私が小学三年生のときの話です。
そのころ、いちばん仲のよかった女の子がいました。
名前を、みおちゃんといいました。
学校が終わると、毎日のように、お互いの家を行き来していました。
その日は、みおちゃんの家の、台所のテーブルでした。
二人で、画用紙にお絵かきをしていました。
描いていたのは、「未来の町」です。
空を飛ぶ車。
光る道路。
窓から、夕方の光が差し込んでいました。
みおちゃんは、色鉛筆を握って、夢中で線を引いていました。
「ぽんちゃん、見て」
ぽんちゃんというのは、私のあだ名です。
「未来って、こんな感じだと思う?」
私は、彼女の絵をのぞきこみました。
銀色のビルが、何本も並んでいました。
「すごいね。ほんとに、こうなるのかな」
「なるよ、きっと」
みおちゃんは、自信たっぷりに笑いました。
前歯が一本、生えかわったばかりで、すきっ歯でした。
みおちゃんは、少し変わった子でした。
クラスでは、あまり目立つほうではありません。
でも、二人きりになると、いつも、不思議な話を聞かせてくれました。
「ねえ、ぽんちゃん。空の雲って、誰かの忘れものなんだって」
「だれの?」
「神様の、消し忘れた落書き」
そんなことを、まじめな顔で言うのです。
私は、その話を聞くのが、大好きでした。
あるとき、みおちゃんが、こんなことを言いました。
「ぽんちゃんは、大人になったら、遠いところに行くよ」
「えー、なんで分かるの」
「なんとなく。海の、ずっと向こう」
私は、笑って聞き流しました。
でも、その通りになったのです。
私は今、海の向こうの国で、暮らしています。
みおちゃんは、もしかしたら。
本当に、未来が、見えていたのかもしれません。
放課後は、よく、裏山の小さな祠で遊びました。
そこを、二人だけの秘密基地と呼んでいました。
駄菓子屋で買った、十円のラムネを、半分こにして。
夕方の鐘が鳴るまで、いつまでも話していました。
みおちゃんは、絵を描くのが、とても上手でした。
特に、見たこともない景色を描くのが、得意だったのです。
知らない町。
知らない海。
まるで、どこか遠くで本当に見てきたような、絵でした。
※
やがて、日が暮れてきました。
私が、家に帰らなければならない時間です。
みおちゃんは、いつものように、玄関の外まで見送りに出てくれました。
夕焼けが、路地を赤く染めていました。
そのとき、みおちゃんが、ふいに言いました。
「ぽんちゃん。今日のこと、大人になっても、忘れないでね」
みおちゃんが、変なことを言うのには、慣れていました。
でも、そのときだけは、様子が、いつもと違いました。
声が、やけに静かだったのです。
「どうしたの?」
私は、聞き返しました。
みおちゃんは、まっすぐに私を見て、続けました。
「あのね。今日の私、ほんとはね、四十歳の私なの」
私には、何のことか、さっぱり分かりませんでした。
でも、彼女は、真剣な顔で言うのです。
「二千十八年だよ。私、四十歳になってるの」
「ぽんちゃんのこと思い出してたら。心だけが、子どもの私に、戻ってきちゃった」
正直に言って、賢いとは言えない子どもでした。
二千十八年と聞いても、ぴんと来ません。
ただ、ものすごく遠い未来、としか思えませんでした。
「ふうん。じゃあ、未来から来たんだ!」
私は、そんな、間の抜けた返事しかできませんでした。
みおちゃんは、そんな私を見て、くすっと笑いました。
「それがね。全然、空、飛んでないんだよ。車」
「えー、つまんないの」
「ほんとだよ。がっかりするくらい、普通なの」
私たちは、声をあげて笑いました。
そして、また明日ね、と約束して、別れました。
※
今思えば、どうして、もっと聞いておかなかったのでしょう。
でも、なにせ、子どもでしたから。
みおちゃんとは、いつも、そんなふうに、不思議な空想ごっこをしていました。
だから、その日のことも、特別に変だとは、思わなかったのです。
翌朝、学校へ行くと。
みおちゃんは、いつものように、私に話しかけてきました。
まるっきり、普段どおりのみおちゃんでした。
昨日のことを聞いても、きょとんとするばかり。
私も、そのうち、すっかり忘れてしまいました。
そうして、毎日が、過ぎていきました。
※
五年生になった春。
私の家が、父の仕事の都合で、遠い町へ引っ越すことになりました。
最後の日。
みおちゃんは、駅まで見送りに来てくれました。
引っ越しのトラックが来た日のことを、覚えています。
がらんとした部屋に、夕日が差していました。
私は、急に、泣きたくなりました。
でも、みおちゃんの前では、泣きたくなかったのです。
