イタコ

イタコ

録音の仕事をしていると、聞いてはいけない音が、時々テープに入る。

民俗音源の採録を請け負って、二十年になる。

祭囃子、田植唄、念仏講。

消えていく音を、消える前に箱に入れる。

それが仕事だと思ってきた。

木賊沢(とくさざわ)へ行ったのは、二〇〇一年の秋だった。

北東北の、地図に載っているだけの寒村だ。

目当ては、その土地に残るという盲目の霊媒たちだった。

恐山のような知名度はない。観光化もされていない。

だからこそ、録るなら今しかないと思っていた。

紹介してくれたのは、村の写真館の主人だった。

七十過ぎの、指の太い人だった。

「録るのは、かまわん」

「ありがとうございます」

「ただし、大祭の日にな」

「日を選ぶ理由が、あるんですか」

主人は、暗室の赤いランプを消した。

「あの人らは、場所と日ぃが揃わんと、口を開けん」

※

木賊沢は、川に削られた谷の底にある。

戸数は四十ほど。冬になると、半分の家が空になる。

出稼ぎだ。今もある。

写真館の主人によれば、一時代前はもっと厳しかった。

栄養と衛生の事情から、目を病んで光を失う子どもがいた。

その中の、素養を持つ女児が、生きる糧として霊媒の道を選んだ。

「素養、というのは」

「聞こえる子ぉ、ということじゃ」

「何が、聞こえるんですか」

主人は答えなかった。

代わりに、一枚の古い写真を見せてくれた。

六人の女が、白い装束で並んでいる。

全員が、目を布で覆っていた。

盲であるなら、覆う必要はない。

そのことに気づいたのは、宿に戻ってからだった。

※

宿は、村に一軒しかない民宿だった。

築は昭和三十年代。廊下が斜めに傾いでいた。

二階の角部屋を割り当てられた。

窓からは、霊場のある山の稜線が見える。

部屋の隅に、古い神棚があった。

神棚には、榊も、札も、何も載っていない。

埃だけが、四角く積もっていた。

「ここ、何を祀ってたんですか」

配膳に来た宿の女将に、そう聞いた。

女将は、盆を置きながら答えた。

「祀っとらん」

「では、何のための棚です」

「置いとくためのもんです」

「何を」

女将は、そこで初めて手を止めた。

「なんも置かんでおくためのもんです」

意味が分からなかった。

分からないまま、私はその晩、神棚を布で覆った。

埃が舞うのが嫌だったからだ。

翌朝、布は床に落ちていた。

きれいに畳まれて、私の枕元に置かれていた。

※

霊場は、山を四十分ほど登った先にあった。

開けた平地に、石が組まれているだけの、簡素な場所だ。

社もない。鳥居もない。

あるのは、四本の柱と、その間に渡された注連縄だけ。

大祭は、年に三日。

その三日以外、誰も山へ入らない。

「入ったら、どうなるんです」

私は、案内してくれた村の男に尋ねた。

三十代半ばの、寡黙な人だった。

「入っても、何もない」

「では、なぜ入らないんです」

男は足を止めて、私を見た。

「何もないのに、帰りたくなくなる」

その言い方が、妙に平坦だった。

平坦であるほど、こういう話は嘘に聞こえない。

※

大祭の初日、私は霊場の隅にマイクを立てた。

参列者は、村の人間だけで三十人ほど。

皆、地面に直接座っていた。

霊媒は三人。いずれも、七十を超えて見えた。

梓弓を膝に置き、目を白い布で覆っている。

儀式は、弓の弦を指で弾く音から始まった。

ばん、と乾いた音が谷に落ちる。

それが、思っていたよりずっと大きかった。

やがて、真ん中の霊媒が口寄せを始めた。

抑揚のない、低い声。

依頼した女が、その前で泣きだした。

言葉は方言が強く、私にはほとんど聞き取れなかった。

それでも、テープは回していた。

回しながら、私はヘッドフォンのなかの、あるものに気づいた。

弓の音の残響が、消えないのだ。

ばん、と鳴って、ゆっくり減衰していく。

減衰しきる前に、次の音が重なる。

だから音は、ずっと谷に溜まったままだった。

三日目の夕方には、その残響が地鳴りのように低くなっていた。

大祭の初日、私は儀式の前に村人の様子を観察していた。

三十人が、一人も私語をしない。

咳をする者すら、口を手で押さえて音を殺す。

子どもも数人いた。

どの子も、目を閉じていた。

閉じるように言われたのではない。

最初から、閉じて生まれてきたような自然さだった。

その中に、一人だけ目を開けている少年がいた。

六つか七つ。母親らしい女に、しがみついている。

少年は、霊場の中央をじっと見ていた。

そこには、誰もいなかった。

儀式が始まる直前、母親が少年の目を手で覆った。

覆った瞬間、少年は小さく息を吸った。

見えなくなったから、ではない。

見えなくなって、安心した音だった。

その音を、私のマイクは拾っていた。

※

