子どもの頃、ひと夏を、祖父の家で、過ごしたことがあります。
祖父は、山ふところの集落で、一人、暮らしていました。
若い頃は、炭焼きを、生業にしていた人です。
だから、裏山のことなら、目を、つむっていても歩ける、と言っていました。
その夏、私は、毎日のように、祖父について、山へ入りました。
都会育ちの私には、何もかもが、珍しかったのです。
ある日、私たちは、きのこを採りに、山の奥へ、入りました。
季節は、夏の盛りでした。
細い山道を、青々としたシダが、覆っていました。
それでも、人が分け入った跡は、はっきりと、たどれました。
祖父は、慣れた足取りで、ぐんぐん、登っていきます。
私は、その背中を、必死で、追いかけました。
行きは、三十分ほどで、目あての場所に、着きました。
沢のそばの、湿った木陰です。
そこに、白いきのこが、点々と、生えていました。
祖父は、食べる分だけを、丁寧に、摘み取りました。
「採りすぎると、来年、生えてこなくなる」
そう言って、籠の半分で、手を止めました。
沢の水で、顔を洗うと、しびれるほど、冷たかった。
頭の上では、蝉が、降るように、鳴いていました。
日差しは、木々の葉に、こまかく、砕かれていました。
何もかもが、穏やかな、夏の午後でした。
「さて、そろそろ、帰るとするか」
祖父の、その一言で、私たちは、来た道を、引き返し始めました。
※
異変に気づいたのは、歩き始めて、しばらく、してからでした。
一時間、歩いても、家に、着かないのです。
行きは、三十分の道だったはずでした。
道を、間違えたのか。
いいえ、来た道で、間違いありません。
目印にしていた、大きな曲がり木も、ちゃんと、ありました。
見覚えのある、岩。
見覚えのある、花の群れ。
どれも、行きに通った、そのままの場所でした。
道は、合っているのです。
なのに、進んでも、進んでも。
景色が、同じところを、繰り返すのです。
私は、だんだん、心細くなってきました。
「おじいちゃん、まだ、着かないの」
祖父は、答えませんでした。
ただ、いつもと変わらぬ、ゆっくりとした足取りで、歩き続けます。
その横顔が、少しも、慌てていないことに。
私は、かえって、不安になりました。
陽が、傾き始めていました。
行きには感じなかった、湿った匂いが、足もとから、立ちのぼってきます。
蝉の声が、いつのまにか、止んでいました。
あたりは、しんと、静まりかえっていました。
自分の足音だけが、やけに、大きく、響きました。
森が、息を、ひそめているようでした。
※
祖父は、ふいに、立ち止まりました。
そして、手ごろな木の根もとに、どっこいしょ、と腰を下ろしました。
「ちょっと、ひと休みだ」
私は、こんな時に、と、気が気では、ありませんでした。
早く、帰りたい。
その一心でした。
祖父は、ふところから、煙草と、マッチを、取り出しました。
そして、ゆっくりと、一本に、火を点けました。
シュッ、という音と、硫黄の匂い。
祖父は、深く、吸い込むと。
プカー、と、長い煙を、吐き出しました。
その煙が、動かない夏の空気の中を、まっすぐに、のぼっていきました。
私は、その煙を、ぼんやりと、見ていました。
祖父は、独り言のように、つぶやきました。
「心配すんな。こういうのは、たまにある」
たまにある、とは、どういうことか。
私は、聞き返すことが、できませんでした。
祖父の声が、あまりに、穏やかだったからです。
煙草を、吸い終わると。
祖父は、火を、丁寧に、土で消しました。
「よし、行くか」
ドッコイショ、と立ち上がり、また、歩き出しました。
その後ろ姿は、何も、変わっていませんでした。
けれど、空気だけが、ふっと、軽くなった気が、したのです。
※
歩き出して、ほんの、十分ほど、でした。
ふいに、木立が、切れました。
その向こうに、見慣れた、祖父の家の屋根が、見えたのです。
あんなに、帰れなかった道を、嘘のように、抜けていました。
私は、ほっとして、その場に、座り込みそうになりました。
祖父は、振り返って、にやりと、笑いました。
私が、何だか、釈然としない顔をしていたのでしょう。
祖父は、こう、言いました。
「煙を出すとな、ちゃんと、帰れるんだよ」
煙を、出すと。
それだけ言って、祖父は、もう、何も、説明しませんでした。
まるで、当たり前のことのように。
あとで、本で、読んだことがあります。
山で、化かされていると感じたら、煙草に、火を点けるとよい、と。
煙には、邪を祓う力が、あるのだと。
どこかで、ぎゃあ、という叫び声がして。
