消えた数時間

その夜、私は、いつもより、少し早く、仕事を終えました。

駅前の、古い雑居ビルへ、足が向きました。

六階に、夜燈書房という、深夜まで開いている古書店があるのです。

終電前の、誰もいない店内で、背表紙を眺める。

それが、私の、ささやかな息抜きでした。

その日も、何か掘り出し物がないかと、心が、軽く弾んでいました。

私には、昔からの、妙な癖があります。

本を買う夜は、使う額を決めて、財布から抜いておくのです。

その晩は、千円札を三枚、上着の胸ポケットに、移しました。

こうしておくと、つい買いすぎる、ということがありません。

小さな習慣ですが、もう、十年以上、続けています。

その三枚が、のちに、私を、ひどく、混乱させることになります。

ビルの一階は、薄暗く、人の気配がありませんでした。

古いエレベーターの、黄ばんだボタンを、押します。

ガコン、と音を立てて、箱が、降りてきました。

中の蛍光灯は、一つだけ、切れかけて、点滅していました。

私は、六階のボタンを、押しました。

扉が閉まり、箱は、軋みながら、上がっていきます。

階数を示す表示が、一つずつ、灯っていきました。

四階。

五階。

六階。

チン、と、間の抜けた音がして、扉が、開きました。

そして、私は、立ちつくしました。

視界の一面が、真っ白だったのです。

壁も、天井も、床も。

本来、白くないはずの場所まで、すべてが、白でした。

古書店の、木の看板も。

廊下の、消火栓の赤も。

何もかもが、塗りつぶしたように、白いのです。

いっせいに、改装でも始まったのか、と思いました。

けれど、それなら、養生のシートや、工具が、あるはずです。

何も、ありませんでした。

ただ、白い空間が、奥へ、奥へと、続いているだけ。

音も、ありませんでした。

自分の、呼吸の音だけが、やけに、大きく聞こえました。

私は、エレベーターを、降りませんでした。

足が、すくんで、動かなかったのです。

何かが、決定的に、おかしい。

そう、本能が、告げていました。

私は、振り返って、もう一度、一階のボタンを、押そうとしました。

その時です。

まだ、箱は、動いていないはずでした。

なのに、チン、と、もう一度、音がしたのです。

目の前の扉が、ふたたび、開きました。

そして、白い廊下のほうから。

一人の、初老の男が、こちらへ、歩いてきました。

工事現場の作業着のような、灰色の服を着ていました。

男は、私を見るなり、目を、大きく見開きました。

「なぜ、ここにいる」

低い、けれど、鋭い声でした。

「どこから、入った」

私は、思わず、後ずさりました。

取り壊しか何かで、立ち入り禁止の階だったのか、と思いました。

私は、しどろもどろに、説明しました。

「すみません、エレベーターで、上がってきたら、お店が、なくて」

「このビル、改装、するんですか」

男は、首を、横に振りました。

「そうじゃ、ないんだ」

「ここは、まだ、できていない」

意味が、分かりませんでした。

「できていない、というと、工事中、ですか」

「違う」

男は、少し、困ったような顔をしました。

「ここは、少しだけ、ずれているんだよ」

「あんたが、来ていい場所じゃ、ないんだ」

私は、ただ、立ちつくしていました。

男は、ため息をついて、ふところから、古い携帯電話を、取り出しました。

そして、番号も押さないまま、それを、耳に当てました。

「もしもし。一名、紛れ込んでいます」

「ええ。トオリヌケで、お願いします」

その、聞いたこともない言葉が、やけに、耳に残りました。

男は、電話を、しまいました。

「悪かったね。いきなり、驚かせて」

そう言って、男は、私に向かって、軽く、頭を下げました。

「目を、つむっていなさい。すぐ、終わるから」

私は、わけも分からず、目を、つむりました。

次の瞬間のことを、私は、うまく、説明できません。

気がつくと、私は、ビルの、玄関の前に、立っていました。

夜風が、頬に、冷たかった。

さっきまで、私は、六階の、白い空間にいたはずです。

瞬間移動、というものが、もし本当にあるなら。

きっと、こういう感じなのだろう、と思いました。

見上げると、ビルの六階の窓には、いつも通りの、古書店の灯りが、点いていました。

私は、腕時計に、目を、落としました。

針は、夜の十一時半を、指していました。

おかしい、と思いました。

私が、ビルに入ったのは、まだ、八時前だったのです。

三時間以上が、消えていました。

携帯電話の時計も、確かめました。やはり、十一時半でした。

私は、胸ポケットに、手を当てました。

そこには、さっき入れた、千円札が、三枚。

一枚も、減らず、増えもせず。