大祭の二日目、私は霊媒の一人に話を聞くことができた。

名は、ふさ、といった。八十一歳。

儀式の合間、石に腰を下ろして休んでいるところだった。

「東京から来た人か」

「はい。音を録らせていただいています」

「音は、ええ」

「写真は、いけませんか」

ふささんは、布の上から目のあたりを押さえた。

「顔が写る」

「私の、ですか」

「わたしの」

それきり、その話はしなかった。

代わりに、ふささんは弓の弦を指で撫でながら言った。

「あんた、耳がええな」

「そうでしょうか」

「昨日、残っとる音に気づいたろう」

背筋が固まった。

私は誰にも、その話をしていなかった。

「あれはな、まだ帰っとらんもんの音じゃ」

「帰る、というのは」

「呼ばれて来て、送られて戻る」

ふささんは、そこで少し笑った。

「送るほうが、よっぽど難しい」

※

大祭が終わり、私は宿で音を確かめた。

最終日の、最後の口寄せ。

霊媒の声は、はっきり入っていた。

問題は、その下だった。

低い残響の帯の中に、別の声が沈んでいる。

再生速度を落とすと、それは言葉になった。

「まだ、ここにおる」

日本語だった。訛りが、村のものと違った。

私は録音機を止めた。

止めてから、部屋の襖を見た。

開いていた。

閉めて寝たはずだった。

※

事件が起きたのは、その二年後だ。

当時、心霊ブームの尾を引いていた時期だった。

どこからか木賊沢の霊媒のことが伝わり、外の土地から話が持ち込まれた。

出張して、霊媒をしてほしいという依頼だった。

報酬は、村の年収の何倍かに相当したという。

言葉巧みな仲介人がいた。

名刺には、東京の住所が刷ってあった。

「行ってはならん」

写真館の主人は、そう言って反対した。

「なぜです」

「場所と日ぃが揃わん」

「揃わないと、どうなります」

主人は、暗室のトレイに手を入れたまま答えた。

「呼んだもんが、帰る場所を無くす」

※

出張の話が持ち込まれたとき、ふささんだけが断った。

理由を、村の男が電話で教えてくれた。

「送り方を知らん場所には、行かんそうです」

「ほかの四人は」

「知らんでも、呼べるからと」

呼ぶことと、送ることは違う。

当たり前のことだ。

けれど報酬は、呼んだ数で払われる。

仲介人は、送り賃を計算に入れていなかった。

※

結局、四人の霊媒が出張を引き受けた。

日は大祭ではなく、場所は山ですらなかった。

都市部の、貸しホールだったと聞いている。

私はそれを、電話で知らされた。

「音、録らんかったの」

主人の声は、ひどく乾いていた。

「録りませんでした」

「そらよかった」

最初の異変は、出張の一か月後に起きた。

帰村した霊媒の一人が、朝に目を覚まさなくなった。

死んではいない。ただ、起きない。

家族が呼べば、口だけが動く。

何を言っているのか、誰にも分からなかった。

二人目は、その二週間後。

畑で倒れているところを見つかった。

覆っていた白い布が、外れていたという。

外れていた、というのが村人の言い方だった。

外していた、とは、誰も言わなかった。

三人目は、冬を越さなかった。

四人目は、春の彼岸に亡くなった。

「不思議なぐらい、出た者はみな」

主人は電話口で、それだけを繰り返した。

※

四人の死は、村では語られなかった。

葬儀は四度あったが、どれも人が少なかった。

参列すれば、覚えられる。

そういう理屈だと、あとになって理解した。

私は三人目の葬儀に、村の男と二人で行った。

棺の窓は、閉じられたままだった。

「顔を、見せないんですか」

「見んでええ」

「最後ですよ」

男は、線香の灰を落としながら答えた。

「最後じゃけ、見んのじゃ」

帰り道、雪が降り始めた。

男は、集落の入り口で足を止めた。

「先生。あんた、あの人らの声、録っとるじゃろ」

「大祭のものだけです」

「消せんのか」

「資料ですから」

男は、それ以上は言わなかった。

言わずに、私の背中を軽く押した。

帰れ、という意味だと思った。

いま思えば、あれは、二度と来るな、だったのだろう。

※

仲介人のことを、私は一度だけ調べた。

名刺の住所には、いまは別の会社が入っている。

当時のスタッフを一人だけ、電話で捕まえた。

「あのホール、どうでしたか」

「明るかったです」

妙な答えだった。

「明るい、というのは」

「照明を、落とさなかったんです」

「なぜ」

「暗いと、写真が撮れないので」

私は受話器を握り直した。

「写真を、撮ったんですか」

「記念にと言われて」

「布は」

「外していただきました」

その人は、悪びれずに言った。

「顔が写らないと、宣材になりませんから」

通話のあと、私は長いこと机に伏せていた。

四人を殺したのは、霊でも、禁でもない。

