アリス症候群の夜に現れた巨大な顔

アリス(フリーイラスト)

自分は小さい頃から「不思議の国のアリス症候群」の症状があった。

遠近感が曖昧になって、周りの物が大きくなったり、小さくなったりする感覚に陥る。

子どもの頃は、階段が急に遠くなったり、母の顔だけが大きく見えたりした。

怖いというより、不思議な感覚だった。

大学に入ってからは、壁の薄い下宿の6畳で、一人暮らしをしていた。

アリス症候群は、じっとしている時に起こることが多い。

だから日常生活に支障はなかったし、頻度も1ヶ月に1、2回だった。

自分の場合、目を何度か瞬きさせながら、視線を素早く動かすと治まる。

子どもの頃から、それで済ませてきた。

調べると、この症状は子どもに多く、大人になると減っていくらしい。

自分は、大人になっても、消えなかった。

あの出来事が起こるまでは、アリス症候群は、ただの体質だと思っていた。

本棚が小さくなる夜

数年前、大学生の時の話だ。

夜、ベッドに座って、壁に寄り掛かるような体勢で、携帯を弄っていた。

部屋の電気は点けたままで、窓の外は静かだった。

ふと携帯から視線を外して、正面の本棚を見る。

その瞬間、アリス症候群が起こった。

本棚が、ゆっくりと小さくなっていく。

自分が大きくなったような感覚になる。

嫌な感覚ではなかった。

慣れているから、そのまま、ぼーっと本棚を眺めていた。

20秒ほど経って、瞬きをしながら視線を動かし、遠近感を直した。

いつもと同じ手順だった。

直した直後、部屋の右側だけ、空気が冷たかった。

窓は、閉まっていた。

この時は、それだけの話だった。

アリス症候群と右隣の空席

次の日、友達と二人で、大学の授業に出ていた。

大きめの教室の、真ん中あたりの席だ。

その日の講義は、近代の都市計画についてだった。

教授の話は、いつもどおり眠くなる速さで進んでいた。

左隣には友達が座っていて、右隣は空席だった。

ノートを取りながら、教授の声に耳を傾けていると、またアリス症候群が起こった。

教授の声が、遠くのスピーカーから聞こえるように、薄くなっていく。

今度は、ノートやシャーペンが、どんどん小さくなっていく。

自分が大きくなる感覚だった。

『昨日も起こったのになぁ…』と思いながら、目を何度か瞬きさせて、軽く右側を見た。

左には友達がいたから、右を見たのだと思う。

でも、遠近感は治らなかった。

『あれ?』と思って、もう一度やり直した。

すると、右耳のすぐ横から、「ねぇ」という女の声が聞こえた。

息遣いは、感じなかった。

声だけが、耳の中に直接置かれたようだった。

驚いて、軽く跳ね上がった。

後ろを振り返ると、知らない男子学生と目が合った。

その瞬間、アリス症候群は治まっていた。

キョロキョロしても、近くに女子学生はいない。

焦っていると、友達が小声で言った。

「寝てたの?」

ビクンッと跳ねたから、居眠りだと思われたらしい。

授業のあとで、さりげなく聞いてみた。

教室を出る時、右隣の席を見た。

ノートも、鞄も、置かれていなかった。

「さっき、右の席に、誰か座ってた?」

「ずっと空いてたよ」

友達は、不思議そうな顔をした。

自分の右耳の奥には、「ねぇ」の響きが、はっきり残っていた。

その日の昼、食堂のカレーの味は、よく覚えていない。

ベッドの縁の巨大な顔

その日の夜、ベッドに仰向けになって、携帯を弄っていた。

隣の部屋のテレビの音も、もう聞こえない時間だった。

下宿全体が、息を潜めているような静けさだった。

するとまた、アリス症候群が起こった。

天井が、ぐんぐん遠くなっていく。

自分が小さくなったような感覚になる。

昼間のこともあったから、すぐに直そうと思った。

瞬きをしつつ、首を少し回した。

すると、ベッドの縁のあたりに、巨大な顔があった。

ホラーものによく出てくるような、青白い顔だった。

巨大に見えるのは、アリス症候群のせいなのか、わからない。

パニックになって、起き上がった。

それでも、アリス症候群は治まらない。

巨大な顔は、無表情で、こちらを見ながら、カクカクと左右に動いていた。

目と口の位置が、ほんの少しだけ、ずれていた。

動きは、コマ送りの映像のようだった。

鉄のような匂いが、鼻の奥に残った。

周りの物がすべて大きく見えるので、余計にパニックになる。

とにかく、視線や焦点をずらさなければならない。

近くに落ちていた携帯を拾った。

画面を点灯させて、そこを懸命に見つめる。

それでも、巨大な顔は、視界の端で、カクカクと動いていた。

