その部屋に越したのは、社会人になって、二度目の春のことでした。
築四十年を超える、古い木造アパートの、二階の角部屋です。
家賃が、相場よりずいぶん安かったのを、覚えています。
日当たりは悪かったけれど、私は、その静けさが、気に入っていました。
夜になると、近くを流れる川の音だけが、かすかに聞こえてきました。
一人暮らしには、十分すぎるほどの、穏やかな部屋でした。
少なくとも、あの夏が来るまでは、そう思っていました。
隣の部屋には、お年寄りの夫婦が、住んでいました。
廊下ですれ違うと、いつも、にこやかに、挨拶を交わしました。
その夫婦のおかげで、私は、一人でも、心細さを感じずにいられました。
古い建物でしたが、住み心地は、悪くなかったのです。
※
最初の異変は、梅雨の終わり頃でした。
夜の十一時を過ぎた頃、玄関のチャイムが、一度だけ鳴ったのです。
こんな時間に誰だろうと、私は、身構えました。
でも、ドアスコープを覗いても、廊下には、誰もいませんでした。
気のせいか、押し間違いだろう。
そのときは、そう思って、布団に戻りました。
ただ、奇妙だったことが、一つあります。
チャイムが鳴ったとき、隣の夫婦の部屋は、しんと、静まりかえっていました。
あの音が聞こえれば、普通、誰かが、反応するはずです。
でも、隣からは、物音ひとつ、しませんでした。
一度、ドアスコープを、長いこと、覗き続けたことがあります。
レンズの向こうの廊下が、ゆらゆらと、水のように、歪んで見えました。
古いレンズのせいだと、自分に、言い聞かせました。
でも、その歪みの奥に、何かが、立っているような気が、してならなかったのです。
※
次にチャイムが鳴ったのは、その三日後でした。
やはり、夜の十一時過ぎ。
今度は、二回、続けて鳴りました。
急いでドアを開けても、廊下には、誰の姿もありません。
ただ、階段のほうから、ぱたぱたと、誰かが駆け下りていく足音が、聞こえました。
ピンポンダッシュだ、と私は思いました。
近所の子どもの、いたずらだろう、と。
翌朝、隣の奥さんに、それとなく、聞いてみました。
「昨夜、チャイムの音、聞こえませんでしたか」
奥さんは、不思議そうな顔で、首をかしげました。
「いいえ。私たち、何も、聞いてないわよ」
耳が遠いのかもしれない。そう思って、私は、それ以上は、聞きませんでした。
実害があるわけでもないし、と、自分に言い聞かせました。
※
けれど、それは、月に二、三回のペースで、続きました。
いつも、夜の十一時から、十二時のあいだです。
私は、だんだん、眠るのが怖くなっていきました。
ある夜、思いきって、窓から、そっと下を見下ろしてみました。
アパートの前の、街灯の下に、人影が、いくつか見えました。
後ろ姿は、中学生か、高校生くらいに見えました。
細身で、背が高く、お洒落な服装をしていました。
「いい年して、何をやっているんだ」
私は、あきれて、つぶやきました。
このときは、まだ、相手をただの若者だと、思っていたのです。
窓を閉めて、布団に入ろうとした、そのときでした。
今度は、ドアを、こんこん、と叩く音が、しました。
チャイムではなく、直接、ノックしてきたのです。
私は、息を、ひそめました。
ノックは、三回。少し間を置いて、また三回。
まるで、中に誰がいるのかを、確かめているような、規則正しさでした。
私は、朝まで、一睡も、できませんでした。
※
耐えきれず、私は、何日か、友人の家に、泊めてもらいました。
そこでは、当然、何も、起きませんでした。
久しぶりに、ぐっすりと、眠れました。
友人の部屋では、夜の十一時が過ぎても、何も、起きませんでした。
当たり前のことが、こんなにも、ありがたいのだと、初めて知りました。
私は、すっかり、安心していました。
その安心が、いかに、もろいものだったかを、私は、すぐに思い知ることになります。
きっと、気の迷いだったのだ。そう思って、私は、部屋に戻りました。
友人には、心配をかけたくなくて、本当のことは、話せませんでした。
ただ「夜、眠れなくて」と、それだけ、伝えました。
友人は「環境が変わると、そういうこともあるよ」と、笑っていました。
その何気ない言葉が、あの頃の私には、ひどく、まぶしく感じられました。
でも、戻ったその夜から、チャイムは、また、鳴りはじめたのです。
まるで、私が帰るのを、待っていたかのようでした。
その夜のチャイムは、これまでで、いちばん、長く鳴り続けました。
まるで、おかえり、とでも言うように。
私は、布団をかぶって、ただ、朝が来るのを、待ちました。