皺の寄り方まで、そのまま、入っていました。

私は、結局、一冊の本も、買っていないのです。

では、あの、消えた三時間。

私は、いったい、どこに、いたのでしょうか。

後日、私は、勇気を出して、もう一度、夜燈書房を、訪ねました。

店主に、それとなく、聞いてみました。

先日、六階が、真っ白だったことは、ありませんか、と。

店主は、不思議そうな顔で、笑いました。

「うちは、ずっと、この通り、普通に、開けてますよ」

その言葉に、私は、ただ、うなずくしか、ありませんでした。

あの、灰色の服の男が、誰だったのか。

トオリヌケ、という言葉が、何を意味したのか。

私が、紛れ込んだ場所は、いったい、どこだったのか。

考えても、答えは、出ません。

ただ、今でも、あのビルのエレベーターに乗ると。

六階のボタンを、押す指先が、ほんの少しだけ、ためらうのです。

その頃、私の毎日は、灰色に、塗りつぶされていました。

残業続きで、家には、寝に帰るだけ。

夜燈書房の、黄ばんだ照明と、古い紙の匂いだけが。

私を、人間に、戻してくれる場所でした。

店主とは、顔なじみでしたが、ほとんど、言葉は交わしません。

会釈だけで通じる、その距離が、心地よかったのです。

その夜、私は、ある絶版の写真集を、探していました。

古い灯台ばかりを、撮り集めた一冊です。

前の週、棚で見かけたのに、買いそびれていました。

まだ、あるだろうか。

なければ、また、誰かの手に渡ってしまう。

そんな、たわいない焦りが、私を、いつもより、急かしていました。

白い空間からは、匂いも、消えていました。

あの、古書店の、紙とほこりの匂いが、まったく、しないのです。

温度も、なく。

湿り気も、なく。

ただ、つるりとした、無の感触だけが、漂っていました。

そこは、場所、というより、場所の、抜け殻のようでした。

私は、試しに、片足だけ、敷居から、外へ出してみました。

靴の裏が、白い床に、触れました。

音が、しませんでした。

硬いのか、柔らかいのかも、分かりません。

足の裏の感覚だけが、すっと、消えたようでした。

私は、慌てて、足を、引っ込めました。

男は、私の顔を、しばらく、じっと見ていました。

「あんた、運が、いいのか、悪いのか」

そう、つぶやきました。

「ここに入って、戻れる者は、そう、多くない」

私の背すじを、冷たいものが、走りました。

「戻れなかった人は、どうなるんですか」

私の問いに、男は、答えませんでした。

ただ、白い廊下の、奥のほうへ、ちらりと、目をやりました。

目をつむった私の耳もとで、男の声が、聞こえました。

「次は、間違えて、入ってくるなよ」

その声が、ひどく、遠くから、響くように、変わっていきました。

体が、すうっと、下へ引かれる感覚。

耳の奥で、水の中にいるような、こもった音がしました。

それから、ふいに、夜風の匂いが、戻ってきたのです。

その夜、家に帰っても、私は、眠れませんでした。

消えた三時間を、必死に、思い出そうとしました。

けれど、エレベーターの扉が開いた、あの瞬間から。

夜風が戻るまでの間が、ぽっかりと、空白なのです。

記憶がない、というのとも、違いました。

はじめから、そこに、時間が、なかったような感覚でした。

翌朝、私は、ビルの管理人に、それとなく、尋ねました。

六階より上の階は、何があるのか、と。

管理人は、首を、かしげました。

「このビルは、六階建てですよ。それより上は、ありません」

私が見たあの、白い廊下は、奥へ奥へと、続いていました。

六階建ての、いちばん上に、あんな奥行きは、ないはずでした。

後日、夜燈書房を訪ねたとき、私は、あの写真集を、見つけました。

探していた、灯台の一冊です。

棚の、ちょうど、目の高さに、差してありました。

奥付を、めくってみて、私は、息を、のみました。

私が紛れ込んだ夜の日付で、誰かが、鉛筆で、薄く、印をつけていたのです。

その筆跡に、なぜか、見覚えが、あるような気がしました。

私は、その本を、買いませんでした。

買ってしまったら、何かが、確定してしまう気がしたのです。

今も、あの一冊は、あの棚に、差さったままでしょうか。

それとも、別の誰かの、消えた数時間に、紛れ込んだのでしょうか。

確かめに行く勇気は、まだ、ありません。

その雑居ビルは、戦後すぐに建てられた、古いものでした。

テナントは、何度も、入れ替わっています。

以前は、各階に、小さな事務所が、入っていたそうです。

今は、半分以上が、空き室でした。

夜になると、灯りの点く窓は、数えるほど。

その中で、六階の古書店だけが、ぽつりと、明るいのです。

あとから、思い出したことが、あります。

