煙草

子どもの頃、ひと夏を、祖父の家で、過ごしたことがあります。

祖父は、山ふところの集落で、一人、暮らしていました。

若い頃は、炭焼きを、生業にしていた人です。

だから、裏山のことなら、目を、つむっていても歩ける、と言っていました。

その夏、私は、毎日のように、祖父について、山へ入りました。

都会育ちの私には、何もかもが、珍しかったのです。

ある日、私たちは、きのこを採りに、山の奥へ、入りました。

季節は、夏の盛りでした。

細い山道を、青々としたシダが、覆っていました。

それでも、人が分け入った跡は、はっきりと、たどれました。

祖父は、慣れた足取りで、ぐんぐん、登っていきます。

私は、その背中を、必死で、追いかけました。

行きは、三十分ほどで、目あての場所に、着きました。

沢のそばの、湿った木陰です。

そこに、白いきのこが、点々と、生えていました。

祖父は、食べる分だけを、丁寧に、摘み取りました。

「採りすぎると、来年、生えてこなくなる」

そう言って、籠の半分で、手を止めました。

沢の水で、顔を洗うと、しびれるほど、冷たかった。

頭の上では、蝉が、降るように、鳴いていました。

日差しは、木々の葉に、こまかく、砕かれていました。

何もかもが、穏やかな、夏の午後でした。

「さて、そろそろ、帰るとするか」

祖父の、その一言で、私たちは、来た道を、引き返し始めました。

異変に気づいたのは、歩き始めて、しばらく、してからでした。

一時間、歩いても、家に、着かないのです。

行きは、三十分の道だったはずでした。

道を、間違えたのか。

いいえ、来た道で、間違いありません。

目印にしていた、大きな曲がり木も、ちゃんと、ありました。

見覚えのある、岩。

見覚えのある、花の群れ。

どれも、行きに通った、そのままの場所でした。

道は、合っているのです。

なのに、進んでも、進んでも。

景色が、同じところを、繰り返すのです。

私は、だんだん、心細くなってきました。

「おじいちゃん、まだ、着かないの」

祖父は、答えませんでした。

ただ、いつもと変わらぬ、ゆっくりとした足取りで、歩き続けます。

その横顔が、少しも、慌てていないことに。

私は、かえって、不安になりました。

陽が、傾き始めていました。

行きには感じなかった、湿った匂いが、足もとから、立ちのぼってきます。

蝉の声が、いつのまにか、止んでいました。

あたりは、しんと、静まりかえっていました。

自分の足音だけが、やけに、大きく、響きました。

森が、息を、ひそめているようでした。

祖父は、ふいに、立ち止まりました。

そして、手ごろな木の根もとに、どっこいしょ、と腰を下ろしました。

「ちょっと、ひと休みだ」

私は、こんな時に、と、気が気では、ありませんでした。

早く、帰りたい。

その一心でした。

祖父は、ふところから、煙草と、マッチを、取り出しました。

そして、ゆっくりと、一本に、火を点けました。

シュッ、という音と、硫黄の匂い。

祖父は、深く、吸い込むと。

プカー、と、長い煙を、吐き出しました。

その煙が、動かない夏の空気の中を、まっすぐに、のぼっていきました。

私は、その煙を、ぼんやりと、見ていました。

祖父は、独り言のように、つぶやきました。

「心配すんな。こういうのは、たまにある」

たまにある、とは、どういうことか。

私は、聞き返すことが、できませんでした。

祖父の声が、あまりに、穏やかだったからです。

煙草を、吸い終わると。

祖父は、火を、丁寧に、土で消しました。

「よし、行くか」

ドッコイショ、と立ち上がり、また、歩き出しました。

その後ろ姿は、何も、変わっていませんでした。

けれど、空気だけが、ふっと、軽くなった気が、したのです。

歩き出して、ほんの、十分ほど、でした。

ふいに、木立が、切れました。

その向こうに、見慣れた、祖父の家の屋根が、見えたのです。

あんなに、帰れなかった道を、嘘のように、抜けていました。

私は、ほっとして、その場に、座り込みそうになりました。

祖父は、振り返って、にやりと、笑いました。

私が、何だか、釈然としない顔をしていたのでしょう。

祖父は、こう、言いました。

「煙を出すとな、ちゃんと、帰れるんだよ」

煙を、出すと。

それだけ言って、祖父は、もう、何も、説明しませんでした。

まるで、当たり前のことのように。

あとで、本で、読んだことがあります。

山で、化かされていると感じたら、煙草に、火を点けるとよい、と。

煙には、邪を祓う力が、あるのだと。

どこかで、ぎゃあ、という叫び声がして。

あたりが、急に、明るくなり、家に帰れた、という話でした。

水木しげるの本の、ムジナだったか、何かの話です。

祖父は、その晩、何事も、なかったように、夕飯を、食べていました。

きのこ汁は、滋味深く、本当に、おいしかった。

