イタコ

録音の仕事をしていると、聞いてはいけない音が、時々テープに入る。

民俗音源の採録を請け負って、二十年になる。

祭囃子、田植唄、念仏講。

消えていく音を、消える前に箱に入れる。

それが仕事だと思ってきた。

木賊沢(とくさざわ)へ行ったのは、二〇〇一年の秋だった。

北東北の、地図に載っているだけの寒村だ。

目当ては、その土地に残るという盲目の霊媒たちだった。

恐山のような知名度はない。観光化もされていない。

だからこそ、録るなら今しかないと思っていた。

紹介してくれたのは、村の写真館の主人だった。

七十過ぎの、指の太い人だった。

「録るのは、かまわん」

「ありがとうございます」

「ただし、大祭の日にな」

「日を選ぶ理由が、あるんですか」

主人は、暗室の赤いランプを消した。

「あの人らは、場所と日ぃが揃わんと、口を開けん」

木賊沢は、川に削られた谷の底にある。

戸数は四十ほど。冬になると、半分の家が空になる。

出稼ぎだ。今もある。

写真館の主人によれば、一時代前はもっと厳しかった。

栄養と衛生の事情から、目を病んで光を失う子どもがいた。

その中の、素養を持つ女児が、生きる糧として霊媒の道を選んだ。

「素養、というのは」

「聞こえる子ぉ、ということじゃ」

「何が、聞こえるんですか」

主人は答えなかった。

代わりに、一枚の古い写真を見せてくれた。

六人の女が、白い装束で並んでいる。

全員が、目を布で覆っていた。

盲であるなら、覆う必要はない。

そのことに気づいたのは、宿に戻ってからだった。

宿は、村に一軒しかない民宿だった。

築は昭和三十年代。廊下が斜めに傾いでいた。

二階の角部屋を割り当てられた。

窓からは、霊場のある山の稜線が見える。

部屋の隅に、古い神棚があった。

神棚には、榊も、札も、何も載っていない。

埃だけが、四角く積もっていた。

「ここ、何を祀ってたんですか」

配膳に来た宿の女将に、そう聞いた。

女将は、盆を置きながら答えた。

「祀っとらん」

「では、何のための棚です」

「置いとくためのもんです」

「何を」

女将は、そこで初めて手を止めた。

「なんも置かんでおくためのもんです」

意味が分からなかった。

分からないまま、私はその晩、神棚を布で覆った。

埃が舞うのが嫌だったからだ。

翌朝、布は床に落ちていた。

きれいに畳まれて、私の枕元に置かれていた。

霊場は、山を四十分ほど登った先にあった。

開けた平地に、石が組まれているだけの、簡素な場所だ。

社もない。鳥居もない。

あるのは、四本の柱と、その間に渡された注連縄だけ。

大祭は、年に三日。

その三日以外、誰も山へ入らない。

「入ったら、どうなるんです」

私は、案内してくれた村の男に尋ねた。

三十代半ばの、寡黙な人だった。

「入っても、何もない」

「では、なぜ入らないんです」

男は足を止めて、私を見た。

「何もないのに、帰りたくなくなる」

その言い方が、妙に平坦だった。

平坦であるほど、こういう話は嘘に聞こえない。

大祭の初日、私は霊場の隅にマイクを立てた。

参列者は、村の人間だけで三十人ほど。

皆、地面に直接座っていた。

霊媒は三人。いずれも、七十を超えて見えた。

梓弓を膝に置き、目を白い布で覆っている。

儀式は、弓の弦を指で弾く音から始まった。

ばん、と乾いた音が谷に落ちる。

それが、思っていたよりずっと大きかった。

やがて、真ん中の霊媒が口寄せを始めた。

抑揚のない、低い声。

依頼した女が、その前で泣きだした。

言葉は方言が強く、私にはほとんど聞き取れなかった。

それでも、テープは回していた。

回しながら、私はヘッドフォンのなかの、あるものに気づいた。

弓の音の残響が、消えないのだ。

ばん、と鳴って、ゆっくり減衰していく。

減衰しきる前に、次の音が重なる。

だから音は、ずっと谷に溜まったままだった。

三日目の夕方には、その残響が地鳴りのように低くなっていた。

大祭の初日、私は儀式の前に村人の様子を観察していた。

三十人が、一人も私語をしない。

咳をする者すら、口を手で押さえて音を殺す。

子どもも数人いた。

どの子も、目を閉じていた。

閉じるように言われたのではない。

最初から、閉じて生まれてきたような自然さだった。

その中に、一人だけ目を開けている少年がいた。

六つか七つ。母親らしい女に、しがみついている。

少年は、霊場の中央をじっと見ていた。

そこには、誰もいなかった。

儀式が始まる直前、母親が少年の目を手で覆った。

覆った瞬間、少年は小さく息を吸った。

見えなくなったから、ではない。

見えなくなって、安心した音だった。

その音を、私のマイクは拾っていた。