※
念のため、近くの交番に、相談に行きました。
お巡りさんは、夜に、何度かパトロールをしてくれました。
でも、被害らしい被害もないので、あまり、本気ではない様子でした。
「まあ、若い子のいたずらでしょう。気になるなら、防犯カメラでもつけてみては」
私は、その言葉に従って、玄関に、小さな監視カメラを取りつけました。
スマートフォンで、廊下の様子が、いつでも見られるものです。
これで、いたずらの主の顔を、捕まえてやろう。
そう思っていました。
カメラの映像は、スマートフォンに、記録されるようになっていました。
これで、証拠さえ押さえれば、警察も、動いてくれるはずです。
私は、少しだけ、安心して、その夜を、迎えました。
※
カメラをつけて、最初の週末でした。
いつものように、夜の十一時過ぎ、チャイムが鳴りました。
私は、すぐに、スマートフォンの画面を確認しました。
廊下には、誰も、映っていませんでした。
でも、チャイムは、たしかに、もう一度、鳴ったのです。
画面の中の廊下は、無人のままでした。
なのに、ドアの向こうから、ひそひそと、男たちの話し声が、聞こえてくるのです。
私は、ぞっとして、画面と、ドアを、交互に見ました。
カメラには、誰もいない。
でも、ドアのすぐ外に、複数の人の気配が、たしかにある。
その矛盾が、私の足を、すくませました。
私は、震える手で、録画を、巻き戻してみました。
チャイムが鳴った、まさにその瞬間の映像です。
廊下は、やはり、無人でした。
でも、音声だけは、はっきりと、入っていたのです。
チャイムの音。そして、男たちの、ひそひそ声が。
姿のない者たちの声だけが、私のスマートフォンに、記録されていました。
私は、その録音を、交番のお巡りさんに、聞いてもらいました。
お巡りさんは、しばらく黙って、首をひねりました。
「うーん。たしかに、声は入ってますね」
「でも、人が映ってないとなると、こっちも、動きようがなくて」
その困った顔を見て、私は、もう、誰も頼れないのだと、悟りました。
家に帰る道すがら、私は、ずっと、考えていました。
なぜ、私の部屋だけが、狙われるのか。
このアパートには、他にも、部屋はたくさんあるのに。
まるで、彼らが、私の部屋を、よく知っているかのようでした。
その違和感の正体を、私が知るのは、もう少し、後のことです。
※
それからというもの、チャイムは、ほとんど毎晩、鳴るようになりました。
カメラには、一度も、人影が映りませんでした。
それなのに、ドアの外では、いつも、ひそひそ声と、押し殺した笑い声が、していました。
「……まだ、出てこないな」
「……今度は、何回、鳴らす?」
そんな会話の、切れ端が、聞こえることもありました。
私は、眠れない夜を、いくつも、過ごしました。
あるとき、思いきって、ドアの外に向かって、声をかけてみました。
「どなたですか。何の用ですか」
返ってきたのは、くすくす、という、押し殺した笑いだけでした。
「……まだ、気づいてないみたいだぞ」
一人が、そう言うのが、聞こえました。
何に気づいていないのか。
その言葉の意味が、当時の私には、まるで、分かりませんでした。
逃げ出したくても、引っ越すお金は、ありませんでした。
昼間、明るいうちは、何も起きませんでした。
だから、よけいに、夜が来るのが、怖かったのです。
日が傾きはじめると、私の心臓は、少しずつ、速くなっていきました。
十一時が近づくと、私は、いつも、布団の中で、身を固くしていました。
※
そして、あの夜が来ました。
その日は、仕事で、ひどく嫌なことが重なり、私は、苛立っていました。
いつものチャイムが鳴った瞬間、私は、何かが、ぷつりと切れたのです。
いい加減にして、と叫んで、ドアチェーンもかけずに、勢いよくドアを開けました。
廊下には、四、五人の男たちが、いました。
階段を、駆け下りようとして、こちらを、振り返りました。
そして、いたずらが成功した子どものように、にやにやと、笑っていました。
「やべ、とうとう出てきたぞ」
「ばれた、ばれたって」
はしゃいだ声で、そう言いながら、彼らは、階段を駆け下りていきました。
私は、その場で、声も出せずに、立ち尽くしました。
彼らの笑い声が、夜の闇に、響きました。
その声は、若者のものにしては、どこか、しわがれて、低いものでした。
駆け下りる足音が、やけに、重たく聞こえました。
そして、あっという間に、その姿は、闇に、溶けていきました。
私は、思わず、街灯のあたりに、目を凝らしました。