あの、迷った数時間のことを、祖父は、二度と、口にしませんでした。

怪異だの、神隠しだの、という、大げさなものでは、ないのです。

あの人にとっては、ただの、日常の、ひとこまでした。

こういうのは、たまにある。

祖父は、もう、いません。

裏山も、今は、人が入らず、荒れていると、聞きます。

それでも、私は、たまに、思うのです。

あの夏、私たちが、ぐるぐると、歩いていた場所は。

本当に、いつもの裏山だったのでしょうか。

祖父の煙草の煙だけが、私を、こちら側へ、連れ戻してくれたのです。

祖父の家は、谷川の音が、一日じゅう、聞こえる場所に、ありました。

土間には、古い炭俵が、まだ、いくつか、積まれていました。

朝は、谷を渡る風が、ひんやりと、冷たく。

昼は、蝉の声が、山じゅうに、満ちました。

夜は、都会では見たこともない数の星が、降ってきそうでした。

その夏のことを、私は、今でも、昨日のように、思い出せます。

祖父は、山に入るとき、いつも、私に、言い聞かせました。

「山では、大きな声を、出すな」

「呼ばれても、振り向くな」

子どもだった私は、半分、おまじないのように、聞いていました。

「どうして、振り向いちゃ、だめなの」

私が尋ねると、祖父は、少し、笑って言いました。

「振り向くと、連れていかれるからな」

その時は、ただの、脅かしだと、思っていました。

同じ景色を、繰り返すうちに。

私は、奇妙なことに、気づきました。

行きには聞こえていた、谷川の音が、消えていたのです。

あれほど、はっきりと、聞こえていた、水の音が。

耳を、すませても。

ただ、自分の、心臓の音だけが、するばかりでした。

ふと、遠くで、誰かが、私の名を、呼んだ気が、しました。

思わず、振り向きそうになりました。

その時です。

祖父の、節くれだった手が、私の肩を、ぐっと、押さえました。

「振り向くな」

低い、けれど、有無を言わせぬ、声でした。

私は、ぞくりとして、前だけを、見て歩きました。

のちに、祖父は、ぽつりと、教えてくれました。

「山には、こっちと、向こうの、境い目があってな」

「うっかり、向こうに足を、踏み入れることが、あるんだ」

「そういう時は、慌てず、煙を、出すんだよ」

煙は、こちらの、人の匂い。

それを、たどって、帰ってくるのだと、祖父は、言いました。

祖父には、似たような話が、いくつも、ありました。

若い頃、炭焼き小屋で、一晩、誰かに、戸を叩かれ続けた話。

沢で、見たことのない、子どもと、すれ違った話。

どれも、祖父は、なんでもないことのように、語りました。

「山で暮らすってのは、そういう連中と、隣り合わせってことさ」

恐れず、侮らず。

祖父は、その距離の取り方を、知っている人でした。

その日の朝も、祖父は、夜明け前に、私を、起こしました。

「きのこは、朝のうちが、いい」

まだ薄暗い土間で、私たちは、握り飯を、頬張りました。

祖父の作る握り飯は、塩だけの、素朴なものでした。

それが、不思議と、力の出る味でした。

竹の籠を背負い、私たちは、霧の残る山道を、登り始めました。

沢のきのこを摘みながら、祖父は、いろいろなことを、教えてくれました。

食べられるきのこと、毒のあるきのこの、見分け方。

水の流れる方向で、麓のある向きが、分かること。

「山は、ちゃんと、道しるべを、出してくれている」

「それを、読めるかどうかだ」

私は、その言葉を、半分も、分かっていませんでした。

何度目かの、見覚えのある岩の前で。

私は、とうとう、足を、止めてしまいました。

「おじいちゃん、この岩、さっきも、見たよ」

祖父は、ちらりと、その岩を見て、うなずきました。

「ああ、見たな」

それだけでした。

驚きも、焦りも、その声には、ありませんでした。

空の色が、おかしいことにも、気づきました。

夕方には、まだ、早いはずなのに。

あたりは、もう、薄墨を、流したように、暗いのです。

木々の影が、足もとで、長く、伸びていました。

その影が、ときどき、私の動きと、ずれて、揺れる気がしました。

私は、祖父の作業着の裾を、ぎゅっと、握りました。

家に着くと、祖母が、縁側で、私たちを、待っていました。

「遅かったねえ。心配したよ」

その、ごく普通の声が、どれほど、ありがたかったか。

私は、思わず、祖母に、駆け寄りました。

きのこの籠を下ろした祖父は、ただ、空を、見上げていました。

「今日は、少し、深く、入りすぎたな」

そう、独り言のように、つぶやきました。

大人になって、私は、あの集落を、訪ねたことがあります。

祖父の家は、もう、ありませんでした。

裏山へ続く道も、草に埋もれて、たどれませんでした。

近所の老人に、あの山のことを、尋ねてみました。

老人は、少しだけ、顔を、曇らせました。

「あの山はな、煙草を持たずに、入るもんじゃない」