大祭の二日目、私は霊媒の一人に話を聞くことができた。

名は、ふさ、といった。八十一歳。

儀式の合間、石に腰を下ろして休んでいるところだった。

「東京から来た人か」

「はい。音を録らせていただいています」

「音は、ええ」

「写真は、いけませんか」

ふささんは、布の上から目のあたりを押さえた。

「顔が写る」

「私の、ですか」

「わたしの」

それきり、その話はしなかった。

代わりに、ふささんは弓の弦を指で撫でながら言った。

「あんた、耳がええな」

「そうでしょうか」

「昨日、残っとる音に気づいたろう」

背筋が固まった。

私は誰にも、その話をしていなかった。

「あれはな、まだ帰っとらんもんの音じゃ」

「帰る、というのは」

「呼ばれて来て、送られて戻る」

ふささんは、そこで少し笑った。

「送るほうが、よっぽど難しい」

大祭が終わり、私は宿で音を確かめた。

最終日の、最後の口寄せ。

霊媒の声は、はっきり入っていた。

問題は、その下だった。

低い残響の帯の中に、別の声が沈んでいる。

再生速度を落とすと、それは言葉になった。

「まだ、ここにおる」

日本語だった。訛りが、村のものと違った。

私は録音機を止めた。

止めてから、部屋の襖を見た。

開いていた。

閉めて寝たはずだった。

事件が起きたのは、その二年後だ。

当時、心霊ブームの尾を引いていた時期だった。

どこからか木賊沢の霊媒のことが伝わり、外の土地から話が持ち込まれた。

出張して、霊媒をしてほしいという依頼だった。

報酬は、村の年収の何倍かに相当したという。

言葉巧みな仲介人がいた。

名刺には、東京の住所が刷ってあった。

「行ってはならん」

写真館の主人は、そう言って反対した。

「なぜです」

「場所と日ぃが揃わん」

「揃わないと、どうなります」

主人は、暗室のトレイに手を入れたまま答えた。

「呼んだもんが、帰る場所を無くす」

出張の話が持ち込まれたとき、ふささんだけが断った。

理由を、村の男が電話で教えてくれた。

「送り方を知らん場所には、行かんそうです」

「ほかの四人は」

「知らんでも、呼べるからと」

呼ぶことと、送ることは違う。

当たり前のことだ。

けれど報酬は、呼んだ数で払われる。

仲介人は、送り賃を計算に入れていなかった。

結局、四人の霊媒が出張を引き受けた。

日は大祭ではなく、場所は山ですらなかった。

都市部の、貸しホールだったと聞いている。

私はそれを、電話で知らされた。

「音、録らんかったの」

主人の声は、ひどく乾いていた。

「録りませんでした」

「そらよかった」

最初の異変は、出張の一か月後に起きた。

帰村した霊媒の一人が、朝に目を覚まさなくなった。

死んではいない。ただ、起きない。

家族が呼べば、口だけが動く。

何を言っているのか、誰にも分からなかった。

二人目は、その二週間後。

畑で倒れているところを見つかった。

覆っていた白い布が、外れていたという。

外れていた、というのが村人の言い方だった。

外していた、とは、誰も言わなかった。

三人目は、冬を越さなかった。

四人目は、春の彼岸に亡くなった。

「不思議なぐらい、出た者はみな」

主人は電話口で、それだけを繰り返した。

四人の死は、村では語られなかった。

葬儀は四度あったが、どれも人が少なかった。

参列すれば、覚えられる。

そういう理屈だと、あとになって理解した。

私は三人目の葬儀に、村の男と二人で行った。

棺の窓は、閉じられたままだった。

「顔を、見せないんですか」

「見んでええ」

「最後ですよ」

男は、線香の灰を落としながら答えた。

「最後じゃけ、見んのじゃ」

帰り道、雪が降り始めた。

男は、集落の入り口で足を止めた。

「先生。あんた、あの人らの声、録っとるじゃろ」

「大祭のものだけです」

「消せんのか」

「資料ですから」

男は、それ以上は言わなかった。

言わずに、私の背中を軽く押した。

帰れ、という意味だと思った。

いま思えば、あれは、二度と来るな、だったのだろう。

仲介人のことを、私は一度だけ調べた。

名刺の住所には、いまは別の会社が入っている。

当時のスタッフを一人だけ、電話で捕まえた。

「あのホール、どうでしたか」

「明るかったです」

妙な答えだった。

「明るい、というのは」

「照明を、落とさなかったんです」

「なぜ」

「暗いと、写真が撮れないので」

私は受話器を握り直した。

「写真を、撮ったんですか」

「記念にと言われて」

「布は」

「外していただきました」

その人は、悪びれずに言った。

「顔が写らないと、宣材になりませんから」

通話のあと、私は長いこと机に伏せていた。

四人を殺したのは、霊でも、禁でもない。