駅のホームで、みおちゃんは、小さな包みをくれました。
中には、あの「未来の町」の絵が、入っていました。
「これ、ぽんちゃんにあげる」
「いいの?」
「うん。未来で会えるおまじない」
電車が動き出すまで、みおちゃんは、ずっと手を振っていました。
その姿が、小さくなって、見えなくなるまで。
私は、窓に顔をつけて、見ていました。
「手紙、書くからね」
「うん。ぜったいだよ」
そう約束したのに。
何度か手紙を交わすうちに、いつのまにか、途絶えてしまいました。
子どもの世界は、移り変わるのが早いのです。
それきり、みおちゃんとは、二度と会うことが、ありませんでした。
※
時は流れました。
私は、進学し、就職し、結婚しました。
何度か引っ越しを繰り返し、今では、海の向こうの国に住んでいます。
あの路地の夕焼けも、すきっ歯の笑顔も、記憶の底に、沈んでいきました。
そして、今年。
二千十八年。
私は、四十歳になりました。
そのことに気づいた朝。
私は、思わず、息をのみました。
あの日の、みおちゃんの言葉を、突然、思い出したのです。
「今日の私、四十歳の私なの」
二千十八年だと、みおちゃんは、確かにそう言いました。
まさか。
まさか、そんなこと。
でも、もしかして。
心臓が、嫌なくらい、速く打ちました。
鏡の中の自分の顔に、ふと、母の面影を見た朝でした。
四十歳。
あの日のみおちゃんと、同じ歳。
その符合に、私は、しばらく動けませんでした。
あれは、ただの空想ごっこだったのでしょうか。
それとも。
考えれば考えるほど、背筋が、ぞくりとしました。
みおちゃんは、確かに言いました。二千十八年、四十歳、と。
何も知らない子どもが、口から出まかせで言える数字でしょうか。
私は、その日、一日中、上の空でした。
※
みおちゃんを、探そうとしました。
でも、結婚していれば、名字も変わっているでしょう。
四十年も前の、子どものころの友だち。
手がかりは、何一つ、ありませんでした。
古い卒業アルバムを、引っぱり出してみました。
みおちゃんの写真は、たった一枚だけ。
集合写真の隅で、はにかむように笑っていました。
あのころの、すきっ歯のままの顔で。
同窓会の名簿を、たどってみました。
でも、みおちゃんの名前は、どこにもありません。
連絡のつく同級生に、何人か、尋ねてみました。
誰も、彼女の今を、知りませんでした。
「みおちゃん? そんな子、いたっけ」
そう言う人さえ、いました。
まるで、最初から、いなかったかのように。
私の記憶の中にだけ、彼女は、生きているようでした。
私の母は、女手ひとつで、私を育ててくれました。
朝から晩まで、働きづめでした。
だから、放課後の私を、いつも待っていてくれたのは、みおちゃんでした。
夏祭りの夜のことも、忘れられません。
母は、仕事で来られませんでした。
一人で立っていた私の手を、みおちゃんが、ぎゅっと握りました。
「いっしょに回ろ」
二人で、金魚すくいをして。
わたあめを、半分こにして。
花火を、並んで見上げました。
「きれいだね」
「うん。ずっと、覚えてようね」
みおちゃんは、いつも、そう言うのです。
覚えていてね、忘れないでね、と。
今思えば、あの子は、知っていたのかもしれません。
いつか、別れる日が来ることを。
雨の日には、一本の傘に、二人で入って帰りました。
肩が、半分ずつ濡れました。
「ぽんちゃんの肩、濡れてるよ」
「みおちゃんだって」
そんなことで、けらけら笑い合いました。
傘を打つ雨の音さえ、今も、耳に残っています。
みおちゃんの家は、お母さんと二人きりでした。
私と、同じでした。
だからかもしれません。
言葉にしなくても、分かり合えるものが、あったのです。
私は、片親の家庭で育ちました。
当時は、まだ珍しいことでした。
近所の大人に、こんなことを言われたこともあります。
「あの子と遊んじゃだめよ。片親なんだから」
いちばん嫌いだった担任には、みんなの前で言われました。
「片親だから、目つきも悪くなるんだ」
そんな中で。
みおちゃんだけが、私の味方でした。
たった一人の、子ども時代の、理解者だったのです。
※
一度だけ、あの町を、訪ねたことがあります。
数年前、日本に帰ったときでした。
みおちゃんの家があった場所は、もうありませんでした。
古い長屋は取り壊され、駐車場になっていました。
裏山の祠も、夏草に、すっかり埋もれていました。
私は、しばらく、その場に立ち尽くしました。
思い出だけが、風の中に、漂っているようでした。
あの夕焼けの路地は、もう、どこにもないのです。