その一言で、私は、あの夏のことを、すべて、思い出したのです。

思えば、祖父は、山では、よく、煙草を吸いました。

麓では、一日に、数えるほどしか、吸わないのに。

分かれ道に来るたび。

沢を渡るたび。

祖父は、決まって、一本、火を点けました。

あれは、休憩では、なかったのだと、今は、思います。

一歩ごとに、こちら側の匂いを、置いていたのです。

あの時、私は、半泣きで、祖父に、すがりました。

「ねえ、本当に、帰れるの」

祖父は、私の頭に、大きな手を、乗せました。

「大丈夫だ。じいちゃんが、ついてる」

その手の、温かさと、重さ。

それだけが、暗くなっていく森の中で、私の、よりどころでした。

煙草の煙が、空へのぼり切ったあと。

私は、はっきりと、感じました。

止んでいた、谷川の音が。

ふたたび、どこからか、聞こえ始めたのです。

さらさらと、遠く。

その音は、まるで、道しるべのように、私たちを、呼んでいました。

祖父は、その音のする方へ、迷わず、歩き出しました。

あの集落の老人は、別れ際に、もう一つ、教えてくれました。

昔、煙草を切らした若い猟師が、山で、戻らなくなったことがある、と。

三日後に、見つかったときには。

沢のそばで、ぼんやりと、座っていたそうです。

自分が、どこに、何日いたのか。

その猟師は、最後まで、思い出せなかったといいます。

祖父が、慌てなかった理由が、今なら、分かります。

恐れれば、向こうに、つけ込まれる。

侮れば、足を、すくわれる。

ただ、淡々と、こちら側の作法を、守ること。

煙草の一本に、火を点けること。

それが、あの山と、長く付き合うための、祖父の知恵だったのです。

歩きながら、私は、自分たちの影を、何度も、確かめました。

夕日に伸びた、二つの影。

祖父の影と、私の影です。

けれど、一度だけ。

その後ろに、もう一つ、細長い影が、伸びている気が、しました。

振り返ろうとして、祖父の声を、思い出し、やめました。

見なかったことに、するのが、いちばんだと、子ども心に、悟ったのです。

その晩のきのこ汁を、私は、今でも、忘れません。

あれほど、迷って、ようやく持ち帰ったきのこです。

祖父は、味噌を溶いた汁に、惜しみなく、それを、入れました。

湯気の向こうで、祖父は、満足そうに、汁を、すすりました。

「やっぱり、山のもんは、うまいな」

何事もなかったような、その横顔を、私は、じっと、見ていました。

こわさよりも、その平然さのほうが、ずっと、不思議でした。

「こっちと、向こうの、境い目」

祖父の、その言葉が、ずっと、胸に、残っています。

私たちは、ふだん、こちら側だけを、見て、暮らしています。

けれど、山の奥には、その境い目が、薄くなる場所が、あるのだと。

そこへ、うっかり、踏み込むと。

同じ道が、いつまでも、繰り返されるのだと、祖父は、言いました。

煙草の煙は、その境い目に、こちら側からの、しるしを、立てるのでしょう。

私は、煙草を、吸いません。

それでも、山へ入るときには、いつも、マッチを、一箱、持っていきます。

祖父に、そう、教わったからです。

使うことは、たぶん、ないでしょう。

けれど、ポケットの中の、その重みが。

なぜか、私を、ほんの少し、安心させてくれるのです。

あの夏の煙の匂いを、私は、まだ、覚えています。

あの夏、私は、たしかに、いつもとは違う場所を、歩いていました。

祖父がいなければ、私も、あの猟師のように。

沢のそばで、ぼんやりと、座り込んでいたかもしれません。

何日が、過ぎたのかも、分からないまま。

そう思うと、今でも、夏の夕暮れの、あの静けさが、こわくなります。

蝉の声が、ふいに、止む、あの一瞬が。

祖父の遺品の中に、古いマッチ箱が、一つ、ありました。

擦り減った、赤い箱です。

中には、まだ、何本かの、マッチが、残っていました。

私は、それを、今も、机の引き出しに、しまっています。

祖父が、山で、いくつの境い目に、火を点けてきたのか。

それを思うと、その小さな箱が、ひどく、頼もしく、見えるのです。

こういうのは、たまにある。

祖父の、あの言葉だけが、今も、私の山歩きの、お守りです。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

ミステリーを応援する

読んでいただけるだけで、十分に励みになります。
当サイトは個人で運営しており、いただいたご支援はサーバー代やドメインの維持費に大切に使わせていただきます。

¥240 の一度きりのお支払いで応援いただけます。
お礼として、以後ずっと広告を非表示にいたします(継続課金はありません)。

くわしく見る →

メンバーなのに広告が表示される方

ブラウザを変えた・Cookieを削除した場合は、登録のメールアドレスを入力してください。