明るい照明と、一枚の記念写真だった。

記念写真は、いまも仲介人の会社の資料庫にあるのだという。

見せてほしいと頼んで、断られた。

理由は、こうだった。

「四人とも、こちらを見ているので」

見ているのは当然だ。カメラに向かって撮ったのだから。

そう返そうとして、私は口をつぐんだ。

盲の人が、レンズの位置を正確に見ることはない。

それでも四人は、揃って正面を向いていたという。

誰かが、位置を教えたのだ。

レンズの向こうにいた、誰かが。

私は、翌年の春に木賊沢を再訪した。

霊場へ登る道は、笹に覆われていた。

四本の柱は残っていたが、注連縄は落ちて土に還りかけていた。

平地の中央に、白い布が一枚落ちていた。

雨に晒されて、灰色になっていた。

拾おうとして、私は手を止めた。

布の下に、砂が小さく盛り上がっていたのだ。

何かが、内側から押し上げている形だった。

風はなかった。

それでも布の端が、ゆっくりと持ち上がった。

私は録音機のスイッチを入れた。

職業の癖だった。

入れてから、後悔した。

あとで再生して、私はそれを聞いた。

風の音の下に、四つの声が重なっていた。

歌でも、経でもない。

四人が、同じ言葉を繰り返していた。

「もどりかた、を、おしえて」

聞き取れたのは、そこまでだ。

その先は、私の足音だけが入っている。

走って山を下りた音だ。

あの日、私は生まれて初めて、録音を途中で止めた。

止めたのに、テープの終わりまで、音は入っていた。

再訪の帰り、私は写真館に寄った。

主人は暗室から出てこず、扉越しに話した。

「布を、見たか」

「見ました。持って帰ろうとして、やめました」

「賢い」

「あの下に、何かありました」

扉の向こうで、現像液を揺らす音が止まった。

「土じゃ」

「土が、動いていました」

「土は動く」

それきり、主人は何も言わなかった。

帰り際、暗室の赤いランプが消えた。

私は、扉の隙間から一瞬だけ中を見た。

引き伸ばし機の下に、印画紙が一枚置かれていた。

まだ像は浮かんでいなかった。

それなのに、白い紙の真ん中に、四つの丸い影が並んでいた。

顔の位置に、目だけが先に出ていた。

写真館の主人は、その年の暮れに亡くなった。

葬儀のあと、娘さんが私に古い封筒を渡してくれた。

中には、あの六人の写真が入っていた。

裏に、鉛筆で書き込みがあった。

六人の名と、亡くなった年。

最後の一人だけ、年が空欄だった。

名の横に、小さく添え書きがあった。

「布を外さぬこと」

私は娘さんに尋ねた。

「これは、どういう意味でしょうか」

「父は、目が見えぬから盲になるのではない、と言っていました」

「では」

「見ないでいられるから、選ばれるのだ、と」

背中を、冷たいものが伝った。

あの布は、外を遮るためのものではなかった。

呼び出したものに、自分の顔を見せないための布だった。

出張した四人は、明るいホールで、布を外して笑っていたという。

仲介人が撮った記念写真が、一枚だけ残っている。

四人とも、目を開けていた。

見えないはずの目を、まっすぐレンズに向けて。

ふささんが亡くなったのは、四人目の翌年だった。

眠るように、と娘さんは言った。

最期まで、目の布は外さなかったという。

棺に納めるとき、村の女たちがもう一枚、上から布を掛けた。

「二重にするんです」

娘さんは、そう説明した。

「土の中は、暗いのに」

私が漏らすと、娘さんは静かに首を振った。

「暗いから、向こうからは、よう見えるんです」

その言葉を、私は今も夜に思い出す。

暗いほうから、明るいほうは見えない。

逆だ。

明るい部屋にいる者ほど、暗がりから、はっきりと見られている。

木賊沢に、霊媒はもういない。

静観していた高齢の数人も、すでに世を去った。

成り手はなく、大祭は行われていない。

村は、冬になると半分が空になる。

それは昔と変わらない。

ただ、変わったことがひとつある。

最近、村の子どもが、夜になると耳を塞ぐようになったという。

何が聞こえるのか、と聞かれても、答えないらしい。

聞こえる子ぉ、と主人は言っていた。

素養とは、そういうことだ。

私の仕事場には、あの日のテープが残っている。

ラベルには、日付と場所しか書いていない。

再生機に載せたことは、一度もない。

それでも、深夜に編集をしていると、時々、棚のほうから低い音がする。

減衰しきらない、弓の残響のような音だ。

私は、そのたびに手を止めて、目を閉じる。

見なければいい。

顔さえ、覚えられなければいい。

そう自分に言い聞かせて、私はまだ、この仕事を続けている。

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