
あの家で、私は一度も二階の電気を点けませんでした。
点ければ、丘の下から見えてしまうからです。
丘の下の国道からは、その斜面が正面に見えます。
二階の電気が一つ点いているだけで、そこだけ浮き上がって見えるのです。
神奈川の秦野。
丘をひとつ切り開いた分譲地の、いちばん奥の区画でした。
二十区画のうち、家が建っていたのは七軒だけです。
街灯は、二本しかありませんでした。
夜になると、切り土の斜面が、ただ黒い壁のように見えました。
風の通り道になっていて、夏でも夜は涼しい土地でした。
草の匂いが、雨の前だけ強くなります。
その匂いがしはじめると、翌朝はたいてい霧が出ました。
霧の朝は、丘の下から家が見えません。
その日だけは、少し息がつけました。
私は、その分譲地の外構をやった職人でした。
塀を積み、駐車場の土間を打ち、庭に芝を張る。
十二区画ぶんを、半年かけてやりました。
私は、その分譲地のどこに何を埋めたか、ぜんぶ覚えています。
配管の通り道も、雨水枡の位置も、頭に入っていました。
家の中に入る仕事ではありません。
だから私は、あの家の間取りを知りませんでした。
図面は見ています。
けれど、外構の図面には、家の中は描かれていません。
壁の向こうがどうなっているかは、職人には知らされないのです。
引き渡しの日のことは、よく覚えています。
施主は、四十くらいの男の人でした。
奥さんと、小学生の女の子がいました。
女の子は、張ったばかりの芝の上を、靴を脱いで歩いていました。
「痛くないですか」
私が訊くと、女の子は首を横に振りました。
「ふわふわする」
張ったばかりの芝は、まだ根が浅くて柔らかいのです。
そのとき、家の中からカレーの匂いがしていました。
引っ越しの前の日に、台所を使ったのだと思います。
「三年、向こうに行くことになりまして」
そう言って、その人は笑いました。
家は、建ったばかりで空き家になる。
そういう話は、たまにあります。
その日、私は施主が鍵を隠すところを見ました。
玄関脇の、メーターボックスの中です。
換気口の点検に人が入るから、と言っていました。
見るつもりで見たわけではありません。
ただ、目に入って、そのまま覚えてしまったのです。
覚えてしまったことを、私はその日、何とも思いませんでした。
職人は、そういうものをいくつも覚えています。
覚えていても、使わない。
それだけのことです。
私の仕事は、その冬に減りました。
現場が三つ続けて止まり、二月に会社が畳まれました。
三月の終わりに、アパートを引き払いました。
荷物は、貸倉庫に預けました。
最初の一週間は、車で寝ていました。
軽の商用車です。
後ろの荷台に、コンパネを一枚敷いて寝ました。
四月でも、明け方は冷えました。
寝られないまま、フロントガラスの霜を見ている時間が長かったのを覚えています。
夜中に、駐車場の見回りが来ることもありました。
懐中電灯の光が、荷台の隙間から入ってきます。
見つかれば、出ていってくれと言われるだけです。
それでも、そのたびに体が硬くなりました。
人に見つかることが、だんだん怖くなっていきました。
四月の雨の晩に、私はあの丘へ行きました。
メーターボックスの鍵
鍵は、まだそこにありました。
薄い金属の箱を開けると、メーターの下に、封筒ごと入っていました。
私は、それを持ったまま、しばらく玄関の前に立っていました。
雨が、新しい庇を叩いていました。
その音のあいだだけ、私は誰にも見られていない気がしました。
その庇の水切りは、私が付けたものです。
鍵を回したとき、音が驚くほど小さかったのを覚えています。
空き家の鍵の話は、いくつも聞いたことがあります(空き家の内側から閉まる鍵)。
中は、暗くて、新しい建材の匂いがしました。
人の暮らしの匂いは、もうありませんでした。
床には、うっすらと埃が積もっていました。
私は、靴下のまま廊下を歩きました。
足の裏に、埃の粒が張りつく感じがありました。
私は、その晩から、その家で寝起きするようになりました。
決めごとを、いくつか作りました。
電気は、点けない。
水道は、夜中に少しだけ使う。
風呂は、使わない。
郵便受けは、開けない。
玄関の三和土に、靴を置かない。
靴は、押入れの下の段に入れておく。
戸を閉めるときは、最後の五センチをゆっくり閉める。
どれも、見つからないための決めごとです。
けれど、私はそれを、作法のように守っていました。
守っていれば、ここにいてもいいような気がしたのです。
そんなはずはない、とわかっていました。
わかっていても、決めごとを増やしていきました。
