三年前、私が新しいマンションに引っ越したときの話です。
念願の一人暮らしでした。
友人たちを招いて、ささやかな引っ越し祝いを開くことにしました。
集まったのは、学生時代からの仲間、五人ほどです。
そのマンションは、駅から少し離れた、古いけれど趣のある建物でした。
家賃の割に部屋が広く、見つけたときは、運がいいと思ったものです。
内見のときから、なぜか、どの部屋も妙にひんやりしていました。
特に、寝室の押し入れの前に立つと、足元から冷気が這い上がるようでした。
不動産屋は、北向きだから、と笑っていました。
私も、そんなものかと、納得していたのです。
けれど、新生活への期待で、私はそれを深く気に留めませんでした。
引っ越しの片づけも一段落し、私は浮き立つ気持ちでした。
出前のピザを囲み、缶ビールを開け、夜は賑やかに更けていきました。
※
宴もたけなわの頃、誰かが「記念に写真を撮ろう」と言い出しました。
私たちは、リビングの壁を背にして、肩を寄せ合いました。
スマートフォンを三脚に立て、タイマーをセットします。
「はい、チーズ」の掛け声で、みんなが笑顔を作りました。
カシャ、というシャッター音が、部屋に響きました。
フラッシュが、一瞬、部屋を白く照らしました。
その光が、押し入れのほうまで届いたのを、私は覚えています。
そのときは、何も、おかしなことはありませんでした。
シャッターが切れた瞬間、押し入れのほうで、かたん、と小さな音がしました。
私は、建物が古いせいだろうと、気にも留めませんでした。
友人たちも、笑い声にまぎれて、誰も気づいていないようでした。
今思えば、あのとき、振り返っておくべきだったのです。
いや、振り返らなくて、よかったのかもしれません。
もし、あの隙間と、目が合っていたら。
私は、正気でいられなかったでしょう。
※
撮った写真を、私たちはその場で確認しました。
全員、いい笑顔で写っていました。
ところが、写真を覗き込んだ友人の一人が、急に黙り込んだのです。
「なあ、これ……なんだよ」
彼の指が、画面の隅を、震えながら指しました。
私たちの背後には、寝室へ続く、引き戸の押し入れがありました。
その引き戸が、写真の中では、わずかに開いていたのです。
そして、その隙間から。
青白い顔をした、見知らぬ女が、こちらを覗いていました。
※
髪の長い、若い女のようでした。
血の気のない顔で、目だけを大きく見開いて、私たちを睨みつけているのです。
その目には、白目がやけに多く、瞳が小さく見えました。
口元は、わずかに、笑っているようにも見えました。
写真の中の私たちは、誰も、その存在に気づいていません。
無防備に笑う五人の、すぐ後ろ。
その距離は、手を伸ばせば届くほどでした。
その場の空気が、一瞬で凍りつきました。
誰かが、悲鳴のような声をあげました。
私はすぐに、押し入れの引き戸を開けに行きました。
けれど、中には、布団が積んであるだけでした。
人が隠れられるような隙間は、どこにもありません。
上段にも下段にも、私の布団と、段ボールが詰まっているだけでした。
念のため、布団を一枚ずつ、どけてみました。
埃っぽい匂いがするだけで、人の気配など、ありません。
「気のせいだろ」と、誰かが、上ずった声で言いました。
けれど、写真には、はっきりと女が写っているのです。
気のせいで、片づけられるものではありませんでした。
私たちは、ただ顔を見合わせるばかりでした。
※
その夜は、もう、宴を続ける気にはなれませんでした。
友人たちは、そそくさと帰っていきました。
私一人が、その部屋に残されたのです。
がらんとしたリビングに、写真の中の女の視線だけが、残っていました。
テレビをつけても、音楽を流しても、その気配は消えませんでした。
私は、押し入れに、ガムテープで目張りをしました。
そんなことをしても、意味がないと、わかってはいました。
それでも、何かをせずには、いられなかったのです。
あの女の顔が、頭から離れませんでした。
目を閉じると、あの見開いた両目が、瞼の裏に浮かびました。
部屋の物音という物音が、すべて、あの女の気配に思えました。
押し入れのほうを見るのが、怖くてたまりませんでした。
私は、リビングの電気を、すべてつけたままにしました。
これは、間違いなく心霊写真だ。
この部屋には、何かがいる。
私は、夜が明けるまで、一睡もできませんでした。
部屋のどこにいても、視線を感じる気がしました。
冷蔵庫の音、時計の針、エアコンの風。
そのすべてが、誰かの息づかいに思えてくるのです。
朝日が昇ったときの安堵を、私は今でも忘れません。
※
翌日、私は知人のつてを頼って、ある霊能者を訪ねました。
年配の、落ち着いた女性でした。
私は、震える手で、あの写真を差し出しました。
霊能者は、最初、軽い気持ちで写真を受け取ったようでした。
けれど、写真を見るうちに、その表情が、少しずつ険しくなっていきました。