あたりが、急に、明るくなり、家に帰れた、という話でした。
水木しげるの本の、ムジナだったか、何かの話です。
祖父は、その晩、何事も、なかったように、夕飯を、食べていました。
きのこ汁は、滋味深く、本当に、おいしかった。
あの、迷った数時間のことを、祖父は、二度と、口にしませんでした。
怪異だの、神隠しだの、という、大げさなものでは、ないのです。
あの人にとっては、ただの、日常の、ひとこまでした。
こういうのは、たまにある。
祖父は、もう、いません。
裏山も、今は、人が入らず、荒れていると、聞きます。
それでも、私は、たまに、思うのです。
あの夏、私たちが、ぐるぐると、歩いていた場所は。
本当に、いつもの裏山だったのでしょうか。
祖父の煙草の煙だけが、私を、こちら側へ、連れ戻してくれたのです。
祖父の家は、谷川の音が、一日じゅう、聞こえる場所に、ありました。
土間には、古い炭俵が、まだ、いくつか、積まれていました。
朝は、谷を渡る風が、ひんやりと、冷たく。
昼は、蝉の声が、山じゅうに、満ちました。
夜は、都会では見たこともない数の星が、降ってきそうでした。
その夏のことを、私は、今でも、昨日のように、思い出せます。
祖父は、山に入るとき、いつも、私に、言い聞かせました。
「山では、大きな声を、出すな」
「呼ばれても、振り向くな」
子どもだった私は、半分、おまじないのように、聞いていました。
「どうして、振り向いちゃ、だめなの」
私が尋ねると、祖父は、少し、笑って言いました。
「振り向くと、連れていかれるからな」
その時は、ただの、脅かしだと、思っていました。
同じ景色を、繰り返すうちに。
私は、奇妙なことに、気づきました。
行きには聞こえていた、谷川の音が、消えていたのです。
あれほど、はっきりと、聞こえていた、水の音が。
耳を、すませても。
ただ、自分の、心臓の音だけが、するばかりでした。
ふと、遠くで、誰かが、私の名を、呼んだ気が、しました。
思わず、振り向きそうになりました。
その時です。
祖父の、節くれだった手が、私の肩を、ぐっと、押さえました。
「振り向くな」
低い、けれど、有無を言わせぬ、声でした。
私は、ぞくりとして、前だけを、見て歩きました。
のちに、祖父は、ぽつりと、教えてくれました。
「山には、こっちと、向こうの、境い目があってな」
「うっかり、向こうに足を、踏み入れることが、あるんだ」
「そういう時は、慌てず、煙を、出すんだよ」
煙は、こちらの、人の匂い。
それを、たどって、帰ってくるのだと、祖父は、言いました。
祖父には、似たような話が、いくつも、ありました。
若い頃、炭焼き小屋で、一晩、誰かに、戸を叩かれ続けた話。
沢で、見たことのない、子どもと、すれ違った話。
どれも、祖父は、なんでもないことのように、語りました。
「山で暮らすってのは、そういう連中と、隣り合わせってことさ」
恐れず、侮らず。
祖父は、その距離の取り方を、知っている人でした。
その日の朝も、祖父は、夜明け前に、私を、起こしました。
「きのこは、朝のうちが、いい」
まだ薄暗い土間で、私たちは、握り飯を、頬張りました。
祖父の作る握り飯は、塩だけの、素朴なものでした。
それが、不思議と、力の出る味でした。
竹の籠を背負い、私たちは、霧の残る山道を、登り始めました。
沢のきのこを摘みながら、祖父は、いろいろなことを、教えてくれました。
食べられるきのこと、毒のあるきのこの、見分け方。
水の流れる方向で、麓のある向きが、分かること。
「山は、ちゃんと、道しるべを、出してくれている」
「それを、読めるかどうかだ」
私は、その言葉を、半分も、分かっていませんでした。
何度目かの、見覚えのある岩の前で。
私は、とうとう、足を、止めてしまいました。
「おじいちゃん、この岩、さっきも、見たよ」
祖父は、ちらりと、その岩を見て、うなずきました。
「ああ、見たな」
それだけでした。
驚きも、焦りも、その声には、ありませんでした。
空の色が、おかしいことにも、気づきました。
夕方には、まだ、早いはずなのに。
あたりは、もう、薄墨を、流したように、暗いのです。
木々の影が、足もとで、長く、伸びていました。
その影が、ときどき、私の動きと、ずれて、揺れる気がしました。
私は、祖父の作業着の裾を、ぎゅっと、握りました。
家に着くと、祖母が、縁側で、私たちを、待っていました。
「遅かったねえ。心配したよ」
その、ごく普通の声が、どれほど、ありがたかったか。
私は、思わず、祖母に、駆け寄りました。
きのこの籠を下ろした祖父は、ただ、空を、見上げていました。
