会社の同僚が、ひとり、亡くなった。
梶という男だった。
冬山の単独登山を、趣味にしていた。
雪のついた岩壁を、ロープも頼らずに登っていく。
そういう登り方を、好んでいた。
俺とは、妙にうまが合った。
独身の俺を、よく家に呼んでくれた。
奥さんの手料理を、何度もごちそうになった。
小さな娘さんも、俺によくなついていた。
五歳の、人懐っこい子だった。
俺が家に行くと、いつも玄関まで走ってきて、足にしがみついてきた。
梶は、その娘を、目に入れても痛くないほど、可愛がっていた。
山の写真を見せながら、いつか一緒に登ろうな、と約束していた。
あんなに家族を愛していた男が、なぜ、危険な山を、やめられなかったのか。
その矛盾だけは、最後まで、俺には理解できなかった。
家族ぐるみの付き合い、と言ってよかった。
梶の手は、いつも、ささくれて、皮が厚くなっていた。
岩をつかみ続けた、登山家の手だった。
握手をすると、やすりのような感触が、手のひらに残った。
あいつの車には、いつも、ザイルとカラビナが、積みっぱなしだった。
金属と、古い汗の混じった匂いがした。
週末になると、あいつは、その匂いをまとって、山へ消えた。
そして月曜には、日に焼けた顔で、何ごともなかったように、出社してきた。
その梶が、ある日、改まった顔で、俺に頼みごとをしてきた。
会社の帰り、人気のない喫煙所でのことだ。
「なあ、頼みがあるんだ」
声が、いつになく低かった。
「俺がもし死んだときのために、ビデオを撮っておいてほしい」
俺は、煙草を持つ手を止めた。
趣味が趣味だ。
いつ、山で命を落とすか分からない。
だからあらかじめ、家族へのメッセージを、撮っておきたいのだという。
万が一のときは、それを、妻と娘に見せてほしい、と。
「縁起でもないこと言うなよ」
俺は、そう返した。
そんなに危ないなら、家族もいるんだから、やめておけ。
そうも言った。
だが梶は、首を横に振った。
「登ることだけは、やめられないんだ」
きっぱりと、そう言い切った。
いかにも、あいつらしかった。
山をやらない俺には、その気持ちは、分からなかった。
なぜ、命を懸けてまで、登るのか。
一度だけ、聞いたことがある。
あいつは、少し考えてから、こう答えた。
「上にいると、呼ばれてる気がするんだ」
そのときは、ただの、登山家らしい比喩だと思った。
今は、そう思えない。
俺は、撮影を引き受けた。
※
梶の家で撮ると、奥さんに気づかれる。
だから、俺のアパートで撮ることになった。
日曜の、よく晴れた昼下がりだった。
白い壁を背に、梶が、安物のソファに腰を下ろした。
俺は、三脚にカメラを据え、録画のボタンを押した。
赤いランプが、ともった。
梶が、照れくさそうに、咳払いをした。
「えー、梶です」
そう、ぎこちなく切り出した。
「このビデオを見てるってことは、俺は、死んじまったってことだな」
少し笑って、続けた。
奥さんの名を呼び、娘の名を呼んだ。
今まで、本当にありがとう、と。
勝手な趣味で、迷惑をかけて、すまなかった、と。
「育ててくれた親父、おふくろ。友達のみんな」
「俺が死んでも、どうか、悲しまないでくれ」
「俺は、天国で、楽しくやってるからさ」
声は、穏やかだった。
最後に、娘の名を、もう一度呼んだ。
「お父さんは、空の上から、ずっと見てるからな」
「だから泣かないで、笑って、見送ってくれ」
「それじゃ、さようなら」
梶は、ぺこりと頭を下げた。
俺は、録画を止めた。
撮り終えたとき、梶は、ひどくさっぱりした顔をしていた。
「これで、心置きなく登れるよ」
そう言って、笑った。
そのときは、ただの、用心深い男の冗談だと思っていた。
ただ、撮影のあいだ、一つだけ、気になったことがある。
カメラの赤いランプが、ときどき、不規則に、明滅したのだ。
電池は、新品に替えたばかりだった。
梶が話している、ちょうどそのときだけ、ランプが、ちらついた。
まるで、レンズの向こうの何かが、信号を、送っているように。
あのときは、安物のカメラのせいだと、片づけた。
梶を玄関で見送るとき、あいつは、ふと、振り返って言った。
「最近さ、背中が、やけに重いんだ」
肩を、ぐるぐると、回していた。
山の疲れだろう、と俺は笑った。
あいつも、笑った。
それが、生きている梶を見た、最後だった。
※
それから、半年が過ぎた。
梶は、本当に、死んだ。
二月の、厳冬の山だった。
単独での、滑落だった。
仲間の話では、妙な落ち方だったという。
いつもなら、万が一に備えて、安全な経路を選ぶ男だ。
なのに、その日に限って、予想もしない方向へ、落ちていた。