増やすほど、後ろめたさが薄まる気がしたのです。
二階の、いちばん奥の部屋を使いました。
窓が北向きで、丘の下から見えにくいからです。
その部屋には、机が一つ置いてありました。
引き出しは、一度も開けませんでした。
開けないことが、私の最後の線引きでした。
机の上には、何も置かれていませんでした。
椅子だけが、少しだけ斜めに引いてありました。
出ていった日のまま、ということだと思います。
廊下の壁に、写真が三枚掛かっていました。
三人が写った、海辺の写真です。
私は、それを裏返しにしました。
見ていると、寝られなかったからです。
裏返した写真の裏には、日付が書いてありました。
鉛筆の、小さな字でした。
私は、その字を読んでから、すぐに壁へ戻しました。
女の子の名前と、七歳の誕生日の日付でした。
芝の上を裸足で歩いていた子です。
三年経てば、十歳になっているはずでした。
そのことを考えた晩は、決まって寝つけませんでした。
冷蔵庫の減らし方
冷蔵庫には、少しだけ物が残っていました。
瓶詰めの調味料と、封の切っていない缶詰です。
私は、それを一度に減らさないようにしました。
一週間に、一つだけ。
それ以上は、開けませんでした。
缶詰は、鯖の水煮とコーンでした。
調味料は、封を切らずに残しました。
米は、袋の口を留めているクリップの位置を覚えてから出しました。
戻すときは、同じ位置に留め直しました。
袋の口の折り目も、同じ向きに折り直しました。
そうしていれば、いつか返せる気がしたのです。
何を返すのか、自分でもわかっていませんでした。
帰ってきた人が気づかないように、という理屈でした。
けれど、本当のところは違ったと思います。
一度に食べてしまえば、終わってしまうからです。
終わらせたくなかったのだと思います。
私には、帰る場所がありませんでした。
その家も、私の帰る場所ではありません。
それでも、鍵を回す音だけは、毎晩同じでした。
同じ音が鳴る場所が、当時の私には必要だったのです。
日雇いの仕事に出て、夜に戻る暮らしが続きました。
丘を上るとき、必ず一度、下を振り返りました。
誰もついてきていないことを確かめるためです。
誰もついてきたことは、ありませんでした。
一度だけ、犬の散歩の人とすれ違いました。
「こんばんは」
そう言われて、私も同じように返しました。
「奥の、白いお宅の方ですか」
「ええ」
そう答えてしまってから、自分の声が普通だったことに驚きました。
返してから、しばらく足が止まりませんでした。
こんばんは、と言えてしまったことが、こたえたのです。
私は、住んでいる人の顔で挨拶をしていました。
六月になって、分譲地に八軒目が建ちはじめました。
昼のあいだ、重機の音が近くでしていました。
私は、朝早く出て、夜に戻るようにしました。
現場の職人の顔ぶれに、見知った人がいたからです。
以前、同じ現場で一緒になった左官屋でした。
去年の暮れに、駅前で一度だけ会っています。
「仕事、どうしてる」
そう訊かれて、私は、ぼちぼちです、と答えました。
その日の私は、まだアパートに住んでいました。
見つかれば、なぜここにいるのかを訊かれます。
訊かれれば、答えられません。
答えられないことを、私は毎朝、確かめて出ていました。
七月の終わりに、回覧板が郵便受けに入っていました。
私は、決めごとを破って、それを開けました。
「近隣で、空き家に人が立ち入る事案が続いております」
回覧板の紙には、そう書いてありました。
「不審な人影を見かけましたら、すぐにご連絡ください」
そのあとに、自治会長の名前が刷ってありました。
私は、それを元のとおりに戻しました。
表札の出ていない家は、それだけで人の目を引くものです(表札のない家)。
その晩、テレビをつけました。
音量をいちばん小さくして、床に置いて見ました。
夕方のニュースで、同じ丘の名前が出ていました。
不審な人物が、夜間に出入りしているという通報が、何件かあった。
警察が、警戒を強めている。
画面には、見慣れた坂の映像が出ていました。
去年、私が土間を打った家の塀が、隅に写っていました。
自分の仕事が、そういう形で画面に出るのは初めてでした。
きれいに写っていました。
私は、テレビを消しました。
消してから、自分が息を詰めていたことに気づきました。
おかしな話です。
警戒されているのは、私のはずでした。
それなのに、私はその晩、怖くて眠れませんでした。
誰かが入ってくるかもしれない。
そのことが、本当に怖かったのです。
いま思えば、おかしな筋の通し方でした。
階段をのぼる音
八月の、蒸し暑い夜でした。
二階の奥の部屋で、私は浅く眠っていました。
