その夜、私は、いつもより、少し早く、仕事を終えました。
駅前の、古い雑居ビルへ、足が向きました。
六階に、夜燈書房という、深夜まで開いている古書店があるのです。
終電前の、誰もいない店内で、背表紙を眺める。
それが、私の、ささやかな息抜きでした。
その日も、何か掘り出し物がないかと、心が、軽く弾んでいました。
私には、昔からの、妙な癖があります。
本を買う夜は、使う額を決めて、財布から抜いておくのです。
その晩は、千円札を三枚、上着の胸ポケットに、移しました。
こうしておくと、つい買いすぎる、ということがありません。
小さな習慣ですが、もう、十年以上、続けています。
その三枚が、のちに、私を、ひどく、混乱させることになります。
ビルの一階は、薄暗く、人の気配がありませんでした。
古いエレベーターの、黄ばんだボタンを、押します。
ガコン、と音を立てて、箱が、降りてきました。
中の蛍光灯は、一つだけ、切れかけて、点滅していました。
私は、六階のボタンを、押しました。
扉が閉まり、箱は、軋みながら、上がっていきます。
階数を示す表示が、一つずつ、灯っていきました。
四階。
五階。
六階。
チン、と、間の抜けた音がして、扉が、開きました。
そして、私は、立ちつくしました。
※
視界の一面が、真っ白だったのです。
壁も、天井も、床も。
本来、白くないはずの場所まで、すべてが、白でした。
古書店の、木の看板も。
廊下の、消火栓の赤も。
何もかもが、塗りつぶしたように、白いのです。
いっせいに、改装でも始まったのか、と思いました。
けれど、それなら、養生のシートや、工具が、あるはずです。
何も、ありませんでした。
ただ、白い空間が、奥へ、奥へと、続いているだけ。
音も、ありませんでした。
自分の、呼吸の音だけが、やけに、大きく聞こえました。
私は、エレベーターを、降りませんでした。
足が、すくんで、動かなかったのです。
何かが、決定的に、おかしい。
そう、本能が、告げていました。
私は、振り返って、もう一度、一階のボタンを、押そうとしました。
その時です。
まだ、箱は、動いていないはずでした。
なのに、チン、と、もう一度、音がしたのです。
目の前の扉が、ふたたび、開きました。
そして、白い廊下のほうから。
一人の、初老の男が、こちらへ、歩いてきました。
工事現場の作業着のような、灰色の服を着ていました。
※
男は、私を見るなり、目を、大きく見開きました。
「なぜ、ここにいる」
低い、けれど、鋭い声でした。
「どこから、入った」
私は、思わず、後ずさりました。
取り壊しか何かで、立ち入り禁止の階だったのか、と思いました。
私は、しどろもどろに、説明しました。
「すみません、エレベーターで、上がってきたら、お店が、なくて」
「このビル、改装、するんですか」
男は、首を、横に振りました。
「そうじゃ、ないんだ」
「ここは、まだ、できていない」
意味が、分かりませんでした。
「できていない、というと、工事中、ですか」
「違う」
男は、少し、困ったような顔をしました。
「ここは、少しだけ、ずれているんだよ」
「あんたが、来ていい場所じゃ、ないんだ」
私は、ただ、立ちつくしていました。
男は、ため息をついて、ふところから、古い携帯電話を、取り出しました。
そして、番号も押さないまま、それを、耳に当てました。
「もしもし。一名、紛れ込んでいます」
「ええ。トオリヌケで、お願いします」
その、聞いたこともない言葉が、やけに、耳に残りました。
男は、電話を、しまいました。
「悪かったね。いきなり、驚かせて」
そう言って、男は、私に向かって、軽く、頭を下げました。
「目を、つむっていなさい。すぐ、終わるから」
私は、わけも分からず、目を、つむりました。
次の瞬間のことを、私は、うまく、説明できません。
※
気がつくと、私は、ビルの、玄関の前に、立っていました。
夜風が、頬に、冷たかった。
さっきまで、私は、六階の、白い空間にいたはずです。
瞬間移動、というものが、もし本当にあるなら。
きっと、こういう感じなのだろう、と思いました。
見上げると、ビルの六階の窓には、いつも通りの、古書店の灯りが、点いていました。
私は、腕時計に、目を、落としました。
針は、夜の十一時半を、指していました。
おかしい、と思いました。
私が、ビルに入ったのは、まだ、八時前だったのです。
三時間以上が、消えていました。
携帯電話の時計も、確かめました。やはり、十一時半でした。
私は、胸ポケットに、手を当てました。
そこには、さっき入れた、千円札が、三枚。
