ピンポンダッシャーズ

その部屋に越したのは、社会人になって、二度目の春のことでした。

築四十年を超える、古い木造アパートの、二階の角部屋です。

家賃が、相場よりずいぶん安かったのを、覚えています。

日当たりは悪かったけれど、私は、その静けさが、気に入っていました。

夜になると、近くを流れる川の音だけが、かすかに聞こえてきました。

一人暮らしには、十分すぎるほどの、穏やかな部屋でした。

少なくとも、あの夏が来るまでは、そう思っていました。

隣の部屋には、お年寄りの夫婦が、住んでいました。

廊下ですれ違うと、いつも、にこやかに、挨拶を交わしました。

その夫婦のおかげで、私は、一人でも、心細さを感じずにいられました。

古い建物でしたが、住み心地は、悪くなかったのです。

最初の異変は、梅雨の終わり頃でした。

夜の十一時を過ぎた頃、玄関のチャイムが、一度だけ鳴ったのです。

こんな時間に誰だろうと、私は、身構えました。

でも、ドアスコープを覗いても、廊下には、誰もいませんでした。

気のせいか、押し間違いだろう。

そのときは、そう思って、布団に戻りました。

ただ、奇妙だったことが、一つあります。

チャイムが鳴ったとき、隣の夫婦の部屋は、しんと、静まりかえっていました。

あの音が聞こえれば、普通、誰かが、反応するはずです。

でも、隣からは、物音ひとつ、しませんでした。

一度、ドアスコープを、長いこと、覗き続けたことがあります。

レンズの向こうの廊下が、ゆらゆらと、水のように、歪んで見えました。

古いレンズのせいだと、自分に、言い聞かせました。

でも、その歪みの奥に、何かが、立っているような気が、してならなかったのです。

次にチャイムが鳴ったのは、その三日後でした。

やはり、夜の十一時過ぎ。

今度は、二回、続けて鳴りました。

急いでドアを開けても、廊下には、誰の姿もありません。

ただ、階段のほうから、ぱたぱたと、誰かが駆け下りていく足音が、聞こえました。

ピンポンダッシュだ、と私は思いました。

近所の子どもの、いたずらだろう、と。

翌朝、隣の奥さんに、それとなく、聞いてみました。

「昨夜、チャイムの音、聞こえませんでしたか」

奥さんは、不思議そうな顔で、首をかしげました。

「いいえ。私たち、何も、聞いてないわよ」

耳が遠いのかもしれない。そう思って、私は、それ以上は、聞きませんでした。

実害があるわけでもないし、と、自分に言い聞かせました。

けれど、それは、月に二、三回のペースで、続きました。

いつも、夜の十一時から、十二時のあいだです。

私は、だんだん、眠るのが怖くなっていきました。

ある夜、思いきって、窓から、そっと下を見下ろしてみました。

アパートの前の、街灯の下に、人影が、いくつか見えました。

後ろ姿は、中学生か、高校生くらいに見えました。

細身で、背が高く、お洒落な服装をしていました。

「いい年して、何をやっているんだ」

私は、あきれて、つぶやきました。

このときは、まだ、相手をただの若者だと、思っていたのです。

窓を閉めて、布団に入ろうとした、そのときでした。

今度は、ドアを、こんこん、と叩く音が、しました。

チャイムではなく、直接、ノックしてきたのです。

私は、息を、ひそめました。

ノックは、三回。少し間を置いて、また三回。

まるで、中に誰がいるのかを、確かめているような、規則正しさでした。

私は、朝まで、一睡も、できませんでした。

耐えきれず、私は、何日か、友人の家に、泊めてもらいました。

そこでは、当然、何も、起きませんでした。

久しぶりに、ぐっすりと、眠れました。

友人の部屋では、夜の十一時が過ぎても、何も、起きませんでした。

当たり前のことが、こんなにも、ありがたいのだと、初めて知りました。

私は、すっかり、安心していました。

その安心が、いかに、もろいものだったかを、私は、すぐに思い知ることになります。

きっと、気の迷いだったのだ。そう思って、私は、部屋に戻りました。

友人には、心配をかけたくなくて、本当のことは、話せませんでした。

ただ「夜、眠れなくて」と、それだけ、伝えました。

友人は「環境が変わると、そういうこともあるよ」と、笑っていました。

その何気ない言葉が、あの頃の私には、ひどく、まぶしく感じられました。

でも、戻ったその夜から、チャイムは、また、鳴りはじめたのです。

まるで、私が帰るのを、待っていたかのようでした。

その夜のチャイムは、これまでで、いちばん、長く鳴り続けました。

まるで、おかえり、とでも言うように。

私は、布団をかぶって、ただ、朝が来るのを、待ちました。