耐え切れなくなって、目を閉じた。

何秒間かわからない。

とにかく強く、目を瞑っていた。

携帯を持つ手が、小さく震えていることに気がついた。

その時、右耳のすぐ横で、囁くような声がした。

「惜しかったね」

女の声だった。

驚いて、また体が跳ね上がった。

反射的に右を見たが、何もいなかった。

耳に、嫌な感触だけが残っていた。

それから、アリス症候群が怖くなった。

じっとしているのが、苦痛になった。

じっとしていると、アリス症候群が起こってしまうかもしれない。

それでも、大学の授業は受けなければならない。

数日間、授業中も、自分は瞬きと視線の動かし方ばかりを気にしていた。

眼科にも行った。

待合室の壁の時計が、一瞬だけ、大きく見えた。

気のせいだと、思うことにした。

呼ばれるまでの間、自分は、ずっと瞬きを繰り返していた。

検査では、目に異常はなかった。

医者は、カルテを書きながら、あっさり言った。

「子どもの頃からなら、体質でしょうね。疲れると出やすいんですよ」

自分は、礼を言って、病院を出た。

その夜、友達に、顔のことだけ話してみた。

「寝不足だろ。ゲームやりすぎ」

友達は、笑いながら、唐揚げをつついた。

笑ってもらえて、少し楽になった。

自分も、そうだといいと思った。

ただ、右耳の話だけは、最後まで言えなかった。

それからは、毎晩、電気を点けたまま寝た。

壁を背にして座るのをやめ、携帯も、寝転がって見ないようにした。

じっとしている時間を、できるだけ作らなかった。

リビングで起きた三度目

何も起こらないまま、2週間以上が経った。

あれは疲れからくる幻覚のようなものだったのかもしれない。

そう思い始めた頃だった。

バイトのない夕方、自宅のリビングで、ぼーっとテレビのニュースを眺めていた。

西日が、カーテンの隙間から、床に細く伸びていた。

家には、自分一人しかいなかった。

何となく嫌な予感がした。

案の定、アリス症候群が起きた。

テレビがどんどん大きくなっていく。

自分が小さくなる感覚に陥る。

『やばい! やばい!』と焦って、瞬きをした。

大袈裟なくらい、キョロキョロした。

でも、治らなかった。

無理にでも歩いてしまおうとしたが、足が固まって動かない。

テレビのニュースキャスターの声だけが、やけに大きく聞こえた。

うるさかった。

早く遠近感を直そうと、無駄にキョロキョロしていると、すぐ右側に、あの巨大な顔が現れた。

前の晩より、ずっと近かった。

すぐ右側で、カクカクカクカクと、左右に小刻みに動いている。

恐怖で飛び退きたかったが、体が動かなかった。

思い切り視線を左に向けて、顔を見ないようにした。

それでも、右からカクカクと動く気配がする。

絶望的な気分になった。

目を瞑って、下を向いた。

心の中で、『消えろ消えろ消えろ』と何度も繰り返した。

そうしたら、ドンッと、右肩に何かが当たった。

冷たい手のひらだった。

体温というものが、まるでなかった。

その何かが、ゆっくりと動いた。

そして、右耳のすぐ横で、言われた。

「あーあ、もう少しだったのに」

すっと肩が軽くなった。

恐る恐る目を開けると、リビングは、通常の景色に戻っていた。

巨大な顔も、いなくなっていた。

これを最後に、今日までアリス症候群にはなっていない。

ただ、右肩には、1週間ほど、手のひらの形の薄い痣が残っていた。

親には、ぶつけたと言った。

引っ越しは、していない。

下宿の本棚は、今も同じ位置にある。

授業で使った教室の、右隣の席は、卒業まで、毎回、空いていた。

自分は、一度も、そこに座らなかった。

今、自分は、じっとしている時も、無意識に瞬きと視線の動かし方を確かめている。

治し方を知っていたから、あの顔は、自分が視線を動かす前の、ほんの数秒を狙っていたのかもしれない。

もし、あの時、遠近感を直さずに、声のほうを向いていたら。

『惜しかった』のは、何だったのだろう。

自分が視線を動かして、遠近感を直してしまったことか。

それとも、あと少しで、自分が何かの大きさに『合って』しまうところだったのか。

大きくなる自分。小さくなる自分。

あの顔は、どちらの自分の前にも、同じ大きさで立っていた。

その先は、考えないことにしている。

似たような体験はほんのり怖い話 12選にも載せています。身近な違和感の話は本当にあった不思議な体験の実話 24選もあわせてお読みください。

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