
フロントの人は、鍵を渡しながら、窓は、お休みになる前に閉めてくださいね、と言いました。
五階の、西側の部屋でした。
言い方が、注意というより、決まりごとの読み上げに近かったのを覚えています。
私は、はい、とだけ答えました。
四年前の、九月の話です。
帰れなくなった日
私は、食品工場の機械の保守をしています。
その日は、山形の新庄まで来ていました。
包装機のシール温度が上がりきらないという連絡で、朝いちばんの新幹線で入りました。
原因は、思ったより奥にありました。
ヒーターではなく、その手前の配線でした。
部品を取り寄せて、組み直して、試運転が通ったのが夜の八時過ぎです。
そこから駅に走っても、東京行きにはもう間に合いませんでした。
新庄の駅前は、その時間には人がいませんでした。
タクシーが二台、ライトを消して停まっていました。
コンビニの明かりだけが、道の先で白く見えます。
九月の夜で、風はもう冷たくなっていました。
工場から駅までは、水路の脇の道を歩きます。
その水路の音が、思っていたよりも大きく聞こえました。
都会から来ると、音が減ったぶん、一つ一つが大きく届くのだと思います。
私は、そのときはそう思っていました。
宿泊費は自腹になります。
私は、駅の裏の安いビジネスホテルを探しました。
三階建てに見えて、あとから継ぎ足したような五階までがある、細長い建物でした。
看板の字が、途中だけ新しく塗り直してありました。
包装機の前で
その日の工場は、もう誰も残っていませんでした。
ラインの照明だけを点けて、私は一人で作業をしていました。
機械を止めた工場というのは、思っているより静かではありません。
冷凍庫の音と、どこかの排気の音がずっと続いています。
ただ、人の音だけがないのです。
配線の焼けを見つけたのは、七時を回ってからでした。
被覆が、一箇所だけ茶色くなっていました。
そこを直せば済む話でした。
直しながら、私は背中の後ろが気になっていました。
誰もいないところで作業をすると、たまにそうなります。
そのときは、疲れているのだと思いました。
工場を出るとき、警備の人が門のところにいました。
「終わりましたか」
「終わりました」
「今日は、遅かったですね」
その人が、少し変な言い方をしました。
「今日は」の「は」が、妙に強かったのです。
私は、そのときは何とも思いませんでした。
チェックイン
フロントには、年配の男の人が一人いました。
宿帳を書いているあいだ、その人はずっと私の手元を見ていました。
「お仕事ですか」
「はい。工場の機械の」
「そうですか」
それきり、しばらく黙っていました。
宿帳の前のページが、めくれて見えていました。
その日の宿泊は、私を入れて二人でした。
もう一人の欄は、字が薄くて読めませんでした。
鉛筆で書いたものを、消しかけたようにも見えました。
フロントの人は、それに気づいて、宿帳を手前に引きました。
引くときの動きが、少し速かったと思います。
鍵を出すときに、その人は言いました。
「窓は、お休みになる前に閉めてくださいね」
「風、強いんですか」
「いえ」
いえ、で終わりました。
説明がないので、私も訊き返しませんでした。
いま思えば、そこで訊いておくべきでした。
階段は、建物の真ん中にありました。
三階まで上がったところで、幅が変わります。
そこから上は、少し狭いのです。
壁紙の柄も、そこで切り替わっていました。
あとから継ぎ足したのだと、私はそのとき思いました。
四階の廊下の突き当たりに、窓がありました。
五階には、それがありませんでした。
突き当たりは、白い塗り壁で終わっていました。
不思議だとは思いましたが、それだけです。
安いホテルには、そういうところがよくあります。
※
換気
部屋に入ると、熱気が籠もっていました。
一日じゅう閉め切ってあったのだと思います。
部屋は、シングルにしては細長い作りでした。
入ってすぐ左に洗面、その先にベッド、突き当たりが窓です。
机は、窓の右手にありました。
座ると、窓が視界の左端に入ります。
ちょうど、目の端で分かる位置です。
エアコンをつけても、しばらくは匂いが抜けませんでした。
畳ではないのに、古い畳のような匂いがしていました。
私は、カーテンを開けて、窓も開けました。
外は、駐車場でした。
正面に、平屋の倉庫の屋根が見えます。
その向こうは、暗くて何も見えませんでした。
窓の下には、手すりも足場もありません。
五階の壁が、そのまま駐車場のアスファルトまで落ちているだけです。
私は、それを一度、確かめています。
網戸がなかったので、虫が入らないか見たのです。
