
成りすまし、という言葉を、僕はあの冬まで、ネットの中の話だと思っていた。
画面の向こうで、誰かが誰かの名前を使う。
それだけのことだと。
目の前の席に、知らない顔をした友人が座るまでは。
大学四年の十一月、Aの就職がようやく決まった。
本人は小さな会社だと言っていたが、内定を貰えたことに変わりはない。
これで仲間内全員の進路が決まった。
一月に、旅に行く運びとなった。
旅の発案をしたのはAだった。
レンタカーを借りて、東京から日本海側を北上し、青森を目指す。
三泊四日の計画だった。
新潟、秋田、弘前に宿を取った。
当時、運転免許を持っていたのは、僕とCだけだった。
僕とCが交代で運転する。
その代わり、AとBとDがレンタカー代とガソリン代を払う。
そういうことで、話が折り合った。
僕を含めて、五人の旅だった。
僕たち五人は、大学のサークルで知り合った仲だ。
一年の四月、新歓のテーブルで、たまたま同じ席になった。
僕とCは同じ学部で、同じゼミを専攻していた。
AとBとDは、別の学部に通っていた。
通っている、と僕は思っていた。
Bは、いつも、テーブルの左端に座った。
左利きだからだと、本人は言っていた。
箸がぶつかるのが嫌なのだと。
Bは、写真に写るのを嫌がった。
集合写真のときは、必ず、撮る側に回った。
「俺、写真写り悪いから」
四年間、それで通した。
だから、Bの写った写真は、一枚もない。
そのことに、僕は、あの冬まで気づかなかった。
成りすましを見破る手がかりは、最初から、何もなかったことになる。
比べる顔が、どこにも残っていないのだから。
Bは、よく笑う男だった。
笑うと、右の八重歯が見えた。
口癖は、「それな」だった。
何を言っても、「それな」で返してくる。
僕はその返事を、四年分、聞いてきた。
聞いてきたはずだった。
連絡が取れないB
旅の二週間ほど前に、奇妙なことがあった。
宿の手配や詳しい計画が、概ね完了した矢先だった。
Bと、まったく連絡が取れなくなった。
電話をしても、繋がらない。
呼び出し音すら、鳴らなかった。
メッセージは、既読にならない。
Bのアイコンが、ある日、変わっていた。
以前は、サークルの合宿で撮った海の写真だった。
それが、灰色の壁の写真になっていた。
壁の、コンクリートの目地だけが写っていた。
誰が、こんな写真を選ぶのか。
僕は、画面を見たまま、しばらく動けなかった。
Bの家にも行った。
留守だった。
Bと仲が良かった別の友人にも連絡をした。
誰も、Bの所在を知らなかった。
出発の五日前、最後の打ち合わせをするために集合した。
Aの家だった。
Bの席は、空いていた。
左端の席だった。
誰も、そこに座らなかった。
AとDの様子が、おかしかった。
Aは、テーブルの一点を見たまま、話した。
Dは、僕とCの顔を、交互に見ていた。
見ているというより、確かめているようだった。
「三日前になってもBと連絡が取れなかったら、旅は中止にしよう」
そう決まった。
僕も、異論はなかった。
Bがいなければ、旅をする意味が半減する。
何より、心配だった。
しかし、AとDは、異常なほど、中止だ中止だと言い続けた。
「宿のキャンセルは、俺がやるから」
Aが、二度、同じことを言った。
二度目のとき、Dが、Aの袖を引いた。
小さな動きだった。
僕は、見なかったふりをした。
帰り道、Cが言った。
「今日、Aの家、Bの靴があった」
「え」
「玄関の隅。Bがいつも履いてる、紐の切れたやつ」
僕は、玄関を思い出した。
靴は、三足あったはずだ。
僕とCとDの三足。
Aは家の人間だから、靴は下駄箱の中だ。
四足目を、僕は見ていなかった。
Cは、見ていた。
「Bが、Aの家にいるってことか」
「わからない。靴だけかもしれない」
Cは、それ以上、言わなかった。
靴だけ、という言葉が、帰り道のあいだ、頭から離れなかった。
大家さんの一言
その日のうちに、僕とCはBの家に行った。
やはり、留守だった。
郵便受けに、チラシが溜まっていた。
一番下のチラシの日付は、一か月前だった。
隣の部屋の住人に、聞いてみた。
「Bさん、ですか」
住人は、首を傾げた。
「隣、ずっと空いてますよ」
「え」
「一か月くらい前に、引っ越されたんで」
Bのことは、知らないと言った。
大家さんの連絡先を、教えてくれた。
早速電話をして、事情を話そうとした。
大家さんの一言に、僕は絶句した。
「Bさんという方は知りませんが、この家に住んでいた人は一か月前に引っ越されましたよ」
「住んでいた方の、お名前は」
大家さんは、名前を言った。
Bではなかった。
聞いたこともない名前だった。