一枚も、減らず、増えもせず。
皺の寄り方まで、そのまま、入っていました。
私は、結局、一冊の本も、買っていないのです。
では、あの、消えた三時間。
私は、いったい、どこに、いたのでしょうか。
後日、私は、勇気を出して、もう一度、夜燈書房を、訪ねました。
店主に、それとなく、聞いてみました。
先日、六階が、真っ白だったことは、ありませんか、と。
店主は、不思議そうな顔で、笑いました。
「うちは、ずっと、この通り、普通に、開けてますよ」
その言葉に、私は、ただ、うなずくしか、ありませんでした。
あの、灰色の服の男が、誰だったのか。
トオリヌケ、という言葉が、何を意味したのか。
私が、紛れ込んだ場所は、いったい、どこだったのか。
考えても、答えは、出ません。
ただ、今でも、あのビルのエレベーターに乗ると。
六階のボタンを、押す指先が、ほんの少しだけ、ためらうのです。
その頃、私の毎日は、灰色に、塗りつぶされていました。
残業続きで、家には、寝に帰るだけ。
夜燈書房の、黄ばんだ照明と、古い紙の匂いだけが。
私を、人間に、戻してくれる場所でした。
店主とは、顔なじみでしたが、ほとんど、言葉は交わしません。
会釈だけで通じる、その距離が、心地よかったのです。
その夜、私は、ある絶版の写真集を、探していました。
古い灯台ばかりを、撮り集めた一冊です。
前の週、棚で見かけたのに、買いそびれていました。
まだ、あるだろうか。
なければ、また、誰かの手に渡ってしまう。
そんな、たわいない焦りが、私を、いつもより、急かしていました。
白い空間からは、匂いも、消えていました。
あの、古書店の、紙とほこりの匂いが、まったく、しないのです。
温度も、なく。
湿り気も、なく。
ただ、つるりとした、無の感触だけが、漂っていました。
そこは、場所、というより、場所の、抜け殻のようでした。
私は、試しに、片足だけ、敷居から、外へ出してみました。
靴の裏が、白い床に、触れました。
音が、しませんでした。
硬いのか、柔らかいのかも、分かりません。
足の裏の感覚だけが、すっと、消えたようでした。
私は、慌てて、足を、引っ込めました。
男は、私の顔を、しばらく、じっと見ていました。
「あんた、運が、いいのか、悪いのか」
そう、つぶやきました。
「ここに入って、戻れる者は、そう、多くない」
私の背すじを、冷たいものが、走りました。
「戻れなかった人は、どうなるんですか」
私の問いに、男は、答えませんでした。
ただ、白い廊下の、奥のほうへ、ちらりと、目をやりました。
目をつむった私の耳もとで、男の声が、聞こえました。
「次は、間違えて、入ってくるなよ」
その声が、ひどく、遠くから、響くように、変わっていきました。
体が、すうっと、下へ引かれる感覚。
耳の奥で、水の中にいるような、こもった音がしました。
それから、ふいに、夜風の匂いが、戻ってきたのです。
その夜、家に帰っても、私は、眠れませんでした。
消えた三時間を、必死に、思い出そうとしました。
けれど、エレベーターの扉が開いた、あの瞬間から。
夜風が戻るまでの間が、ぽっかりと、空白なのです。
記憶がない、というのとも、違いました。
はじめから、そこに、時間が、なかったような感覚でした。
翌朝、私は、ビルの管理人に、それとなく、尋ねました。
六階より上の階は、何があるのか、と。
管理人は、首を、かしげました。
「このビルは、六階建てですよ。それより上は、ありません」
私が見たあの、白い廊下は、奥へ奥へと、続いていました。
六階建ての、いちばん上に、あんな奥行きは、ないはずでした。
後日、夜燈書房を訪ねたとき、私は、あの写真集を、見つけました。
探していた、灯台の一冊です。
棚の、ちょうど、目の高さに、差してありました。
奥付を、めくってみて、私は、息を、のみました。
私が紛れ込んだ夜の日付で、誰かが、鉛筆で、薄く、印をつけていたのです。
その筆跡に、なぜか、見覚えが、あるような気がしました。
私は、その本を、買いませんでした。
買ってしまったら、何かが、確定してしまう気がしたのです。
今も、あの一冊は、あの棚に、差さったままでしょうか。
それとも、別の誰かの、消えた数時間に、紛れ込んだのでしょうか。
確かめに行く勇気は、まだ、ありません。
その雑居ビルは、戦後すぐに建てられた、古いものでした。
テナントは、何度も、入れ替わっています。
以前は、各階に、小さな事務所が、入っていたそうです。
今は、半分以上が、空き室でした。
夜になると、灯りの点く窓は、数えるほど。
その中で、六階の古書店だけが、ぽつりと、明るいのです。