念のため、近くの交番に、相談に行きました。

お巡りさんは、夜に、何度かパトロールをしてくれました。

でも、被害らしい被害もないので、あまり、本気ではない様子でした。

「まあ、若い子のいたずらでしょう。気になるなら、防犯カメラでもつけてみては」

私は、その言葉に従って、玄関に、小さな監視カメラを取りつけました。

スマートフォンで、廊下の様子が、いつでも見られるものです。

これで、いたずらの主の顔を、捕まえてやろう。

そう思っていました。

カメラの映像は、スマートフォンに、記録されるようになっていました。

これで、証拠さえ押さえれば、警察も、動いてくれるはずです。

私は、少しだけ、安心して、その夜を、迎えました。

カメラをつけて、最初の週末でした。

いつものように、夜の十一時過ぎ、チャイムが鳴りました。

私は、すぐに、スマートフォンの画面を確認しました。

廊下には、誰も、映っていませんでした。

でも、チャイムは、たしかに、もう一度、鳴ったのです。

画面の中の廊下は、無人のままでした。

なのに、ドアの向こうから、ひそひそと、男たちの話し声が、聞こえてくるのです。

私は、ぞっとして、画面と、ドアを、交互に見ました。

カメラには、誰もいない。

でも、ドアのすぐ外に、複数の人の気配が、たしかにある。

その矛盾が、私の足を、すくませました。

私は、震える手で、録画を、巻き戻してみました。

チャイムが鳴った、まさにその瞬間の映像です。

廊下は、やはり、無人でした。

でも、音声だけは、はっきりと、入っていたのです。

チャイムの音。そして、男たちの、ひそひそ声が。

姿のない者たちの声だけが、私のスマートフォンに、記録されていました。

私は、その録音を、交番のお巡りさんに、聞いてもらいました。

お巡りさんは、しばらく黙って、首をひねりました。

「うーん。たしかに、声は入ってますね」

「でも、人が映ってないとなると、こっちも、動きようがなくて」

その困った顔を見て、私は、もう、誰も頼れないのだと、悟りました。

家に帰る道すがら、私は、ずっと、考えていました。

なぜ、私の部屋だけが、狙われるのか。

このアパートには、他にも、部屋はたくさんあるのに。

まるで、彼らが、私の部屋を、よく知っているかのようでした。

その違和感の正体を、私が知るのは、もう少し、後のことです。

それからというもの、チャイムは、ほとんど毎晩、鳴るようになりました。

カメラには、一度も、人影が映りませんでした。

それなのに、ドアの外では、いつも、ひそひそ声と、押し殺した笑い声が、していました。

「……まだ、出てこないな」

「……今度は、何回、鳴らす?」

そんな会話の、切れ端が、聞こえることもありました。

私は、眠れない夜を、いくつも、過ごしました。

あるとき、思いきって、ドアの外に向かって、声をかけてみました。

「どなたですか。何の用ですか」

返ってきたのは、くすくす、という、押し殺した笑いだけでした。

「……まだ、気づいてないみたいだぞ」

一人が、そう言うのが、聞こえました。

何に気づいていないのか。

その言葉の意味が、当時の私には、まるで、分かりませんでした。

逃げ出したくても、引っ越すお金は、ありませんでした。

昼間、明るいうちは、何も起きませんでした。

だから、よけいに、夜が来るのが、怖かったのです。

日が傾きはじめると、私の心臓は、少しずつ、速くなっていきました。

十一時が近づくと、私は、いつも、布団の中で、身を固くしていました。

そして、あの夜が来ました。

その日は、仕事で、ひどく嫌なことが重なり、私は、苛立っていました。

いつものチャイムが鳴った瞬間、私は、何かが、ぷつりと切れたのです。

いい加減にして、と叫んで、ドアチェーンもかけずに、勢いよくドアを開けました。

廊下には、四、五人の男たちが、いました。

階段を、駆け下りようとして、こちらを、振り返りました。

そして、いたずらが成功した子どものように、にやにやと、笑っていました。

「やべ、とうとう出てきたぞ」

「ばれた、ばれたって」

はしゃいだ声で、そう言いながら、彼らは、階段を駆け下りていきました。

私は、その場で、声も出せずに、立ち尽くしました。

彼らの笑い声が、夜の闇に、響きました。

その声は、若者のものにしては、どこか、しわがれて、低いものでした。

駆け下りる足音が、やけに、重たく聞こえました。

そして、あっという間に、その姿は、闇に、溶けていきました。

私は、思わず、街灯のあたりに、目を凝らしました。

駆け下りていったはずの男たちの姿は、もう、どこにもありませんでした。