明るい照明と、一枚の記念写真だった。

記念写真は、いまも仲介人の会社の資料庫にあるのだという。

見せてほしいと頼んで、断られた。

理由は、こうだった。

「四人とも、こちらを見ているので」

見ているのは当然だ。カメラに向かって撮ったのだから。

そう返そうとして、私は口をつぐんだ。

盲の人が、レンズの位置を正確に見ることはない。

それでも四人は、揃って正面を向いていたという。

誰かが、位置を教えたのだ。

レンズの向こうにいた、誰かが。

※

私は、翌年の春に木賊沢を再訪した。

霊場へ登る道は、笹に覆われていた。

四本の柱は残っていたが、注連縄は落ちて土に還りかけていた。

平地の中央に、白い布が一枚落ちていた。

雨に晒されて、灰色になっていた。

拾おうとして、私は手を止めた。

布の下に、砂が小さく盛り上がっていたのだ。

何かが、内側から押し上げている形だった。

風はなかった。

それでも布の端が、ゆっくりと持ち上がった。

私は録音機のスイッチを入れた。

職業の癖だった。

入れてから、後悔した。

※

あとで再生して、私はそれを聞いた。

風の音の下に、四つの声が重なっていた。

歌でも、経でもない。

四人が、同じ言葉を繰り返していた。

「もどりかた、を、おしえて」

聞き取れたのは、そこまでだ。

その先は、私の足音だけが入っている。

走って山を下りた音だ。

あの日、私は生まれて初めて、録音を途中で止めた。

止めたのに、テープの終わりまで、音は入っていた。

※

再訪の帰り、私は写真館に寄った。

主人は暗室から出てこず、扉越しに話した。

「布を、見たか」

「見ました。持って帰ろうとして、やめました」

「賢い」

「あの下に、何かありました」

扉の向こうで、現像液を揺らす音が止まった。

「土じゃ」

「土が、動いていました」

「土は動く」

それきり、主人は何も言わなかった。

帰り際、暗室の赤いランプが消えた。

私は、扉の隙間から一瞬だけ中を見た。

引き伸ばし機の下に、印画紙が一枚置かれていた。

まだ像は浮かんでいなかった。

それなのに、白い紙の真ん中に、四つの丸い影が並んでいた。

顔の位置に、目だけが先に出ていた。

※

写真館の主人は、その年の暮れに亡くなった。

葬儀のあと、娘さんが私に古い封筒を渡してくれた。

中には、あの六人の写真が入っていた。

裏に、鉛筆で書き込みがあった。

六人の名と、亡くなった年。

最後の一人だけ、年が空欄だった。

名の横に、小さく添え書きがあった。

「布を外さぬこと」

私は娘さんに尋ねた。

「これは、どういう意味でしょうか」

「父は、目が見えぬから盲になるのではない、と言っていました」

「では」

「見ないでいられるから、選ばれるのだ、と」

背中を、冷たいものが伝った。

あの布は、外を遮るためのものではなかった。

呼び出したものに、自分の顔を見せないための布だった。

出張した四人は、明るいホールで、布を外して笑っていたという。

仲介人が撮った記念写真が、一枚だけ残っている。

四人とも、目を開けていた。

見えないはずの目を、まっすぐレンズに向けて。

※

ふささんが亡くなったのは、四人目の翌年だった。

眠るように、と娘さんは言った。

最期まで、目の布は外さなかったという。

棺に納めるとき、村の女たちがもう一枚、上から布を掛けた。

「二重にするんです」

娘さんは、そう説明した。

「土の中は、暗いのに」

私が漏らすと、娘さんは静かに首を振った。

「暗いから、向こうからは、よう見えるんです」

その言葉を、私は今も夜に思い出す。

暗いほうから、明るいほうは見えない。

逆だ。

明るい部屋にいる者ほど、暗がりから、はっきりと見られている。

※

木賊沢に、霊媒はもういない。

静観していた高齢の数人も、すでに世を去った。

成り手はなく、大祭は行われていない。

村は、冬になると半分が空になる。

それは昔と変わらない。

ただ、変わったことがひとつある。

最近、村の子どもが、夜になると耳を塞ぐようになったという。

何が聞こえるのか、と聞かれても、答えないらしい。

聞こえる子ぉ、と主人は言っていた。

素養とは、そういうことだ。

私の仕事場には、あの日のテープが残っている。

ラベルには、日付と場所しか書いていない。

再生機に載せたことは、一度もない。

それでも、深夜に編集をしていると、時々、棚のほうから低い音がする。

減衰しきらない、弓の残響のような音だ。

私は、そのたびに手を止めて、目を閉じる。

見なければいい。

顔さえ、覚えられなければいい。

そう自分に言い聞かせて、私はまだ、この仕事を続けている。

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