何か、言いかけては、口をつぐむのです。
その様子が、かえって、私の不安を煽りました。
霊能者は、写真を手に取り、しばらく、じっと見つめていました。
そして、ゆっくりと、こう言ったのです。
「この写真からは、霊気を感じません」
私は、思わず聞き返しました。
「これは、心霊写真でも、何でもありませんよ」
私が呆然としていると、霊能者は、声を落として続けました。
「むしろ、こちらのほうが、よほど怖いことかもしれませんよ」
そのときは、その言葉の意味が、わかりませんでした。
霊能者は、写真を私に返しながら、最後にこう付け加えました。
鍵は、しっかりかけたほうがいい、と。
なぜそんなことを言うのか、そのときは、見当もつきませんでした。
私は、お礼を言って、その家を後にしました。
※
その言葉に、私は、全身の力が抜けました。
なんだ、心霊写真じゃなかったのか。
ただの、光の加減か、何かの見間違いだったのだ。
私は、心底ほっとして、家路につきました。
びっくりさせやがって、と、苦笑いさえ浮かびました。
その夜は、久しぶりに、ぐっすりと眠れました。
※
けれど、布団に入ってから、私は、ふと気づいてしまったのです。
あれが、心霊写真でないのなら。
あの押し入れから覗いていた、青白い顔の女は、いったい、何だったのか。
霊では、ない。
つまり、あれは。
生きた、本物の人間だったということです。
※
あの夜、私の部屋の押し入れの中に、見知らぬ女が、潜んでいた。
宴の間ずっと、引き戸の隙間から、私たちを、見ていた。
私が開けたときには、もう、いなかった。
では、あの女は、いつ、どこへ消えたのか。
そもそも、いつから、あの押し入れの中にいたのか。
考えれば考えるほど、背筋が、凍りついていきました。
霊なら、まだよかったのかもしれません。
お祓いをすれば、それで済む話だからです。
けれど、生身の人間となれば、話はまったく違います。
その女は、今、どこにいるのか。
私の顔も、友人たちの顔も、すべて見られている。
そして、この部屋のことを、知り尽くしている。
そう思うと、もう、この部屋にはいられませんでした。
その夜、私はホテルに泊まりました。
自分の新居なのに、足を踏み入れるのが、恐ろしかったのです。
翌日から、私は荷物をまとめ始めました。
友人たちに連絡すると、誰もがあの写真を消したと言いました。
見ているだけで気分が悪くなる、と。
あの女の視線は、写真越しでも、人を蝕むようでした。
五人のうち二人は、その後しばらく、体調を崩したそうです。
私自身も、引っ越したあとも、悪夢にうなされる夜が続きました。
夢の中で、押し入れの戸が、ゆっくりと開いていくのです。
そして、あの青白い顔が、こちらをのぞき込む。
汗びっしょりで飛び起きる、その繰り返しでした。
※
私は飛び起きて、家じゅうの戸締まりを確認しました。
玄関の鍵は、かかっていました。
窓も、すべて閉まっていました。
おかしい、と思いました。
密室のはずの部屋に、なぜ、見知らぬ人間がいたのか。
そして、どうやって、出ていったのか。
答えは、出ませんでした。
内見のとき感じた、あの冷たさを、私は思い出しました。
もしかすると、あの女は、私が越してくる前から、この部屋にいたのではないか。
そんな、ありえない考えが、頭をよぎりました。
前の住人は、なぜ、こんな好条件の部屋を出ていったのか。
今になって、その理由が、恐ろしく思えてきました。
※
私は結局、その部屋を、一ヶ月も経たずに引き払いました。
引っ越しの当日、私は念のため、もう一度、あの押し入れを調べました。
すると、布団の裏の壁に、小さな染みのような跡が、ありました。
誰かが長くもたれていたような、人の形をした、うっすらとした跡が。
私は、それ以上、何も考えないことにしました。
その染みが何なのか、確かめる勇気は、ありませんでした。
管理会社に尋ねても、前の住人のことは、教えてもらえませんでした。
ただ、担当者が一瞬、言葉に詰まったのが、妙に引っかかりました。
「前の方も、すぐに出ていかれましたよ」と、それだけ言って。
知らないほうが、いいこともあると、自分に言い聞かせました。
それでも、ひとつだけ、確かめたことがあります。
あの部屋の押し入れは、隣の空き部屋と、壁一枚で隔てられていました。
その壁の点検口が、わずかに、ずれていたのです。
人ひとりが、通り抜けられるほどに。
密室の謎は、それで解けました。
けれど、解けたからといって、安心はできませんでした。
今でも、あの写真は、消せずに残っています。
そして、ときどき思うのです。
あの女は、私が引っ越した先を、知っているのではないか、と。
引っ越しの作業を、あの女が、どこかで見ていたとしたら。
新しい住所を、突き止めているとしたら。
考えすぎだと、自分に言い聞かせています。
けれど、夜中にふと目が覚めると、つい、確かめてしまうのです。
自分の部屋の、押し入れの戸が、きちんと閉まっているかどうかを。