
俺の育った町には、入ってはいけない森があった。
柵も看板もない。
ただ、木と木のあいだに、白い紙を折った帯が渡してある。
不良も、肝試しの連中も、そこだけは行かない。
誰も近づかない場所なのに、あの帯の紙だけは、いつも新しかった。
大人に理由を訊いても、はっきりしたことは誰も言わなかった。
「あそこはいかん」
それで話は終わる。
祟りがあるとも、出るとも言わない。
言わないから、かえって皆が守っていたのだと思う。
中学生の俺は、そのことを一度も不思議に思わなかった。
※
行くところがなかった日
中学の二年から三年にかけて、俺は学校で完全に一人だった。
物を隠される。
教科書に落書きをされる。
話しかけると、その相手まで同じ扱いになる。
だから誰も話しかけてこない。
体育の着替えの時間が、いちばん長く感じた。
給食は、机を寄せる班分けのときに一人だけ余る。
余った机は、教室の後ろに動かされる。
一年のあいだ、俺の机はそこにあった。
教師は、見ていた。
見ていて、廊下の向こうへ歩いて行った。
家は家で、両親が互いのことで手一杯だった。
俺の部屋の前を、二人とも素通りしていく。
玄関に知らない靴があると、俺は外で時間を潰した。
行き先はなかった。
公園にいれば通報される。
図書館は五時で閉まる。
コンビニの前は、同じ学校の連中がいる。
※
その日は、鞄がひどい状態だった。
裂かれて、中の物が全部ばらまかれたあとだ。
教科書も、同じ目に遭っていた。
ページの端が三角に折られて、余白が全部埋まっている。
その字を書いた人間が、教室に何人もいる。
拾い集めて、帰る気力がなかった。
気づいたら、あの森の前に立っていた。
選んだのではない。
消去法で、そこしか残らなかった。
誰も来ない場所だ、というのが唯一の条件だった。
帯の紙は、その日も白かった。
雨に打たれた跡もない。
くぐるとき、紙が肩に触れた。
折り目がぱりっとしていた。
雨ざらしの紙は、こんな手触りにならない。
そのことに気づいていたのに、俺は足を止めなかった。
止まる理由のほうが、そのときの俺にはなかった。
俺はそれをくぐった。
※
道のない場所を歩いた
森の中には、道らしい道がなかった。
足元は落ち葉が厚く積もっていて、踏むと沈む。
音がしない。
枝を踏んでも、鳴らない。
湿った落ち葉が、全部吸ってしまう。
それがいちばん、外と違うところだった。
枝を掻き分けて進むうちに、少し開けた場所に出た。
木が円を描くように立っていて、真ん中だけ空が見える。
木の間隔が、どれも同じくらいに見えた。
自然に生えた木は、こうはならない気がした。
そう思ってから、振り返った。
自分が歩いてきた跡が、落ち葉に残っていなかった。
沈んだぶんが、もう戻っている。
人の手が入っているようにも、入っていないようにも見えた。
空の見えるところだけ、風が動いていた。
下には降りてこない。
木の幹に手を当てると、思ったより冷たかった。
俺は鞄を置いて、いちばん太い木にもたれた。
そこから先は、あまり覚えていない。
※
その頃、俺はほとんど眠れていなかった。
体は痛いし、頭は冴えている。
眠れば次の日が来る。
学校を休んでも、家には居場所がない。
眠らないほうが得だと、本気で思っていた。
その俺が、その森では、座って十秒で落ちた。
あとから考えると、それがいちばん妙な話だ。
あの森は、人を眠らせる場所だったのかもしれない。
入った人間がまともに帰れないというのも、そういうことなのだろうか。
眠らされて、そのまま何かを持って行かれる。
だとすると、俺は例外ということになる。
例外は、たいてい歓迎されない。
※
ざわめきの内容が違った
眠っていると、学校にいるときのようなざわめきが起きた。
俺は休み時間、いつも机に突っ伏してやり過ごしていた。
耳は塞げない。
だから聞こえてくる。
自分の悪口も、関係のない話も、全部。
森の中で聞こえたざわめきも、それと同じ質のものだった。
ただ、内容が違った。
いつもの、具体的で、切れ味のある言葉ではない。
「なにあれ」
「どういうこと」
「聞いてない」
戸惑っている。
俺の悪口は、いつも準備されていた。
言う側は迷わない。
迷っている悪口を、俺は初めて聞いた。
声は一つではなかった。
数はわからない。
教室の人数より多い気もしたし、二人か三人にも聞こえた。
どの声も、俺のほうを向いていなかった。
互いに確かめ合っている感じだった。
忌々しそうではあった。
だから悪口なのだろうと、当時の俺は思った。
※
ようやく眠れたのに、夢の中でも同じ思いをするのか。