「今日は、少し、深く、入りすぎたな」
そう、独り言のように、つぶやきました。
大人になって、私は、あの集落を、訪ねたことがあります。
祖父の家は、もう、ありませんでした。
裏山へ続く道も、草に埋もれて、たどれませんでした。
近所の老人に、あの山のことを、尋ねてみました。
老人は、少しだけ、顔を、曇らせました。
「あの山はな、煙草を持たずに、入るもんじゃない」
その一言で、私は、あの夏のことを、すべて、思い出したのです。
思えば、祖父は、山では、よく、煙草を吸いました。
麓では、一日に、数えるほどしか、吸わないのに。
分かれ道に来るたび。
沢を渡るたび。
祖父は、決まって、一本、火を点けました。
あれは、休憩では、なかったのだと、今は、思います。
一歩ごとに、こちら側の匂いを、置いていたのです。
あの時、私は、半泣きで、祖父に、すがりました。
「ねえ、本当に、帰れるの」
祖父は、私の頭に、大きな手を、乗せました。
「大丈夫だ。じいちゃんが、ついてる」
その手の、温かさと、重さ。
それだけが、暗くなっていく森の中で、私の、よりどころでした。
煙草の煙が、空へのぼり切ったあと。
私は、はっきりと、感じました。
止んでいた、谷川の音が。
ふたたび、どこからか、聞こえ始めたのです。
さらさらと、遠く。
その音は、まるで、道しるべのように、私たちを、呼んでいました。
祖父は、その音のする方へ、迷わず、歩き出しました。
あの集落の老人は、別れ際に、もう一つ、教えてくれました。
昔、煙草を切らした若い猟師が、山で、戻らなくなったことがある、と。
三日後に、見つかったときには。
沢のそばで、ぼんやりと、座っていたそうです。
自分が、どこに、何日いたのか。
その猟師は、最後まで、思い出せなかったといいます。
祖父が、慌てなかった理由が、今なら、分かります。
恐れれば、向こうに、つけ込まれる。
侮れば、足を、すくわれる。
ただ、淡々と、こちら側の作法を、守ること。
煙草の一本に、火を点けること。
それが、あの山と、長く付き合うための、祖父の知恵だったのです。
歩きながら、私は、自分たちの影を、何度も、確かめました。
夕日に伸びた、二つの影。
祖父の影と、私の影です。
けれど、一度だけ。
その後ろに、もう一つ、細長い影が、伸びている気が、しました。
振り返ろうとして、祖父の声を、思い出し、やめました。
見なかったことに、するのが、いちばんだと、子ども心に、悟ったのです。
その晩のきのこ汁を、私は、今でも、忘れません。
あれほど、迷って、ようやく持ち帰ったきのこです。
祖父は、味噌を溶いた汁に、惜しみなく、それを、入れました。
湯気の向こうで、祖父は、満足そうに、汁を、すすりました。
「やっぱり、山のもんは、うまいな」
何事もなかったような、その横顔を、私は、じっと、見ていました。
こわさよりも、その平然さのほうが、ずっと、不思議でした。
「こっちと、向こうの、境い目」
祖父の、その言葉が、ずっと、胸に、残っています。
私たちは、ふだん、こちら側だけを、見て、暮らしています。
けれど、山の奥には、その境い目が、薄くなる場所が、あるのだと。
そこへ、うっかり、踏み込むと。
同じ道が、いつまでも、繰り返されるのだと、祖父は、言いました。
煙草の煙は、その境い目に、こちら側からの、しるしを、立てるのでしょう。
私は、煙草を、吸いません。
それでも、山へ入るときには、いつも、マッチを、一箱、持っていきます。
祖父に、そう、教わったからです。
使うことは、たぶん、ないでしょう。
けれど、ポケットの中の、その重みが。
なぜか、私を、ほんの少し、安心させてくれるのです。
あの夏の煙の匂いを、私は、まだ、覚えています。
あの夏、私は、たしかに、いつもとは違う場所を、歩いていました。
祖父がいなければ、私も、あの猟師のように。
沢のそばで、ぼんやりと、座り込んでいたかもしれません。
何日が、過ぎたのかも、分からないまま。
そう思うと、今でも、夏の夕暮れの、あの静けさが、こわくなります。
蝉の声が、ふいに、止む、あの一瞬が。
祖父の遺品の中に、古いマッチ箱が、一つ、ありました。
擦り減った、赤い箱です。
中には、まだ、何本かの、マッチが、残っていました。
私は、それを、今も、机の引き出しに、しまっています。
祖父が、山で、いくつの境い目に、火を点けてきたのか。
それを思うと、その小さな箱が、ひどく、頼もしく、見えるのです。
こういうのは、たまにある。
祖父の、あの言葉だけが、今も、私の山歩きの、お守りです。