覗いていた

三年前、私が新しいマンションに引っ越したときの話です。

念願の一人暮らしでした。

友人たちを招いて、ささやかな引っ越し祝いを開くことにしました。

集まったのは、学生時代からの仲間、五人ほどです。

そのマンションは、駅から少し離れた、古いけれど趣のある建物でした。

家賃の割に部屋が広く、見つけたときは、運がいいと思ったものです。

内見のときから、なぜか、どの部屋も妙にひんやりしていました。

特に、寝室の押し入れの前に立つと、足元から冷気が這い上がるようでした。

不動産屋は、北向きだから、と笑っていました。

私も、そんなものかと、納得していたのです。

けれど、新生活への期待で、私はそれを深く気に留めませんでした。

引っ越しの片づけも一段落し、私は浮き立つ気持ちでした。

出前のピザを囲み、缶ビールを開け、夜は賑やかに更けていきました。

宴もたけなわの頃、誰かが「記念に写真を撮ろう」と言い出しました。

私たちは、リビングの壁を背にして、肩を寄せ合いました。

スマートフォンを三脚に立て、タイマーをセットします。

「はい、チーズ」の掛け声で、みんなが笑顔を作りました。

カシャ、というシャッター音が、部屋に響きました。

フラッシュが、一瞬、部屋を白く照らしました。

その光が、押し入れのほうまで届いたのを、私は覚えています。

そのときは、何も、おかしなことはありませんでした。

シャッターが切れた瞬間、押し入れのほうで、かたん、と小さな音がしました。

私は、建物が古いせいだろうと、気にも留めませんでした。

友人たちも、笑い声にまぎれて、誰も気づいていないようでした。

今思えば、あのとき、振り返っておくべきだったのです。

いや、振り返らなくて、よかったのかもしれません。

もし、あの隙間と、目が合っていたら。

私は、正気でいられなかったでしょう。

撮った写真を、私たちはその場で確認しました。

全員、いい笑顔で写っていました。

ところが、写真を覗き込んだ友人の一人が、急に黙り込んだのです。

「なあ、これ……なんだよ」

彼の指が、画面の隅を、震えながら指しました。

私たちの背後には、寝室へ続く、引き戸の押し入れがありました。

その引き戸が、写真の中では、わずかに開いていたのです。

そして、その隙間から。

青白い顔をした、見知らぬ女が、こちらを覗いていました。

髪の長い、若い女のようでした。

血の気のない顔で、目だけを大きく見開いて、私たちを睨みつけているのです。

その目には、白目がやけに多く、瞳が小さく見えました。

口元は、わずかに、笑っているようにも見えました。

写真の中の私たちは、誰も、その存在に気づいていません。

無防備に笑う五人の、すぐ後ろ。

その距離は、手を伸ばせば届くほどでした。

その場の空気が、一瞬で凍りつきました。

誰かが、悲鳴のような声をあげました。

私はすぐに、押し入れの引き戸を開けに行きました。

けれど、中には、布団が積んであるだけでした。

人が隠れられるような隙間は、どこにもありません。

上段にも下段にも、私の布団と、段ボールが詰まっているだけでした。

念のため、布団を一枚ずつ、どけてみました。

埃っぽい匂いがするだけで、人の気配など、ありません。

「気のせいだろ」と、誰かが、上ずった声で言いました。

けれど、写真には、はっきりと女が写っているのです。

気のせいで、片づけられるものではありませんでした。

私たちは、ただ顔を見合わせるばかりでした。

その夜は、もう、宴を続ける気にはなれませんでした。

友人たちは、そそくさと帰っていきました。

私一人が、その部屋に残されたのです。

がらんとしたリビングに、写真の中の女の視線だけが、残っていました。

テレビをつけても、音楽を流しても、その気配は消えませんでした。

私は、押し入れに、ガムテープで目張りをしました。

そんなことをしても、意味がないと、わかってはいました。

それでも、何かをせずには、いられなかったのです。

あの女の顔が、頭から離れませんでした。

目を閉じると、あの見開いた両目が、瞼の裏に浮かびました。

部屋の物音という物音が、すべて、あの女の気配に思えました。

押し入れのほうを見るのが、怖くてたまりませんでした。

私は、リビングの電気を、すべてつけたままにしました。

これは、間違いなく心霊写真だ。

この部屋には、何かがいる。

私は、夜が明けるまで、一睡もできませんでした。

部屋のどこにいても、視線を感じる気がしました。

冷蔵庫の音、時計の針、エアコンの風。

そのすべてが、誰かの息づかいに思えてくるのです。

朝日が昇ったときの安堵を、私は今でも忘れません。

翌日、私は知人のつてを頼って、ある霊能者を訪ねました。

年配の、落ち着いた女性でした。

私は、震える手で、あの写真を差し出しました。

霊能者は、最初、軽い気持ちで写真を受け取ったようでした。

けれど、写真を見るうちに、その表情が、少しずつ険しくなっていきました。

何か、言いかけては、口をつぐむのです。

その様子が、かえって、私の不安を煽りました。