そのときに、下まで目で追いました。
何もありませんでした。
生ぬるい風
窓を開けてから、十分ほど経ったころだったと思います。
入ってくる風が、一度だけ、生ぬるくなりました。
外は冷えていたはずです。
湯を張った風呂の戸を開けたときのような、重い空気でした。
それが、数秒で元に戻りました。
私は、下の階の換気扇だろうと思いました。
思うことにした、というほうが近いかもしれません。
缶の水滴
コンビニで買った缶ビールを開けて、テレビをつけました。
天気予報をやっていました。
翌日は、雨のマークが出ていました。
缶を机に置くと、下に輪ができます。
その輪を、私は指でなぞっていました。
疲れているときの癖です。
そのとき、窓のほうで、何かが動きました。
カーテンではありません。
カーテンは、開けたまま、束ねて留めてありました。
動いたのは、窓の枠の、外側です。
私は、そちらを見ました。
鼻から上
おかめの面が、ありました。
窓の下の縁から、上半分だけが出ていました。
鼻から上です。
白い額と、細い眉と、閉じているような目。
下から覗き込む形で、こちらを向いていました。
私は、声を出しませんでした。
出そうと思ったのに、出ませんでした。
ここは五階です。
その言葉だけが、頭のなかで一度だけ回りました。
私は、目をそらしました。
テレビの画面を、五秒ほど見ました。
それから、もう一度、窓のほうを見ました。
何もありませんでした。
窓枠の外は、ただの暗がりでした。
見間違いだと、私は自分に言いました。
疲れていたのは本当です。
朝の五時に家を出て、そこまで十六時間動いていました。
それでも、細かいところまで覚えているのです。
額の生え際のところに、細い罅が一本入っていました。
古い塗りの、剥げかけた白でした。
見間違いというのは、あんなに細かくありません。
※
閉めてから
私は立って、窓を閉めました。
鍵も掛けました。
カーテンを引いて、端が重なるようにしました。
それから、ベッドに座りました。
ここまでは、まだ疲れの話で済みます。
済まなくなったのは、そのあとです。
私は、部屋の照明を全部点けました。
洗面の明かりも、ベッドの枕元も、机の上も。
それでも、窓のところだけが暗く見えました。
カーテンを引いたので、当たり前です。
当たり前なのに、目がそこへ行きます。
私は、椅子の向きを変えて、窓を背にしました。
背にしたことを、すぐに後悔しました。
心臓の音が、耳のところで鳴っていました。
十分ほどして、廊下で音がしました。
ノックではありません。
戸の下のあたりを、指の背で撫でるような音でした。
私は、動きませんでした。
そのあと、声がしました。
「棟梁」
女の声でした。
低くも高くもない、事務の人が名前を呼ぶような声です。
「棟梁」
二度目も、同じ調子でした。
私は返事をしませんでした。
返事をしなかったのは、こわかったからです。
あとになって、それが正しかったと知りました。
音は、それきりでした。
私は、フロントに内線をかけました。
「いま、廊下に誰か来ましたか」
「いいえ」
「女の人の声が」
受話器の向こうで、少し間がありました。
「窓は、お閉めになりましたか」
「閉めました」
「でしたら、大丈夫です」
それで切れました。
私は、その晩、明かりを消しませんでした。
明かりをつけたまま、私は朝まで起きていました。
四時ごろ、外が薄く明るくなりました。
カーテンの隙間から、駐車場が見えました。
雨は、まだ降っていませんでした。
アスファルトに、脚立も、はしごも、何もありませんでした。
私は、その一点だけを何度も確かめました。
確かめるたびに、確かめる意味がなくなっていきました。
三度目の音
内線を切ってから、もう一度だけ音がしました。
今度は、戸ではありませんでした。
窓の外の、ガラスの下のところです。
爪の先で、硝子と枠の境をなぞるような音でした。
一往復して、止まりました。
私は、カーテンを開けませんでした。
開けなかったのは、決まりを知っていたからではありません。
ただ、そのときの私には、開けるという選択が浮かばなかったのです。
あとで考えると、それが幸いでした。
窓を閉めろと言われた意味を、私はまだ何も分かっていませんでした。
分からないまま、たまたま守っていただけです。
守れなかった人が、あの宿にいたのかどうかは知りません。
朝のロビー
チェックアウトは、七時前でした。
フロントには、若い女の人が入っていました。
昨夜の人は、もういませんでした。
精算を待つあいだ、私は何気なく周りを見ました。
ソファがあって、雑誌の棚があって、その上の壁に、額のようなものが掛かっていました。