「一人暮らしの、若い方でしたけどね」
「大学生ですか」
「さあ。昼間は、ずっといらっしゃったみたいですけど」
電話を切って、僕とCは、アパートの前に立っていた。
二階の、角の部屋。
僕たちは、四年間、そこに何度も泊まった。
Bの部屋だった。
Bの部屋のはずだった。
「AとDには、言わないでおこう」
Cが言った。
僕も、同じことを考えていた。
出発の三日前が来た。
結局、Bとは連絡が取れなかった。
予約した宿に、キャンセルの電話をした。
すると、泊まるはずだった三つの宿は、すべて、既にキャンセルされていた。
詳しく聞くと、一週間前に、Bと名乗る男から電話があったという。
一週間前。
Bと連絡が取れなくなって、一週間が経ったころだ。
「どんな声でしたか」
弘前の宿の人は、少し考えて言った。
「普通の、若い男の方でしたよ」
「他に、何か」
「そういえば、お名前を、少し言い淀んでましたね」
「言い淀む」
「ええ。自分の名前を、思い出すみたいに」
僕は、そのキャンセルをした男は、Bじゃないと思った。
直感だが、AかDのどちらかだ。
そう思った。
宿の人には、念のため、今日僕が電話をしたことは黙っていて欲しいとお願いした。
その後すぐCに連絡をし、急遽会うことにした。
合流した刹那、Cは言った。
「このことはAとDには言わないほうが良い」
同意見だった。
「キャンセルの電話をこちらでする、とカマをかけてみよう」
Aに電話をした。
三日前になったから、キャンセルの電話を入れる旨を伝えた。
案の定、Aは言った。
「キャンセルの電話は俺がする!」
声が、裏返っていた。
僕は冷静を装いながら、三件あるから分担しようという案を出した。
拒否された。
「全部、俺がやる。お前は何もするな」
「何も」
「何も、だ」
この日のやりとりで、AとDがBの失踪に絡んでいることは、ほぼ間違いないと睨んだ。
僕はAとDに状況を話して問い質そうと言った。
Cは、もう少しだけ時間が欲しいと言った。
僕は、大学に訳を話して、Bの実家の連絡先を聞くことにした。
冬季休暇中の大学は、人が少なかった。
窓口にも、誰一人並んでいなかった。
事情を話すと、窓口の人は、しばらく端末を叩いた。
叩いてから、顔を上げた。
「その方は、在籍されていません」
「Bが、ですか」
「お三方とも」
AもBもDも、僕が通う大学には在籍していなかった。
大家さんから聞いた名前でも、調べてもらった。
なかった。
僕は、窓口を離れて、誰もいないロビーのベンチに座った。
学食で、一緒に昼を食べた。
講義のノートを、貸し借りした。
Bのノートの字を、僕は思い出せなかった。
借りたことが、一度もなかった。
四年間、Bは、何も残さなかった。
写真も、字も、学籍も。
成りすましをするなら、都合のいい相手だったと、今は思う。
誰も、本物を知らないのだから。
成りすましのB
当初の出発日の前日に、Aから連絡が来た。
Bが戻って来た、と言うのだ。
「元気だよ。心配かけて悪かったって」
Aの声は、明るかった。
明るすぎた。
二週間ぶりに、五人が揃うことになった。
最初はAの家でと言われた。
そこには行ってはいけない気がした。
玄関の、四足目の靴を思い出していた。
適当な理由をつけて、街中のファミレスで落ち合うことにした。
人のいる場所がよかった。
昼の二時、ファミレスは、半分ほど席が埋まっていた。
僕とCが、先に着いた。
テーブルの、入口に近い席を取った。
十分後、三人が来た。
AとDに挟まれて、男が一人、歩いてきた。
ファミレスに現れたBは、Bではなかった。
Bに似ている訳でもなく、完全に別人だった。
背丈は、同じくらいだった。
髪型も、Bのものに寄せてあった。
それだけだった。
顔が、違う。
鼻の形も、目の間隔も、口の大きさも、違う。
正直、僕は冷静を保ててはいなかったと思う。
見た目は普通の人間だ。
ただ、その顔からは、形容しがたいものを感じた。
「久しぶり」
男は、そう言って、席に座った。
右端の席だった。
左端ではなかった。
Bと名乗る男は、右手で水のグラスを取った。
一口飲んで、グラスを右側に置いた。
僕は、Cを見た。
Cも、グラスを見ていた。
「Bじゃない」
僕は、小さく言った。
「Bだよ」
Aが、即座に言った。
「Bだろ」
Dも言った。
僕とCは、Bじゃないと言い続けた。
AとDは、Bだと言い続けた。
その間、男は、僕とCのことを交互に見続けた。
瞬きが、少なかった。
聞いてもいないのに、男は失踪の経緯を説明し始めた。
今日まで、泊まり込みでバイトをしていたと言う。
期間中、外部と連絡を取ってはいけない仕事だったと。
