霧島、消えた駅

トンネル

三週間前の金曜の夜、私は消えた駅に停まる電車に乗っていた。

路線図のどこを探しても、その駅の名前は載っていない。

駅員に尋ねても、首をかしげられるだけだった。

それでも、あの夜、扉は確かに開いた。

最終電車の遅れ

その日は、学生時代の友人と、飯能の居酒屋で遅くまで飲んでいた。

本来なら二十一時台に出るはずの電車を、私は二本も見送った。

「もう一杯だけ」

「明日は休みだろ」

「そういえば、最近この線、変な噂があるらしいぞ」

「どんな」

「夜中に、存在しない駅に停まるんだと」

「馬鹿言え」

私は笑い飛ばして、最後の一杯を飲み干した。

そんなやりとりを繰り返すうちに、気づけば二十三時を回っていた。

慌てて改札を抜け、西武秩父行きの最終電車に飛び乗った。

自宅は秩父にある。

平日の特急では眠ってしまうので、こうして各駅停車に乗るのは久しぶりだった。

車内は、驚くほど空いていた。

子どもの頃、祖母がよく言っていた。

「山の電車には、乗せてはならない客がいる」

「どうして」

「行き先を、持っていないからだよ」

当時は、ただの昔話だと思っていた。

乗客は、私を入れて五人ほど。

向かいの席に、背広の若い男。

斜め向かいには、帽子を深くかぶった老人。

老人は膝の上で、小さな紙切れを両手で握りしめていた。

朝から小雨が降っていたせいか、窓ガラスは内側まで曇っていた。

私は袖で一部をぬぐい、外を覗いた。

暗い山の影が、ゆっくりと後ろへ流れていく。

座席の暖房が効いてきて、アルコールの眠気が瞼にのしかかった。

ふと、頭上の車内時計に目が止まった。

二十三時十二分。

針は、わずかに震えながら、そこで動かなくなっていた。

鞄から携帯電話を取り出した。

画面の右上には、圏外の二文字。

表示された時刻は、車内の時計と同じ、二十三時十二分だった。

秒の数字だけが、いつまでも、動かない。

酔いのせいだ、と自分に言い聞かせた。

けれど、手のひらにじわりと汗が滲んだ。

地図にないトンネル

東吾野を過ぎたあたりだったと思う。

電車は、予告もなく、トンネルに入った。

轟音が耳を塞ぎ、窓ガラスが、黒い鏡に変わった。

壁面に、白い染みが等間隔に並んでいた。

目を凝らすと、それは、手の形に見えた。

天井の蛍光灯が、一本ずつ消えていく。

最後に残った一本が、ちかちかと瞬いた。

光が途切れるたびに、車内の人影が、一つ増えている気がした。

私は、はっとして背筋を伸ばした。

「こんなところに、トンネルなんてあったか」

独り言が、口から漏れた。

何度も乗っているはずの区間だった。

けれど、この長さのトンネルを、私は知らない。

いつもなら、数十秒で抜ける。

しかしその夜は、一分を過ぎても、二分を過ぎても、出口の光が見えなかった。

空気が、少しずつ冷たくなっていく。

鼻の奥に、湿った土の匂いが入り込んだ。

それは雨の匂いというより、古い井戸の底のような匂いだった。

窓ガラスに、自分の顔が映っている。

その後ろの座席に、誰かが座っているように見えた。

振り向くと、そこには誰もいなかった。

もう一度、窓を見る。

映っている「後ろの誰か」は、さっきより、こちらに近い席に移っていた。

向かいの背広の男は、いつの間にか、うなだれたまま動かなくなっていた。

眠っているのだと思った。

けれど、電車が揺れても、その肩は、揺れなかった。

やがて、前方の闇が、わずかに白んだ。

トンネルを抜けた。

窓の外は、一面の霧だった。

濃い乳白色の中に、街灯の光が、ぼんやりとにじんでいる。

窓を叩く雨粒の音が、いつの間にか、聞こえなくなっていた。

耳の奥で、自分の脈だけが、やけに大きく響いている。

消えた駅の夜

普通なら、五分おきに駅が現れるはずだった。

東吾野の次は、吾野。

その次は、西吾野。

けれど、いつまで待っても、駅の灯りは見えなかった。

アナウンスも、ない。

車掌の声も、ない。

ただ、車輪の音だけが、規則正しく響いていた。

どれくらい経っただろう。

電車は、ブレーキの音もなく、すうっと速度を落とした。

そして、静かに止まった。

扉が、空気の抜ける音を立てて、開いた。

外は、オレンジ色の光に染まっていた。

ホームの向こうに、古い木造の待合室が見えた。

軒先には、橙色の提灯。

窓の中で、誰かが新聞を広げている。

ページをめくる音が、ここまで聞こえた。

ホームの蛍光灯が、霧に溶けて、夕焼けのように見える。

けれど、時刻は深夜のはずだった。

私は、席から立ち上がれなかった。

降りてはいけない。

理由のない確信が、胸の奥で膨らんでいた。