そう思ったら、どうにも泣けてきた。
俺は声を上げて泣いた。
我慢する相手が、そこにはいなかったからだ。
耳がびりびりして、目の前が暗くなった。
それまでされたことを全部思い出しながら、もう嫌だと叫んでいた。
叫び続けて、そのまま気を失った。
※
三人に見つかった
気がついたら、三人の人間に囲まれていた。
誰にもあの場所へ行くとは言っていない。
一人は、町では知らない者のいない婆さんだった。
あとの二人は、その家の男女らしかった。
顔は見たことがない。
三人とも、汚れてもいい服を着ていた。
長靴に、手袋。
婆さんの手には、白い紙の束があった。
折り目のついた、あの帯と同じ紙だ。
俺はそれを、拝むための道具か何かだと思った。
散歩の格好ではない。
※
言っておくと、俺を毎日いちばん熱心に痛めつけていたのは、この婆さんの孫だった。
だから町の誰も、俺の味方をしなかった。
婆さんたちは俺を抱え起こすと、すぐに車に乗せた。
そして、その孫の家に連れて行った。
顔も見たくない相手だ。
車の中で、婆さんは一度だけ口を開いた。
「あんた、あそこで何しよった」
俺は答えられなかった。
婆さんはそれ以上訊かず、前を向いた。
助手席の男が、後ろの婆さんに小声で何か言った。
婆さんは、短く返した。
「替えたか」
「替えました」
何の話かは、当然わからなかった。
俺は抵抗する力もなく、玄関に座らされた。
※
ぼろぼろの俺の前で、孫は震えていた。
普段、誰も怖くないという顔をして歩いている男だ。
その男が、目を合わせられずに震えていた。
震え方が、怒られている子どもの震え方ではなかった。
取り返しのつかないことをした人間の震え方だった。
婆さんは、孫を一度も叱らなかった。
ただ、玄関の三和土に立って、黙って見ていた。
叱られるより、そのほうがこたえるらしい。
そして、土下座をした。
言葉になっていなかった。
俺は、何が起きているのかまるでわからなかった。
その日のうちに、俺の家に連絡が行った。
電話に出た母が、途中から敬語になっていくのが襖越しに聞こえた。
それまで俺のことで、母がそんな声を出したことは一度もない。
学校からの電話には、いつも面倒くさそうに応じていた人だ。
相手が誰かで、声が変わる。
そのことのほうが、俺には長く残った。
受話器を置いたあと、母は俺の部屋の前で立ち止まった。
入っては来なかった。
※
退院したら、全部が変わっていた
怪我と衰弱で、俺はしばらく入院した。
退院した頃には、町のほうが別物になっていた。
俺を痛めつけていた連中が、順番に病室へ謝りに来た。
妙だったのは、言うことがほとんど同じだったことだ。
「悪かった」
「もうせん」
それだけ言って、目を合わせずに出て行く。
誰かに文面を渡されたような揃い方だった。
担任が来た。
学年主任が来た。
最後に校長まで来た。
校長は、俺の名前を言い間違えた。
言い直して、もう一度頭を下げた。
名前も知らない生徒に、頭を下げに来る理由が、当時はわからなかった。
両親は、病室の床に手をついた。
意味がわからなかった。
俺は何も変わっていない。
体の痣も、成績も、家の事情も、何ひとつ。
謝られるようなことを、こちらが新しくしたわけでもない。
同じ人間が、同じ制服で、同じ顔をして立っている。
それなのに、全員の態度だけが裏返っていた。
入ってはいけないと言われる場所の話は、踏み入るべきではない場所のように各地にあるが、たいてい、理由のほうは伝わっていない。
※
森の中の人からの伝言
退院してしばらくして、俺はまた婆さんに呼ばれた。
あの家が町で一目置かれているのは、口寄せのようなことができるからだという。
代々、その家の者に伝わる力らしい。
森の中の何かが、婆さんの頭にいろいろな映像を送ってくる。
いつ来るかはわからない。
頼んでも来ないし、いらないときにも来る。
婆さんは、それを天気の話のように言った。
どうでもいい映像と、大事な映像が混ざって来る。
「近所の犬が子ぉ産む日ぃもわかるんよ」
婆さんはそう言って笑った。
そのわりに、笑いながら俺の顔をずっと見ていた。
俺が気を失ったのと同じ頃、婆さんは俺の映像を受け取ったのだという。
学校と家で俺がされていることと、森の中で倒れている姿。
誰にも言っていなかったのだから、信じるよりほかになかった。
当時の俺には、疑う体力も残っていなかった。
それに、疑ってしまえば、この状況の説明がつかなくなる。
説明のつく話を、人は手放せない。
※
婆さんによると、本来こんなことは起きないらしい。
あの森に入った人間は、まともな心のまま帰ってこられない。