あとから、思い出したことが、あります。
少し前、店主が、ぽつりと、言っていたのです。
「常連さんが、一人、来なくなってねえ」
毎晩のように、来ていた人だったそうです。
ある夜から、ふっつりと、姿を消したと。
その時は、ただの、世間話だと、思っていました。
今は、その人のことが、頭から、離れません。
白い廊下の、いちばん奥に。
一つだけ、ぼんやりと、灰色の点が、見えました。
人影のような、扉のような、判然としない、点です。
それは、動いていないようで、少しずつ、こちらへ、近づいている気もしました。
見つめていると、距離の感覚が、狂っていきます。
すぐそこのようで、遥か遠くのようでもありました。
灰色の服の男は、私を、傷つけようとは、しませんでした。
むしろ、困っているように、見えました。
間違って、迷い込んだ客を、もとの場所へ、送り返す。
それが、あの男の、役目なのかもしれません。
では、その役目を、いったい、誰が、男に、与えたのか。
その問いだけは、考えると、足もとが、すくむのです。
私は、図書館で、古い新聞を、調べました。
あの雑居ビルで、過去に、人が、行方不明になった例は、ないか。
小さな記事を、一つ、見つけました。
数十年前、ビルの住人が一人、忽然と、消えたという記事でした。
部屋には、争った跡も、遺書も、なく。
ただ、机の上に、読みかけの本が、開いたまま、置かれていたそうです。
そのエレベーターには、もう一つ、妙なところが、ありました。
階数ボタンが、六階までしか、ないのに。
その上に、何も書かれていない、白いボタンが、一つだけ、あったのです。
私は、いつも、それを、ただの予備だと、思っていました。
あの夜、私は、本当に、六階を、押したでしょうか。
切れかけの蛍光灯の、点滅の中で。
指先が、隣の、白いボタンに、触れていなかったと、言い切れません。
送り返される直前、男は、独り言のように、こう言いました。
「ここはな、まだ、誰のものでもない階なんだ」
「いつか、誰かが、使うために、空けてある」
その「いつか」が、いつなのか。
「誰か」が、誰なのか。
男は、もう、それ以上は、語りませんでした。
白い廊下が、その背中を、静かに、のみ込んでいきました。
あの灯台の写真集に、つけられていた、薄い鉛筆の印。
それは、いちばん奥のページの、無人の灯台の写真に、ついていました。
灯台の、点くはずのない灯りの窓に、小さな丸が、書かれていたのです。
まるで、そこに、誰かが、いると、言うように。
見覚えのある筆跡だと感じたのは、たぶん。
私自身の、字に、似ていたからでした。
私は、その夜のことを、誰にも、話していません。
話したところで、信じてもらえないでしょう。
自分でさえ、夢だったのではないかと、思う日があります。
けれど、あの三枚の千円札だけは、今も。
あの夜の皺のまま、机の引き出しに、しまってあります。
使う気には、どうしても、なれないのです。
図書館で見た、あの古い記事のことを、私は、何度も、思い返しました。
机の上に、開いたままの本が、残されていた、という一文。
その人も、本を、探していたのでしょうか。
夜燈書房の、あの店主が言った、来なくなった常連。
そして、数十年前に、消えたという住人。
その二人は、もしかすると、同じ場所に、紛れ込んだのではないか。
そんな考えが、夜ごと、頭をもたげるのです。
今でも、私は、ときどき、あのビルの前を、通ります。
六階の窓には、変わらず、古書店の灯りが、点いています。
けれど、エレベーターには、もう、乗れません。
あの、何も書かれていない、白いボタン。
それが、私を、待っている気が、するのです。
いつか、誰かが使うために、空けてある階。
その「誰か」に、自分が、選ばれてしまう日が、来ないとは。
どうしても、言い切れないのです。
一つだけ、確かなことが、あります。
あの夜、私は、行きと帰りで、別の人間に、なった気がするのです。
以前のように、夜の街を、気軽には、歩けません。
明るい店の灯りを見ても。
その奥に、もう一つ、白い廊下が、続いているのではないか。
そう、疑ってしまう癖が、ついてしまいました。
消えた三時間は、戻りません。
代わりに、消えない疑いだけが、私の中に、住みついたのです。
夜燈書房は、今も、あの六階で、灯りを点しています。
私の知らない誰かが、今夜も、終電前に、棚を眺めているのでしょう。
どうか、その人が、六階のボタンを、ちゃんと、押せていますように。
白いボタンに、指が、触れていませんように。
私は、ただ、それを、祈ることしか、できません。