まるで、何かに、引かれたように。
あとで聞いた話だが、滑落した地点は、もともと、地元で、いわくのある場所だったらしい。
昔から、登山者が、よく、足を滑らせる崖だという。
その下には、小さな祠が、ひっそりと、建っていた。
誰を祀ったものなのかは、土地の者も、知らないという。
梶は、その祠の、ちょうど真上から、落ちていた。
発見されたとき、梶の遺体は、雪の下で、凍りついていた。
通夜も、告別式も、見ていられないものだった。
奥さんは、泣き崩れていた。
娘さんは、まだ、事態を飲み込めていなかった。
棺の中の父親を見ても、娘さんは、きょとんとしていた。
「お父さん、寝てるの」
そう、無邪気に聞いた。
その一言で、参列していた誰もが、こらえきれずに泣いた。
通夜の晩、奇妙なことがあった。
誰も触れていないのに、祭壇の蝋燭が、一本だけ、ふっと消えたのだ。
風など、入る隙間もない部屋だった。
そのときは、ただの偶然だと、誰もが思おうとしていた。
俺も、信じられなかった。
まさか、あの梶が。
※
一週間が過ぎた。
俺は、例のビデオのことを、思い出した。
あいつとの、約束だ。
見せないわけには、いかなかった。
奥さんに、おそるおそる、ビデオの存在を伝えた。
少し落ち着きを取り戻していた奥さんは、ぜひ見たいと言った。
ちょうど、初七日の法要があった。
その席で、親族そろって、見ることになった。
ディスクを、ケースから取り出したとき、妙なことに気づいた。
盤面が、やけに、冷たかった。
冷蔵庫から出したばかりのように、指先が、ひやりとした。
半年、俺の部屋の引き出しに、入れていただけのものだ。
そんなはずは、なかった。
かすかに、線香とは違う、土のような匂いがした。
気のせいだと、自分に言い聞かせた。
再生機に、ディスクをセットする手が、わずかに、震えた。
親族の、すすり泣きだけが、部屋に満ちていた。
誰かが、線香を、新しく一本、立てた。
その煙が、まっすぐ上がらずに、なぜか、テレビのほうへ、流れていった。
俺が、ディスクを取り出すと、もう、すすり泣きが聞こえ始めた。
「これも、供養になりますから」
そう言って、俺は、再生のボタンを押した。
※
画面が、暗いままだった。
ヴーー、という低い音だけが、流れ続けた。
十秒。
二十秒。
撮影に、失敗したのか。
俺の背に、いやな汗がにじんだ。
そう思った、その瞬間だった。
暗闇の中に、ぼう、と梶の姿が、浮かび上がった。
おかしい。
俺の部屋は、あんなに明るかったはずだ。
梶の背後だけが、墨を流したように、黒い。
「えー、梶です」
声が、ひどく、くぐもっていた。
「このビデオを……るってことは、俺は……んじまった……だな」
言葉が、ところどころ、欠けていた。
ヴーー、という雑音が、ますます大きくなる。
その音に、別の音が、混じり始めた。
低い、唸り声のような、何か。
画面の梶の顔が、こわばっていく。
撮影のときの、あの穏やかな顔では、なかった。
「育ててくれた、親父、おふくろ……」
そこまでは、聞き取れた。
だが、次の瞬間だった。
梶の声が、裂けた。
「悲しま……ズヴァアアアアアアア」
絶叫だった。
「死にたくない」
はっきりと、そう聞こえた。
「死にたくないよおおお」
その声は、梶の声であって、梶の声では、なかった。
何か、もっと低く、もっと年老いたものが、あいつの口を借りて、叫んでいるようだった。
スピーカーが、びりびりと、震えた。
部屋中の空気が、ぐにゃりと、歪んだ気がした。
誰かが、再生を止めようと、リモコンに手を伸ばした。
だが、ボタンを押しても、映像は、止まらなかった。
撮影のときには、なかった言葉だ。
断末魔の叫びとしか、言いようがなかった。
親族が、悲鳴をあげた。
娘さんが、母親に、しがみついた。
そして、俺は、見てしまった。
画面の奥の暗闇が、ゆっくりと、こちらへ近づいてくるように見えた。
梶の輪郭が、その黒さに、にじんでいく。
部屋の温度が、すっと、下がった気がした。
誰かの、歯の鳴る音が、聞こえた。
暗闇の端から、白い手のようなものが、伸びてきた。
それが、梶の腕を、つかんだ。
そして、画面の外へ、ずるりと、引きずっていった。
梶の絶叫が、ぶつりと、途切れた。
画面は、また、ただの暗闇に戻った。
※
その場は、地獄のようだった。
奥さんが、俺に、つかみかかってきた。
「なんてものを、見せるの」
梶の父親に、頬を、殴られた。
返す言葉も、なかった。
奥さんの弟さんが、必死に、なだめてくれた。
兄さんは、こんないたずらをする人じゃない、と。