それが、あの土地の決まりのようなものだった。
過去にどんな例があったのかは、教えてもらえなかった。
訊いても、婆さんは湯呑みを持ち直すだけだった。
だから俺は、いまも知らない。
知らないほうがいい話というのが、世の中にはある。
そのうえで、婆さんは苦笑いをしながら、伝言があると言った。
森の中の人、と婆さんは言った。
神様とも、化け物とも言わない。
あの家の言い方では、そこにいるのは「人」だった。
森の中の人から、俺への伝言だそうだ。
「その声はとても不愉快だ」
「二度と来るな」
「次はない」
「気持ちが悪い」
気持ちが悪い、まで律儀に伝えられた。
婆さんが言うには、俺の声には、形を持たないものを押さえつける何かがあるらしい。
あの晩、俺が泣き叫んだせいで、向こうは相当に消耗したという。
「あんたの声はな、あっちにはえらい響くんやと」
「押さえつけるような声らしいわ」
「知らんかったやろ」
知るわけがない。
俺の声は、学校では誰にも届いていなかった。
怒っているというより、迷惑がられている口ぶりだった。
※
名前のこと
そのとき、俺は一つだけ引っかかった。
伝言のなかで、婆さんは俺の本名を口にした。
苗字も、下の名前も、正しく。
俺は森で名乗っていない。
制服には名札もない。
鞄の中身は、あの日、全部ばらまかれたあとだ。
森の中の何かが名前まで送ってきたのだと、そのときの俺は思った。
※
その意味がわかったのは、ずっとあとだ。
三十を過ぎて、同級生の一人と飲む機会があった。
あの家の近所に住んでいた男だ。
店の名前も覚えていないような、安い居酒屋だった。
昔の話をするつもりは、こちらにはなかった。
向こうは、俺があの町を出た事情を知らないらしかった。
知らないまま、懐かしい町の話をしてくる。
俺は聞き役に回って、生返事をしていた。
そいつが、何気なく言った。
「あの家、夕方になると誰か森の前に立っとったよな」
「毎日な」
帯の紙を替えていたのは、あの家だった。
誰も入らない場所の紙が、いつも新しかった理由だ。
紙は、雨が続いた翌日に必ず替わっていた。
言われてみれば、あの帯だけが季節に関係なく白かった。
あの家は代々、あの森を見に行く役目を持っていた。
見に行って、帯を確かめて、傷んでいれば替える。
それだけの、地味な役目だ。
受信していたのではない。
見に行って、いつもと違う音を聞いたのだ。
あの日、あの三人は森の前にいた。
いつもの時刻に、いつもの役目で。
そこへ、中から人の泣き声がした。
受信も口寄せも要らない。
助手席の男が言った「替えました」は、紙のことだった。
俺が肩で触った紙は、あの日の夕方に替えられたばかりだったのだろう。
※
そして、名前の話に戻る。
孫は毎日、家で俺のことを話していた。
笑い話として、俺の名前を出していた。
笑い話として、俺の名前は毎日その家の食卓に出ていた。
あの人は、それを半年、聞き流していた。
あの人が動いたのは、俺が痛めつけられていたからではない。
孫が、あの家の守る場所に人を追い込んだからだ。
落ち度は、俺のほうにではなく、あの家のほうにあった。
だから孫が土下座した。
だから学校が動いた。
だから両親まで床に手をついた。
町の全員が裏返ったのは、俺のためではなかった。
ものを言う家が、一言、言っただけのことだ。
釘を打ちに行く人の話も、裏山の御神木に釘を打つ女のように、たいていは家の事情のほうが先にある。
森の中の何かが名前を教えたのだと、俺は十数年、そう思って生きてきた。
そのほうが、まだましだったからだ。
婆さんは、俺の名前を、半年前から知っていた。
※
そのあとのこと
周囲の腫れ物扱いに耐えられず、俺は中学を出ると同時に町を離れた。
都会で働いて、所帯を持って、子どもも生まれた。
十数年ぶりに帰省したとき、実家の手前であの森の横を通った。
後部座席で、五歳の娘がいきなり泣き出した。
「もりのひとが、こわいかおしてた」
俺は何も言わずに、車を出した。
挨拶だけ済ませて、その日のうちに帰った。
余談だが、そのあと俺は、わざと曰く付きの格安物件を借りたことがある。
三日ほど、家のあちこちで歌い続けた。
そうしたら、いつのまにか出なくなったらしい。
不動産屋も、見えるという知り合いも、雰囲気が変わったと驚いていた。
俺自身に霊感の類は一切ない。
そのあたりは、森の中の人に感謝している。
※
見えないもののほうは、正直、そこまで怖くない。
向こうは、迷惑がっただけだった。
怖かったのは、俺が何ひとつ変わっていないのに、全員の顔だけが変わったことだ。
帯の紙は、たぶん今年も替えられている。