟橋の常夜灯が、点いていなかった。
それでも、外は妙に薄明るかった。
霧そのものが光っているような、締まりのない明るさだった。
客たちが立ち上がって、順に降りていった。
誰も、何も言わない。
年末の船なら、必ず誰かが誰かに挨拶をする。
その晩は、一言もなかった。
渡し板が置かれる音も、しなかった。
島の桟橋は木の板だ。
人が渡ると、必ず乾いた音が鳴る。
十人が降りて、一度も鳴らなかった。
私はそれを、霧のせいだと思った。
音は霧で吸われる、と誰かに聞いた気がしていた。
いま考えれば、そんな話は聞いたことがない。
私は座ったままでいた。
柄島の港は、島の南側にある。
私の実家は北の集落で、いつもは港の一つ手前の仮桟橋で降りる。
だから降りるのは次だと思っていた。
いま思えば、それも変な話だ。
仮桟橋は、とうに廃止されていた。
そのときの私は、疑いもしなかった。
耳に挿していたラジオのイヤホンから、深夜放送が流れていた。
それが、ふっと途切れた。
雑音の向こうから、はっきりと聞こえた。
「降りなくていいんですか」
男とも女ともつかない、平らな声だった。
怒ってもいないし、急かしてもいない。
ただ、確かめている声だった。
私は返事をしなかった。
子どもの頃から、こういう類のものには返事をするなと言われて育った。
それだけの理由だ。
扉が閉まり、船は動き出した。
※
客室に戻ると、誰もいなかった。
全員が降りたのだから当たり前だ。
そう思おうとしたが、暖房の音まで消えていることに気づいた。
時計を見た。
腕時計の秒針が止まっていた。
電池切れかと思って耳に当てたが、音はしない。
壁の船内時計も、同じ位置で止まっていた。
それなのに、床は確かに震えている。
エンジンは回っていた。
私は甲板に出た。
冷たい風が来るはずが、来なかった。
霧が、顔の前で動かない。
甲板には薄く霜が下りていた。
そこに、靴の跡が並んでいた。
降りていった客のものだ。
ただ、跡の形の中だけ、霜が残っていた。
人が踏んだところは、体温で霜が融ける。
そのはずだ。
私はしゃがんで、自分の靴を跡の一つに合わせてみた。
大きさは、だいたい同じだった。
足を上げると、私が乗せていたところの霜だけが融けていた。
あの跡は、逆だった。
踏まれたところにだけ、白いものが残っていた。
※
操舵室へ行ってみることにした。
連絡船だから、乗員は三人ほどしかいない。
船尾から船首まで歩いても、二分とかからない。
機関室の扉は開いていた。
中は明るく、機械が回っていた。
人はいなかった。
操舵室の窓から中を覗いた。
舵輪だけが、ゆっくりと左へ回った。
誰も触っていなかった。
私は、そこから先を見なかったことにした。
船尾へ戻る途中、ロープ庫の前を通った。
扉が半分開いていた。
中に、舫い綱の輪が積んである。
その一番上の輪が、まだ湿っていなかった。
着岸して綱を出したのなら、濡れているはずだ。
救命胴衣の棚も見た。
数が、一つも減っていない。
減る理由などないのに、そのとき私は、それを確かめずにいられなかった。
甲板の隅にしゃがんで、鞄を抱えて、膝に顔を伏せた。
どれくらいそうしていたか分からない。
時計が止まっていたので、確かめようもなかった。
顔を伏せているあいだ、私はずっと数を数えていた。
子どもの頃、怖い夜に祖母がそうしろと言った。
百まで数えたら、また一に戻る。
四度目の百まで数えたところで、数えている自分の声が、口の外に出ていることに気づいた。
声を出すつもりはなかった。
そこで数えるのをやめた。
船が減速する感覚で、顔を上げた。
桟橋に、常夜灯が点いていた。
橙色の、見慣れた灯だった。
そして、さっき降りた客たちが、順に乗り込んできた。
同じ顔だった。
同じ順番で、同じ席に座った。
誰も濡れていなかった。
あの霧の中を歩いたのなら、肩か髪のどこかが湿るはずだった。
私は自分の腕時計を見た。
秒針が、動いていた。
その一点だけを頼りに、私は座席へ戻った。
座ってから、前のほうを見た。
コートの女の人が、また窓を拭いていた。
今度は、拭く位置が高かった。
自分の顔の高さだった。
私は思いきって、通路の向かいの男の人に話しかけた。
「さっきの桟橋、どこですか」
その人は、少し考えてから答えた。
「わしは、あそこで降りたんじゃがのう」
「降りて、また乗ったんですか」
「乗った覚えはないが」
そう言って、その人は自分の靴を見た。
靴の底に、泥も砂もついていなかった。
柄島の桟橋も、仮桟橋も、板の上に細かい砂が乗っている。
島で船を降りて、靴が汚れないということはない。
その人は、それきり黙って正面を向いた。
もう一度話しかける勇気は、私になかった。
※
次に着いたのは、柄島の港だった。
常夜灯の下に、綱取りの当番の人が立っていた。
島では夜の便に必ず一人、桟橋で綱を取る役が出る。
当番の人が投げられた舫い綱を受け取って、係船柱に掛ける。
その音がして、初めて板が渡される。