向かいの老人が、ゆっくりと立ち上がった。

握りしめていた紙切れを、帽子のつばの下で、確かめるように眺める。

そして、一言も発さず、開いた扉からホームへ降りていった。

その背中は、霧の中で、輪郭だけを残して薄れていった。

「あの」

私は思わず、声をかけた。

けれど、老人は、振り返らなかった。

ホームには、他に人影はなかった。

けれど、足元の床には、濡れた足跡がいくつも続いていた。

小さなもの。

大きなもの。

裸足のものも、混じっている。

すべてが、改札の方角へ向かって、一列に伸びていた。

改札の方角から、紙の擦れる音が聞こえた。

カチン。

カチン。

鋏で切符を切るような、乾いた音だった。

今どき、そんな音を立てる駅があるはずがない。

私は、窓の外に目をやった。

ホームの柱に、古びた駅名標が掛かっていた。

白い板に、黒い文字。

「霧島」

読み間違いかと思い、目を擦った。

けれど、何度見ても、その二文字だった。

霧島は、鹿児島にある地名だ。

埼玉の山あいに、あるはずがない。

その瞬間、扉が、閉まった。

電車は、再び動き出した。

駅名標が、ゆっくりと後ろへ遠ざかる。

最後に、ホームの端で、誰かが小さく手を上げたように見えた。

けれど、霧に滲んで、それが人だったのかどうかは、わからない。

ポケットの切符

電車は、またトンネルに入った。

今度は、すぐに抜けた。

窓の外に、見慣れたホームの灯りが現れた。

「吾野、吾野です」

やっと、アナウンスが流れた。

車内を見回すと、背広の男も、老人も、もういなかった。

五人いたはずの乗客は、私ひとりになっていた。

頭上の時計は、二十三時四十八分を指していた。

正しい時刻に、戻っていた。

私は、よろめきながらホームに降りた。

冷たい夜風が、頬を叩いた。

さっきまでの霧は、どこにもない。

ただの、小雨の降る夜だった。

駅員室の窓に、灯りがついていた。

私は、勇気を振り絞って尋ねた。

「すみません。この先に、霧島という駅は、ありますか」

駅員は、書類から顔を上げた。

「霧島? 九州の話ですか」

「いえ、今、電車が停まったんです。この線の途中で」

「ありませんよ。ここから西吾野まで、駅はありません」

「最終電車で、何かありましたか」

駅員は、ふいに声を落とした。

「実は、たまにいるんですよ。同じことを聞いてくる方が」

「いつからですか」

「さあ。私が来る前からだと聞いています」

駅員は、それ以上、何も語らなかった。

帰り道の坂で、ふと振り返った。

吾野の駅舎は、いつもの淡い灯りをともしている。

その向こうの暗がりに、もう一つ、橙色の光が浮かんでいるように見えた。

目を凝らすと、それはすっと消えた。

駅員は、困ったように笑った。

私は、礼を言って、その場を離れた。

家に着いたのは、午前一時近くだった。

コートを脱ごうとして、ポケットに、硬いものが入っているのに気づいた。

取り出すと、それは、小さな厚紙の切符だった。

いまどき見かけない、古い硬券。

行き先の欄には、薄れた活字で、あの二文字が印刷されている。

裏返すと、にじんだ鉛筆の字があった。

「のこり一名」

意味は、わからない。

隅に、鋏の切れ込みが一つ、入っていた。

あの老人が握りしめていたものと、よく似ていた。

改札鋏の入った硬い切符は、私のポケットの中で、まだ温かかった。

私は、それを引き出しの奥にしまった。

あの消えた駅は、いまもどこかで、乗客を待っているのかもしれない。

いまも、捨てられずにいる。

金曜の夜になると、窓の外の闇を、つい目で追ってしまう。

霧が出ていないか。

あの橙色の光が、どこかに灯っていないか。

翌朝、昨夜の友人に電話をかけた。

「無事に帰れたか」

「ああ。ただ、変なことがあった」

私が話し終えるまで、友人は黙っていた。

「……お前、何時の電車に乗った」

「二十三時過ぎの最終だ」

「あの線の最終は、二十二時五十八分だぞ」

受話器の向こうで、小さく息を呑む音がした。

その日は一日、時刻表と路線図を調べて過ごした。

トンネルの数。

駅間の距離。

どれを突き合わせても、あの長さの暗闇は、どこにも存在しなかった。

消えた駅の手がかりは、ひとつも見つからなかった。

(似た体験談は、日暮里駅の階段や変なタクシーにも残されています)

あの夜以来、最終電車では、決して眠らないことにしている。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

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