少し前、店主が、ぽつりと、言っていたのです。

「常連さんが、一人、来なくなってねえ」

毎晩のように、来ていた人だったそうです。

ある夜から、ふっつりと、姿を消したと。

その時は、ただの、世間話だと、思っていました。

今は、その人のことが、頭から、離れません。

白い廊下の、いちばん奥に。

一つだけ、ぼんやりと、灰色の点が、見えました。

人影のような、扉のような、判然としない、点です。

それは、動いていないようで、少しずつ、こちらへ、近づいている気もしました。

見つめていると、距離の感覚が、狂っていきます。

すぐそこのようで、遥か遠くのようでもありました。

灰色の服の男は、私を、傷つけようとは、しませんでした。

むしろ、困っているように、見えました。

間違って、迷い込んだ客を、もとの場所へ、送り返す。

それが、あの男の、役目なのかもしれません。

では、その役目を、いったい、誰が、男に、与えたのか。

その問いだけは、考えると、足もとが、すくむのです。

私は、図書館で、古い新聞を、調べました。

あの雑居ビルで、過去に、人が、行方不明になった例は、ないか。

小さな記事を、一つ、見つけました。

数十年前、ビルの住人が一人、忽然と、消えたという記事でした。

部屋には、争った跡も、遺書も、なく。

ただ、机の上に、読みかけの本が、開いたまま、置かれていたそうです。

そのエレベーターには、もう一つ、妙なところが、ありました。

階数ボタンが、六階までしか、ないのに。

その上に、何も書かれていない、白いボタンが、一つだけ、あったのです。

私は、いつも、それを、ただの予備だと、思っていました。

あの夜、私は、本当に、六階を、押したでしょうか。

切れかけの蛍光灯の、点滅の中で。

指先が、隣の、白いボタンに、触れていなかったと、言い切れません。

送り返される直前、男は、独り言のように、こう言いました。

「ここはな、まだ、誰のものでもない階なんだ」

「いつか、誰かが、使うために、空けてある」

その「いつか」が、いつなのか。

「誰か」が、誰なのか。

男は、もう、それ以上は、語りませんでした。

白い廊下が、その背中を、静かに、のみ込んでいきました。

あの灯台の写真集に、つけられていた、薄い鉛筆の印。

それは、いちばん奥のページの、無人の灯台の写真に、ついていました。

灯台の、点くはずのない灯りの窓に、小さな丸が、書かれていたのです。

まるで、そこに、誰かが、いると、言うように。

見覚えのある筆跡だと感じたのは、たぶん。

私自身の、字に、似ていたからでした。

私は、その夜のことを、誰にも、話していません。

話したところで、信じてもらえないでしょう。

自分でさえ、夢だったのではないかと、思う日があります。

けれど、あの三枚の千円札だけは、今も。

あの夜の皺のまま、机の引き出しに、しまってあります。

使う気には、どうしても、なれないのです。

図書館で見た、あの古い記事のことを、私は、何度も、思い返しました。

机の上に、開いたままの本が、残されていた、という一文。

その人も、本を、探していたのでしょうか。

夜燈書房の、あの店主が言った、来なくなった常連。

そして、数十年前に、消えたという住人。

その二人は、もしかすると、同じ場所に、紛れ込んだのではないか。

そんな考えが、夜ごと、頭をもたげるのです。

今でも、私は、ときどき、あのビルの前を、通ります。

六階の窓には、変わらず、古書店の灯りが、点いています。

けれど、エレベーターには、もう、乗れません。

あの、何も書かれていない、白いボタン。

それが、私を、待っている気が、するのです。

いつか、誰かが使うために、空けてある階。

その「誰か」に、自分が、選ばれてしまう日が、来ないとは。

どうしても、言い切れないのです。

一つだけ、確かなことが、あります。

あの夜、私は、行きと帰りで、別の人間に、なった気がするのです。

以前のように、夜の街を、気軽には、歩けません。

明るい店の灯りを見ても。

その奥に、もう一つ、白い廊下が、続いているのではないか。

そう、疑ってしまう癖が、ついてしまいました。

消えた三時間は、戻りません。

代わりに、消えない疑いだけが、私の中に、住みついたのです。

夜燈書房は、今も、あの六階で、灯りを点しています。

私の知らない誰かが、今夜も、終電前に、棚を眺めているのでしょう。

どうか、その人が、六階のボタンを、ちゃんと、押せていますように。

白いボタンに、指が、触れていませんように。

私は、ただ、それを、祈ることしか、できません。

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