霊能者は、写真を手に取り、しばらく、じっと見つめていました。

そして、ゆっくりと、こう言ったのです。

「この写真からは、霊気を感じません」

私は、思わず聞き返しました。

「これは、心霊写真でも、何でもありませんよ」

私が呆然としていると、霊能者は、声を落として続けました。

「むしろ、こちらのほうが、よほど怖いことかもしれませんよ」

そのときは、その言葉の意味が、わかりませんでした。

霊能者は、写真を私に返しながら、最後にこう付け加えました。

鍵は、しっかりかけたほうがいい、と。

なぜそんなことを言うのか、そのときは、見当もつきませんでした。

私は、お礼を言って、その家を後にしました。

その言葉に、私は、全身の力が抜けました。

なんだ、心霊写真じゃなかったのか。

ただの、光の加減か、何かの見間違いだったのだ。

私は、心底ほっとして、家路につきました。

びっくりさせやがって、と、苦笑いさえ浮かびました。

その夜は、久しぶりに、ぐっすりと眠れました。

けれど、布団に入ってから、私は、ふと気づいてしまったのです。

あれが、心霊写真でないのなら。

あの押し入れから覗いていた、青白い顔の女は、いったい、何だったのか。

霊では、ない。

つまり、あれは。

生きた、本物の人間だったということです。

あの夜、私の部屋の押し入れの中に、見知らぬ女が、潜んでいた。

宴の間ずっと、引き戸の隙間から、私たちを、見ていた。

私が開けたときには、もう、いなかった。

では、あの女は、いつ、どこへ消えたのか。

そもそも、いつから、あの押し入れの中にいたのか。

考えれば考えるほど、背筋が、凍りついていきました。

霊なら、まだよかったのかもしれません。

お祓いをすれば、それで済む話だからです。

けれど、生身の人間となれば、話はまったく違います。

その女は、今、どこにいるのか。

私の顔も、友人たちの顔も、すべて見られている。

そして、この部屋のことを、知り尽くしている。

そう思うと、もう、この部屋にはいられませんでした。

その夜、私はホテルに泊まりました。

自分の新居なのに、足を踏み入れるのが、恐ろしかったのです。

翌日から、私は荷物をまとめ始めました。

友人たちに連絡すると、誰もがあの写真を消したと言いました。

見ているだけで気分が悪くなる、と。

あの女の視線は、写真越しでも、人を蝕むようでした。

五人のうち二人は、その後しばらく、体調を崩したそうです。

私自身も、引っ越したあとも、悪夢にうなされる夜が続きました。

夢の中で、押し入れの戸が、ゆっくりと開いていくのです。

そして、あの青白い顔が、こちらをのぞき込む。

汗びっしょりで飛び起きる、その繰り返しでした。

私は飛び起きて、家じゅうの戸締まりを確認しました。

玄関の鍵は、かかっていました。

窓も、すべて閉まっていました。

おかしい、と思いました。

密室のはずの部屋に、なぜ、見知らぬ人間がいたのか。

そして、どうやって、出ていったのか。

答えは、出ませんでした。

内見のとき感じた、あの冷たさを、私は思い出しました。

もしかすると、あの女は、私が越してくる前から、この部屋にいたのではないか。

そんな、ありえない考えが、頭をよぎりました。

前の住人は、なぜ、こんな好条件の部屋を出ていったのか。

今になって、その理由が、恐ろしく思えてきました。

私は結局、その部屋を、一ヶ月も経たずに引き払いました。

引っ越しの当日、私は念のため、もう一度、あの押し入れを調べました。

すると、布団の裏の壁に、小さな染みのような跡が、ありました。

誰かが長くもたれていたような、人の形をした、うっすらとした跡が。

私は、それ以上、何も考えないことにしました。

その染みが何なのか、確かめる勇気は、ありませんでした。

管理会社に尋ねても、前の住人のことは、教えてもらえませんでした。

ただ、担当者が一瞬、言葉に詰まったのが、妙に引っかかりました。

「前の方も、すぐに出ていかれましたよ」と、それだけ言って。

知らないほうが、いいこともあると、自分に言い聞かせました。

それでも、ひとつだけ、確かめたことがあります。

あの部屋の押し入れは、隣の空き部屋と、壁一枚で隔てられていました。

その壁の点検口が、わずかに、ずれていたのです。

人ひとりが、通り抜けられるほどに。

密室の謎は、それで解けました。

けれど、解けたからといって、安心はできませんでした。

今でも、あの写真は、消せずに残っています。

そして、ときどき思うのです。

あの女は、私が引っ越した先を、知っているのではないか、と。

引っ越しの作業を、あの女が、どこかで見ていたとしたら。

新しい住所を、突き止めているとしたら。

考えすぎだと、自分に言い聞かせています。

けれど、夜中にふと目が覚めると、つい、確かめてしまうのです。

自分の部屋の、押し入れの戸が、きちんと閉まっているかどうかを。

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