駆け下りていったはずの男たちの姿は、もう、どこにもありませんでした。
アパートの前の道には、人影ひとつ、ありませんでした。
あれだけの足音をたてて、たった数秒で、消えてしまったのです。
※
服装は、たしかに、今どきの若者の、お洒落なものでした。
でも、振り返ったその顔は、どう見ても、三十代の後半か、四十代だったのです。
目尻には深い皺があり、無精ひげの生えた者も、いました。
若作りした、いい大人が、夜中に、ピンポンダッシュをしている。
それだけでも、十分に、異様でした。
けれど、私が本当に、ぞっとしたのは、別のことでした。
四、五人いた、その男たち全員が、手に、黒くて細長いものを、握っていたのです。
街灯の光に、それは、にぶく光っていました。
どう見ても、拳銃のような、形をしていました。
私は、その場に、座り込んでしまいました。
足が、がくがくと、震えていました。
若者の服を着た、中年の男たち。
姿を、カメラに映さない者たち。
そして、手にした、拳銃のようなもの。
そのすべてが、私の理解を、超えていました。
そして、もう一つ。
あれだけ大勢の男たちがいたのに、廊下の床に、足音以外の、何の痕跡も、なかったのです。
雨上がりの夜だったのに、濡れた足跡の、一つも。
後で気づいたのですが、あの夜、彼らの足音は聞こえても、息づかいは、まるで、感じられませんでした。
生きた人間の、気配が、なかったのです。
それなのに、笑い声だけは、はっきりと、耳に残っています。
※
その夜を境に、チャイムは、ぱたりと、鳴らなくなりました。
いたずらは、終わったのです。
でも、私の中の、ざわつきは、消えませんでした。
なぜ、監視カメラには、一度も、彼らが映らなかったのか。
無人の廊下から、なぜ、声だけが聞こえたのか。
あの、若い服を着た中年の男たちは、いったい、何者だったのか。
考えれば考えるほど、答えは、遠ざかっていきました。
※
引っ越しが決まった日、私は、大家さんに、思いきって尋ねてみました。
あのアパートで、昔、何かなかったか、と。
大家さんは、少し、言いよどんでから、こう言いました。
「ああ……何十年か前にね。この辺りで、強盗事件があってね」
「逃げた連中が、このアパートの、どこかの部屋に、隠れていたとか」
「四、五人組の、強盗団だったらしくてね」
私は、その人数に、息を呑みました。
あの夜、廊下にいた男たちと、同じ数だったからです。
「銀行を襲って、警察に追われて、この辺りに、逃げ込んだそうだよ」
大家さんは、声を、潜めました。
「結局、捕まらずじまいでね。物騒な話だから、誰にも言ってないんだけど」
「ただね、一つだけ、妙な話があってね」
大家さんは、そこで、言葉を切りました。
「その連中、隠れていた部屋で、何があったのか……」
「ある朝、もぬけの殻だったそうなんだ。荷物も、何もかも、残したまま」
「まるで、煙みたいに、消えちまったって」
「その部屋がね……あんたの、今いる部屋なんだよ」
私は、その場で、言葉を、失いました。
その部屋で、何十年ものあいだ、住人が、居つかなかった理由も。
家賃が、相場より、ずっと安かった理由も。
すべてが、その一言で、つながってしまいました。
私は、その日のうちに、退去の手続きを、始めました。
新しい部屋は、駅前の、明るいマンションにしました。
どんなに家賃が高くても、もう、あんな思いは、したくなかったのです。
引っ越しの日、最後に、空になった部屋を、振り返りました。
がらんとした玄関のチャイムが、なぜか、ひとりでに、小さく鳴った気がしました。
私は、振り返らずに、その部屋を、後にしました。
私は、背筋が、冷たくなるのを、感じました。
あの、手に握られた、黒いもの。
あれは、本当に、拳銃だったのかもしれない。
思い返せば、彼らの服装も、どこか、おかしかったのです。
一見、今どきの、お洒落な格好に見えました。
でも、よく思い出すと、それは、ずいぶん昔に流行った、古いスタイルでした。
何十年も前の、若者の、服装だったのです。
あの男たちは、あの夜の姿のまま、時間に、取り残されているのかもしれません。
逃げ込んだ部屋から、いまだに、出口を、探しながら。
「まだ、気づいてないみたいだぞ」。
あの夜の、あの言葉を、私は、今でも、思い出します。
彼らは、自分たちが、もう、この世の者でないことに。
あるいは、私が、それに気づくことに。
いったい、どちらを、指していたのでしょう。
私は、いまだに、あれを、水鉄砲か何かだったと、信じたいのです。
信じなければ、とても、夜に、眠れそうにないからです。