事前によく説明を聞いていなかったため、そのまま連絡が取れなかったのだと。
話し方は、丁寧だった。
Bは、丁寧に話す男ではなかった。
「それで、明日からの旅行は行ける?」
男は、笑った。
八重歯は、なかった。
僕は、その顔を、もっと見ていられなくなった。
説明するように、Aが言った。
「実は宿はキャンセルしなかったんだ。だから旅は決行できる」
宿は、一週間前に、キャンセルされている。
僕は、それを知っている。
Aは、僕が知っていることを、知らない。
あるいは、知っていても、よかったのかもしれない。
僕は、混乱していた。
「三日前に旅は中止と決まっただろ」
Cが言った。
「その際に、俺とこいつは別の予定を入れてしまったよ」
Cの声は、落ち着いていた。
落ち着いているふりだと、僕にはわかった。
テーブルの下で、Cの膝が、小さく揺れていた。
散々引き止められた。
「予定って、何」
「ずらせないの」
「Bも、せっかく帰ってきたのに」
男は、何も言わなかった。
ただ、僕とCを、交互に見ていた。
一度だけ、男が口を開いた。
「それな」
会話の流れに、合っていなかった。
誰も、何も言っていなかった。
男は、Bの口癖を、使う場所を間違えていた。
断ることに、時間を要した。
今すぐにでも逃げ出したかった。
大学はおろか、住所も知られている。
穏便に進める必要があった。
Cのおかげで、僕も冷静を取り戻し、何とかその日は解散となった。
伝票は、Aが持っていった。
男は、最後まで、財布を出さなかった。
Bは、割り勘にうるさい男だった。
解散となった後、僕とCは三人の後をつけた。
三人は、十分ほど歩いた所にある駐車場に入って行った。
暫く待つと、Aが運転する車が、駐車場から出て来た。
Aは、免許も持っていたのだ。
四年間、僕とCが運転係だった。
Aは、一度も、免許の話をしなかった。
後部座席に、男が座っていた。
窓は、曇っていた。
男の顔は、見えなかった。
一年後の検索
その後、すぐに引越しをした。
引越しまでの間も、家には物を取りに行くための一回しか帰らなかった。
引越しの日に久々に家に戻ると、誰かが侵入した痕跡があった。
荒らされてはいなかった。
ただ、本棚の本が、全部、背表紙を奥にして並んでいた。
一冊ずつ、裏返されていた。
誰かが、一冊ずつ、手に取ったということだ。
何を探していたのかは、わからない。
僕の部屋には、Bに関するものは、何もなかった。
四年間、何ももらっていなかったからだ。
僕は、本棚を見ないようにして、荷物を運んだ。
卒業までは、ほとんど大学に行く必要がなかった。
C以外に会うことはなかった。
AとBとDとは、連絡を取ることなく、春になった。
卒業式に、三人の姿はなかった。
サークルの集合写真にも、いなかった。
撮る側に、誰もいなかった。
名簿にも、なかった。
当然だった。
後に読んだ白いスーツの男は番号を変えて来るという話の男も、こんなふうに、少しずつ違っていたのだろうと思う。
違うのに、周りが、同じだと言い張る。
その方が、怖い。
以上が、僕が体験した話だ。
これは、一年前の出来事だ。
一年後に、わざわざ書いたことには、理由がある。
この一年間も、Cとは定期的に連絡を取り、数回飲んだりしていた。
そのCから、昨日、連絡があった。
夜に会った。
Cは、席に着くなり、携帯を出した。
「大家さんから聞いた名前、覚えてるか」
「覚えてる」
「検索した」
Cは、画面を、僕に向けた。
地方新聞の、お悔やみ欄だった。
黒いワンピースの女を乗せた夜の話を思い出した。
あの話の人物も、乗っていた時点で、既に。
名前は、大家さんが言った名前と、同じだった。
年齢は、僕たちと同じだった。
住所は、あのアパートの住所だった。
日付を、見た。
一年前ではなかった。
四年と、一か月前だった。
大学一年の、三月。
その人が亡くなったのは、僕たちがBと出会う前の月だった。
「Bは」
Cが、言いかけて、やめた。
僕も、言えなかった。
大家さんは、一か月前に引っ越した、と言った。
一か月前に、何が引っ越したのか。
四年間、左端の席に座っていたのは、誰だったのか。
僕は、携帯の写真を、最初から、全部見た。
四年分。
Bは、一枚も、写っていなかった。
ファミレスの男が、成りすましだったのか。
それとも、四年間の左端の席が、成りすましだったのか。
僕には、もう、どちらとも言えない。
撮る側に、回っていたからだ。
今でも、あのBと名乗る別人の顔が浮かび、頭から離れない。
けれど、本当に離れないのは、別人の顔のほうではない。
四年間、僕が友人だと思っていた顔のほうだ。
その顔を、僕は、もう、思い出せなくなっている。