係船柱に綱が掛かる音は、低くて短い。
木の板が置かれる音は、乾いていて高い。
二つの音は、必ずその順に鳴る。
私はその音を、生まれてから何百回も聞いていた。
降りるとき、祖父に言われたとおり、綱に手の甲を当てた。
綱は湿って、ざらざらしていた。
当番の人が、私の顔を見た。
「一人か」
「はい」
「早かったのう」
言われて、待合所の時計を見た。
本来の到着より、五分早かった。
霧で遅れて出た船が、五分早く着いていた。
※
家に帰って、祖父にその話をした。
祖父は湯呑みを置いて、しばらく黙っていた。
それから、一つだけ聞いた。
「途中で降りた者は、綱を取ったか」
私は思い出そうとした。
あの薄明るい桟橋には、人が立っていなかった。
綱を投げる音も、係船柱に掛ける音も、していない。
綱は、舷側で輪になったままだった。
そう答えると、祖父は目を閉じた。
湯呑みの縁を、親指でゆっくり撫でていた。
「わしのおやじの代に、一度あったそうじゃ」
「同じことがですか」
「同じかどうかは知らん。ただ、灯が入らんかった、いうことだけ聞いとる」
「そのときは、どうしたんですか」
「翌る日から、夜の便に綱取りを立てるようになった」
私は台所の窓を見た。
霧はもう晴れていた。
「じいちゃん。あの声は何ですか」
「声は聞いとらん」
「聞いてないって」
「聞いた者は、たいてい返事をしとる」
「そんなら、あれは着いとらん」
「でも、みんな降りましたよ」
「降りたんじゃのうて、降ろされたんじゃ」
それきり、祖父はその話をしなかった。
翌朝、私は港の事務所へ行った。
前の晩の三便目のことを聞いた。
事務員の人が、日誌をめくって首をかしげた。
「三便は、霧で欠航になっとるね」
「乗りましたけど」
「ほうね。じゃあ、書き忘れじゃろ」
その人は、それ以上調べようとしなかった。
ただ、帰りぎわに呼び止められた。
「あんた、灯は点いとった」
「どっちの灯ですか」
「桟橋のほう」
「点いとりませんでした」
事務員の人は、日誌を閉じた。
それから、奥の棚から古い帳面を出してきた。
革の表紙がひび割れた、戦前のものだった。
あるページを開いて、こちらへ向けた。
昭和八年十二月の欄に、短い書き込みがあった。
霧、三便、綱取り不在。
その下に、もう一行あった。
乗船十四、下船十四、帰便乗船十四。
「数は合うとるでしょう」
「合うてます」
「合うとるけえ、それ以上は書かんかったんじゃ」
その言い方が、いつまでも耳に残った。
数が合っていても、同じ十四人だとは書いていない。
島では、そういう調べ方をしない。
合わないものを合わないままにしておく、という作法がある。
掘り返すと、掘り返した者の名前が残るからだ。
私はそのとき、初めてその意味を理解した。
あの桟橋には、綱を取る者が、はじめから一人もいなかった。
あとになって、それがどういう意味なのかを考えた。
綱を取らずに降りた者は、まだ着いていないところへ降りたことになる。
あの晩、船が引き返して同じ人たちを乗せたのは、たぶん、そういう帳尻の合わせ方だったのだと思う。
全員が戻ってきたのかどうかは、私には分からない。
同じ顔だったとしか、言えない。
※
祖父が九十を過ぎて島を離れたあと、私は仕事の都合で島へ戻った。
いまは、私が夜の便の綱取りの当番に入っている。
月に二度ほど、桟橋に立つ。
面倒な役だと、若い者は言う。
そのたびに、私は理由を説明しない。
説明しても、私自身が信じきれていないからだ。
ただ、当番を代わってくれと言われたことは一度もない。
島には、そういう空気がある。
投げられた綱を受け取って、係船柱に掛ける。
それだけの役だ。
去年の十二月、霧の濃い晩があった。
常夜灯を点けて待っていたのに、桟橋の灯が急に落ちた。
停電ではない。
集落の灯は、みな点いていた。
その暗い桟橋に、船が着いた。
汽笛は鳴った。
岬からの返しは、来なかった。
甲板に、人影が並んでいた。
降りようとしている。
私の手には、綱がなかった。
投げられていないのだから、当然だ。
それでも、口が勝手に動いた。
「降りなくていいんですか」
言ったあとで、背中が冷たくなった。
三十年前、私に向かって同じことを言った者がいる。
あのときの声も、こんなふうに平らだったのだろうか。
私の声は、水面に反響しなかった。
霧が晴れたとき、桟橋には誰もいなかった。
船も、いなかった。
係船柱には、湿った綱の輪が、一つだけ掛かっていた。
翌朝、その輪はまだ掛かっていた。
誰の手で掛けられたのか、当番は私だけだったから、答えは一つしかない。
私は、それに触れていない。
次の当番の晩から、私は懐中電灯を二つ持って桟橋に立つようになった。
灯が落ちても、こちらの手元だけは点けておきたいからだ。
祖父が言っていた意味が、いまはよく分かる。
桟橋の灯が入ってから、船は着く。
入らないうちに着いた船は、まだ沖にいる。
あの晩、私が返事をしていたら、どうなっていたのか。
それだけは、いまも考えないようにしている。