目が覚めたのは、階下で音がしたからです。
かちり、という金属の音でした。
玄関の鍵が回る音です。
私は、その音を知っていました。
自分が毎晩、聞いている音だからです。
同じシリンダーの、同じ引っかかり方でした。
体が、動きませんでした。
鼓動だけが、喉のあたりまで上がってきました。
脇の下に、冷たい汗が流れるのがわかりました。
続いて、三和土に何かを置く音がしました。
硬いものを、そっと下ろす音です。
旅行鞄のようでした。
それから、廊下の板が鳴りました。
足音は、一人ではないようでした。
誰かが、低い声で何か言いました。
「……いる」
聞こえたのは、それだけでした。
言葉は、聞き取れません。
低い声と、もう一つ、少し高い声がありました。
二人。
あるいは、三人だったかもしれません。
低い声のほうが、何かを指示しているようでした。
答える声は、短く切れていました。
私は、布団の上でゆっくりと体を起こしました。
音を立てないように、四つん這いで窓辺へ向かいました。
畳ではなく、フローリングの部屋でした。
膝が当たるたびに、小さな音が出ます。
そのたびに、止まりました。
止まると、自分の息の音が大きく聞こえます。
口を開けて、ゆっくり吐くようにしました。
階下で、部屋を一つずつ確かめているような気配がありました。
戸を開ける音。
それから、しばらくの沈黙。
また、次の戸を開ける音。
一階を、順番に確かめているようでした。
私の靴は、押入れの下の段にあります。
見つかっていないはずだ、と自分に言い聞かせました。
押入れの戸を、きちんと閉めたかどうか。
そのことだけが、頭の中で回っていました。
閉めた記憶は、ありませんでした。
やがて、階段の下で足音が止まりました。
そして、一段目が鳴りました。
忍び足でのぼってくるのが、わかりました。
私は、窓の錠を外しました。
外構をやったとき、この家の庇の高さを測っています。
屋根から地面までは、三メートル足らずです。
窓を開けると、夏の湿った空気が入ってきました。
下の芝は、私が張ったものでした。
三年で、ずいぶん伸びていました。
刈られていないのを、私は毎日見ていました。
二階の電気のスイッチ
私は、屋根に降りました。
瓦ではなく、金属の屋根です。
思ったよりも、音は出ませんでした。
夜露で濡れていて、足の裏が滑りました。
一度、体がずれて、心臓が止まりそうになりました。
軒先まで、じりじりと体をずらしていきました。
指先が、雨樋の縁にかかりました。
そのまま体を下ろし、足が塀の天端に届きました。
その塀も、私が積んだものでした。
どこに足を掛ければ崩れないか、私は知っていました。
天端の笠木は、私が一枚ずつ据えたものです。
据えた順番まで、体が覚えていました。
庭に降りたとき、真上で音がしました。
かち、という、小さな音です。
見上げると、二階の電気が点いていました。
ついさっきまで、私が寝ていた部屋です。
窓の向こうで、人影が動いていました。
カーテンは、私が掛けたままの位置でした。
その隙間から、光が庭の芝に落ちていました。
落ちた光の形が、窓の形とぴったり同じでした。
光の中に、私の足跡が二つ、はっきり残っていました。
露に濡れた芝は、踏んだところだけ色が変わります。
それを消す手立ては、ありませんでした。
私は、庭を抜けて走りました。
芝の上を通り、勝手口の脇から、外構の低いところを越えました。
そこも、私が作った場所でした。
坂を駆け下りるあいだ、一度も振り返りませんでした。
街灯の二本目を過ぎたところで、下から車が上がってきました。
屋根に、赤い灯りが乗っていました。
私は、側溝の脇の草むらに身を伏せました。
車は、そのまま坂を上っていきました。
サイレンは、鳴っていませんでした。
急いでいる走り方でもありませんでした。
通報を受けて上がってきた車の走り方です。
それから私は、夜の街をずっと走りました。
あのとき、逃げるのがもう少し遅れていたら。
そう思うと、いまでも背中が冷えます。
少なくとも、いまのこの暮らしは、なかったでしょう。
あれから、私はあの丘に近づいていません。
一度だけ、遠くの国道から、丘の上を見たことがあります。
家は、二十軒ぜんぶ建っていました。
どの窓にも、電気が点いていました。
私が寝ていたあの部屋にも、灯りがありました。
私は、あの家で一度も、電気を点けたことがありません。
点け方を知らなかったからです。
ブレーカーの場所も、最後まで知りませんでした。
あの部屋の電気を点けられるのは、あの家の人だけでした。
帰ってきたのは、私ではないほうです。