図書館のL-108の本と窓際の席

本

大学二年の夏、市立図書館でアルバイトをしていた。

夜間の閉館業務が主な仕事で、そこで出会ったのが、L-108の本だった。

学費の足しにするつもりで始めた、ごく普通のバイトだった。

あの夏のことは、今でも、順番に思い出せる。

夜の図書館のアルバイト

仕事は、閉館の十分前に館内を巡回することから始まる。

残っている利用者に声をかけ、乱れた棚を直し、返却された本を元の場所に戻す。

返却ポストの本は、台車に積んで、棚の間を回った。

同僚は、四十代のパートさんが二人と、司書資格を持つ若い館長だった。

俺は雑用担当で、棚の整理と、鍵の施錠を任されていた。

バイトを始めた頃、俺は、本がそんなに好きではなかった。

それでも、背表紙を眺めていると、時間が過ぎた。

ジャンルごとに、棚の列がそれぞれ別の街のようだった。

静かな仕事で、正直なところ、俺には向いていた。

閉館後の図書館は、本当に静かだ。

蛍光灯の点いた通路と、暗い棚の向こうが、交互に続く。

奥へ行くほど、昼間よりも暗く感じた。

台車の車輪の音だけが、天井の高い館内に響いた。

古い紙の匂いは、夜になると、いっそう濃くなった。

閉館後は、館長が事務室で書類を片付ける。

パートさんは、五時半には帰ってしまう。

最後に施錠するのは、いつも俺だった。

照明を落とす順番も、自然と決まっていった。

出入口から遠い棚の列から、一つずつ消していく。

最後に残るのが、L棚の列だった。

暗くなる直前、その列は、いつも少しだけ白く見えた。

L棚は、日本の古い小説が並ぶ、一番地味な列だった。

借りる人も少なく、埃をかぶった本が多かった。

俺は、その埃を払うのが、少しだけ好きだった。

特にL棚の周りは、空調の風が溜まるのか、いつも空気が重かった。

L棚の前には、四人掛けの閲覧テーブルがある。

その窓際の席だけは、夏でも少し涼しかった。

パートさんは、「あそこは日陰だからね」と笑っていた。

俺も、そういうものかと思って、気にしなかった。

L-108の本が落ちる朝

異変に気づいたのは、バイトを始めて三週間ほど経った頃だった。

朝のシフトで出勤すると、L棚の前に、本が一冊、床に落ちていた。

表紙を上にして、まるで誰かが静かに置いたようだった。

「或る夜の記録」という、古い文庫本だった。

著者名は、読み取れないほど掠れている。

棚番号は、L-108と書いてあった。

俺はそれを拾い上げて、棚に戻した。

翌朝も、同じ本が、同じ場所に落ちていた。

偶然だと思った。棚がゆるいのだろうと。

念のため、脚立に上がって、棚板を調べてみた。

ぐらつきはなく、傾いてもいなかった。

ネジも緩んでおらず、棚板は、むしろ新しいくらいだった。

原因らしいものは、何も見つからなかった。

三日目も、四日目も、落ちているのはL-108の本だけだった。

他の本は、一冊も乱れていない。

戻すとき、わざと奥までしっかり差し込んでみた。

指で押さえて、ぐっと入れた。

それでも、翌朝には床にある。

最初は、前の晩の巡回で、自分が落としたのかと疑った。

だから、閉館の時に、必ず指差し確認をした。

確かに、棚に収まっている。背表紙も揃っている。

それなのに、朝になると、床にある。

夜間は、館内に誰も残らない。

鍵を持っているのは、館長と俺だけだった。

「夜の間に入った人はいませんよ」と、館長は穏やかに答えた。

警備会社の記録にも、異常はなかったそうだ。

しかも、開いたまま。毎回、同じページで。

五日目の朝、俺は初めて、中身を確かめた。

開いていたのは、百二十四ページだった。

そこには、一段落だけが書かれていた。

「明日の午後六時、誰も来ない。その椅子に座っていた女は、もう来ない。」

小説の一節だと思った。

でも、前後のページを読んでも、その文だけが浮いている。

本の中身は、昭和の雰囲気の短編だった。

女性が、図書館の閲覧席に通い続ける話だ。

いつも窓際の席で、誰かを待っている。

毎日、同じ時刻に閲覧席へ現れる。

窓の外が暗くなるまで、ページを開かずに座っている。

その描写が、妙に具体的で、読んでいて落ち着かなかった。

けれど、あの一文だけは、地の文ではなかった。

誰かが、直接こちらに語りかけているような口調だった。

パートさんに聞くと、「そんな本、気にしたことなかったわ」と言われた。

館長は、しばらく考えてから、「古い蔵書ですね、棚が傷んでいるのかもしれません」と言った。

それで、話は終わった。

俺は、冗談のつもりで、「呪いの本ですかね」と言ってみた。

笑ったのは、俺だけだった。