面でした。
おかめの面です。
私は、そこから動けなくなりました。
昨夜、窓の外にあったのと、同じ面でした。
「あの、あれは」
「ああ、古いものらしいですよ」
「いつから、あそこに」
「私が入る前からです」
それ以上は、誰も知らないようでした。
私は、精算を済ませて、外へ出ました。
出る前に、携帯でその壁を一枚だけ撮りました。
撮った理由は、自分でもよく分かりません。
見間違いだと思いたかったのだと思います。
あとから、チェックアウトの朝に聞かれたことという話を読みました。
宿の人が、去り際にだけ何かを訊いてくる話です。
読みながら、私は自分のことを思い返しました。
あの朝、私は何も訊かれませんでした。
昨夜の人がいなかったからです。
いた人には、訊かれることさえなかったのだと思います。
※
棟に上げるもの
その話を、私は誰にもしませんでした。
私は、その夜のことを妻にも話していません。
話せば、次の出張のたびに心配をかけます。
それに、話すとなると、順番に説明することになります。
説明できるところまで話して、できないところで止まる。
その止まった先を、聞いた人はどうしても埋めようとします。
埋められると、こちらの覚えていたものが少しずつ形を変えるのです。
だから、私は黙っていました。
いま書いているのも、誰かに埋めてほしいからではありません。
半年ほどして、仕事で知り合った大工さんに、面のことだけ訊きました。
その大工さんは、寒河江の人でした。
新庄の決まりは、自分の土地のものではないと前置きをしてから話してくれました。
「よその決まりを喋るのは、あんまりよくないんだけどね」
そう言って、湯呑みを両手で包みました。
話すか話すまいか、その人は少し迷っていたと思います。
私が、面のことを一度も「見た」と言わなかったからでしょう。
訊き方で、こちらの事情は伝わります。
おかめの面を建物に上げる習わしがある、という話は、そのとき初めて聞きました。
上棟のときに、棟木のところへ上げるのだそうです。
「あれは、家を守るもんだからね」
「降ろさないんですか」
「降ろさない。建っとるうちはね」
そのあとに、その人はもう一つ言いました。
新庄のあたりには、細かい決まりがあるのだそうです。
面は、必ず外を向けて上げる。
内を向けて上げると、なかの人を数えることになる。
目が合った晩は、窓を閉めて、呼ばれても返事をしない。
返事をすると、数に入る。
「棟梁って呼ばれても、返しちゃ駄目だよ」
その人は、笑いながらそう言いました。
大工さんは、湯呑みを置いてから続けました。
「上げるのは、棟梁の役だからね」
「棟梁が」
「そう。だから、面のほうも棟梁を覚えとるわけ」
覚えている、という言い方でした。
私は、廊下で呼ばれた声を思い出しました。
あの声は、私を呼んでいたのではありません。
誰かを探して、順に戸を撫でていたのだと思います。
返事をした部屋が、その晩の棟梁になるのでしょう。
私は、笑えませんでした。
窓を閉めてくださいと言われたのは、風のためではありませんでした。
面の話は、地域によってずいぶん違うようです。
夜神楽の三十四枚目の面という話を読んだときにも、私は同じことを思いました。
面というものは、数が合わないと途端におかしくなります。
一つ多いか、一つ足りないか。
そのどちらかが、たいてい話のはじまりです。
割れたもの
もう一つ、決まりがあると聞きました。
面が割れたときの決まりです。
「割れたら、上と下を離して置くの」
「離す」
「上は棟に残す。下は、人の通るところに掛ける」
「合わせたらどうなるんですか」
「合わせない。それだけ」
その人は、そこから先を言いませんでした。
訊いても、同じことを繰り返すだけでした。
あのホテルの増築が、いつだったのかは調べませんでした。
調べれば、何か出てくるのは分かっています。
壁紙の切り替わる階と、突き当たりの窓のない廊下と、塗り直された看板。
それだけで、もう十分でした。
知らないままにしておくことも、決まりのうちだと思ったのです。
帰ってから、私は撮った写真を出しました。
四年、開かずにいた一枚です。
拡大して、額のなかを見ました。
ロビーの壁に掛かっていたのは、面の、鼻から下だけでした。
※
いまも
あのホテルは、いまも同じ場所にあります。
看板の、塗り直した字のところだけ、色が違うままです。
私は出張のたびに、窓を閉めてから寝るようになりました。
去年、自分の家を建てました。
上棟の日に、棟梁が面を上げると言いました。
私は、断りませんでした。
ただ一つだけ、向きを確かめました。