アパートの前の道には、人影ひとつ、ありませんでした。

あれだけの足音をたてて、たった数秒で、消えてしまったのです。

服装は、たしかに、今どきの若者の、お洒落なものでした。

でも、振り返ったその顔は、どう見ても、三十代の後半か、四十代だったのです。

目尻には深い皺があり、無精ひげの生えた者も、いました。

若作りした、いい大人が、夜中に、ピンポンダッシュをしている。

それだけでも、十分に、異様でした。

けれど、私が本当に、ぞっとしたのは、別のことでした。

四、五人いた、その男たち全員が、手に、黒くて細長いものを、握っていたのです。

街灯の光に、それは、にぶく光っていました。

どう見ても、拳銃のような、形をしていました。

私は、その場に、座り込んでしまいました。

足が、がくがくと、震えていました。

若者の服を着た、中年の男たち。

姿を、カメラに映さない者たち。

そして、手にした、拳銃のようなもの。

そのすべてが、私の理解を、超えていました。

そして、もう一つ。

あれだけ大勢の男たちがいたのに、廊下の床に、足音以外の、何の痕跡も、なかったのです。

雨上がりの夜だったのに、濡れた足跡の、一つも。

後で気づいたのですが、あの夜、彼らの足音は聞こえても、息づかいは、まるで、感じられませんでした。

生きた人間の、気配が、なかったのです。

それなのに、笑い声だけは、はっきりと、耳に残っています。

その夜を境に、チャイムは、ぱたりと、鳴らなくなりました。

いたずらは、終わったのです。

でも、私の中の、ざわつきは、消えませんでした。

なぜ、監視カメラには、一度も、彼らが映らなかったのか。

無人の廊下から、なぜ、声だけが聞こえたのか。

あの、若い服を着た中年の男たちは、いったい、何者だったのか。

考えれば考えるほど、答えは、遠ざかっていきました。

引っ越しが決まった日、私は、大家さんに、思いきって尋ねてみました。

あのアパートで、昔、何かなかったか、と。

大家さんは、少し、言いよどんでから、こう言いました。

「ああ……何十年か前にね。この辺りで、強盗事件があってね」

「逃げた連中が、このアパートの、どこかの部屋に、隠れていたとか」

「四、五人組の、強盗団だったらしくてね」

私は、その人数に、息を呑みました。

あの夜、廊下にいた男たちと、同じ数だったからです。

「銀行を襲って、警察に追われて、この辺りに、逃げ込んだそうだよ」

大家さんは、声を、潜めました。

「結局、捕まらずじまいでね。物騒な話だから、誰にも言ってないんだけど」

「ただね、一つだけ、妙な話があってね」

大家さんは、そこで、言葉を切りました。

「その連中、隠れていた部屋で、何があったのか……」

「ある朝、もぬけの殻だったそうなんだ。荷物も、何もかも、残したまま」

「まるで、煙みたいに、消えちまったって」

「その部屋がね……あんたの、今いる部屋なんだよ」

私は、その場で、言葉を、失いました。

その部屋で、何十年ものあいだ、住人が、居つかなかった理由も。

家賃が、相場より、ずっと安かった理由も。

すべてが、その一言で、つながってしまいました。

私は、その日のうちに、退去の手続きを、始めました。

新しい部屋は、駅前の、明るいマンションにしました。

どんなに家賃が高くても、もう、あんな思いは、したくなかったのです。

引っ越しの日、最後に、空になった部屋を、振り返りました。

がらんとした玄関のチャイムが、なぜか、ひとりでに、小さく鳴った気がしました。

私は、振り返らずに、その部屋を、後にしました。

私は、背筋が、冷たくなるのを、感じました。

あの、手に握られた、黒いもの。

あれは、本当に、拳銃だったのかもしれない。

思い返せば、彼らの服装も、どこか、おかしかったのです。

一見、今どきの、お洒落な格好に見えました。

でも、よく思い出すと、それは、ずいぶん昔に流行った、古いスタイルでした。

何十年も前の、若者の、服装だったのです。

あの男たちは、あの夜の姿のまま、時間に、取り残されているのかもしれません。

逃げ込んだ部屋から、いまだに、出口を、探しながら。

「まだ、気づいてないみたいだぞ」。

あの夜の、あの言葉を、私は、今でも、思い出します。

彼らは、自分たちが、もう、この世の者でないことに。

あるいは、私が、それに気づくことに。

いったい、どちらを、指していたのでしょう。

私は、いまだに、あれを、水鉄砲か何かだったと、信じたいのです。

信じなければ、とても、夜に、眠れそうにないからです。

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