会いたい。
その思いが、そうさせたのでしょうか。
二週間ほど前。
私は、「あの日」の夢を見ました。
あの日と、寸分たがわぬ、みおちゃんの家の台所です。
テーブルの上には、画用紙と、色鉛筆。
窓の外には、あの夕焼け。
奥の居間では、みおちゃんのお母さんが、テレビを見ていました。
緑色の座椅子の、その後ろ姿まで。
私が、忘れていたはずのものまで。
何もかもが、はっきりと、目の前にありました。
みおちゃんは、未来の町の絵を描いています。
私は、その横で、彼女の手元を見つめています。
夢の中で、私は、これは夢だと、気づいていました。
台所からは、味噌汁の匂いがしていました。
あの家の、あの匂いです。
テレビからは、古い歌番組の音が、流れていました。
何もかもが、四十年前の、あの夕方のままでした。
みおちゃんの描く絵を、私は、横からのぞきこみました。
やっぱり、未来の町でした。
空を飛ぶ車が、何台も描いてありました。
私は、胸が、いっぱいになりました。
みおちゃんが、ふと、手を止めました。
小首をかしげて、私のほうを見ます。
あの、すきっ歯の顔で。
私は、彼女に、言いました。
「みおちゃん。今日の私もね。四十歳なんだよ」
みおちゃんは、びっくりした顔をしました。
それから、じっと、私を見つめて。
「……忘れて、なかったんだね。ぽんちゃん」
半分、泣き笑いのような、表情でした。
私も、こみあげるものを、こらえながら、言いました。
「車、ぜんぜん飛んでなかったよ」
みおちゃんは、絵を描く手を止めて、私を見つめました。
その目に、みるみる、涙がたまっていきます。
「ずっと、待ってたんだよ」
みおちゃんは、小さな声で言いました。
「ぽんちゃんが、思い出してくれるの」
私は、何も言えませんでした。
ただ、彼女の小さな手を、握りました。
夢の中なのに、その手は、温かかったのです。
「もう、行かなきゃ」
みおちゃんが、言いました。
「また、会える?」
私が聞くと、彼女は、にっこり笑って。
「うん。忘れないでいてくれれば、いつでも」
そして、二人で、泣きながら、大笑いしました。
あの日と、同じように。
※
そこで、目が覚めました。
四十歳の、私の体で。
涙が、止まりませんでした。
枕が、ぐっしょりと、濡れていました。
目が覚めてから、私は、古い箱を探しました。
引っ越しのたびに、捨てずに持ってきた箱です。
その底に、一枚の、色あせた画用紙が、ありました。
あの日、駅でみおちゃんがくれた、「未来の町」の絵でした。
四十年も前の、子どもの落書きです。
でも、私は、息をのみました。
描かれた町並みが、今、私が暮らす、この国の町に。
どこか、よく似ていたのです。
偶然かもしれません。
きっと、そうでしょう。
でも、私は、もう、偶然とは思えませんでした。
ただの夢だったのかもしれません。
きっと、そうなのでしょう。
あれから、誰にも、この夢の話はしていません。
夫にさえ、話していないのです。
話してしまうと、消えてしまう気がして。
私だけの、大切な秘密にしておきたいのです。
でも、私は、こう思いたいのです。
私は、時を超えて、あの日のみおちゃんに、会いに行ったのだと。
かつて、みおちゃんが、そうしてくれたように。
なぜ、四十歳になった瞬間に、夢を見たのでしょう。
なぜ、あの日と、まったく同じ景色だったのでしょう。
説明のつかないことばかりです。
でも、説明なんて、いらないのかもしれません。
子どものころ、みおちゃんと私は、いつも、不思議を信じていました。
雲は神様の落書きで、未来からは心だけが飛んでこられる。
そういう世界に、二人で、生きていたのです。
大人になって、私は、たくさんのことを、信じられなくなりました。
でも、あの夢だけは、信じていたい。
四十年越しの、約束を果たしに。
あの夕焼けの台所は、もう、夢の中にしか、ありません。
それでも、私にとっては、たしかに在った場所なのです。
あの絵を、私は今、書斎の壁に、飾っています。
色あせた、未来の町。
見るたびに、すきっ歯の笑顔が、よみがえります。
そして、いつも、同じことを思うのです。
今でも、ときどき思います。
もし、これを読んでいるあなたにも。
子どものころ、不思議なことを言う友だちが、いたなら。
どうか、その言葉を、忘れないでいてあげてください。
いつか、その子に、会いに行ける日が、来るかもしれません。
夢の中で、たった一度きり、だとしても。
今ごろ、四十歳のみおちゃんも、どこかで、同じ夢を見ているのではないか、と。
そうだったら、いい。
心から、そう願っています。