そのおかげで、その場は、どうにか収まった。
俺は、ただ、土下座をした。
このディスクは、すぐに処分します、と。
何度も、頭を、床にこすりつけた。
家に帰っても、俺は、そのディスクを、どうしても、捨てられなかった。
燃えるゴミに出そうとすると、なぜか、手が、止まるのだ。
捨ててはいけない。
そんな声が、頭の奥で、聞こえる気がした。
結局、俺は、そのディスクを、白い布に包んで、押し入れの奥に、しまった。
その夜から、家の蛇口が、ひとりでに、ぽたぽたと、鳴り始めた。
※
翌日、俺は、近所の寺に向かった。
このディスクを、処分してもらうつもりだった。
住職に、紙袋を、差し出そうとした。
処分を、と言いかけた、そのときだ。
住職の顔色が、変わった。
「あ、それは、うちでは無理です」
袋の中を見もせずに、そう言った。
代わりに、ある場所を、教えてくれた。
そこなら、浄霊をしてくれる、と。
俺は、言われた場所へ、向かった。
古い、小さな社だった。
そこの神主は、俺が袋を出すなり、眉をひそめた。
「えらい、とんでもないものを、持ってきたね」
神主は、紙袋を、直接は触ろうとしなかった。
白い布越しに、それを、受け取った。
「これを撮った場所は、あなたの家ですか」
そう、低い声で聞かれた。
俺が頷くと、神主は、長いあいだ、黙り込んだ。
「しばらく、家の水回りに、気をつけなさい」
理由は、教えてくれなかった。
そう、ため息をついた。
そして、しばらく沈黙したあと、こう言った。
梶さんは、もう、引っ張り込まれていた、と。
「このビデオを撮った、その時点でね」
俺は、言葉を失った。
撮影は、半年も前だ。
あいつは、生きていた。
笑って、心置きなく登れる、と言っていた。
「どうして、半年も、永らえたのか」
神主は、首をかしげた。
「本来なら、撮った直後に、死んでいるはずです」
俺は、あの撮影の日のことを、必死に思い出した。
梶の背後の、白い壁。
差し込んでいた、昼の光。
おかしなものなど、何も、映っていなかったはずだ。
だが、再生された映像の、あの暗闇は、何だったのか。
あれは、半年のあいだ、ずっと、あいつの後ろに、いたのか。
撮影のレンズだけが、それを、捉えていたのか。
※
梶が、最後に残した、あの言葉が、今も、耳に残っている。
笑って、見送ってくれ、と。
けれど、あの映像を見たあとでは、誰も、笑えなかった。
あいつは、本当に、家族のために、ビデオを撮ったのだろうか。
それとも、何かに、撮らされ、家族を、あの暗闇のそばへ、呼び寄せようとしていたのだろうか。
考えれば考えるほど、背筋が、冷たくなる。
あの社の神主は、別れ際に、もう一つ、忘れられないことを言った。
「山で死ぬ人と、山に呼ばれる人は、違うんですよ」
梶さんは、後者だった、と。
呼ばれた者は、撮った映像にだけ、その姿を、残すのだという。
あの日、梶は、なぜ、ビデオを撮りたがったのか。
今では、こう思う。
あいつは、もう、知っていたのかもしれない。
自分が、長くないことを。
いや、もっと言えば。
撮らされていたのかもしれない。
あの暗闇に、いるものに。
梶の家には、もう、行っていない。
あのディスクは、社に、納めてもらった。
だが、ときどき、夜中に、目が覚める。
枕元で、ヴーー、という、あの低い音が、聞こえる気がするのだ。
そして、暗闇の端から、白い手が、伸びてくる夢を、見る。
あれは、本当に、梶の腕を、つかんでいたのだろうか。
夢の中で、その手は、いつも、こちらを向いている。
白く、骨ばっていて、爪が、長い。
ゆっくりと、闇の中から、伸びてくる。
俺の腕に、触れる寸前で、いつも、目が覚める。
目覚めると、手首のあたりが、氷のように冷たい。
そして、枕元で、ヴーー、という、あの音が、消えていくのだ。
先月、梶の奥さんから、久しぶりに、電話があった。
あのときは、取り乱して、ごめんなさい、と。
そして、最後に、ためらいながら、こう聞かれた。
「あの人のお墓に行くと、土が、いつも、少しだけ、掘り返されているの」
「あなた、何か、知らない?」
俺は、知らない、と答えるだけで、精一杯だった。
受話器の向こうで、あの娘さんの、笑い声が、聞こえた。
「お父さん、帰ってきたよ」
電話を切ったあと、しばらく、俺は、動けなかった。
梶は、あのビデオの中で、確かに、こう言っていた。
空の上から、ずっと見ている、と。
だが、あいつは、空になど、いないのかもしれない。
そう、無邪気に、はしゃいでいた。
俺は、それ以上、何も、聞けなかった。
それとも、次に、つかむ腕を、探していたのだろうか。