それでも、L-108の本は、毎朝落ちていた。

慣れとは恐ろしいもので、俺は次第に、それを日課にした。

出勤して、拾って、ページを確かめて、棚に戻す。

確かめるたびに、一節は、少しずつ濃く見えた。

気のせいだと、自分に言い聞かせながら。

前田照子という利用者

もう少し、確かめたくなった。

貸出システムに、本のバーコードを読み取らせた。

最後の貸出日は、二年と四ヶ月前だった。

氏名の欄には、「前田照子」とある。

返却日は、貸出の翌日。それだけの記録だった。

利用者データベースを開いて、その名前を検索した。

ヒットしたのは、一件だけ。

生年月日と、住所と、電話番号が出てきた。

最終利用日は、貸出履歴と同じ日付だった。

その隣に、小さな字で、「退会処理済み」とあった。

パートさんの一人に、退会の理由を尋ねた。

「退会処理は二種類あるのよ」と、彼女は言った。

「本人が申請するか、亡くなったと家族から届け出があるか」

それ以上のことは、俺には調べられなかった。

でも、二択のうち、どちらなのかは、決まった気がした。

前田照子さんは、この図書館に何かを残したまま、逝ったのではないか。

そう思った途端、あの窓際の席が、頭に浮かんだ。

貸出は、一冊だけだった。

返却されたのは、その翌日。

他に借りていた本は、一冊もない。

利用登録の日付は、貸出日のわずか一週間前だった。

つまり、この本のために、会員になった人だった。

あるいは、あの席に座るために、だったのかもしれない。

俺は、紙に前田照子という名前を書き写した。

ポケットに入れて、一日中、持ち歩いた。

名前を書いただけで、少し肩が重くなった気がした。

つまり、彼女は、読み終えて返しに来たのだ。

ならば、あの一文は、何だったのか。

考えても、答えは出なかった。

その夜は、帰り道の足取りが、いつもより重かった。

駅までの道で、何度も図書館の方を振り返った。

もちろん、窓の明かりは、もう消えていた。

部屋に戻っても、あの一文が、頭から離れなかった。

「その椅子に座っていた女は、もう来ない」

来ない、ということは、以前は来ていたということだ。

その単純な事実に、今さら気づいて、背中が冷えた。

午後六時の窓際の席

次の出勤日、俺は少し早めに来た。

L-108の本は、やはり床に落ちていた。

百二十四ページが、開いたままで。

俺はもう一度、あの一節を読んだ。

「明日の午後六時、誰も来ない。その椅子に座っていた女は、もう来ない。」

昨日より、少し強く、胸に入ってきた。

その日の午後六時、俺は閲覧スペースの椅子を見た。

窓に最も近い、四人掛けのテーブルの席だ。

誰も座っていない。

外の光が消えて、蛍光灯だけが白く照らしていた。

館内は、いつもより静かに感じた。

冷房の音すら、遠くに聞こえた。

俺は、三十分ほど、そのそばで作業をしながら待った。

何も起きなかった。誰も来なかった。

ただ、あの席だけが、あの夜、少しだけ冷えていた。

気のせいかもしれない。

帰り際、俺は椅子に向かって、「お疲れ様でした」と小声で言った。

自分でも、馬鹿みたいだと思いながら。

顔を上げると、窓ガラスに、俺だけが映っていた。

それが、なぜか、ほっとする眺めだった。

鍵を回して外へ出ると、夏の夜風が、頬に触れた。

その晩は、いつもより、早く眠れた。

目が覚めたとき、胸の奥の重さが、すっと消えていた。

翌朝、出勤すると、L-108の本は、棚に収まっていた。

背表紙をこちらに向けて、他の本と同じように、きれいに。

念のため、取り出して、百二十四ページを開いた。

あの一節は、そこにある。

その下に、昨日はなかった一行が増えていた。

「ありがとう」

鉛筆で、細く、薄く。

筆圧は弱く、それでいて、一文字ずつ丁寧だった。

消しゴムの跡は、どこにも見当たらなかった。

ずっと前から、そこにあったような書き方で。

お礼を書ける人は、もう、ここに来ないはずなのに。

俺は本を棚に戻して、二度と、確かめなかった。

確かめなくていいと、思ったから。

俺には、それが、一番丁寧な返事に思えた。

それ以来、L-108の本は、一度も落ちていない。

夏が終わり、バイトを辞める日、俺はもう一度だけ、L棚を見た。

「或る夜の記録」は、ちゃんとそこにあった。

掠れた背表紙の文字が、静かに並んでいた。

似たような不思議な体験は、鷹ノ巣山の霧や、ミチにも書いています。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

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